ゼロカラナリキルイセカイセイカツ   作:水夫

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なおも続く因果

 淡い白を荒塗りにした雲がたなびく未明の空の下、二つの殺意と悪意が対峙する。

 

 先に動きを見せたのは、ライの方だった。

 左足を軸に全身を九十度回転。体のバネを使って素早く駆け出す彼を、空高くに舞い上がったロズワールとベアトリスが目で追う。彼の目指す方向は塔だ。先ほどの衝撃で半ばまでが折れたように断面を見せており、雪崩れ込んだ瓦礫の雨で内部はぐちゃぐちゃになった研究施設。

 一部は外側に崩れ落ちたため破片が周りを囲って迂闊に近づけない環境と化している。しかしライは躊躇無くそこへ飛び込み、自身の倍はあろうかという破片を持ち上げた。

 

 事態を収拾しようとしている、などと呑気なことを考える馬鹿はいまい。

 外壁の崩壊地点だ。両手で振りかぶった鉄の塊を、ライは無造作に放り投げた。ただ、どう見ても体格的に無理がある。スバルはお世辞にも見事とは言えない体つきだ。単純な筋力はもちろんの事、圧倒的に経験が足りていない。

 

 すぐに落ちると思われた鉄塊は、しかし僅かな失速もなく二人のいる上空へと真っ直ぐに飛んでいた。

 

 あり得ない光景だ。

 それはスバルの体だが、明らかに姿が違う。移動する際の癖が、身を強張らせる姿勢が、動作の合間に挟まれる呼吸が、引き締められる筋肉の震えが──何よりも、戦闘態勢に入った所作から自然に滲み出る佇まいが、元のスバルのそれとは全く以って違っていた。

 直前までが俊敏な足運びに主眼を置いていたとするならば、今は重心を低くして巌の如き安定感を得るような体裁きだ。足をどう広げ、手をどこに置き、力をどのように入れれば良いのか。およそ常人とは天と地ほどの差がある離れ業を、常人の身で成し遂げている違和感。

 

『暴食』の大罪司教に向けられる怒りの種類は、個人的な恨みだけではない。

 それは本人の技量とてんで不釣合いな経験の現われに起因する。恐らくは何らかの分野で最高峰の実力を誇っていただろう極点を、あたかも自分の力だとばかりに見せつける性質の悪さ。

 不可侵だったはずの匠の技術を頑是無い子供が我が物顔で扱うのだ。誰のものとは分からずとも、拠り所のない屈辱感が込み上げてくるのは道理だろう。

 

「悲しいなァ。何十年も前、俺が筋肉の動かし方ってもんを叩き込んでやったじゃァないかよォ! だーれのおかげであの重い鉄球を、投擲する武器として使えるようになったのか、もう忘れたのかねッ!? ええ、おい、ロズワールゥ!? 棘付きのやつはどうした。まさか捨ててはないだろォなァ、なあお前さんよォ? ──おっと、モーニングスターはレムにくださったのでしたね、ロズワール様。あの時は助かりました」

 

 ──訂正しよう。頑是無いとは誤りで、その動機は他でもない、悪意だ。

 

「虫唾が走る。それ以上、何も喋るな」

「違うかしら、ロズワール。もう何も喋らせない、なのよ。──ウル・ミーニャ!」

 

 もはや驚くという感情も奴の前では消え失せてしまう。

 ベアトリスの詠唱と同時に大気が震え、陽炎にも似た歪みが細長い杭の形状を帯びる。鋭い切っ先は勢いを殺さずに飛来物の中央を貫通。続く二投目を横から引き裂き、更に二つを串刺しにした。

 破片は大きさの差があるが数自体は多い。弾切れの心配が無いのをいいことに、ライの妨害は止まる事を知らない。

 これに対抗すべく、繋いだ右手からロズワールの魔力を吸い取り、ベアトリスの眼前に生み出される新たな杭。その数、十本。

 それぞれが別方向から迫って来た破片を撃ち落としてなお加速、幾つもの軌跡を紫電に塗り替えながら、ライの元へと急降下する。

 

