久しぶりです。風牙さんを忘れかけている自分がいます。
風牙さんは基本的にギャルゲーとかやるときは小ネタとかそこらへんまでコンプしちゃうタイプです。
この話は、長くて難産でした。
「犬夜叉、ようし、ほうれこっちにおいで。」
柔らかな声がする。耳朶を擽る、低く、頼もしく。けれど、どんな声よりも甘やかで穏やかな、安心する声音。
犬夜叉という幼子にとって、父を連想するのはそんな甘すぎる声音であった。
犬夜叉はとてとてと新しくやって来た屋敷を駈ける。犬夜叉が例え、廊下を走っても、庭を駆けまわっても嫌な顔をする者はいないし、咎めを発するものはいない。
嫌な目をするものだっていない。
犬夜叉はそれが嬉しかった。始めて、そこにいることを赦されている気がした。
「あーにーうーえー!!」
大きな声で、犬夜叉は探している存在に呼びかける。それを聞いていた、屋敷の使用人の一人はやけどでぐちゃぐちゃになった顔をそっと綻ばせた。
父の墓であるらしい、不可思議な場所に参って数日が経った日の事だった。
犬夜叉はその時、なんだろうか、ふわふわとまるで自分が浮いている様な感覚をずっと持っていた。
全てが夢のようだった。
自分に父がいたという事実も、大人びた兄がいたという事実にも、彼はまるで夢を見ているかのような心地にさせた。
何よりも、最後に別れるその瞬間、囁くような声で告げられたのだ。
「待っていなさい。必ず、迎えに行こう。」
そう言って、兄はまるで御仏の様に美しい微笑みを浮かべていた。
その笑みを想うと、犬夜叉の胸はざわざわと騒ぎ出してしまうのだ。
その幼子は、兄の微笑みを思い浮かべ、その日もぼんやりと宙を眺めていた。
その日の夜、彼はいつも通り母と共に寝床についていた。そこに、かたんと、御簾を動かすような音と、そうして彼にとってずっと恋しいと思っていた、匂い。
犬夜叉はそれに飛び起き、入ってきた人物を確認もせずに抱き付いた。
「兄上!」
「おうおう、犬夜叉。俺だとよくわかったね。」
「兄上の匂いがしました!」
「なるほど、犬夜叉はすごいなあ。」
抱き付いた先で深呼吸をすれば、胸いっぱいに大好きな匂いが広がった。母とは全く違う大きく、そうして全体的に硬い体は自分が知る何もかもと違っていた。犬夜叉が飛びついても揺るぎもしない男は、まさしく頼もしかった。自分に飛びついて来た犬夜叉に、男は、風牙はでれでれと相貌を崩しながら幼子を抱き上げた。
抱き上げられれば、兄の頼もしさというものが更に理解でき、犬夜叉はにこにこと風牙の首にかじりついた。
その時のことを、犬夜叉はひどく、ひどく後悔している。
あの時、もしも、兄がどんな存在であるのか分かっていれば。
あの時、もしも、迎えに来たのがいっそのこと殺生丸であれば。
あの時、もしも、誰も迎えに来なければ。
あの時、もしも、母がどんな顔をしていたのかを理解していれば。
あんなことにはならなかったのだろうかと。
連れていかれた屋敷は、ひどく不思議な場所だった。まずは、大きい。犬夜叉が住んでいた屋敷の数倍はあり、間違えれば遭難してしまいそうなほどだった。
兄曰く、空間を弄っているうちに馬鹿みたいに大きくなってしまったらしいが幼子にはよく理解の出来ないことだった。けれど、兄がすごいことだけは理解できた。
次に不思議なのは、屋敷の庭の季節が自由に変えられることだった。
兄に頼めば、春にでも、夏にでも、秋にでも、冬にでも変わっていくのだ。
そうして、最後に、屋敷に仕えている存在というのが酷くへんてこであった。
皆が皆、というわけではないのだがほとんどの存在が何かしらの被り物をしていたのだ。
もちろん、していないものもいる。
けれど、大半のものがお面であったり、布で顔を覆っている。面や布は個々人で染めていたり、絵を描いてあったりして見ている分には面白い。
面を被っているものと被っていないものの違いというものは犬夜叉にも分かっていない。ただ、何故かということを問う犬夜叉に兄は柔らかに言ったのだ。
「付けたいと本人が望んでいる。それに、隠したいと思うものを無理に暴くものではないよ。」
そう言って、兄はニコニコと笑っている。犬夜叉は兄の言葉に何となく納得した。兄がそう言うのだから、そんなものなのだろうと。
何よりも屋敷の人間や妖怪は、本当に優しかったのだ。
以前の様に犬夜叉が話しかけても厭うこともしない。声に含ませた嫌悪も、恐ろしさから来る拒絶も、そこにはなかった。
面を顔につけていても、その声は弾んでいて、纏う空気も和やかだった。
何よりも犬夜叉にとって嬉しかったのは、同い年ほどの遊び相手が幾人もいたことだった。
蹴鞠も、かくれんぼだって、そうして鬼ごっこだってやった。
ただ、残念なのは彼らは屋敷の下働きで少しの時間しか遊べないことだった。
寂しくはなかった。
そうやって時間になり彼らが仕事に向かっても、その時には不思議といつのまにか風牙が迎えに来るのだ。
そうして、あそぼうかとにこにこと言いながら犬夜叉の手を引いてくれる。
風牙はたくさんの遊びをしてくれた。
貝合わせだとかカルタだとか、すごろくに碁や将棋のやりかたも教えてくれた。
それに犬夜叉が飽きると庭の季節を弄って散策した。
そうすると、風牙は使える薬草や食べられるものと食べられないものの区別を教えてくれた。
犬夜叉は自分に優しく、そうして博識な兄が自慢であった。
そうして、彼に知りもしない父の存在をその陰に重ねていた。
犬夜叉が屋敷にやって来て年といえる時間が経ったが、彼は自分を厭うことのない居場所が大好きだった。
「母上!」
「・・・・犬夜叉。」
犬夜叉はぴょんと、勢いよく十六夜の自室として使われている部屋に飛び込んだ。以前は同じ部屋で寝起きしていたが、今は犬夜叉のための部屋がある。
時折、怖くなったりしたとき、部屋に忍び込んでいることは秘密だ。
「わあ!すごいね!兄上からの贈り物?」
部屋には色とりどりの反物が転がっていた。犬夜叉の言葉に、十六夜は引きつった表情を何とか引き締め笑顔を作る。
犬夜叉は当たりに転がったそれを見て回る。どれも美しい色で染められていた。
犬夜叉はそれにニコニコと笑う。
その贈り物は、兄が己が母のことを大事に思ってくれているという証拠だと思っている。
「わあ、これ、母上に似合いそう。」
