「──スバルは、本物だよね」
「…………ぇ、えみ、りぁ…………?」ふと開かれた視界に見えた者の名を、ルイは口にした。
彼女は安堵の表情を浮かべ、口元をほころばせる。「良かった、起きたのねスバル。すごーく心配したんだから。大丈夫……じゃないわよね。休んでて。無理しなくていいのよ」
「ここは……えっと、その……」
「ここは私の部屋。まだ朝だし肌寒いと思うけど我慢してちょうだい。外、大騒ぎだったもの。もしかして覚えてない?」
ルイは目を瞬かせる。背中に当たる平坦な床の感触。白い天井と淡く照らす明かり。棚にはスバルが過去にあげた小物や、エミリアの私物が整頓されて並んでいる。
内装自体は簡素な印象だが、確かにエミリアの部屋だ。身分が身分だけにかなりの面積を誇るが、彼女の性格上、その広大なスペースが飾りやら家具やらで埋まることはない。ルイの操るスバルの身体を、エミリアが運んで来たようだった。
場所の確認を終えて気付く。この身体は手足を全て欠損しているため、満足に身動きが取れない。
そして頭はエミリアの膝の上に乗せられている。彼女が膝枕をしてくれているのだ。記憶でしか残っていないが、スバルは何度か経験したことがあった。思えばルイとしては初めてだ。
一通りの状況把握が済むと、新たな疑問が浮かんだ。
彼女が運んでくれたのなら、ロズワールとベアトリスはどうなったのか。
彼女はルイの正体について知っているのか。
後者は面と向かって聞く訳にもいかないので、探る形で聞きだすしかない。ロズワールの記憶奪取に失敗したこの周回で、次回に活かせられそうな情報は得ておいた方が良いだろう。
しかしもし、もしもエミリアが取り返しのつかない時点でルイに気付いていた場合は、根本的な部分から態勢を立て直す必要がある。
ロズワールとベアトリスに続いて彼女まで処分しなければならないとしたら、それはもうナツキ・スバルとして生きる価値がなくなるからだ。そのような人生は幸福と呼べない。折角手に入れた『死に戻り』という唯一無二の力を、二年と少しで手放してしまうのは惜しい。だが背に腹は変えられないのだ。
ナツキ・スバルの抛棄は、あくまで打つ手が無くなった時の最終手段として残しておく。
「ところで、エミリアたんはなんでこんなとこに俺を連れてきたんだ?」
「スバルこそ、どうしてあんな所にいたの? 大きな音が聞こえて、慌てて研究所の方に行ったら建物が酷い状態になってて騎士たちは敵襲だって大騒ぎで……しかもそこにいたベアトリスったらね、スバルのこと偽者だって言うのよ。アンネもなんか変な言葉遣いだったし、一体どうしちゃったんだろう」
「……偽者って?」
「それが、二人とも話がちんぷんかんぷんで、私にもよく分からないの。でもスバルが危ないってことは分かったから、ここまで連れてきたのよ。だってこんな大怪我……私が寝てる間に、いったい何があったの? 魔女教は倒したはずなのに誰がこんなことを」
ロズワールの魔法によって切られた両手両足の切断面は氷で止血されていた。気を失っている間にエミリアが施してくれたのだろうか。
どちらにせよ、ここで真実を伝えるわけにもいかない。何者かの襲撃に遭ったという彼女の勘違いを利用すべきだとルイは判断した。
「ああ、これね……敵が手強くて、ちょっと油断しちゃってさ。エミリアたんこそ、怪我はない?」
「私は平気よ。それよりスバル」一泊置き、エミリアは真剣な眼差しで問いかける。「もしかしてその敵って、操られてるクリンドさんのこと?」
「は……? クリンド、さん? それは、一体どういう……」
「研究所でスバルを運ぼうとしたとき、クリンドさんが来てね。手伝ってくれるのかと思ったんだけどそうじゃなくて、ベアトリスとおんなじこと言い出したの。スバルは偽者です、って。本当にびっくらこいちゃったわ」
「────」
「皆、様子がおかしかった。駆けつけてきたオットーくんやガーフィールまで私の言うことを信じてくれなくて……きっと、悪い人に操られているんだわ。だから傷付けないように、一人ずつ凍らせたんだけど」
「エミリア、お前……」
「だけど、クリンドさんはなかなか捕まらなくてね、とりあえず離脱してきたの。城全体を氷漬けにしておいたから、しばらくは大丈夫のはずよ。安心して」
