ゼロカラナリキルイセカイセイカツ   作:水夫

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『暴食』の権能については未だに不明な点が多いので、『日食』や『月食』などの言及は故意的に省略しています。物語の都合上は不必要な分析も出来るだけ避けました。


そして交わる殺意

 人の気配と、視界の明るさは比例する。

 無論二つが実際に作用し合う訳ではない。ただの経験則で、そう感じたことが多いというだけの話だ。

 夜でも活気付いていればそこは気持ち眩しいし、逆に自分一人の空間では周りの影がやけに大きく見えたりしないだろうか。気分の同調。人は感情によって世界の見方を変える。

 

 そういった尺度で言えば、今のこの場所はとても暗かった。少し前を見るにしてもつい目を凝らしてしまう。

 歩けないほどでもないが、どうにも気になるのだ。こればかりは何度経験しても慣れそうにない。別に慣れなかったところで不都合も無いのだが。

 薄暗闇の中を、裸足で歩く。人気が無ければ音も無い。耳に痛い静けさ。足音だけが、ぺたぺたと響く。

 道は殊更複雑な構造でもなかった。これといって迷うことなく、目的の場所へ近づいていく。時間はたっぷりある。急がなくていい。もう少しだ。

 

 階段を上がる。一段一段に注意を払って進む。慎重に、転ばないように。この歩みがこれからの始まりを告げるものだと、その平穏さを表すものだと、柄にもなく縁起もどきの迷信を考える。

 らしくないと言えば確かにそうかも知れない。でも理解して欲しい。もうすぐなのだ。もうすぐで、希ってきた幸せがこの手に入ってくるのだから。

 

「誰だ、オメエ。何笑ってやがンだ」

 

 ぺちゃぺちゃと最後の段差まで上がりきり、真っ白い部屋へ到達したところで声がかかった。思わず目を眇めたのは、薄闇の世界でも決して見逃しようのない、猛火の如き在り様がそこに立っていたためだ。

 

「俺だよ、ナツキ・スバル。レイド・アストレア、お前最初に会っただろ」

「あぁン? ざけンなよ、オメエ。オメエ、見た目は稚魚だが中身が別モンだろうがよ。オレの前で馬鹿みてえな事ほざいてンじゃねえぞ、オメエ」

「…………」

 

 真っ直ぐに射抜く眼差しは、片方が眼帯で隠れていても焼かれるように熱い。睨んでいる訳でもないのに、レイドの視線と注目を浴びているだけで動悸が治まらない。喉が、心臓が、命が鷲掴みにされている。

 背を向ければ確実に殺される。いや、恐らくは目を離した瞬間に死を押し付けられるだろう。

 

「オメエ、死にに来たのか。わざわざ死ぬために俺の前に現れたのかよ、オメエ」

「あはッ。雑に生きてるようで、案外本質を見抜けるんだ。さすがは初代『剣聖』といったところか……ああそうサ。私たちはお前に殺されたくてき──」

 

 衝撃が、頬を抉った。砲弾を生身に喰らったらこうなるのではないか、という感想が脳裏に過る。

 無論この世界に地球と同じ大砲など存在しないし、そもそも飛来したのは砲弾でもない。レイドの放った左拳だ。

 古来より人間に与えられた、肉体による原始的な物理攻撃。当たり前だが、化学兵器と比べれば爆発はおろか火傷さえも負わせられない。

 

 代わりに、理性を消し飛ばした。

 

「オレは頼めば殺してくれる便利なもんじゃねえンだよ。死にたいつったな、オメエ。なら死なせねえよ、たりめえだろ、オメエ。オレが飽きるまで、オメエが死ぬ寸前まで、生かし続けてやるかンな」

 

 熱を持たない一撃に皮膚と筋肉が破裂、圧壊され、骨が砕け散る。軌道上の全てを等しく薙ぎ倒し、硬度の差をまるで構わず拳は振るわれた。

 ゆえに、抉った、とは過剰表現に値しない。文字通り顔の右側が削り取られてスバルの体は吹き飛んだ。そして、白い壁に激突する。舞い上がる砂塵は無く、弾け飛んだ血と原型を失った肉だけが足元に散らばる。

 無味で無色の空間に色付けられた死の欠けら。強烈な紅の淀みと、鼻腔を潰す異臭。

 

「く……おァ…………ッ、あァァ…………ッ!」

「一度殴られたくれえで伸びてンのか、オメエ。色々垂らしやがって、汚ねえな便所野郎。シャンとしろシャンと」場違いな説教を、レイドは至極つまらなそうに吐く。「それとも、オメエ、まさか女か? だったら稚魚ン中入ってねえで出て来いよ。顔見せろや、オメエ。顔見せて、マブだったら特別に遊んでやンぞ、オメエ」