犬夜叉がそう言って、一つの反物を持って振り返った。その先にいた母は、どこか何とも言えない顔で犬夜叉を見ていた。
「どうしました、母上?」
「いえ・・・」
「犬夜叉様、十六夜様は疲れておられるのですよ。」
低く、しわがれた声がした。
声のする方に目を向けると、そこには犬夜叉よりも少しだけ背の高い何かがいた。
「あれ、一坊さん。」
「母君は、我が主のお相手をされて疲れておられるのですよ。」
「そうなの?」
「ええ、十六夜様は美しいゆえに、これが似合う、あれが似合うと長居をされておられたので。」
のそのそのと近寄って来るその小男は体全体を包帯で覆っている。近づくにつれ、薬草のような匂いがした。
けれど、犬夜叉はその男のことが好きだった。
その男が、いい人であると知っている。
「もう、八つ時です。厨にいって、おやつを食べられたらどうですか?今日は、十六夜様も休まれるでしょうから。」
「はーい!」
廊下をたったと歩いて行く犬夜叉を見送った後、男、一坊と呼ばれたそれはゆっくりと十六夜に向き合った。
「・・・・申し訳ございません。すぐに女手をよこしますので。」
「いえ、ありがとう。」
固い返事をしながら、十六夜は落ち着きなく目の前の存在を見た。
小柄な、男。綺麗な包帯を満遍なく巻き、薬草のにおいをさせたそれは、この屋敷にやってきた折、風牙にいの一番に紹介されたものだった。
十六夜は、正直な話をすれば二度と風牙という男に関わりたくはなかった。
彼は、いや、あれは簡単に関わってよい存在ではないのだと。
恋しき彼と、重ねていた部分があることは認める。
そうしなければいけないほどに、風牙は闘牙王とよく似ていた。
けれど、ただ一度、あの瞬間、垣間見た化け物を十六夜は忘れていない。
それさえ、それさえなければ十六夜はこのまま幸福に浸っていられたのだろう。
悪夢の様だと、目を逸らしたかった。
けれど、それは十六夜のそんな心を読んだかのように彼女の前に現れた。
彼女の宝物、愛しい愛しい、幼子をまるで壊れ物を扱うように腕に抱き、自分の屋敷に連れていった。
拒絶したかった。
けれど、それに逆らうことは恐ろしかったし、何よりも犬夜叉の男への懐きぶりを考えればそれは出来なかった。
犬夜叉が屋敷でどんなに辛い目に遭っているかを知らないわけではなかった。
といっても、抵抗したとことで無駄な話でもある。
風牙は有無を言わさず彼女と犬夜叉を屋敷へと連れて帰った。
屋敷は、一言でいえば素晴らしい場所であった。
元々、地位ある家に生まれた十六夜からしてもその屋敷には贅が施されていることは察せられた。
何よりも目を引いたというか、驚いたのは屋敷の使用人たちだった。
使用人たちはすべからく顔を面で覆っていた。
一部は面を被っていない者もいたが、圧倒的にそちらの方が少ない。十六夜が知る中でも数十人の中の数人だ。
そんな中でも風牙が一番に紹介してきた、使用人たちの頭をしているらしい男、一坊と呼ばれたそれは際立っていた。
包帯でぐるぐるに巻かれた体に、低く、しわがれた声はどこか忌避感を持たせる。
けれど、風牙が彼を一番にする理由も分かるほどに男は優秀であった。
それでも、あまり話すことの少ない男であった。
一応は仕えるものへの一定の距離とも言えたが、風牙への態度を見るに純粋に距離を置かれているとも言えた。
「あらあら、今日もすごいですね。十六夜様。」
「お駒。」
のそのそと去っていった一坊と入れ替わる形で、十六夜の侍女をしているお駒が入って来る。
「本当に主様はおひい様がお好きですね。」
「・・・・気にかけては、くださっているのでしょうね。」
「ふふふふ、主様はお優しいかたですからねえ。ほうら、この着物も見てください。私にわざわざ仕立ててくださったんですよ?」
そう言った女は自分の小袖を指さして、ニコニコと笑う。
お駒はそれを見ていると、ひどく幸せそうに見えた。彼女の愛らしい顔立ちには引き連れた様なやけどの跡が走り、右目は痛々しく包帯に巻かれている。
十六夜は、風牙を恐れていいのか、それとも親しみを持っていいのか分からなかった。
それほどまでに、男の屋敷は、その箱庭は穏やかであった。
男の屋敷にいる使用人たちは、十六夜が見る限り多くが障害をもったものが多い。
手足に欠損があるもの、目や耳がきかないもの、お駒のように顔に傷や火傷があり人から忌避される容姿のもの。
没落していたものの貴族であった彼女には異質過ぎた。それでも、その女も妖と子をなす程度に異質ではあった。
それ故に、使用人たちにはすぐになれた。何よりも、使用人たちは良くも悪くも善良であった。
いつも機嫌がよく、ニコニコと笑い、なにくれと十六夜を気遣ってくれた。
もしも、もしも、外の世界ならば彼らのような存在は、こういった言い方は何だが人間らしい生活は出来なかっただろう。
真面な仕事につけるか分からないだろうし、婚姻も出来なかっただろう。
けれど、屋敷の使用人たちは貴族のような豪勢な食事も、真新しい着物も、立派な寝具も与えられている。同意さえあれば婚姻とて出来る。
お駒がどんな生活をしていたか、十六夜は聞けていなかったがその痛ましい火傷があっても彼女は幸福そうだ。
子どももおり、穏やかそうな夫もいるらしい。
(・・・・誰が、彼らをこんなふうに労われるのでしょう。)
貴族にも、武士にも、そうしてこの国を統べるものでさえ、日陰で生きていく彼らをこんなにもすくい上げられるのか。
この屋敷に来た時、十六夜は初めてあった男に聞いたことがあった。
「・・・あなたは人なのでしょうか?」
「はい。この屋敷にいるものは、ほとんどが人でありますよ。」
しわがれ、掠れた声だった。
その、子どものような小さな体は着物に覆われていない部分の殆どが包帯に覆われていた。それ故に、十六夜は確認のために聞いてみた。
「すいません、不躾でした。」
「いえいえ、聞きたくなるのも分かりましょう。違うものと共に暮らすというのは、恐ろしいことです。」
「・・・何故、妖の元に?」
いつもの十六夜ならば、きっと聞かないことだった。そうして、踏み込むことはしなかった。
それでも、そんなことを聞いてしまったのは、風牙の元にいるという不安感があったためだ。
そんな中、一坊は変わることなく、穏やかに言葉を紡いだ。
「あの方だけは、私を人として扱ってくれたのですよ。」