次々と語られる事実に、ルイは二の句が継げない。
クリンドという新たな敵──エミリアの言う敵ではなく、正体を知る者としての意味だが──の出現をも霞ませるほどの、エミリアの異変。前の周回、つまり元々過ごすはずだった今日の昼時とはかなり様子が違う。
王位即位式のために特注した衣装を嬉しそうに着て、恥じらいながらスバルに感想を求めた彼女と同一人物だとは、到底思えない有り様だ。言動と、思考そのものに異常をきたしているみたいだ。これは『聖域』で『試練』を突破する前の精神状態と酷似している。
何があったのか。考えられる原因としては、ライとベアトリス、ロズワールとの衝突だ。『死に戻り』をして初めて観測されたということは、ライが行動を変えたことによって本来起きるはずのない事象が発生したのだろう。
しかしなぜだ。なぜ、エミリアと直接的な関係もない出来事が彼女にまで影響を及ぼしたのか分からない。それもこの豹変ぶりだ。たった数分から数十分の行動の変化でここまで差が出るものなのか。
それとも。
エミリアまでもが、とうの昔からライとルイの正体に気付いていたとでも——
「──スバルは、本物だよね」
「…………そりゃ、そうに決まってる、だろ」
「うん。そうだよね。ごめんね、変なこと言っちゃって。今、すごーく頭がこんがらがってるの」
常軌を逸した真偽に対する執着心。いや、もはや決め付けに近い。
言葉こそ問いの形を取っているが、その実、内容はひどく身勝手で一方的な強要だ。自分の望むものを正しいと見做してそれ以外を誤りだと断定している。
信じたいものだけを信じ、そうでないものを徹底して否定したがる我がまま極まりない姿勢。
それはエミリアが、ルイの成りきりに最も早く気付いた人物だからだ。
いくらルイがナツキ・スバルの記憶を丸ごと所持し、肉体まで乗っ取って成りきったとしても。
それでも知識として故意に見せる演技と、自然体として無意識に見せる癖には明白な違いがある。自己と他人の分かれ目。確かな限界が、存在するのだ。
間近で見ていないと気付けないが、場合によっては間近だからこそ見逃してしまう差異。ベアトリスがまさに、方向性の変化という大きな揺れ幅にばかり着目して、日頃の仕草を意識していなかった内の一人だ。
しかしエミリアは更に仔細な違いに気付いた。スバルが記憶喪失を境にズレたことをその目で見抜いた。彼女はライとルイの何気ない仕草からも引っ掛かりを感じ、小さな齟齬の燻りを胸中に積もらせていた。
結果、それは今日の出来事により許容量を超えて爆発した。溜め込んでいたものが、ようやく開放されたのだ。ただしあらぬ方向へと。
「やっぱり、ベアトリスたちの方が偽物なのよね。きっとそうだわ。早く戻してあげないと……」
矛先がルイではなくベアトリスたちを向いたのは、それが都合の良い現実逃避の燃料になるから。
別にエミリアは、スバルが偽物だと主張する彼らを頭ごなしに跳ね除けている訳ではない。きちんと状況を考えた上で、彼らの心情も斟酌した末に否定している。
信用ゆえの不信。
何かを信じるということは、他の何かを信じないということだ。
二つの相反する概念を理屈として区別する術をエミリアは知らない。知りたがらない。知ろうともしない。
「──そこまでです、エミリア様」
誰かが指摘しない限りは。
「お前は──、」
「危ないスバル!」
ルイが突入してきた男の顔を視認してから、その顔に氷の飛礫が撃ち込まれるまでが瞬きにも満たない刹那の出来事だった。置き去りにされて届くのは凍てつく空気の悲鳴。すさまじい風圧と冷気が頭上を駆け抜け、開かれた扉を木っ端微塵に砕く。
次に目を開けた頃には、より大きな音がもう二度響いていた。
遮る壁がなくなって部屋と繋がった廊下。まるで破城槌で殴りつけたようにも思える穿孔は人の背丈よりも大きく、向こうの景色が素通しに見える。
攻撃が収まってようやくルイも状況を把握した。誰かが、氷漬けにされた城を突破して駆けつけて来たのだと。そして今の一瞬で、エミリアの放った魔法により向かい側の建物が崩壊したのだと。