 ライはすでに、攻撃を諦めて走り出している。行く道を遮るように積み重なった瓦礫の山が現れ、それを両手両足で器用に登るが、空から襲来する魔法の方が断然速い。

 一撃、仰け反ったライの胸元を掠めて遠くに着弾した。横顔を叩く空気の振動に風切り音が交じり、振り返った瞳に映るのは挟撃の三発だ。彼はこれを一瞥で全て把握し、咄嗟に構えを取る。

 まさか素手で弾くつもりか。

 

 そう思わせたが否か、雰囲気が一瞬で切り替わる。黒い瞳が一度闇に呑まれ、次の瞬間には別の光を宿した。

 体裁きではやり過ごせないと判断したのか、目前にまで迫った杭を、瓦礫の山から引き抜いた鉄板で振り向き様に受ける。耳に届くのは、鉄の拉げた音と骨の軋む音だ。

 強引だが斜めにいなされたそれが、頭上の杭とかち合い軌道を狂わせて小規模の誘爆を起こした。そうして明らかな乱れが生まれる。その隙間を縫って抜け出した勢いのまま、ライの足が地を離れる。

 

 狙いを外した杭の弾ける音を背に、彼が飛び込んだ先は研究塔の内部だ。常駐していた魔法使いたちは事情を知らないためパニック状態に陥っている。半壊した施設内を好き勝手に走り回り、ベアトリスの死角に身を潜めるライ。無闇に攻撃を加えては、彼らが巻き添えになってしまうだろう。

 人払いをすべきかとしばし考え込んだベアトリスは、首を振った。そして空いた左手を壁に遮られて見えないライの方へと向ける。その意図を汲み取ったロズワールが高度を下げると、彼女は鼻を鳴らした。

 

「スバルの体は出来れば傷付けたくないかしら。それが、ベティーの殺す条件なのよ」

「あくまで内側の『暴食』だけを始末すると? それはまた随分と都合の良い無茶振りをするもんだ。まあ、かわいい妹分の頼みだからね。やれるだけやってみようか」

「お前の妹だなんて、心底ぞっとしない悪夢かしら」

 

 言い切り、彼女は視線の先に力を込める。施設内をなりふり構わず走り回るライ。その移動を先読みし、意識を照準する。目に見えなくても奴の動きは筒抜けだ。

 仕掛けておいた『扉渡り』は、建物の全域に施されていた。上層が崩れても完全には切れていなかったのだ。

 

 ガチャリ。

 ライの開けた扉の奥が、目に見えない道を辿って別の場所へと繋がる。空間のズレは捻ったドアノブの感触に薄れ、感付かせない。もっとも、感付いたところですでに手遅れだが。

 勢い良く飛び出た先は、下りてきたロズワールとベアトリスの目の前だった。壁が崩落して部屋の形をほとんど残していない場所だ。

 黒の瞳にそれを上回る漆黒が映る。二人の繋がれた手から迸った、成敗の魔法だ。

 

「あ、」

 

 直撃。そして沈黙。

 口だけの狭義ではない。全身が果てない闇の中に投じられ、電源が切れたかのように操作を受け付けなくなる。肉体を制御する意思の沈黙、それがもたらすのは完全な静止だ。毛先の微動も、ほんの少しの空気の震えさえも、沈黙の支配下においては許されない。

 静かに、あらゆる音を排してライの動きが止まった。呼吸と一緒に。

 

 「……スバル」

 

 とうに失われた者の名を口元に運び、ベアトリスは床に降り立った。逡巡の末に、立ったまま動かないライ——スバルへ近寄る。彼の頭を、後ろから優しく撫でた。

 抱き締めるように、膝を折らせて胸に引き寄せる。だらりと力なく垂れ下がった腕は抱き返してくれず、印象の悪い目は眼前の認識も出来ず、呆けて開いた口は何の感情も聞かせてくれない。二年前から、それはとうに奪われていたのだから。

 