言葉の意味が分からずに、十六夜は黙り込む。それに、一坊は無言でそっと包帯を一部解いた。
「ひ!」
そこにはぐずぐずに、腐ったような肉があった。
「あの方は、私を拾い上げ、そうして愛らしきと微笑んでくださった。我が腐った肉を洗い、薬を施し、布を巻いてくださった。」
それだけですよ。
十六夜は口を噤んだ。
それだけ、その、それだけですよ、というたった一言の重みにひるんでしまったのだ。
一坊は、その後に深々と頭を下げ、部屋を去っていった。
十六夜は考える。
この屋敷は、こういって何だが、まるで極楽の様だった。
悲しいことも、苦しいことも無い。
使用人たちは、神に奉仕するがごとく仕事を行っている。望んだものが与えられ、傷つけば医術を施される。
その妖は、神であるのではないかと、いっそのこと御仏の様ではないか。
けれど、十六夜はそれのおぞましさを知っている、恐ろしさを知っている。
それ故に、十六夜は風牙という存在に何を思えばいいのか分からなかった。
人でないと恐れ、遠ざけるにはそれは慈悲と愛嬌がありすぎた。
優しきものよと微笑むには、それは人をおもちゃとして面白がっていた。
そうして、もう一つ、十六夜としては風牙に関して頭を悩ませていることが在った。
何故か、それは異常に贈り物をしてくるのだ。
反物に始まり、櫛や装飾品など様々だ。
彼は毎日のように屋敷にいるわけではない、時折数日間外に出ていることがある。
彼曰く、闘牙王の統べていた部下たちの世話などを行っているらしい。
そうして、出かけて帰って来ると彼は多くの贈り物を十六夜にする。
十六夜としては、その過剰な贈り物をされても困る。断ればいいのだろう。風牙の言動を見る限り、断っても不機嫌になるということはないとは思う。
「どうだ、十六夜。」
にこにこと風牙は笑って目の前に積み上げた反物を十六夜に見せる。けれど、十六夜は困惑するばかりだ。
「ええ、とても、見事だと。」
「そうだろそうだろ!今、都で流行ってる柄だからな!」
そう言って風牙は反物を手に取り、合わせる様に十六夜の肩にかけて広げた。
「似合うなあ。ようしようし、さっそく仕立てて・・・・」
「あの、贈り物は・・・・」
風牙の言葉を遮ると、それは十六夜の方を伺うように見た。それに十六夜は困ってしまうのだ。
その時の風牙はまるで子どものような顔をする。
十六夜は美しい。それ故に、それ相応に男からの評価を受け、そうして下心と言うものを察せられる。
十六夜は、風牙からそういった生々しい、女として求められることも想像していた。けれど、風牙からはそう言った欲をあまり感じなかった。
贈り物を持ってくるとき、彼は期待に満ちた目で十六夜を見る。けれど、十六夜から何を期待されているのか分からない。
贈り物が気にいられないと悟ると、今度は執拗に欲しいものがないのかと聞いてくる。無いと答えれば、そうかと落ち込んだ顔をする。
そのまま贈り物の説明をして、無理やりに十六夜に渡して去っていく。
そうして、別の贈り物を持ってくるということを繰り返している。
それが、十六夜に何かを期待しているのはわかる。けれど、それが何かが分からない。
犬夜叉にでさえ、そこまでの贈り物をしていないというのに。
彼の弟のおまけの様な形である自分にそこまでの贈り物をする理由が見つからない。
けれど、風牙の目は、恋しいものを見つめるものにしては冷たく、凪いでいた。情欲と表現するには余りにも飢えを欠いていた。
ただ、どんな感情にも当てはまる様な、それ。
踏みこむことも、暴くことも恐ろしくて、当たり障りのない態度を取る。
風牙は、十六夜に触れることはない。
それ故に、男の望みが分からない。
ある日のこと、十六夜の部屋を訪れた風牙が不服そうな顔をしていた。珍しいことだと、十六夜は風牙を見ていた。
風牙は本当に珍しく、どさりと乱雑に座り、だらしなく姿勢を崩していた。
その様は、不貞腐れているようにも見えた。
「・・・・・下の者にも、探させていた。」
唐突に話し出しはしたが、十六夜の方を見もせずに目を伏せている。
「でも、お前に贈るものが見当たらない。」
そう言った後に、風牙は本当に珍しく乱雑に十六夜にそれを押し付ける。
「あら・・・・」
押し付けられたのはつゆ草であった。青い小さな花のついた可愛らしい贈り物には控えめな印象を受けた。
「もっといいものを見つけたかったんだが、全然、下の奴らだって見つけてこねえし。今度こそ、もっといいものを・・・・・」
ぽつぽつと呟いたそれがふっと途切れる。十六夜はそれに気づかず、そのつゆ草を見つめる。
久方ぶりの、外のものだった。
今まで、自分の身の丈に合わないと感じていた着物ではなく、突然渡されたその素朴な贈り物は彼女は思うよりもずっと素直に受け取れた。
(・・・・綺麗。)
十六夜は花を見つめて、思わず微笑んだ。
屋敷の中は季節がめちゃくちゃなせいで時間と言うものと掴みにくい。
そんな中、もう、そんな季節なのだと知らせてくれた花はまるで締め切られた部屋に入って来た風の様だった。
じっとつゆ草を見つめて微笑んでいた十六夜は強い視線を感じる。視線の方を見ると、そこには目を大きく見開き、口をへにゃりと曲げた風牙の姿があった。
「・・・・た。」
「え?」
「笑った!!」
風牙は十六夜に近寄り、そうして彼女を無断で持ち上げた。
「きゃあ!」
突然の出来事に十六夜が悲鳴を上げる。けれど、風牙はそんなこと聞こえていないというようにはしゃぎながら笑う。
「ああ、ようやくだなようやく!ようやく笑ってくれた!」
風牙はそう言ってくるりくるりと回りながら庭に飛び出る。十六夜はそれに振り回されながら、風牙の台詞を聞いた。
「よかったなあ!この屋敷に来てからずっと笑わなかっただろう?だから、どうにか笑わせてやりたかったんだ!他のものたちのように物をやっても笑わないからなあ。そうか、花か!お前さんは花が好きなのか!」
それに十六夜は驚いて、見下ろす形で風牙を見た。
無邪気に、無垢に、笑っていた。心の底から嬉しそうに、笑っていた。
その笑みが犬夜叉に似ているものだから、彼女は思わずその頭を撫でていた。風牙はそれにきょとんとしていたが、それでもされるがままに嬉しそうに笑った。
十六夜はそれにようやく、その男が確かに彼の人の息子であるのだとようやくわかった気がした。