しかしラインハルト・ヴァン・アストレアは、破壊痕を背に淡然とした態度で佇んでいるということを。
直前の不意打ちに慌てた様子どころか掠り傷一つない。マナの欠片がぱらぱらとダイヤモンドダストさながらに舞い散る中、極彩色の反射光に当てられたその立ち姿。揺ぎ無い信念が燃え盛る赤髪に、際限を知らない蒼空を瞳に映し出した顔貌。かの存在は洗練された一振りの刀が如く鋭利に戦場を穿つ。
剣は腰に帯びた状態で、彼はエミリアを真っ直ぐに見据えて口を開く。
「もうお止め下さい! 無差別な破壊行為で城中は大混乱、甚大な被害と共に死傷者も少なからず報告されています。即位式という晴れ舞台を目前に控えて、なぜこのようなことを……」言い淀み、ラインハルトは倒れたスバルの姿を発見する。「……スバル! 彼を、どうされるおつもりですか、エミリア様!?」
「そう。あなたも私からスバルを奪おうとするのね。いけないわ、ラインハルトまで操られてるなんて……私が、私がなんとかしなきゃスバルと皆が……」
聞く耳を持たないエミリア。歯軋りするラインハルトはまだ、彼女のことを敵だと明確に割り切れていない。突然の変貌に迷いが生じている内はエミリアに声を届けることなど不可能だ。
だがどちらにせよ、早くスバルを救わねばならない。少なくとも、彼女の手から離さなければ。
そう思ってラインハルトが踏み出すと、案の定エミリアは過敏に警戒心を露にし、スバルを庇う形で立ち塞がった。
緊迫した二人の間にせり上がるのは氷の壁。驚くほどマナの密度の高い氷壁が部屋と廊下を新たに二分し、更には蔦のように細線が伸びて部屋の内部を侵食していく。一気に低下した気温によって白む息をルイは倒れたまま仰ぎ見た。
何もかも、不毛な悪足掻きだ。考えなくてもそれは分かる。
ラインハルトの前で、ほとんどの魔法は意味をなさない。彼はマナを引き寄せて己の身に循環させる特殊体質を持っているのだ。
凝縮したマナを変換させた矢先に術式は砕け、訪れる結果は半減どころか消滅に近い。それを知ってか知らでかエミリアは術式の構築を繰り返すが、そのことごとくが浪費に終わる。距離が縮まれば縮まるほど影響の度合いは顕著だ。詠唱を続ける彼女の顔にも、苦いものが混じってきた。
それでも完全な無効化ではない。費やす力が莫大であれば多少なりとも魔法は発動し、効力を発揮する。
「くっ……ウル・ヒューマ!」
床の下から突き上がった氷柱。胴体より厚い氷は直撃すれば、脆い人体など一溜まりもないだろう。
ただ、それも抑制されてしまっては到底ラインハルトに届かないのが現実だ。ラインハルトの騎士服に触れる直前に穂先の結合が破綻し、身体に合わせて形状が歪む。本来の数分の一にまで弱まった威力は傷を付けるに足りず、彼の前進を止める要因にはなり得ない。
エミリアの戦法は無鉄砲な攻撃の繰り返しだ。氷塊が乱舞し、極寒の嵐が猛り狂っても、その全ては逸れ弾となって無効化されている。ラインハルトの歩みに乱れは無い。
「無駄な戦いは止めましょう。一旦落ち着いて、話を……」
「アイスブランド・アーツ! アイシクルライン!」
叫ぶと同時に虚空に現れる武器の数々。遠距離射撃を止めたエミリアの取った選択は、直接的な近接戦だ。斧、槍、剣、鎌、槌。近接戦闘へと移行した彼女の足が広い部屋の壁を蹴り、反動で跳躍するかと思いきや重力を欺いてそのまま滑走し始める。
アイススケートを思わせる身のこなし。壁面と天上を用いた三次元の機動は、靴底に生成した氷製のブレードと、道筋に引いた氷板によって為される技だ。そこに魔法の推進力まで加えて動き回るエミリアはあらゆる角度から打撃と斬撃を叩き込み、時に緩急をつけたフェイントも交ぜながら、防御の隙を探る。
しかしそれも結局はマナによって創造された武器であることと、単純な戦闘経験、及び技量の差が勝敗を決した。
「ご無礼を、お許し下さい」
ラインハルトの一踏みで氷の道が砕け散り、態勢を崩したエミリアの横腹に、手首の捩れを利用した掌底打ちが直撃した。捻じ込まれた掌は衣服越しに衝撃を伝え、呻き声が腹の底から漏れる。ダメージは打たれた箇所ではなく、体内の臓腑に浸透して弾けた。