「ぶ、ァが、ァァ…………はッ」

 

 言いながらレイドはどしどし蹴りを入れる。スバルの方は右下に穿たれた穴から嗚咽を漏らし、崩れ落ちそうな顔を両手で掬うようにして押さえるのに精一杯だ。しかし爛れる皮膚は指の間から滑り落ちて血溜まりに転がる。

 自分がやっておいて気持ち悪そうにそれを眺めるレイドだったが、ふと鼻を鳴らしたかと思うと、表情が険しくなった。

 

 臭いだ。今しがた出血して流しているスバルのものとは違い、ある程度時間が経過した腐臭が漂ってきた。よく見れば彼の足元に黒く変色した血が付着している。階段を上がってきた際に粘着質の音がしたのはこれだったのだ。

 

「下の階の連中を、殺したのかよ、オメエ。いや待て……下には、誰もいねえぞ」

 

 問う声に、やはり返事はない。エミリアたちを皆殺しにしたというレイドの考えは、しかし的外れだ。

 スバルは彼らを殺していない。ただ、食事をする際に、ほんの少し流血が伴っただけのこと。

 

「ォ、あだい、たぢの……名ば、えは……魔ァ女ぎょ、う、だいィ……ざッ、じゅきょう、『ぼゥしょぐ』、の、…………ルイ、アルネブッ」

「────」

「……が、だげと、これがァ、らはァ、──ナツキ・スバルだ」

 

 壁に手を付き、ぐちゃぐちゃになった顎を零しながら、おもおむろに立ち上がるルイは笑っている。口は崩れて呂律も回らないが、確かに彼女は笑みを浮かべていた。

 急に威勢が良くなったというよりは、意志が突き動かしたという方が近い。生き抜かんとする意志を以って自ずから死に急ぐ矛盾。凄絶なまでの執念の一端が、狂気を交えて空気を染め上げる。

 

 ルイの目的は幸せな人生を生きることだ。それは普通、誰だって望むもの。

 誰もが幸福を欲しがり、あるいは始めから手にしている。生まれと環境によって得られる範囲には雲泥の差があるため、スタート地点だけは、どう足掻いても努力の及ばない領域だ。

 ルイはこれをぶち壊した。他人の始まりを奪い、より良い終わりが待っている人生を探した。理想の生き方。唯一の経験。どこの誰であろうとも決して値札を付けられない、最高の人生を味わうこと。

 それがルイの飽食。

 

 ナツキ・スバルを目にするまで、満足する人生は見つからなかった。『死に戻り』という生命としての理を破る力に出会うまで、ルイは世界とまともに向き合わなかった。無造作に食い続け、呑み続け、頂き続けるだけだった。

 そんな中、突如として現れた彼に心を奪われたことを、誰が責められよう。待ち焦がれた運命の人がついに手の届く場所に来たことを、誰が止められよう。

 

 人の身でありながら死を覆し得る存在が他にいるだろうか。──否。

 常に最良の未来を選んで歩むことに勝る人生が他にあるだろうか。──否。

 ナツキ・スバルを喰らい、ナツキ・スバルに成り切り、ナツキ・スバルの代わりに生きることが果たして幸福だろうか。──言うもおろか、応である。

 

 よってルイはスバルを食った。直接は食えないから、食事の始末は兄に任せた。

 そして死を知った。同時に愛も知った。しかし、完全に成り切るにはまだ何かが足りない。油断は禁物だ。絶対に、誰にもばれないよう完璧な振る舞いが要求される。

 人が存在するためには、他人からの観測が不可欠だ。スバルの中身だけではスバルに至らないのではないか。

 

「きォく、がァ……ィ、ひとお、かだぢゥくん、ざァ……ッッ!!」

 

 記憶が人を形作る。

 ナツキ・スバル自身の記憶と、彼を取り巻く周囲の記憶を集めてようやくそれは完成するのだ。

 

 よってルイはスバル以外を食った。手当たり次第に、全員を食い散らかした。

 スバルの幸せな未来になくてはならない存在だが、ならば食う前に『死に戻り』すればいい。

 そうすればエミリアたちの存在は保ったまま、『暴食』した彼らの記憶だけを過去に持ち帰ることが出来る。ナツキ・スバルに一歩近づける。幸せへの、新たな人生の幕開けだ。

 

「チッ、気味悪いもン見せンじゃねえよ、オメエ……あー、もうやめだ、死ね」

 

 頭上から降りかかる死の宣告。

 消し炭も残さず燃やし尽くす獰猛な炎は、けれど始まりを告げる祝福に違いなかった。

 

 

 †

 