どこか、不器用なその様は、確かに彼によく似ているのだと思って。
その細やかで、無邪気な好意を受け取る気になったのだ。
(あ・・・・・)
犬夜叉はその日、独りで庭で遊んでいた。兄は外に出ており、他の子どもたちは仕事があった。
退屈だなあとは思っていたが、丁度いい感じの枝を見つけてご機嫌であった。
そんな時だ。
犬夜叉はいつの間にか屋敷を囲った塀の端、とある離れについた。屋敷の中は静かだが、その離れの周りは際立って静かだ。
「ここ・・・・」
そこは、風牙に近づいてはいけないと言われていた場所だった。
なんでも体調が悪い人がいるらしく、できるだけそっとしておいてくれと言っていたのを思い出す。
けれど、犬夜叉としては改めてその離れが気になった。なんといっても、屋敷に来てずいぶん経つがその離れの住人とは未だに会えていないのだ。
「・・・・よし!」
好奇心であった。そんなにも体調が悪いという、誰かのことが心配でもあった。ただ、それだけの話だった。
離れには人気は無く、静まり返っている。それでも掃除や手入れはされており、確かに誰かがいるのだろうとは思えた。
犬夜叉は何気なく、障子を開けた。暗い部屋の中を覗き込むと、奥の襖から微かに音がした。
犬夜叉はそろりそろりと中に入っていく。
よくよく聞くと、その音は誰かが泣いている声のようだった。
犬夜叉はそれに急に心配になり、急いで襖を開けた。
「・・・・風牙様?」
掠れた声で振り返ったのは、母と同じような着物や、長い髪をした人だった。襖や障子を湿った暗い部屋の中でよく見えなかったが声からして女性であるらしいその人は、皆と同じように犬の面を被っていた。
「えっと、あの・・・・・」
犬夜叉が何かを言おうとしたとき、その女は動きを一瞬止めた後、ゆらりと立ち上がった。
そうして、ぶつぶつと呟きながら犬夜叉に近づいてくる。
「あ、あのご、ごめんなさい・・・・」
「ああ。憎らしや、怨めしや。貴様の、貴様の、あの女狐のせいでな、彼の君は・・・・・」
ぶつぶつと要領の得ない声で囁き続ける。犬夜叉はさすがに恐怖に駆られて逃げようとするが、上手く動けない。そこで、その女は犬夜叉に手を振りかぶる。
殴られると予想した犬夜叉は、自分を庇うように手で頭を覆った。
ばしり!
そんな音がしたが、殴られた感覚はない。
目を開けると、そこには兄が立っていた。珍しく持っていた扇子で、彼女の手を止めたらしい。
「ふ、風牙様!」
「犬夜叉、大丈夫か?」
「う、うん。」
女は風牙に慌てた様子で跪く。風牙は気にした風も無く、犬夜叉を労わりながら抱き上げた。
「水仙、幼子に手を上げるとは感心しないなあ。」
いつも通り、柔らかなそれはどこかどろりと甘い。
犬夜叉は、何故か、その時ひどく怖くなる。何が怖いか分からない。それでも、なんだかたまらなく怖くて体を縮こませた。
風牙は片手で犬夜叉を抱き上げ、ぱらりと扇子を広げて口元を隠した。
「も、申し訳ありません。」
「うん?いや、怒ってなんぞいないさ。なんといっても、体を悪くしているんだ。何か、そうふっと爆発することもあるだろう。だがなあ、俺の愛しい子に手を上げるのは感心せんなあ。」
「その、方が?」
「うん?」
風牙はそう息を吐いた後、扇子の影に隠す様にしながら犬夜叉のこめかみに口づけを落とす。
「おうおう、そうだ。我が、愛しい子。人と妖の間の子。我が守るべき血縁。そうして。」
彼女の子。
囁くような声だった。それに女は微かに震えながら、まるで血反吐を吐くような、犬夜叉にはそう聞こえる様な声で言った。
「めでたきことです。」
「まことになあ。血縁とは、多ければ多いほどに良いものだ。」
「・・・・こちらには、このごとあまり来られなかったのも納得の事です。」
「ああ、これやあの人に構うので忙しくてなあ。やはり慣れるまではと思ってなあ。お前も、体調さえ良ければなあ。」
「申し訳ありません。」
「うん?謝ることなどないんだよ。」
「私のことなど、忘れてしまわれているのかと思っておりました。」
「うん?忘れるわけないだろう。この屋敷は俺が管理しているのだ。食事も何もかも行き届いていただろう?」
犬夜叉は、ひどく落ち着かない。何かが恐ろしい。
何か、二人の間に齟齬がある様な、そんな違和感がある。その正体が分からなくて、犬夜叉は微かに震えはじめた。
それに気づいた風牙はうんと頷いて、くるりとその場から背を向けた。
「あ・・・・」
微かな女の声がした。けれど、風牙は我関せずというように犬夜叉におやつにしようと囁いている。
かたんと閉じた戸を見て、犬夜叉は風牙に言った。
「あの、ごめんなさい、入っちゃ、いけないって。」
「うん?まあ、いいさ。だが、分かっただろう。彼女はお前のように行く当てがなくてな。色々と世話を焼いているんだが。今は気分が悪いらしくてな。あまり構ってやらないでくれ。丁度良かったしな。」
その言葉の意味が、犬夜叉には分からなかった。ただ、その時は今までの恐ろしさのようなものはなくいつも通りの兄に見えた。
だからこそ、犬夜叉は全てが気のせいだと思うことにした。
離れで見た怖い人は、きっと色々気分が悪いだけなのだと、そう思って。
その数日後に、母が死んだ。そうして、犬夜叉は屋敷を逃げ出した。
私は、何もかもが嫌いで在りました。
ええ、そうです。男と言うものが、女というものが、嫌いでありました。
何故か、簡単な事です。私には、どちらも悍ましくて仕方がなかったのです。私は、いえ、私が何処の生まれなんてことはどうでもいいのです。
ただ、恵まれてはいたのでございます。
たった一つ、間違いであったのは私があまりにも美しすぎたことでしょう。
ああ、何を言っているとお思いでしょうか、嘲笑すらされる方もおられるでしょう。
ええ、そうですね。
そうであれば、よかったのです。
笑ってしまうことに、誰もが私を美しいと言い、求めました。
最初の夫は、良き人でした。そうして、私に横恋慕した男に殺されました。
私を奪った男は、また、誰かに殺されました。
死にました、死にました。誰もが私を恋しいと言いながら、手前勝手に殺し合い、そうして死んでいくのです。
そうして、反対に女は、笑えることに私のことを侮蔑しました。