生命維持に重要な役割を持った器官が無造作に掻き乱されたのだ。血流の狂いは脳の思考力低下を引き起こし、頭と体、両方にかつてない混乱をきたす。平衡感覚を失った彼女はもんどり打って棚に激突。勢いで棚が倒れ、いくつもの小物が散らばった。
どう見ても、取り返しのつかない事態だ。ベアトリスにやられた魔法の効果が未だ完全には切れていないため、ルイはスバル以外の肉体に切り替えることも出来ず、じっと眺めているしかない。
早々に『死に戻り』をしてエミリアの状態を詳しく調べたいところだが、自殺しようにも取れる手段が限られている。インビジブル・プロヴィデンスで自分の心臓を握り潰せないだろうか。
駆け寄るラインハルトを横目にルイが考えを巡らせる。さすがに、殺してくれと頼んでも聞き入れてはくれないだろう。
せめてもう少し時間があればまともに権能を使えるが、彼に捕まったら隙を見て死ぬのも困難だ。
どうするべきか。
考えが途切れたのは、ラインハルトが足を止めて何かに目を向けた時だ。エミリアの体と床が微かに発光する。
「エミリア様──まさか、氷で城全体に魔法陣を描いたのですか!?」
ラインハルトの驚愕の声が聞こえた途端、城全体を揺るがす衝撃が部屋を貫通した。
彼の目の前で部屋が崩壊し、ルイとエミリアは迫り来た何かに押し出され、運ばれていく。
襲来した浮遊感と圧迫する重力に揉まれて三半規管が狂う。加えて激しく回転する視界。ギギギと耳障りな軋む音が部屋中に反響しており、耐え切れず砕けた箇所も見受けられた。
物に掴まるにも耳を塞ぐにも手が必要だ。ルイは無防備に投げ出され、床や壁に衝突する。
いっそ死んでしまえばいいのに、との願いも叶わず揺れが収まった。肺を凍らす空気を精一杯吐き出し、咳き込む。呼吸を整えると目を開ける余裕が出来た。四方は氷の壁に囲まれており、外の風景を上下左右に見ることが出来る。
しかしその余裕は、飛び込んできた光景の前に霧散した。
日が昇り、果てなく青を写した寥廓なる大空。
その中天を、一筋の氷が貫いた。エミリアにより造られた氷の樹木だ。地表から屹立した巨大な支柱は下部で所々に枝分かれして重量を分散させている。外観こそフリューゲルの大樹によく似ているが、その機能は『終焉の獣』と恐れられたエミリアの契約精霊と同じく、周囲から膨大なマナを吸い上げる災いに他ならない。
ラインハルトの周囲で魔法が解かれるのならば、防げないほど遠くで大きく発動させればいい。
そんな子供じみていて馬鹿げた対抗策を、エミリアは己の尋常ならざるマナの貯蔵量で乱暴に実行した。無論、彼の近くだけは樹木の影響も割と薄いが、それだけではカバーし切れない程の規模だ。
国の基盤を破壊する大災害。王城全体を土壌兼養分として蝕むだけに止まらず、根は城下町にまで張っている。維持するための力を求めて生き物に絡み付き、植物だろうが動物だろうがお構いなしに搾取する。
木々は枯れて項垂れていく。冷えた大気は日光を弱め、局地的な吹雪を発生させた。見るも壮大な白銀の雪化粧があらゆる色を奪い、地上を覆わんばかりに降り積もる。
突如として王都の心臓部に出現した脅威と異常気象に人々は驚き、逃げ惑っていた。だが深い雪に足を取られて自由に歩けもしない足場だ。悲鳴が断末魔に変わるまで、数分と掛からない。
そんな王都の全貌を見渡す高さに——大樹の頂点に、エミリアとルイはいた。元の部屋はとうに粉砕されて残っていない。
「はあっ、はあっ……ん、く」エミリアはかなりのマナを消耗したようで、スバルの身体を力無く抱き寄せ、涙を流す。「スバル、ごめん。皆も、ごめんなさい……こうするしか、なかったの……」
密着した彼女の身体はそれこそ氷のように冷たかった。血の巡らない死人ですらもう少し温かいだろう。
そう思って一瞬の後、気付いた。冷たいのはエミリアの肉体だけではない。
「エミリア?」
「大丈夫。ちゃんと、綺麗に凍らせるから。マナを抑え切れなくて私も凍っちゃうけど、この木が吸い上げたマナでパックを起こせば、皆を元に戻せる。それまで、待ってて」
「パック? 戻す? いや、凍らせるって、お前……」
「いい子よ、スバル……少しの間だけ我慢してね」