 

 あれから、二年だ。二年が経った。

 幸せの絶頂を迎えているはずの今、身を包むのは奇しくも同じ色をした殺意の業火だった。

 

「────?」

 

 疑問を感じたのは、その脅威がスバルの体を焼き払わずに包み込んだことだ。刺すような熱がじりじりと皮膚を焦がし、眼球の水分が蒸発して目が開けられなくなる。

 だがそれだけだ。いまだ指先も燃えてはいない。殺す気がないのか、まさか、躊躇っているのか。今は分からない。

 

 炎の渦に閉じ込められた僅かな間、ライは思案に耽る。

 頭に巡るのは、ラッセル・フェローの記憶の中で見つけたロズワールの痕跡だ。

 

 ──即位式の準備で慌ただしい雰囲気にあった王国、その騒ぎから距離が遠い裏の社会に、とある噂が流れ出した。

『ロズワール・L・メイザースが、神龍殺しを企んでいる』。

 裏社会では、各々の陣地に対する縄張り意識こそ強いものの、ことが情報拡散となると表の道より早く国境を越える傾向にある。それを『六枚舌』が、ましてやラッセルが見逃すはずがない。いち早く噂を嗅ぎつけ、仕事と人目の合間を縫ってロズワールのもとを訪ねた諜報機関の長官は知った。

 噂は、ロズワール自ら、ラッセルと他国の過激派勢力へと送った招待状なのだと。

 

 龍殺し。

 態勢を立て直しつつあるルグニカが、確実に躓く一手だ。王国を崩落に誘う機会を虎視眈々と狙っていた者がこれに食い付いてこない道理は無かった。

 実情もまともに検証せず、裏のルートから王国を崩そうと試みる輩が、遠からず現れる。そこにラッセルの方から接触し、侵入を手伝うと名乗り出て欲しい。

 そう、ロズワールは数少ない友と呼ぶべき人物に話を持ちかけた。もし必要ならば騎士団団長であるマーコス・ギルダークの助力も加える。宮廷魔導師の後ろ盾が欲しければそれも貸してやる。とにかく、間諜でも斥候でも何でもいいから他国の勢力を王国内部に引き入れろ。大事には至らないよう調整する。絶対に王国の不利益に転ぶようなことはしないと。

 

 そしてそのことをスバルにちらつかせれば良いのだと。

 この発言から推測するに、彼の目的は、ナツキ・スバルに成り切った偽者の誘導。

 

 ロズワールに正体がばれた経緯については、ひとまず置いて考える。最優先すべきは彼の処理だ。

 誰にも悟られずにナツキ・スバルに成り切るという目論見が失敗した今、障害が小さいうちに芽を摘まなければならない。ロズワールがラッセル以外にも正体を言いふらした可能性があるからだ。

『暴食』の権能は敵を存在ごと処理するに長けた能力だが、その代価で現在の世界が大きく修正されてしまう。大筋は変わらないまま、事象にすっぽりと穴が出来たり役割が他の存在によって代替されるとはいえ、ロズワールの影響力は計り知れない範囲にまで亘っている。メイザース家の支援が無かったらエミリアはそもそも王になる気すら無かったのだ。スバルとも、出会わなかった確立が高い。

 そうなってしまえば、エミリアの国王即位という事実がかろうじて残ったとしても、何か肝心な部分が欠け落ちていることだろう。それはスバルの幸せとは距離が遠いものだ。

 

 殺すか、食すか。

 まずはロズワールの記憶を食べて正体を知る関係者を全て暴き、一度『死に戻り』でリセットしてから直接殺す。誰にも知られる前に戻れたら先んじてロズワールだけ処理する。これが最適解だ。細かい計画は、記憶を食い尽くしてからで構わない。

 

 そこまで考えたところでスバルは自ら炎の渦に飛び込み、命の灯火をかき消した。指先から伝うように業火が全身に絡みついた。肉体が焼け焦げる、激しい苦痛。

 その瞬間を基点として『死に戻り』の引き金が引かれた。あらゆる感覚が、世界から切り離される。

 刹那にも満たない暗転を経て世界が時間を吐き戻した。まず目に飛び込んできたのは、白い天上。体は寝転がっている状態だ。上体を起こしてみれば、窓の外にはまだ色素の濃い未明の空が見えた。視線を下げれば自室の魔刻結晶が緑色に光っている。

 

「……数時間、前か」

 

 セーブポイントの更新。

 回帰時点は『嫉妬の魔女』の基準らしいが、さすがにこればかりはどうしようもない。ロズワールには既に罠を張られているため、彼の記憶から他の関係者を引きずり出す方向で行く。