男にだらしがないのだと。旦那様は騙されているのだと。あの、麗しさよ、妬ましきよ。
ええ、ええ、ええ、誰が、誰が、こんな生を望むものか。
伴侶とするものを奪われ、流浪の身になり、女にさえも蔑まれ。
子を、なしたこともありました。死にました、私の、愛しい、可愛い子。
嫉妬に狂った、男の一人に殺されました。
何もかもが嫌で、それでも男から逃れられない自分の人生が嫌で。
そんな時、あの方に出会ったのです。
ええ、ええ、覚えています。
あの日、月の光の下に、私に会いに来られたあの方を。
「評判の美人だと聞いたが、それほどでもないなあ。そんな幸薄そうな、苦しそうな女を美人というとは、情緒がないねえ。」
けらけらと、そう言って笑った風牙様は、本当に、この世の物とは思えないほどに美しかったのです。
あの人は、人の世界で生きにくい私を拾い上げてくださいました。生活の全てを面倒見てくださいました。
あの人の目には、情欲も、恋慕も、欠片とて存在しませんでした。あるのは、ただ、ただ、ひたすらなまでの慈しみだけでした。
あの人は、私に何も求めませんでした。毎日のように、私の元に通ってくださいました。そうして、美しい反物に、櫛や装飾品、甘い水菓子。
あの方は、目を細めては私に微笑みかけてくださいました。
子を、幼子を慈しむ様な、そんな情を。
あの方だけでした、あの方だけが、私を装飾品でもなく、ただの人として扱ってくださいました。
その、降り積もった感情が、恋しやと焦がれるものに変わるのに時間はそうかかりませんでした。
あの方も、きっと同じであったはずです。
そうでなければ、どうして容姿だけの女の世話などするものでしょうか。
恥ずかしくはありました、はしたないとも思いました。ですが、私が言わなければ、あの優しい方が私を求めることはないと分かっていました。
ええ、ええ、それにあの方は応えてくださいました。契りを結びました。
幸福でありました、本当に、幸福でありました。
あの女と、子が現れるまで。
あの方があまり顔を出されなくなっていきました。
何かあったのかと思いました。ですが、聞くにも会えない日々が続きました。
そうして、侍女たちの言葉を聞いたのです。
「主様が、お世継ぎとその母親を連れて帰られるんですって。」
「ああ、それで本殿の方をいろいろと片づけておられるのね。」
「ふふふふ、御子が来られるならば、騒がしくなるのでしょうねえ。」
さざ波のような声に、私は、ええ、私は絶望しました。
ようやく、居場所が手に入れられたと思いました
ようやく、私は人として生きられると思いました。
ようやく、うばわれることはないのだとおもいました。
ええ、ええ、あの人は変わることなく、それでも時折通ってくださいました。
ですが、口を開けば、その女がどれほど美しいのか、その子がどれほど愛らしいのか。
そればかりで。
私は、疎まれるのが怖くて、嫌われたくなくて、笑って、それを受け止めました。
あの人は、それから私があの女たちの元に行くのを認めても、私の所に帰って来てはくださいませんでした。
欲しいといえば与えてくださっても、自らそれをくださることはありませんでした。
ええ、ええ、ですから、分かったのです。
一番で在り続けたかった、その人の唯一でありたかった。
ですから、あの女を殺しました。
殺すのは簡単でした。
前に貰った短刀を持って女の元に行き、首をかき切りました。
血が吹き出るのを見ていると、あの方がいつの間にかいました。
我が君は、あの女に駆け寄りましたがもうすでに虫の息でした。
女は、二言三言、喋っていましたがあまり興味はわきませんでした。
そうして、女はこと切れました。
ああ、ようやくだと思いました。ようやく、ようやく、私を見てくれる!
ええ、ええ、きっとこの人はこれで私だけを見てくださると思いました!
愛されないのなら、憎まれたかったのです。この先、永いこの方の生の中で、私はきっと忘れられない存在になるのだと。
そのために死ぬのなら構いませんでした。
ゆっくりと私を見た、あの人は、変わることなく微笑んでおられました。
「うーん、そうかあ。」
そう、一言喋って、ようやく私の方を向き、こう言われました。
「汚れたなあ。水仙、風呂に入りなさい。」
「え?」
「部屋も汚れたなあ。掃除を、ああ、あと墓の用意もせねばならんか。」
「あ、あ、え?」
そこには、欠片の怒りも、悲しみもございませんでした。
「うん?どうした?」
「わた、殺して・・・・」
「うん?そうだな。俺の考えた通り、ちゃんと殺してくれたな?」
「え?」
どさりと、私はそこに座り込みました。それは、私にニコニコと言います。
「うん、お前さんのことは一等に気に入ってたんだがなあ。ずっと幸福そうだっただろう?だから、ものすごく醜くなるところが見たかったんだ。泣きわめいて、苦しんで、怒り狂っているところをな。」
「・・・私のこと、愛らしいと。」
「だから、一等に気に入っている愛らしいお前だからこそ、狂うように怒って、悲しんで、苦しむところが見たかったんだろう?」
愛しいものの全てを知りたいと思うのは当然だろう?
心底、不思議そうにその人は言われました。
「だからなあ、どうしようかと思ってたんだが。一坊の奴がな?嫉妬心を煽るのが一番だと言われてなあ。いやあ、かあいかったぞお。俺の弟や、その母親を妬んで醜くなっていくお前はなあ。」
弟?母?
え、だって、あなたの妻と、子どもだと思って。
だから、私は。
「ああ、お前がそう思ってくれるように、俺も、屋敷の者にも勘違いする様に言いつけて置いたかなあ。だからなあ、ほうら、ちゃんとこうやって殺せるものだって用意してなあ。でも、お前は全然十六夜のことを殺そうとしないしなあ。だから、あの日、わざと離れの人間を少なくして、犬夜叉と合わせたんだ、そうしたら、ほうれ。考えた通り、してくれた。」
そうかあ、お前はそうやって怒るんだなあ、そうやって悲しがるんだなあ、苦しむんだなあ。
そうやって、人を殺すのか。ようし、ようし、かあいいねえ。
どろりとした、甘い声。愛しがる、眼。
くすくすと、声がします。
違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う
違う、私の愛したあの方は、こんな、こんな訳の分からないものじゃない!