言い終わるや否や、密着した体から直に冷気が流れ込んできた。けれどそれは凍死させるための攻撃ではなく、肉体の腐敗を止めて長期保存させるコールドスリープの類だ。
当然、冷凍されれば『死に戻り』は発動しない。いつ起こされるかも分からない。数日か、数ヶ月か、あるいは数十年か。起きる前、正体が暴露されて身動きも取れずに制裁を受けるかもしれない。起きた後、今日の時間帯に戻れる保障などあるはずもない。停滞した時の中で永遠に目覚めない可能性が無いと、どうして言い切れる。
それは、幸せだろうか。
求めていた幸せが、手に入るだろうか。
「な、正気かッ!? 自分ごと凍らせるってお前……、てめ、冗談じゃァ、ないッ! 放せ! 放せってんだッ! クソ、ったれがァ……! いっそ殺せッ! 私たちを、俺を殺せよエミリアァッ!!」
「どうしたの? そんな、殺すわけ、ないじゃない。絶対に、生かす……だって、あなたは、私の……騎士、様……ふふ。一緒に、寝ましょ…………ね」
「ふざ、ふ、ふざけやがって! いい加減にしろよッ! おい、殺せッ! 今すぐ殺せって言ってんだろうがッ! こんな無茶苦茶なもんに、あたしたちを、巻き込むな……ッ、お前一人で、やれ……ッ!!」
言葉を発する為の口が凍る。
体中の血管と細胞も徐々に凍結され、ただの人間でしかないスバルの生命活動は急速に衰えていく。密閉空間内の薄い空気を吸い込んだところで酸素は運ばれず、かろうじて運ばれたとしても活性化するものなどもう在りやしない。
届くのは、愛の囁きだけだ。
「──愛してるわ、スバル」
「この、アバズレがァッ……!? あァいいサ、殺してやるッ…………イン、ビジブ、ルッ──」堪らずルイは、胸の奥に疼く殺意を解き放った。しかし。「──んあァ!? が、ぇおぐぅ! ぎいッ!? ァァあ、ああァああああァァァァァァ……」
力を濫用した代価はそれ以上の力となって返ってくるものだ。掠れた語尾を気にする余裕が彼女にはもう無い。
残っているのは生憎と、煮えたぎる熱を伝達する痛覚の神経だ。頭の中が焼き焦げ、掻き乱され、滅多刺しにされているかのような激痛に埋め尽くされる。どこをどう鍛えても負荷による脳の異常は慣れようがない。最初の内は激痛でのた打ち回るし、何度も経験すると精神が障害を負ってそもそもの認識ができなくなるからだ。正常な知性を保ったままそれを乗り越えるなど、如何な奇跡ですら力不足だろう。
更に言うならば、痛みは他の器官の感覚が鈍っているせいで余計に強調されている。死の直前にまで至ってなお死に切れないというのはなんとも皮肉なものだ。
狂気の淵に立ったルイは濁った視界の中に過去の記憶を見る。
走馬灯。死に瀕した人間が、それから脱するべく追憶を辿るものだといわれている。
生き残ることを拒んで死にたがっているルイが走馬灯を見るのも滑稽な話だが、要は本能が突破口を探る行為なのだ。だが、数多い人の人生を溜め込んできた『暴食』の場合、その膨大な記憶を閲覧するには脳の処理速度が追い付かなかったのか、はたまた依り代の影響か。ルイの脳裏に流れたのは、ナツキ・スバル一人の記憶だった。
それでも、見つけ出した。手も足も、血も細胞も使わずにこの状況を逃れる手段を。
エミリアを殺す方法を。
「エミリア。よく聞け。俺は、『死にもど──」
一度だけあったのだ。
この世界には記録されていないが、スバルの記憶には、深々と刻まれた出来事。
禁句である『死に戻り』の告白を言い切る前に、やはりそれは訪れた。
時計の秒針が音を消した。世界から一場面が切り取られ、薄闇の額縁に嵌められた。
唯一まともなのは視覚だけだ。何も聞こえず何も匂わず、体は毛先すら微動だにしない。見ること以外の情報と行動が全て遮断された空間の中、じりじりとにじり寄る絶望が視界の端に過ぎる。
手だ。
瞬きもしていないのに、影の手がどこからどのようにして現れたのか、ルイには分からなかった。ただ、気付いたらそこにあった。いつの間にか目の前まで迫っていた。
そうして物理の摂理など我関せずといった動きで肉体を透過する。それはエミリアの背中から入り込み、触れ合った胸を通ってスバルの心臓付近へ。
冷たい異質感が背筋を舐めると、壊れたはずの免疫機能が脳まで悪寒を伝達した。しかし体温は上がらない。ひたすらに、恐怖だけが鮮度を増していく。