 正体に気づいていながらも遠回りな誘導を施したのは、恐らくスバルが偽者だという確証が掴めなかった為だろう。そして、『死に戻り』の発動条件を知らないから、偽者だという証拠を得た途端に殺しにかかった。

 任意に時を巻き戻すと勘違いされているのは好都合だ。何度もやり直しが出来るのならば、彼を殺す方法などいくらでもある。大丈夫だ。まだ取り返しはつく。

 

 『暴食』を内に秘めたスバルは手始めに、彼の居場所を探索することにした。

 必須事項である、ロズワールの記憶の照覧。いま陥った状況の全貌が把握出来なくては何も始まらない。この命を、数個は捨てる前提で取り掛かる。

 

 ベッドから立ち上がり、履き物に足を入れるついでに身嗜みを確認した。普通の寝巻き姿だが、動く分には問題ない。とりあえずは様子見だ。誰かに見つかっても自然な格好が良いだろう。

 手に結晶灯を下げて部屋を出る。即位式を数時間後に控えているとはいえ、深夜の王城は静まり返っていた。ぺたぺたと乾いた足音だけが廊下に木霊する。

 どことなく、二年前のプレイアデス大図書館でナツキ・スバルとエミリアたち全員を暴食した後、レイドの階層へ向かっていた時を彷彿とさせる雰囲気だ。当たり前だが記憶と存在が食われた抜け殻が転がっている訳でもなく、単に人がいないだけ。辺りが暗い理由も光源が少ないという他にない。それでも、死へ赴くという点においては同じかもしれない。

 

 目的地は王城の敷地内に鎮座する対の石塔。二つある内の一つが囚人を収容する監獄塔で、もう一つは魔法の研究施設として開発された建物だ。亜人戦争以降、魔法に対する認識の変化と共に、当時王国屈指の魔法使いだったロズワールに管理権が明け渡されたのだという。

 彼がいるとすれば一番可能性の高い場所だ。ロズワール以外にも多くの魔法使いが昼夜の堺目なく出入りしているが、人を探しに来たといえば特に問題は無い。

 

 案の定、門番に「宮廷魔導師に会いに来た」と伝えたところ、これといった疑いもされずに通された。最上層の研究室にいるらしい。

 ロズワールといえど、スバルの正体を塔内の全員に言いふらしてはいまい。最低限の人物にのみ何かしら指示を飛ばしているはずだ。それとも、更なる黒幕が隠れていたりでもするのだろうか。

 仮の妄想を広げても詮無いことだ。考えを巡らせながらも足は止めずに上層へと向かう。魔法の研究所とは名ばかりではないのか、道中、ゲートが壊れたスバルにも分かるほどに濃いマナの流れが肌に感じられた。

 

 最後の階段を上がり、辺りを見回す。一本の廊下を挟んで左右交互に部屋がいくつも設けられていた。このどれかがロズワールのいる研究室なのだろうが。

 部屋の名前が書かれたプレートを確認しながら態度を改める。一応は本物のスバルの振りをしよう。決定的な証拠が零れ出るまでは、ロズワールも迂闊に手出しできないはずだ。

 第一研究室と表示されている扉はすぐに見つかった。何気ない風を装ってドアノブに手をかける。捻り、開け放った。

 

「あはッ、まったく面白いことを考えるなァ……かくれんぼかい? ベア子」

 

 扉を開けた先には、塔の面積を考えればここだけ外に突き出ているとしか思えないほど、細長い通路が伸びていた。それは、階段を上がった時に見たのとまったく同じ構造だった。

 

 

 †

 

 

「スバルがこの階層まで来たのよ。でも、さっそく間違えてるかしら」

「じゃあ、彼は偽者かーぁな?」

「冗談はよすのよ。……まだ。まだ、判断するには早いかしら。もう少しだけ様子を見るのよ」

 

 扉一つ、そして魔法も一つ跨いだ先の部屋に、その二人はいた。

 研究室に入ってすぐの正面に置かれたソファーに薄く腰掛け、膝を両腕で抱き寄せる少女。そして、扉付近の壁に腕を組んで寄りかかった男。順に人工精霊ベアトリスと宮廷魔導師ロズワール・L・メイザースだ。

 双方とも、魔法という分野において飛び抜けた知識と実力を兼ね備えた鬼才だが、こうして研究室で顔を合わせた目的は別にある。

 

 濃い憂慮の色を浮かばせた可憐な顔を、ベアトリスは真っ直ぐ扉の方へと向けていた。視線で穴を空けんばかりの集中。あるいは焦燥。まるで、向こうの景色を透かして見ているようだ。

 それを片目に収めたロズワールが小さく息を吐き、先ほどと同じトーンで語りかける。

 