こんな、バケモノじゃない!!!
私は、持っていた短刀を振りかぶって。
そうして、視界が飛びました。くるりと、視界が回ります。
あれ、私の体が、どうして、あんなところに。
「ふむ。」
風牙は目の前の首なし死体と、その背後に立つ一坊を見た。
「これはまた、掃除が大変だなあ。」
のんびりとそう言った風牙に一坊は構えた大きな爪を引っ込めながら答えた。包帯がほどけて、毛むくじゃらの子ども程ある手が見え隠れする。
「申し訳ありません。」
「うん?ああ、いや、構わんさ。残念だが、まあ、死んでしまったのなら仕方がな。それは別に生きていても、死んでも構わなかったし。だが、別にこれぐらいで傷つくものでないんだがなあ。」
「・・・・それでも、あなたを傷つけるものを赦せませんので。」
「相変らず重いなあ、もうちっと気楽に生きゃあいいだろうに。」
風牙はのんびりとそう言った。
そうして、事切れた十六夜だったものに目を向けた。
飛び散った血を擦り付ける様に、美しい女の顔立ちをなぞった。
殺すのは最初から決めていた。そのために、じっくりと水仙を追い詰めたのだ、その間に望んだものを見れたのだからそれだけで十分に満足しているのだが。
(・・・・ああ。)
「・・・兄上?」
その声に風牙は振り向く。ころんと、持っていた毬が犬夜叉の手から零れ落ちた。
「母上!」
犬夜叉が十六夜であったそれに駆け寄る。風牙は慌ててそんな犬夜叉をすくい上げた。
「放して、母上が・・・・!」
「駄目だぞお、汚いからなあ。」
それに犬夜叉は動きを止めた。母に意識を向けており、ずっと見ていなかった兄にようやく視線を向けた。
兄は、いつもと変わらずニコニコと笑っていた。それ故に、怖かった。
どうして、この人は、笑っているの?
「あ、にうえ?」
「うん?ああ、そうだなあ。俺もそういや汚れてるのか。うーん、お前さんも風呂行きだな。」
一緒に風呂に入るか!
にこにこと、にこにこと、笑って、いる。
それに、犬夜叉は鈍っていた恐怖が湧き出て来る。
どうして、このひとは、ははうえがちをだしてたおれているのにわらっているの?
「母上、は?」
「ああ。十六夜はなあ、死んでるからなあ。これから片づけるから。ああ、でも墓も作るからな?」
片づけるって何?母上はものじゃないよ、お片付けできないよ。それよりもお医者さんだって呼んでこなくちゃ。
犬夜叉のそれに、風牙は仕方のないような顔で苦笑した。
「だから死んでるんだよ。困った奴だな。そんなことしても無駄なんだ。わざわざ仕事を増やしてやるな。」
そんなことを言うのだ。
「なんで?」
「うん?」
「だって、母上が、助かるかもしれない。死んでなんて。」
「さっき確かめたからだ。死んでる、ちゃんとな。あんまり死人に近づくもんじゃないだろ?」
たしなめる様な声がする。
犬夜叉は愕然と、自分を抱き上げたそれを見つめる。
この人はなんだ?
ぞわり、ぞわりと、寒気が伴ってくる。
ねえ、兄上、母上と仲が良かったよね?綺麗だって言ったよね?笑ってたよね?お話してたよね?かあいいねえって、そう言ってたよね?
なのに、どうして、母上が死んで、笑ってるの?
ぼろりと零れたそれに、風牙は仕方がないなあと言うように笑って、血に濡れた手で犬夜叉のまろく柔い頬を撫でた。
「人が死ぬなんてよくあることだろう?」
あっけんからんとそう言い捨てた。
「そうだな、お前さんは初めてか。ああ、確かに、母がなくなるのは悲しいなあ。ようし、誰か新しくお前の母になってくれる奴を探そうか?」
ねえ、兄上、何を言ってるの?分からないよ、母上は一人だけだよ。代わりなんて、いないよ。
ねえ、兄上、教えて、母上のこと嫌いだったの?
「うん?いや。」
その瞬間だけ、兄は、どこか迷子のような、困った顔を一瞬だけした。けれど、すぐに朗らかに返事をした。
「好きだったぞお。犬夜叉や殺や母上のことを考えなければ、今までにないぐらいかあいかったぞお。死んでしまって、悲しいさ。」
犬夜叉は目の前で訳の分からないことを言い続ける兄にがたがたと震えながら、押し殺したような声で言った。
「なら、どうして笑ってるの?」
それに、風牙は答える。にこにこと、優しげに、笑って。
「人なんてすぐに死ぬんだからな。きりがないしなあ、慣れた。」
それに犬夜叉はとうとう耐えきれなくなり、風牙の腕から逃げ出した。そんなことを考えていなかったのか、それとも気にも留めていなかったのか。
あっさりと、その腕から逃れることが出来た。
犬夜叉は走った。
この屋敷にいたくなかった。兄に、会いたくなかった。
恐ろしかったのだ、怖かったのだ。
ずっと、優しくて、強い、そんな兄が好きだった。
けれど、今あったあの人は、なんなのか?
違う、自分が、大好きだったあの人は、あんな人ではなかったはずだ。
怖い、何が怖いのかもわからずに、犬夜叉はがむしゃらに走る。
どこかに逃げたい、ここではないどこか。
ただ、ただ、ここにだけはいたくない。これ以上、あの人の側にいたくない。
とうとう辿り着いたのは、屋敷と外を繋いでいるらしい門だ。
門番はいない。置く必要もないのだ。
犬夜叉は一先ずは戸を開けようとするが、もちろん開かない。それに項垂れる。
屋敷を囲んだ塀は、飛び越えてもまた庭に戻ってしまうことは知っている。
よくよく考えれば、犬夜叉はこの屋敷に来てから、外に出るとしても風牙が伴ってのことだ。
自分一人で外に出る方法を知らない。
(・・・どうしよう。)
一度立ち止まれば焦る気持ちは凪いでいく。このまま、どうせ出られないのなら、もう一度帰った方がいいのだろうか?