 遅すぎる悲哀と後悔が少女の胸中を満たす。許容量を超えた分だけの涙が溢れ出し、スバルの肩を濡らしていく。

 心残りは、山ほどあった。

 四百年を待ち続けてようやく出会ったと思えば、その四百年を真っ向から否定されて。刻んでやると言ってくれた一瞬は、本当に、あまりにも短い時間で。いずれ来る終わりを覚悟していたはずなのに、訪れた結果はひどく呆気なくて。笑い合う未来も共に歩む道も固く繋ぐ手も、だって、全然、足りなかった。

 

 勝手な男だ。いつもいつも、忙しなく面倒事を引っ張り出してくる男だった。

 あれだけうるさく騒ぎ立てながら始めたくせに、終わる時だけこんなに大人しいなんて、何を考えているのやら。馬鹿騒ぎが得意技ではなかったのか。

 差し伸べてくれたその一瞬が、こうなるなら最初から要らなかったなんて思わないけれど。

 でも、一言だけ、文句を言うならば。

 

 せめて、別れの言葉が欲しかった。

 

「──あァ、それなら私たち、ルイ・アルネブが代わりに言ってあげるサ、ベアトリス」

「ぇ、……」

 

 もう一度、手が差し伸べられる。

 ナツキ・スバルの、救いの手が。

 

「離れろ、ベアトリスっ!!」

 

 捕食者が最も弱くなるのは、獲物を狙い喰らう時だという。自身が狙われるという考えに及ばないばかりに、決定的な優位に立った途端、同時に自らの弱点まで無防備に晒すことになるから。

 状況の反転、その間際こそ緊張が解ける瞬間だ。頭では分かっていても、なまじ感情という傷が生まれつき刻まれているために、人はなおさらその過ちを犯し得る。そういうものだと受け止めなければ、納得のしようがないほどに単純で複雑な欠陥なのだ。

 ならば、人が最も脆くなるのはいつなのか。

 

 救いの手が、目の前に迫った時だ。

 

 救われる寸前にこそ、その救いとは最も遠い場所にいるのだと、ベアトリスは気付けない。

 彼女の頬に手が添えられる。流れ出る涙を拭い、肌を這う指先。それをスバルは口元に持っていき、掌から舌で舐めとる。

 

「イタダキマス」

 

 礼儀も尊厳もかなぐり捨てた挨拶。感謝の欠片すらない字面だけの意味で、一方的な食事が宣言された。

 相手に触れて名前を喰らう。これ以上なく簡単なことだ。今まで何百、何千と行ってきた。どれほど強い相手だろうが、一度でも触れられさえすれば勝利が確定する。ただ、その勝負自体が曖昧になるせいで百戦錬磨と認識されにくいことも事実だ。

 けれど『暴食』する目的は勝敗にある訳ではない。戦績が誰の記憶に残らなくても、特に気にすることではない。

 

 食べる行為こそが重要なのだ。

 

 しかし前述した通り──捕食者が最も弱くなるのは、獲物を狙い喰らう時。

 忘れようにも忘れられず、思い出そうにも思い出せない奇妙な理だ。意識しているつもりでも、肝心な場面でいつのまにか手放している。

 

「ふッ」

 

 長い舌は何も取れずに虚空を滑り、挨拶は空振りした。しょっぱい涙の味がするはずだが錆びた鉄の味が舌に落ちる。

 落ちる?

 何が?

 どこから?

 

 落ちたのは、今しがた舐めようとした自分の左手だ。落としたのは、切断された手首からの出血だ。

 腕を顔の高さまで上げた姿勢のまま、スバルの体が、脳からの命令を無視して聞く耳を持たない。しかし、ライがやられたことで肉体の操作を引き継いだルイは、直前までの魔法の影響を受けていないはずだ。はずだった。

 だからベアトリスの急所を突けた。不意打ちが成功した。上手くいったにも関わらず、なぜか今は動けない。

 

「何をしている。誰に、手を出した?」

「────」

「……いい。答えるな」

 

 返事を期待しない声がいつかの記憶を呼び起こす。ほんの数十分前だ。『死に戻り』の切っ掛けを与えた、あの冷酷な声だ。

 焼き尽くされる前に聞いた。耳に焼き付けられた。離れない。激情を抱いた一声が、鼓膜を切り裂いて脳に直接言葉を叩き込んでくる。

 ロズワール・L・メイザースの、憤怒の刃がスバルの手足を斬り刻んでいた。

 