「それにしても、こんな時間に来るとはねーぇ。一体何の用だと思う? お手洗いや散歩にしては来るべき道を大きく間違えている」

「性質の悪い質問かしら、ロズワール。これだけじゃ確証には至らないのよ」

「そうは言うが、そもそも私に相談をしてきたのはベアトリス、君じゃーぁないか。君自身、ある程度は気にかかるところがあって来たはずだ。今さら及び腰になって構えたって何も解決しないよ」

 

 押し黙るベアトリス。ロズワールの言い分は最もで、それは最初から知っていたことだ。知っていながらも、口を出る言葉は頑なに事実を否定したがる。

 それでも彼女は往生際悪くしがみ付く。小さな体には重過ぎる感情を背負ったまま。

 まだ事実とは言い切れないことがあるのだ。そしてその究明は目の前に迫っている。もう少しで、真相さえ明らかになれば、背中を押し潰しかねない重責と重圧は無くなるはずだ。

 

 杞憂だったと荷を降ろすか、重さに抗う意味を失うか、どちらかの理由で。

 

「ロズワール。お前、死にかけのスバルを見たことはあるかしら」

 

 口を閉ざしていたベアトリスが、ふとしたタイミングでそんな問いを投げかけた。

 

「彼は割と頻繁に死に瀕していた気がするけどねーぇ」答えるロズワールは彼女の出方を窺っているような態度だ。

「真面目に答えるのよ。敵に襲われて、命が脅かされている時の……スバルの、表情を見たことがあるのかを聞いてるかしら。どうなのよ」

「スバルくんの、表情を? ──いいや、無いな」

 

 懐疑の声を漏らしながらもしばし考えた後、そう言い切った。王選の行われた三年間、運命に徹底して嫌われていた──ある意味ではむしろ好かれていたのかも知れないが──スバルは数え切れないほどの困難にぶつかり、立ち向かった。その度に漏れなく死線を彷徨い、何なら渡ってきたのではないのかと思うこともしばしばあった。

 命がいくつあっても足りない、とはまさに彼の生き様を冠する言葉だ。命からがら、首の皮一枚繋ぎ、這う這うの体で、それでも最後には勝ち抜いて見せた。

 ただ、機会は幾度となくあったにも関わらず、ロズワールはまともに見た覚えが無かった。

 

 絶望を先駆けるスバルの顔を。

 

「いつだったか、一度、違和感を覚えたかしら。ほんの僅かな差異、見間違いだと言われてもおかしくない変化だったのよ」語るベアトリスの瞳の裏に、かつての光景が過ぎる。「目の前に死が迫った時、スバルは、笑っていたかしら」

「——──」

「極度の興奮状態だったとか、奮い立たせるための強がりだったとか、言い訳なら何個も思い浮かんだのよ。でも、一度引っかかった違和感は離れなかった。その後も頭に纏わり付いたかしら」

 

 ベアトリスは『聖域』での騒動以来、彼の契約精霊として、その勇姿を常に特等席から見守ってきた。膝の上に座っている時も。手を繋いで高さこそ違えど肩を並べている時も。

 死と隣り合わせの状況で、その反対側に別のものを見ていたスバルの笑み。そして活路が暗むほどに輝きを増す深黒の双眸をも。

 

「……怖かったのよ。ずっと、見て見ぬ振りをしてきたかしら。普通にいる時は何もおかしなところは無いから。いつも通りだから、勘違いだと思って過ごしたのよ。分かりにくい言葉遣いも、騒がしい雰囲気も、変わりなかった……」膝の上に握る拳を、伏せた両目が朧げに捉える。「それでも、違和感は拭えなかったかしら。そんなはずはないと否定して、ふと思い返してみて気付いたのよ」

 

 それは違和感の発見から数日か、数週間が経つ頃だったと記憶する。慌しい日々だった。どれだけの時間を何をして過ごしていたのか、当時でさえ曖昧にしか覚えていなかった。

 掴みきれない不安に包まれた日常の中、ふと無意識に蘇ったフラッシュバックが、カチリと歯車の狂いを映した。

 むしろ、なぜ見落としていたのか不思議に思えるくらいに単純な盲点だ。

 

「スバルが変わったのは、二年前……プレイアス監視塔で記憶を落っことしてからだったかしら」アウグリア砂丘へ足を運び、賢者の知恵を借りようとした際の話だ。

 その旅路に、ロズワールは同行していない。「記憶喪失……確か聞いた話だと、すぐに戻ってきたんじゃーぁなかったかな?」

「そうなのよ。まるで気紛れだったみたいに、嘘みたいにポンっと戻ってきたのよ。それから、塔の攻略は驚くほど簡単に進んだかしら」

「……悪い出来事には聞こえないけどねーぇ? スバルくんには人を動かす力がある。俗に奇跡と呼ぶべきものも、彼は土壇場で手元に引き寄せてしまう。そういう、因果の下に生まれ育ったのだろう」