何よりも、倒れた母のことが気になる。いや、それよりも屋敷内の医術が出来る存在を探したほうが良いのだろうか。
ぐるぐると、色んな考えが駆けまわる。
それでも、怖い。そうして、先ほどの兄が夢だったのではないかと、そんなことを思う。
「犬夜叉様?」
「え?」
そこには、犬夜叉がよく遊ぶ狐の面を付けた子どもがいた。
「あ・・・・」
犬夜叉は、とっさにどうすればいいのか分からず、門に背を向け後退る様に一歩下がった。
その様子に何を思ったのか、子どもは静かに言った。
「この屋敷を出ていかれるのですね?」
「え?」
どうして分かったのかと言うとしたとき、子どもは持っていた包みを犬夜叉に押し付ける。
「これ・・・・」
「私はこれからお使いに行くはずだったんです。その時に食べるお弁当と、あとお使い用のお金です。持って行ってください。」
「で、でも、怒られちゃうんじゃあ・・・・・」
「この屋敷に来られた方たちは殆どここに居付きます。まるで極楽の様だって。でも、ほんの少しだけですが、数人は出て行ってしまうんです。」
風牙様を、怖いと言われて。
犬夜叉はそれに固まる。子どもは、それに顔を伏せて話し続ける。
「・・・・風牙様、お優しいです。優しくて、穏やかで、そうして私も恐ろしいと、時々思います。」
あの方は、それでも、妖怪なのです。
自戒を込めたその言葉は、犬夜叉にはよくわからない。犬夜叉の知る妖怪とは、兄と、そうして墓参り以降会えていない次兄である。それゆえに、その妖怪であるという線引きの意味を理解できなかった。
途方に暮れる犬夜叉に、子どもは何も言わずに彼の手を引いた。そうして、木造りの門に近づき、横にある小さな戸に触れた。そうすると、きいと小さな戸が開いた。
「犬夜叉様は半妖です。きっと、外でも生きていけます。」
「君も行こうよ、兄上のこと怖いんでしょう?」
それに、子どもは小さく首を振り、そうして面を外した。
「・・・私は、外では生きていけないのです。」
子どもの肌には、所々に鱗が浮かんでいた。それに、犬夜叉はようやく目の前の存在が自分と同じ境遇であると察する。
「半妖の私は、一坊様に拾われました。私は、外がどれほどに生きにくいか分かっています。ですが、風牙様が恐ろしいという気持ちも分かるのです。」
だから、だからこそ、逃げる意思があるうちに、どうか逃げてください。
「どうして、そこまでしてくれるの?」
「・・・・犬夜叉様、私の名は、竜胆と言います。ずっと、名さえ教えず申し訳ありません。」
その言葉に、犬夜叉はまるで霧が晴れる様に一坊以外に、屋敷の者で名を知らないことを思い出す。
(・・・もしかして。)
そうだ、名を知ろうとするたびに、仕事だからと遊びはお開きになり、そうして、兄上が代わりにやって来る。
教えてほしいと請えば、するりとかわされてしまう。
ずるずると芋づる式に気づいたそれに、兄が関連していると理解した。
犬夜叉は、等々耐えきれなくなり、脱兎のごとく門をくぐる。
「御達者で!」
泣きそうな竜胆の声を背に、犬夜叉はただ、ただ、走った。
その後、犬夜叉は自分がどれほどまでに守られているのかを知った。そうして、竜胆の語った妖怪であるという意味も、理解した。
この世は残酷だと、世界を見て回って理解する。そうして、あの屋敷がどれほど優しいものであったかも。
犬夜叉は、風牙を恐ろしいと、理解に至るには無理であるのだと何となしに察していた。
それでも、なお、彼は風牙のことを兄として慕ってしまっている。
風牙は、犬夜叉に多くのことを教えた。
食べられるものや毒になるもの、そうして簡単な金の使い方。人や妖怪との距離の置き方。
それは、確かに彼の人生において知っておくべきものばかりであった。
犬夜叉とは、半妖である。そうして、風牙とは妖怪である。
この違いは、確かに自分たちの間に悉く横たわり、分かたれてしまっているものである。
それでも、なお、あの優しい箱庭を彼の者が作り、そうして自分が慈しまれたということを覚えている。
嫌うことは出来なかった。彼の、恐ろしさを、妖怪としての齟齬であると理解できればなおさらに。
慕い続けることを、止められなかった。
犬夜叉は、風牙の作った母の墓を前にして、いつだって風牙の作った優しい箱庭を思い出す。
「よろしかったのですか?」
「何がだ?」
風牙はじっと十六夜の墓として作ったそれを見る。石を簡素に加工し、名を刻んだだけのそれ。
風牙としてはもっと豪華なものをと思った、思えば彼女はそう言った趣向を嫌うことを思い出し出来るだけ簡素にした。
大きな木の根元に作ったそれを前で、風牙はちらりと横にいる半妖を見る。
「十六夜様の事です。本来ならば、妖怪にされる気だったのでしょう?」
「うーん。」
風牙はそれに締まりのない声を上げた。
風牙は十六夜を犬夜叉を屋敷に迎え入れると決めた時から、十六夜を妖怪にすることを決めていた。
今まで、風牙には多くの気に入りの人間がいた。人間というのは、かあいいものだ。
愚かで、賢くて、美しくて、醜くて。
けれど、彼らは生じて短命だ。それ故に、風牙は特に気に入った存在を妖怪にして手元に置くことにしていた。
けれど、これには欠点があり、妖怪になったことで心を病み、死んでしまうものがいるということだ。
今までの経験から、十六夜はそれを嫌がることは分かっていた。
「どうして、人間というのは、お前の様に合ってくれないんだろうなあ。一坊。」
「・・・・私が、半妖であることを受け入れたのはなかなかに特殊な事ですよ。」
「分かってはいるんだけどなあ。」
風牙は今まで一等に、十六夜という存在を気に入った。
犬夜叉の母であることは何よりもでもあるが、彼自身が非常に十六夜のことが気に入っていた。
是非とも、彼は十六夜を出来る限り自分の側に置きたかった。
(・・・・それで犬夜叉と、彼女と一緒にずっと暮らしたかったんだがなあ。)
十六夜に納得してもらうために、命を助けるために妖怪にしたと大義名分が欲しかった。そのために、水仙は丁度良かったのだ。
水仙に殺されそうになり、仕方がなく妖怪にして命を繋いだ。
水仙は一先ず他の所に移動させようと思っていたのだが。
孤独な彼女が、花開く様に幸せになっていくのは本当にかあいいものだった。けれど、やはり幸福な所だけではなく、不幸で、惨めで、苦しくて、悲しい所も是非とも見たかったのだ。
人間というのは、笑っているところだけでなく、苦痛にのたうち回り、泣き叫ぶところもかあいいのが特に良い所だ。
「だがなあ、一坊。何故、彼女は十六夜を妻、犬夜叉を子と勘違いしただけであそこまでになっていたんだろうなあ?」
「風牙様は、あれを夜伽に呼ばれたでしょう?」
「うん?そりゃあな。だが、屋敷には夜伽役なんてたくさんいただろう?」
「彼女は、自分を風牙様の妻だと思っていたようです。」
それに風牙は心の底から、不思議に思う。自分は彼女にそこまで特別なことなどしていただろうか?