 四肢が胴体と繋がっていないのだから当然動けるはずもない。支えるものも無くなって額を地面に擦り付け、ただ刻まれるのを見ているしかない。頭上に燃え盛る怒りの眼差しに映った、自分の姿を見る以外に出来ることがない。

 

 そう、思わせる。

 ルイは息を止め、ただひたすらに届くことを考えた。

 

「ベアトリス。傷付けずに始末するのは、不可能だ。ごめんよ──」

 

 接触した瞬間に、ルイの勝利は確定する。

 たとえ両手を失ったとしても。触れられるものが、まだ残っているのなら。

 

「あたしたちの目的は最初からお前だったのに、もう忘れたの? ──インビジブル・プロヴィデンス」第三の手が、不可視の手が、望むものに届くための手が、ロズワールの胸元を撫でる。「そして、拳王の掌!」

 

 言うが早いか、固いものが折れる鈍い音がした。

 それは真っ直ぐに伸びたインビジブル・プロヴィデンスがロズワールの胸骨を圧し折る音であり、ルイの骨格が内部構造から変化する音でもあった。

 記憶から引っ張り出した感覚を、自分の胸辺りから伸びた黒い腕に送り込む。『怠惰』の権能に『暴食』の権能で得た力の上乗せ。成功するかどうかはどうでも良かった。彼に触れた時点で、すでに目標は達成されたからだ。

 

 結果は、ロズワールの骨を砕いて内臓まで圧迫し、長身を易々と吹き飛ばして証明された。逆流した血を吐き出しながら、道化の顔が無理解に歪む。魔女因子による権能はどれだけ魔法を極めた人間でも決して及ばない域の代物だ。純粋な努力と、そして才能までもを捻り潰す。

 体は放物線を描いて上空へと舞い上がった。しかし落下すると思われた寸前、ロズワールはマナの震えを伴って自身を空中に縫い止める。呼吸するたびに口腔から溢れ出る鮮血を押さえようともせずに、ジロリとルイだけを見下ろしている。ルイの頭を占める数多くの記憶の中にもあのような飛行術は無い。彼が独自に編み出したと思われる、練磨と研鑽の結晶だ。

 だが反撃に移る時間を、ルイが与えてやる道理は無い。

 

「ロズワール・L・メイザース。お前のミドルネームを知るのには苦労したわ。でも今じゃァ、大図書館で散々探し回ったのも懐かしい思い出だね──イタダキマスッ!」

 

 誰にも共感されない思い出を誰にも聞こえない声量で呟き、喰らう。

 ロズワール・L・メイザース。

 彼の記憶は、その瞬間を以って、世界から失われた。ロズワールという存在を支えていた糸の一つが切れ、彼の体はまさに人の手を逃れた操り人形のように、プツリとの断末魔も無く落ちていく。取り戻しかねた瞳の光が、瓦礫の山に消える。何の抵抗も見せずに沈む。

 終わった。

『暴食』の食事が成功すれば、わざわざ生死を確かめる必要性は無い。効力は確実だからだ。

 

 大切なものを取りこぼした抜け殻が、無様な身を晒していた。

 

 一方ベアトリスは、頬の感触を確かめるように手で触れ、どこか焦点の合わない目で前を向いている。意欲や覇気といったものはとうに霧散していた。彼女には先ほどスバルの姿で手を差し伸べた際の衝撃だってまだ残っている。もはやルイを殺すどころか、敵と認識しているのかさえ怪しい。

 無論、ルイからすればまたとない好機の一つだ。四肢が欠損したままの、ナツキ・スバルに再度変化する。

 

「ベアトリス、お前は俺だけを見てればいいのサ」

「────────────ぁ、す……すば、ぅっ」

「イタダキマス」

 

 二度目の食事は、手短に終わらせた。

 たった今影を掻き消された少女がくずおれるのを尻目にルイはロズワールの記憶を手繰る。ベアトリスに相談を受け、策略を練り始めた辺りから準備と実行に至るまで。誰を引き込みどの程度の情報を共有したのか、その全貌を。