 

 これに小さく首肯を返し、ベアトリスは続ける。

 

「その過程でたった一つ、死への感情以外に不審な点があるとしたら……それは都合の良さなのよ」

「というと?」

「あまりにも上手く行き過ぎたかしら。失敗らしい失敗もなく、始終一貫して完璧な選択を選んでくれたのよ。転ぶどころか躓くこともない。それに妙な薄気味悪さを感じたかしら」

「彼が異常に頼もしいことに、かい?」

「村で魔獣が呪いを振り撒いた時、『怠惰』の大罪司教がエミリアを利用しようとした時……ベティーを禁書庫から引っ張り出してくれた時だって、いつもスバルはボロボロだったのよ。肉体的にも精神的にも、傷だらけで走り回ってた。数え切れないほどの小さな失敗の上に、大きな成功を積み重ねてきたかしら。それなのに──」

 

 ——記憶を取り戻してからのスバルには、それがなかった。微々たるミスも許さず、度々に届き得る最善の道を歩き出したのだ。

 一般的に考えて汚点が減るのは良いことだ。人は誰でも、出来るならばより完璧に在ろうとする。わざわざ良くない方向へ行こうとは思わないし、そつがなくこなせるに越したことはないだろう。

 しかし、ベアトリスはスバルを一般論に当てはめる事が出来なかった。

 そんな彼女の告白を受け入れ、変わりに動いたのがロズワールだ。

 

「一応、彼には罠を一つ、張っておいた。もう、私の中ではすでに答えが出ているよ」

「ロズワール。お前はまた、何を……」

「おっと。そう怖い顔はしないで欲しいねーぇ。別に、道徳に反した悪事を働いたつもりはないと断っておこう。単純なことだ。彼がこんな時間に、一度も来た事のない私の研究室を訪ねる理由を限りなく絞っておいた」淡々と語るロズワールの言葉の陰に、ただならぬ剣幕が滲み出る。「ここに来たということは、未来で何かただならぬ出来事が起きる……いや、起きたということであり、それは私による処置の他にありえない。あのスバルくんは偽者だ。何かに、憑かれている。体や記憶だけでなく、力までなにもかもだ」

 

 ベアトリスが懐疑の視線を向けるのも無理はない。彼女は『死に戻り』を知らないのだから。ロズワールも死亡が引き金だという事実までは知らないものの、幸い彼の策略は、それでも十分に機能する。

 ロズワールが推測するに、スバルの皮を被っているかも知れない敵はこの状況を維持しようとするはずだ。監視塔からの帰還後、やけに抜け目無い行動を選んだように、時間遡行を過信して完璧を求めている。翻して、変化を恐れているのだ。

 もしスバルに何の異常も無かったら、シノビの侵入に当惑こそすれど時を巻き戻さねばならないほどの大事に発展しないため、警戒程度を高めるだけに止まる。後は裏で残党処理をすれば済む話だ。それを可能とするだけの力がロズワール、ラッセル、マーコスの繋がりの中にはある。

 

 しかしその際に彼が過剰な反応を見せ、偽者だと判明した場合にのみ、ロズワールは彼を死へ追い詰めると決めていた。殺しはしない。そうすれば、スバルは過去へ戻ってロズワールに接触を試みるはずなのだ。

 仮に、偽者がロズワールにばれないまま時を戻したとしても、ループを繰り返す内にいずれロズワールまで辿り付く。そして事件が起きる前、まさに今のようなタイミングで研究室を訪ねるだろう。そうでなくても万が一の為に、ベアトリスの相談を受けた数ヶ月前から、彼の訪問を警戒していた。

 ゆえにロズワールがしくじる可能性があるとしたら、計画を組むより前に偽者が遡行してしまう場合だ。もしくは、あり得ないとは思うが、本物のスバルが何らかの異常事態に時を巻き戻し、ロズワールのもとを訪ねた場合。

 

 偽者とはいえど、今まで共に過ごしてきたスバルを殺すべきなのか、ロズワールも最初は考えた。

 何か元に戻す方法があるかもしれない。少なくとも、エミリアやベアトリスたちは真っ先にそれを考えるだろう。しかし、やり直しの力までもが敵に渡ってしまっては大変だ。消えた時間での記憶を持ち越せない側からは、戻ったという事実すら知り得ないのだ。