(水仙にしたこと?世話をしてやって、着物やら贈り物をして、夜伽に呼んで。だが、屋敷に仕えている奴らにも同じようなことをしてるんだが?)
風牙にとって屋敷のものたちは自分を慕ってくれるかあいいものたちだ。何故か分からないが、周りに距離を置かれる自分のことを慕ってくれるのだから甘やかしてやりたいと思うのも一押しだ。
男だろうが、女だろうが、そうしてほしいというならば夜伽に呼ぶし、それぞれに似合うと思ったのなら、着物だとか贈り物だってしている。
特別なことなどしただろうか?
求められるならば風牙はなんだってしてやる。それが、誰であろうとだ。
「・・・さあ、あれはそう思っていたようです。」
「ふーん。まあ、もういいがなあ。」
そう一言置き、風牙はさっさと水仙を興味の対象から除いた。
そうして、改めて十六夜の墓に目を向けた。
首をかき切られたことを確認して、風牙は意気揚々と十六夜に駆け寄った。そうして、自分に駆け寄った風牙に、十六夜は、今まで見た中で一等に美しい笑みを浮かべたのだ。
(・・・・闘牙王さま。)
彼女は、そう、言った。それに、風牙は何故か手を止めてしまった。その間に、十六夜は微かな声で、言ったのだ。
ようやく、お会いに出来ました。迎えにきて、くださったのですね。
(愛しい、方。)
ああ、ああ、その眼!
控えめで、静かな彼女にはあまりにつ不釣り合いな、焔のような感情を灯した眼。全てを、焼き払う様な、揺らめくような美しき眼よ!
まるで、清流の様に、澄んだ眼よ!
まるで、大地の様に頑なな眼よ!
その、眼に宿った、魅入られる様な感情に風牙は見とれた。
血が、流れ続ける。命が流れていく。それが分かっても、風牙は女の浮かべた美しい笑みに、強い感情に魅入られてしまった。
(・・・・そうか、あれが、恋か。)
あの時、彼女に宿ったそれを、恋と呼ぶのか。
欲しいと、とっさに思った。女の浮かべた笑みが、その感情が欲しいと思った。
それほどまでに、十六夜は美しかった。
(でも、俺への物じゃないんだよなあ。)
それは、己の父へのものだ。父にしか向けられないものだ。
そう思うと、風牙は十六夜に手を伸ばす気が失せた。何となしに、彼女を生かす気が失せた。妖怪にする気がなくなった。
風牙は、そのまま、それでも十六夜がこと切れる瞬間まで彼女を見つめた。
それでも、十六夜は風牙に闘牙王の幻を見たまま、死んだのだ。
「・・・・死んでも、俺の事を見なかったなあ。」
何となく、そう言った。
あの時、彼女を人のまま殺してやりたくなった。掴もうと思った手を、振り払った。
そのほうが、十六夜は幸福な気がした。
「まあ、もういいんだよ。うん。」
最期まで、十六夜は風牙を見なかった。その事実だけで、何となしにもういいやと思えてしまった。
「風牙様は、十六夜様に恋をされていたのですか?」
唐突に聞かれたその問いに、風牙はきょとりと目を瞬かせた。それに、一坊は深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。気分を害された様ならば・・・・・」
「いや、構わんさ。にしても、恋か・・・・」
風牙は考え込む。
自分は彼女に恋い焦がれていた?
「そんなのありえないな。」
だって、自分が彼女に恋をしていたというならば、きっと彼女を無理やりにでも妻にしていたはずだ。
だって、恋とは十六夜の中にあったあの激情のことを言うのだろう。
自分の中に、あんなにも、熱く、頑なで、純粋な、感情があったのなら。
自分はきっと、十六夜をどんなことをしても手に入れただろう。
孕ませ、記憶を消して、囲い込んで、死ぬことだって赦さずに。
けれど、風牙はそれをしなかった。
彼女のことを手放した。
「それが答えの全てだろう?」
あっけんからんと、朗らかに、そう言った。
一坊は、それに深々と頭を下げた。
「そうでございますねえ。」
「そうだろ?あ、そうだ。犬夜叉の方は大丈夫か?」
「ええ、緊急の避難先として迷い家を使えるようにしておきました。そうして、この屋敷に戻りたくなった時のための連絡手段も。」
「そうか、いや、お前の息子には褒美をやらんとなあ。あの子のことを色々と気遣ってくれたようだし。」
「ありがたいことです。」
「いいさ。あと、この墓にも守りを付けておいてくれ。」
「賜りました。」
「ようし、良い子のお前さんには褒美がいるなあ。そうだ、また風呂に入るか?体を洗って、包帯も巻き直すか。新しい薬の調合を思いついたんだ。」
そう言って、風牙は歩き出した。その後を、男は、いやその妖怪と共に生き続けるために妖怪にさえ成り果てたそれはじっと見つめる。
一坊と、名前を付けたその妖怪は、まごうことなく彼にとって神様だった。
人に厭われる呪いを持った自分を抱き上げ、屋敷に連れ帰り、体を洗い、包帯を巻き。
そうして、仕事を与えてくれた。
(・・・・あなたのそれを、私は恋と、呼びたくなる。)
それでも、男は何も言わない。
風牙が、神がそう言うのなら、それがすべて真実なのだろう。
そうだ、一坊には興味のないことだ。彼の言葉は、絶対なのだから。
彼は、そう思ってのそのそと歩き出した。
屋敷の人たちは基本的に風牙さんが第一なので人が死のうと特段何も思わない人ばっかりです。
風牙さんが殺すことが嫌いなのを理解してるので、相手が悪かったなあってスルーします。
一坊さんは、風牙さんガチ勢の同担歓迎派です。基本的に風牙さんの元にいる人間とか弱い半妖の頭です。
人から半妖になった人。
水仙さんは、あのままだったら他の場所に移されて前と同じように生活できてました。一坊さんに殺されなければ。
色々あって、転職と引っ越し終わりました。疲れてるので、感想いただける嬉しいです。