 少しでもライやルイら『暴食』の正体に近づき得る者がいれば、早いうちに処理するためだ。

 

 いや、ロズワールの記憶はもう頂いたのだ。急がなくていい。ゆっくり記憶を吟味し、関係者を暴きだし、始末する。それで解決するだろう。

 一度も死なずに、ルイへの交代だけで達成できたのは僥倖だった。

 今回の経験と戦利品は次に生かせる。次は、きちんと対策を取って掛からなければならない。今回のように記憶だけを喰ったとしても、ロズワールなら事前にそれを別の場所に移していてもおかしくは──

 

「──ァ? なに、これ。記憶を、移す……?」

 

 ふと、思考を掠った違和感にルイは眉を顰める。意識が小さく静かに波打ち、音を立てて広がるのは疑問だ。

 今、何を考えた? 否、どうやって考えた?

 

 ロズワールなら自分の記憶を他に移しているかもしれない、などと。

 

 今の今まで、そんなことを憂慮した覚えはなかった。最初から存在を喰らうか殺すかを考えた時も、記憶喪失にさせるという選択肢は思い浮かばなかった。ロズワールならば記憶がなくてもその厄介さは消えないだろうという予感が無意識にあったからだ。処理するなら徹底的に、決して油断は犯すまいと決めていた。

 その無意識が、急に引っ張りだされた。意図せず触発されて頭の中を巡る不可解な異物。だが一体、何に、どこから?

 

「……こいつ、記憶が、ない。三十年以上前からの記憶が、一つもない! どうしてッ!? 『暴食』は成功したはずッ! 確かに食事は行われたし、奴は抜け殻になったのに、どうして……ッ、あ、あァ」

 

 言いさし、はたと気付いた。

 答えなら今さっき、自分の口で言ったではないか。

 

「──四百年前から、私は自分の子孫を器とし魂の転写先へと利用していた。初代から今代まで……私のこの名には、十二人分の魂が入り混じっている。そこから一つのものだけ選んで食おうなんて、都合が良すぎるんじゃないかな?」

 

 後ろから耳朶を叩くその声。振り返る勇気、以前に力が入らない。

 

 考えてみれば、おかしな点はいくつもあった。

 スバルを騙ったのが『暴食』の大罪主教とまで当たりを付けておきながら、それに抗する対策もまともに立てていなかった。ただただ『死に戻り』の時間遡行に過敏に着目し、疑念の確証と誘導を施す以外のことをしていないように見えた。少なくとも、ライとルイの目には。

 実際、こうしてロズワールとベアトリスは『暴食』の権能を前に敗北を喫したのだ。あれだけ準備をしておきながら本番の勝ち筋を甘く見ていたなど、本末転倒も甚だしい。

 

 道理で上手くいったわけだ。

 

 喉の奥の疼きが全身に熱を伝える。ただちにこの場から逃げろと、本能が騒ぐ。

 動こうとして、今の姿がスバルのままだったことに気付いた。体を起こすには別の誰かに変化しなければならない。

 しかしロズワールは、その準備を待ってくれない。

 

 パンプスの固い靴底が胸を上から床に押し付ける。深く暗色を含んだ藍色の髪はロズワールのそれと相似しているが、グリグリと肺を圧迫されて呻くルイを、冷徹な青の眼差しで見下ろした少女の容貌は正反対と言ってもいい。

 それもそのはず、強烈な威圧感と裏腹に端整な顔立ちをした彼女は。

 

「あ、アンネローゼ、ミロード……どうしてッ!?」

「彼女には本当に悪いことをした。出来れば、こうせずに終わらせたかったんだが。……起きれるかい、ベアトリス」

「な──嘘だ……ッ!」

 

 メイザース家の分家、ミロードの血を十一年に亘り継いで来た少女、アンネローゼ。分家とはいえど血の繋がりは確かだ。父母であるダドリーとグレイスが死没した以上、ロズワールが魂を移すに当たって、最も安定する器は彼女の他にはいないだろう。一番の障害である親和性と道徳性の問題をギリギリ乗り越えられる唯一の鍵と言える。