 だからこそ未来でシノビに対する反応を窺い、時を巻き戻せると確信してようやく殺すことにした。早急に、こちらの真意がばれる前に処理しなければならないのだ。

 結果的にエミリアたちに憎まれることになったとしても甘受する。そんな覚悟をもって。

 

「外的な支配か直接な乗っ取りか……契約者の君でさえ見抜けないとなれば、相当に高度な術の可能性が危ぶまれる。私の目にも異常が映らないことから魔法という線も薄いよ。内側から精神を蝕み、身近な者にも悟られないほど隠密性に長けたものねーぇ。私が知る限り、答えは一つしかない」

「……権能、かしら」

「その通りだ。敵は九割方、魔女教の大罪司教だと推測する。そしてこんな芸当が可能なのは『暴食』……何とも、因縁を感じる」静かに細める目は、憎悪に彩られていた。「しかし私は、魂の契約の都合でスバルくんの歩もうとする道筋を真っ向から妨げることが出来ない。何者かに操られた彼を束縛から解放することが、契約に抵触するのかしないのか、それは相互的なことだから分からないが……もしそれが無くても、私はね、ベアトリス」

「——──」

「私は君に、終わらせて欲しいと思っているんだ」

 

 見開かれる群青の目に、映る白い顔は道化のそれではない。蝶の刻まれた瞳孔に迷いと恐れが波打ち、波紋を広げ、小柄な身を振るわせる。それがいかに酷な言葉でどれほど情を排した頼みなのか、他の誰に推し量ることが出来ようか。

 ベアトリスが運命的な決断に至るまでの時間を、ゆえに邪悪な声は与えない。一寸の理解も心遣いも彼の悪意の下には存在し得ないから。

 

「——なんだァ、もうそこまでばれてたの?」

 

 カツン、と。

 足音が、外の床を叩く。

 

 弾かれた二つの顔が扉の方へ向けられた。話し込んでいた隙を突かれてたじろぐベアトリスの肩を、ロズワールが掴む。だが身震いは段々と大きくなっており、身体の中ではより複雑なものが膨張しているだろう。

 思わず息を呑んだ緊張感にゆっくりとした足運びが響き、徐々に近づいてくる。着実に、近づいてくる。近づいてくる。そして。

 

 ガチャリ、と。

 

「っ──く、足音はフェイクなのよ! 背後に回られているかしら、ロズワール──!」

 

 注意を引き寄せる音とは別に、背後から発生した殺意に感付いたベアトリスが叫んだ。俯いていた彼女の目には見えたのだ。

 ロズワールの足元から、濃密な影の手が這い上がってくるのを。

 

 声が響いて一コンマ経ち──吸い込む空気が、引き締められて凍て付いた。

 白く煙る息を吐いたと認識した時、すでに周囲は青みを帯びたまま停止している。影から飛び出た手は霧氷に覆われ、鈍くひび割れながら凍っていた。これだけ急速に温度を下げる魔法は、四百年を生きたベアトリスでさえ知り得ない。恐らくは基本応用とロズワール本人のずば抜けた技量が可能とさせた極の領域だ。

 

「風魔法で足音を偽装するのはオットーくんにでも出来ることだ。そんなものに騙されるようでは、さすがに宮廷魔導師の名を掲げられないよ」

 

 振り向き様に放った回し蹴りが氷の魔手を砕き、粉々に輝かせる。熱を奪われた研究室に道具と資料が凍結の断末魔をカチコチと上げる中、ロズワールだけは己のマントを寒さと共に振り払い、ベアトリスに掛けてやる。彼女は戦意以前に意欲そのものを喪失したのか、椅子から動こうとしない。

 次に腕を大きく振るうと漂うのは六色の光の球だ。純粋なマナに色を与えた塊。それぞれが広い部屋で飛び交い、しらみつぶしに索敵を行う。

 

 数秒後。燃える光が本棚の影に弾かれたのを、ロズワールの黄色の色彩は見逃さなかった。途端、凍える空気を裂いて透明の刃が殺到し、床が無残に引き千切られる。衝撃で吹雪のように舞う紙くず、それが冷却されて硬い音を床に立てるより先に、耳をつんざく轟音が部屋を軋ませた。

 冷気を纏った暴風が追撃とばかりに、崩れかけの部屋の悲鳴を無視して吹き荒ぶ。

 怒涛の魔法攻めに耐性を持たない壁は、いとも簡単に粉砕されて星一つ煌かない夜景を映し出した。塔の最上層だ。遠からず明けようという夜闇を遮るものは何もない。その闇に紛れ、黒い何かが夜空を横切る。

 