──何か、様子がおかしい。記憶で見たのと少しばかり違う。
ルイがそう思うのも仕方ない。
彼女の狙いはエミリアの死だった。権能を打ち明けた際に出現するペナルティで、一度だけ観測された過去。全てを吐き出すつもりで叫び、彼女を無残に殺したことに対する後悔の念が強く刻まれた記憶があった。
あの時は影の手がスバルではなくエミリアの心臓を握り潰していた。詳しい理屈は分からないが、今は当時の状況と重なる部分が多い。十分に、試してみる価値はあると踏んでいた。どうせ他に打つ手は無い。
そんな希望も空しく、五本の指は心臓を鷲づかみにした。言うまでもない。スバルの、ルイの心臓だ。
訪れたのは、外的要因による希釈が一切排除された混じり気のない痛み。
抵抗は許されない。防衛本能を置き去りにして苦痛だけが与えられた。
身を捩ることも、泣き叫ぶことも、気絶することも、狂うことも、死ぬことすら影は拒む。全身に沁みて滲み込んで染み渡るように、少しの緩和や誤魔化しもルイには不可能だ。
追い剥ぎだったなら全てを投げ出していただろう。拷問だったならとっくに吐いていただろう。
だが残念ながら、そのいずれでもない。何の見返りも求めない一方的な痛み付け。未経験の美味などとほざく余裕を、完膚なきまでに叩き潰さんとする気概が影にはあった。
「────かッ」
再び動き出す秒針。時間は、ようやく一秒が経過したところだ。
外ではより激しさを増した嵐が吹雪いている。騒乱の吹き荒れる王都の中で、一番静かな場所こそ渦中のこの場所だった。息遣いも凍え、厚い氷壁に囲まれた空間を邪魔するものは何もない。
愚かしくも『嫉妬の魔女』を利用しようとしたルイの思惑は見事に打ち砕かれ、とうとう指先まで凍て付いた。諸々の苦痛など露知らず、エミリアは目を閉じて微笑する。目尻から流れ落ちる涙が途中で熱を奪われて冷たく凝固し、柔な皮膚に張り付くのも意に介さず。
「愛してる」
いつとも知れない再会を誓い、氷の檻の中で二人寄り添って愛を囁いた。なんの皮肉か、至極幸せそうな顔を残して。
ルイは苦しみと共に、死ねない氷の呪縛に囚われて眠る。白く真っ白な愛に、見当違いな情に、その身を染め上げて。
†
冷たい熱を感じた。
夢とも幻とも違う混濁の沼。その奥底から意識が浮上し、水面上に顔を出す。
冷え込んだ身体を撫でる、清涼で生暖かい外の空気。心地よい風に乗って声が吹き抜ける。
「スバル」
目を薄く開けて空に手を伸ばす。濡れた指先が風向を感じ取り、そちらへ視線を移した。
近づいてくる影があった。顔や姿は分からないが、確かに風はその影から吹いている。
「スバル」
伸ばしていた手を、影は大事そうに握った。両手で、優しく包み込んだ。
しかし温度が無い。触れた手からは、人の温もりが感じられなかった。
「スバル、スバル。スバル」
三度、風が吹いた。気付けば身体は凍えていて、手も氷に覆われていた。
それは徐々に広がりを見せ、腕を伝って首下を侵食する。
「スバル。スバル、スバル、スバル、スバル、スバル、スバルスバルスバルスバルスバルスバルスバルスバルは本物だよね」
足の先っぽまでの感覚が消えた。得られる情報も、考える頭も止まっている。
全身が凍結壊死したかのようだ。ただただ崩壊を待つだけ。風に乗って消えてなくなるだけ。
「スバルは、だよね。ルは、物だよね。本。ね。ね。本だバはスバルねだよねほバルは、は本物ねスバルはスバルだよ本はだねよスバねだもル物よバ本物物バルスルねだものね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。だよね。本物ね。ね。ね。ね。ね。スバルだね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね──……ね?」
崩れていく。ひび割れ、欠け落ち、
ただそれだけだ。ただそれだけ。だけ。き
きえればなにもない。なにもなくなる。だれもかれもかれもだれもあれもそれもこれもどれもすべてぜんぶなにもかもまるきりいっさいがっさいみんななくなってなくなってなにもなくなる。
むだけ。
むもない?