 ──スバルの成りきりを暴いてエミリーを救ってあげて、と彼女に直接頼まれたから。

 そうしてロズワール・L・メイザースの魂は記憶ごと彼女の肉体に転写された。元々、度重なる転写でない交ぜになった魂だ。更には主体が抜け落ちた残滓で、まともな食事が出来る訳もない。

 

 まだ幼きアンネローゼがルイの傍らに目をやる。その所作も雰囲気も、ルイの知っているアンネローゼとはまるで違う。

 それもそのはず、今や彼女の肉体の制御を行っているのはロズワールだ。

 そして先ほどインビジブル・プロヴィデンスを用いて喰ったはずのベアトリス。彼女まで、壊れかけた壁の向こうに夜明けの空を背負って立ち上がる。薄い逆光を纏った金糸の髪筋に超常的な力が宿り、マナを震わせて発光した。

 

 魔法を行使するのか、とルイは身構えたが違う。

 逆だ。掛かっていた術が、この期に及んで解除されたのだ。解かれてやっと、今まで囚われていたのだとその事実に驚かされる。そうしなければ気付きもしなかった異常。

 知らず視界の端に淀んでいた闇が晴れ、遅れて他の感覚も鮮明になっていく。警鐘を鳴らしていた喉の疼き。それもまた堰を切られて込み上げてきた。

 

 実体を伴わない吐瀉物。

 喰い損ねたロズワールとベアトリスの記憶だ。

 

「一部の感覚だけ返してやるのよ」

「ぅ、おぇ……ッ、ああ、ぶ、あああァァアアアアアが、ぐはッ……」

 

 視界が点滅する激しい眩暈と共に胃酸の辛みが喉を焼く。抑制されていた分の苦しみが一斉に押し寄せ、しかし実際に食道を通るものは何も無いため、どれだけ咳き込めど吐き出せど楽にはなれない。

 あの時、直撃したあの魔法はルイの交代だけで解けるような生半可なものではなかった。五感の鈍っていた体が、食事の失敗をルイ自身に悟らせていなかったのだ。完全に油断していた。嘗めてかかっていた。十分な勝算があると高を括っていた。

 

 とんだ勘違いだった。

 何もかも全て彼らの掌の上だった。まんまと引っかかり、大敗を喫する結果となってしまった。

 

 しかし。しかし、だ。

 元よりルイは、何度か『死に戻り』を繰り返すつもりだったのだ。トライ&エラーを前提に動いたという点で見れば、これだけの情報を一度に引き出せたのはむしろ成功ではなかろうか。

 そうだ、諦めるな。まだ始まったばかりだ。『死に戻り』の真価は度重なる失敗の下に表れる。負ければ負けるほどこの体は強くなるのだ。この程度の絶望で折れてたまるか。次だ。次は裏手を掻いて一歩進める。それでも届かなかったらもう一歩だ。

 その次こそは、必ず──

 

「さて、それでは君の処遇だが。奥の手を明かしたこちらとしては、君のやり直しはとても厄介だ。実経験に基づく完全な未来予知……それをされちゃあ後続の世界で確実に対策されるだろうからね。肉体を保ったまま精神だけ殺す作戦は失敗した。ならば、次は封印だ」ロズワールの思惑がアンネローゼの声音で綴られるのは、些かならず不気味な状況だ。「さすがに、かつて『嫉妬の魔女』がされたような高度な封印は再現できないが、要は君の意思さえ遮断してしまえば、殺せなくとも捕縛は可能なんだ。やり直すという考え自体が出来ないよう、脳の機能だけを止める」

「な、にを……」

「苦痛なく終わらせてやるんだ、これでも十分すぎるほど譲歩した方じゃないか? ベアトリスたちが大切にしていたスバルくんの体だからあまり傷付けられないことを、せめてもの幸いと……ああ、違うな。我々から彼の存在を奪い去ったこと。それこそが最大の失態だったと知れ。尤も、すでに術式に呑まれた君が何かを考えられるのかは分からないが」

 

 人が眠りに落ちる瞬間は、後で起きたらそれがいつだったか思い出せないものだ。

 ルイの思考もまた同じように、曖昧な意識の沈殿によりその堺目を本人に悟らせることなく途切れた。

 