「暗器か。影からの出現といい、シノビの技を使うのは私に対する皮肉かな。そうしなくては正面から向かい合えないなんて、馬鹿げた理由ではあるまいしね?」

「いいね、いいさ、いいよ、いいとも、いいんじゃない、いいに決まってる、いいってんだからさ! 暴飲ッ! 暴食ッ! この平穏は僕たちのものだ! この安寧は俺たちのものだ! 誰にも渡さない、渡してたまるかッ! 食ってやる! お前も、お前の策略も、一つ残らずぜーんぶ平らげてやるさッ!」

 

 宙に渦巻く掌大の風が、飛来した何かを受け取る。

 甲高い音色を鳴らして勢いを失った刃物。投擲に適した流線の形状は速度と隠密性を重視したデザインだ。そういった特性から主に暗殺道具として多用されるため、最初の一撃で仕留められなければほとんど意味がなくなる。

 そうと知っていながら無駄に消耗した。自棄になったのでなければ、単なる威嚇以外の意味があるということだ。

 床に落ちたいくつもの刃、その腹に小さい模様を描いた燐光が不気味な赤を灯していた。ロズワールが直後に気付けたのはマナの運用方法に関する深い造詣の賜物か。

 

「これは鋼じゃない──魔鉱石の加工品か! ベアトリスっ!」

 

 魔法で防いだ行動が仇となり、火種を得た爆弾が本来の効果を発現する。

 生じた爆風は、同時多発的に連鎖を引き起こして膨れ上がった。先の猛攻をも上回る威力が、限定された空間内に溜まって荒れ狂い、やはりこれを破壊する。今度は壁だけではない。かろうじて支えていた床も、そして遥か下の階層にまで衝撃波が及ぶほどだ。

 塔の先端が弾け飛んだ光景に、警護のため巡回していた騎士は何を思っただろうか。頭上に倒れて来る瓦礫の雪崩れに、何が見えただろうか。

 

 辺り一帯を呑み込むほどの理不尽な殺意だ。

 悲運の被害者の感情など、喰らう側からすれば斟酌するに値しない空音。そもそも、彼の犠牲が張本人に知られてはいるのか、そこからだ。

 

 生憎とスバルの目には、視線の交差する道化顔しか見えていない。ベアトリスを腕に抱いたロズワールは降り注ぐ破片を遮蔽物にして後退し、スバルは足場として跳躍して追い縋る。

 厳密に言えばそれはスバルではない。要所要所に合った力を持つ体へと姿を塗り替え、多種多彩な手法を以って攻撃と防御を切り替える自由奔放さ。ありとあらゆる状況に適応するその在り様は洗練された魂の集合体。

 純粋な努力で物にしたのであれば尊敬すべき領域を、しかし横から奪い取っただけの彼は土足で踏み躙る。枯れ果てることのない食欲の力量。冒涜を冒涜と悟られない悪質極まりない存在だ。

 

『暴食』を冠するライ・バテンカイトス。その本領が遺憾なく発揮されている。

 

「その人を真にその人たらしめるのは中身! 器なんて外見だけだろォ!? 忘れられた人たちも、みんなみんな、僕たちの中で共に生きているんだッ! スバルくんに、俺に会いたいのなら、俺たちと一緒になればいいんじゃない? それがいいよ! なァ、そうだろベア子! ロズっち!?」

「その呼び方を、お前が口にするんじゃないのよ!」

「私も同感だね。耳が腐りそうだ」

 

 ライの口にした呼称に目が覚め、明色のスカートを大きく翻したベアトリス。自身の背丈よりも長いマントは翼のようにはためき、ムラクだけでも浮遊を可能としている。

 ロズワールが手を差し出せば、ベアトリスは躊躇無くその手を取って前へ向けた。

 空中で寄り添った二人。繋がれた手から、素人目線で見てもおびただしいほどの魔力がその一点に注がれる。魔法という概念の神髄に迫った魔導師と、陰属性の極みを体現した大精霊。継ぎ接ぎだらけの盗人に挑むのは、それぞれ四百年の歳月を背負った途方もない意地と、曲がりなりにも続いてきた兄妹の怒りだ。

 一度に複数の能力を同時使用できないライは地上に降り立ち、迎え撃たんと歯を剥き出した。

 

「ベティーにスバルを終わらせて欲しい? 冗談言うんじゃないかしら、ロズワール! お前も一緒に責任取るに決まってるのよ」

「まったく。やる気を出したと思ったら巻き添えかい、ベアトリス。……いいだろう。君のその意思に、賭けてみようじゃないか」

 

 未明の空を舞う二人は知る由もない。スバルを殺しても、殺意の螺旋は終わらないということを。運命の結末にどうしようもなく気付けないまま、湧き上がる希望に身を任せ、裁きの一撃を憎き得物に照準する。

 太陽はまだ、稜線の向こうに隠れて見えない。

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