ない。
。
「────スバル! スバル、大丈夫かい!? スバル!」
「ァ……あ、ッ!?」
二度目の覚醒。ルイは、スバルと呼ばれた拍子にビクリと身を震わせて目を見開いた。
しかしまともには動けない身体だ。姿勢もそのままに、警戒心を目に刻む。恐怖に色濃いその瞳を覗き込み、起こした人物は胸を撫で下ろした。
「……安心してくれ。僕はラインハルトだ。スバル、君が凍る直前に引っ張り出してきたんだ。僕のことが分かるか?」
赤く闘志が燃え滾る髪。見上げる空を虹彩の裡に封じ込め、遥か天上より見据えるかの如く玲瓏な双眸。自身に満ち溢れた姿は誰が見ても雄々しく、常識外れで型破りな異常性を自然なカリスマとして昇華させている。
エミリアに凍らせられそうになった時は一巻の終わりを覚悟したが、どうやらそうなる前にラインハルトに救われた模様だ。
隙を見計らって自殺が出来るか、それは分からないが、どうせ行動を起こすにはまだ時間が要る。追っ手であるクリンドの生死も不明だ。彼と一緒にいる限りは良くも悪くも命が保障されることを、最大限に利用すべきだろう。
生きるために。
──本当に?
「────」
「スバル……?」
慄然と、怖気がした。
信用とも嫌疑ともとれないラインハルトの優しい眼差しに対してではない。一瞬、ほんの一瞬だけ浮かび上がった感情が。
もう死んでしまいたい、と。
死んで楽になりたいと、心の奥底からの願いが一片だけ覗いた。『死に戻り』は死なない力であると同時に死ねない力でもある。どれだけ朽ち果てることを望んでも、自らの意思でそれを決めることは出来ない。今さら、改めて言うほどのことでもないが。
ナツキ・スバルに成りきって以来、死への欲望を感じたのは初めてだ。味わうための経験ではなく、真の意味での終わり。次など来ない、生き物本来が持つ一度きりの死。
自分が変化していくことへの恐怖。
「……悪い。ちょっと、ぼーっとしてた。心配かけたな。まだ頭がくらくらするけど、ラインハルト、お前のことはちゃんと分かるよ」
「そうか。よかった。でも、怪我がひどい。体温もかなり低くなってるからあまり動かない方がいいよ。フェリスは他の所を回っているし、回復術師たちもさっきの魔法に巻き込まれて動けない者が多い。そもそもここ一帯はマナが枯れ果てているから満足に治療もできないんだ。どうか無理はしないで。……遅くなって、ごめん」
「そんな、お前が謝るようなことじゃねぇだろ。助かったよ、本当に」
本心だ。ラインハルトがいなければ、スバルの身体は歪な愛に閉じ込められたまま氷漬けになっていただろう。
今ルイが横たわっているのは王城の一般的な寝具。つまりは城内の一室で、所々に先の戦闘で刻まれた傷跡が残っている。だが、それも床が剥がれたり壁に穴が空いた程度だ。見たところあの大災害はこの部屋まで及んでいないみたいだった。
──いや。ふと見上げた窓の外の景色に、ルイは呆然と、計り知れない戦慄と感慨を覚えた。
目を疑うだとか、夢から覚め切っていないだとか、そんな次元の話ではない。突き付けられたのは紛う事なき事実。そしてその原因は彼の男、ラインハルト・ヴァン・アストレアの他にあり得ない。
「これ……どういうことだよ」
消えたのだ。
氷の樹木が、忽然と。まるで、最初から無かったかのように。
まるで、世界が被害を受ける前の姿に復元されたかのように。
記憶の中にある一周目の今日よりも透き通った蒼穹。日差しに照らされた木々が我も我もと緑を風に乗せ、花もまた劣らず多彩な頭を一面に並べている。自然豊かといえば誰もがこのような光景を思い浮かべるだろう爽やかさに、けれど無人の寂寥感がどこか妖しげな雰囲気を以って漂う。
やはり現実だ。痕跡も無く消えたエミリアの大魔法とは裏腹に、人影の方は全く見当たらない。治療が困難な現状だと残したラインハルトの言が主な理由だろう。
「あの木なら消したよ。根こそぎ、切り倒した」ルイの視線を追い、ラインハルトが腰の剣に手を置いて説明する。「ただ、被害に遭った人たちは大勢いるし容態だって芳しくない……事前に、ここまで被害が拡大する前に、防げたはずなのに」
とても、首都の崩落を一人で食い止めて見せた英雄の言葉とは思えなかった。端から見れば過重とも思える責任意識だ。今まで『暴食』して蓄えてきた人間全部含めても、彼の人の良さには付いていけない。
邪気など皆無の純粋な善意で接してくれる彼に、ルイは息を整える。彼なら大丈夫だろうか。偽物と、そう疑ったりはしないだろうか。ラインハルトになら、頼っても——
『あぁン? ざけンなよ、オメエ。オメエ、見た目は稚魚だが中身が別モンだろうがよ。オレの前で馬鹿みてえな事ほざいてンじゃねえぞ、オメエ』
──いや、駄目だ。
こいつはあの男と同じだ。レイド・アストレアの子孫だ。見抜かれる。違う。すでに知られているかもしれない。正体も思考も何もかも、彼の掌の上ではなかろうか。
ならば知っていながら知らない振りをしているのか。まさか敵にまで気を遣っているとでもいうのか。分からない。ラインハルトの無条件の優しさが、ただひたすらに怖い。
もしや、油断させようという魂胆なのでは?