 静まった部屋で一息吐き、ようやっと緊張を解いたロズワールがスバルの体を持ち上げる。しかし彼は現在アンネローゼの肉体だ。四肢を失ってもなお子供には重い青年は、見ていたベアトリスが代わりにムラクを施して抱き上げた。

 同じ高さに並んだ二人は目を見合わせる。

 

「彼の状態は維持するのに常時的なマナの補給を必要とする。この体では私も満足に魔法を行使できないが、ベアトリス、君は……」

「愚問かしら。これは契約精霊としての償いなのよ。偽者の成りきりを許してスバルを救えなかった罪の償い……百年でも千年でも、たとえ二千年が経ったってベティーがスバルを見守り続けるかしら。そしていつか──いつか必ず、取り戻してみせるのよ。それより、お前こそどうなのかしら、ロズワール?」

「……ああ、この体も、アンネローゼに返してやらないとね。今回の騒動をエミリア様が知ったら今日は即位式どころではなくなるだろうが……お互い、やることが山積みだ」

「──それ、どういうこと? ねえ、今の言葉どういう意味なの?」

 

 銀鈴の音色とは程遠い、とても冷ややかな声が場を包んだ。一瞬、二人してその人物が誰なのかを思い浮かべることが出来なかった。

 あまりにも場違いで、あまりにも相応しい人物だったから。

 エミリアの声だ。

 それが耳に届いてやっと、二人は周囲の異様な静けさに気付いた。妙な肌寒さを孕んだ深い静寂。夜明けの時間帯といえば納得するが、状況が状況だ。これだけの戦闘が行われて塔が半壊した現場に、人が寄り付かないのはなぜか。

 研究塔に常駐していた魔法使いたちが下の階層にいるはずだ。騎士を呼びに行ったとしても、警備の衛士の方が先に異変を察知したとしても、もうとっくに来ていておかしくない。だというのに人一人どころか物音すらしないのはなぜか。

 

 次に驚くべきは、その声が触れるほど近い位置から聞こえたということだ。

 どういうことかと問われれば、ロズワールは自身の講じた策略とアンネローゼの体を借りたことに対する了解の旨を伝えただろう。

 どういう意味かと問われれば、ベアトリスはスバルに対して抱いていた違和感と正体、及び彼の身体状態について説明しただろう。

 

 しかしながら両方とも返答に窮しているのは、エミリアへ真実を告げることの残酷さや、二人だけで解決を試みたことの弁明などが理由なのではない。

 エミリアにどう話すべきか、悩んだのは確かだ。出来るだけ彼女を巻き込みたくなかったし、それゆえに仲間外れにしてしまったという意識もある。真にスバルを終わらせる役目に相応しいのはベアトリスよりエミリアだろう。

 だが、二人の頭はさしたる抵抗も無く彼女の可能性から目を背けた。どこかで彼女を信じ切れていなかった。

 

 それは明文化する事の出来ない無意識の内に、エミリアの異常に感付いていたためだ。

 

「二人とも、おかしいわ。だって、そうでしょう」彼女は笑う。疑念も確認も口ばかりで、微塵たりとも信用してなどいない目で。「スバルが偽者だなんて、そんなわけないじゃない。……ね?」

 

 ゆえに彼女は、誰の返答も期待しない。答えさせない。答えによっては信じられなくなるかも知れないから。

 ──そんなのは嫌だ。皆を信じたい。

 そうして世界を氷の中に閉じ込め、信じられる状態のまま保つのだ。そうすれば皆に失望しなずに済むから。

 

「ふふ。ベアトリスもアンネもすごーく良い子よね。……さ、行きましょ、スバル。もう夜が明けるわ」エミリアは新たに出来上がった二つの氷像を優しく撫で、ベアトリスから引き剥がしたスバルの体を抱き寄せる。「スバル。ねえスバル。スバルは、さ。──スバルは、本物、だよね?」

 

 彼女の声は窓を叩く風の音に掻き消される。映る横顔も結露の白みに隠され、窺えない。

 一つの歯車が狂えば、最初に影響を受けるのは一番近い、隣接した歯車からだ。


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