もう誰も信じられない。周りの人間を全て欺いてきたルイには、誰の心も届かない。誰をも騙してきたと勘違いをしていた偽者のスバルには、もはや自分すらも、信用するには値しない。
疲れた。飽き飽きした。ナツキ・スバルのままごともかくれんぼも、何もかもやる気が湧かない。成りきれたつもりで思い上がって中身の無い二年を過ごして来たのだ。なんと、愚かで虚しいことか。
贖罪の気持ちなど毛ほども起きないが、幸福だけを追っていた過去の自分はやけに馬鹿らしく思える。夢が折れ、希望が途絶えるとこうも世界は変わるものなのか。
「とりあえず、意識が確認できて良かった。まともに稼動してる治療院まで少し遠いから、誰かに頼んで、」
「死にたい」
「え?」
「もういいよ、ラインハルト。……俺には、私たちにはもう、生きる意志がない。茶番は止して、さっさと殺してくれ。どうせ限界だ」
「────」
息を呑む音が聞こえた。遠からず、息遣いも聞こえなくなるだろう。だがそれで良い。
『死に戻り』をしたら、次回はエミリアに抵抗せず素直に凍らせてもらうのだ。百年でも何年でも、起きた時に今よりは生きやすく、あるいは死にやすくなっていることだろう。数分前まであれだけ拒んでいた悪夢が唯一の夢となるとは想像だにしていなかったが。
これ以上の無価値な人生と際限ない苦しみを味わうくらいなら、死んだほうがよっぽどマシだから。
しかしどんなに待ってもラインハルトのトドメが訪れない。何か妙だと思ってつと見上げ、彼がスバルではない別の方へ顔を向けていることに気付く。
沈黙が、視線の先の何かによってもたらされたものだとも。
「——その願い、私が聞き入れよう」
「君は、誰だ」
唐突に割り込んだ女性の声。幼げな印象が残った、聞き覚えのある高い声だ。
しかし言葉の癖や雰囲気からはまた違う人物が連想される。それが誰なのか未だ霞んでいる頭には思い浮かばないが、ナツキ・スバルの記憶領域がやたらと警鐘を鳴らしていた。
絶望とは別種の恐怖心が刺激される。
「そうだな。名乗るとしたら、やはりオメガが良いだろう。なんたって、そこの彼に付けてもらった名前なのだからね」
「スバルが……? 申し訳ないが、彼の体はひどい状態で今すぐ治療をしなければならないんだ。悪いけど、話すなら少し待っててくれないかな」
「おや。私が彼の仲間で、心配して駆けつけたのだと、君は本気でそう思っているのかい? だとしたらもしや私の見間違いかな? その剣は、この世に二つと無いはずだが」
微塵も疑念のこもっていない語調で指を差す。
怪訝な目を向け、『龍剣』に触れるラインハルトの反応は暗い。遠回りな発言を続ける女性にどう接するべきか判断を決めかねているようだ。
対して女性の方は泰然と微笑み、差した指を虚空に滑らせた。マナの流動が指に沿って燐光を発する。文字のような形を得たそれは徐々に輝きを増し、やがて力として表出される。
「待つんだ」
だがラインハルトが近づきさえすれば、それも儚い泡沫に過ぎない。
直前で砕け、霧散したマナを見て女性が「ふむ」と頷く。
「あらゆる魔法を乱す体質に異常なまでの加護……なるほど、オド・ラグナの恩恵を一身に受けられるのも、今代の『剣聖』と考えれば役割付けは妥当か」独り納得し、小さい顔を見上げて目が合う。「まあ、別に私は世間話をしに来たわけではない。分かるだろう、乙女には一分一秒が大切なんだよ」
「…………」
「釣れないね。君も、ナツキ・スバルも。後者については些かならず熟考の余地があるが、なんにせよ、だ。そこの彼の身柄を渡してもらいたい。理由は先ほど伝えた通り、私なら彼の願いを聞き入れてやれるからだ」
「彼に危害を与えるつもりなら、僕は君を止める。スバル自身がそのことを望んでいたとしてもだ。それ以上は何もさせないよ」
『龍剣』は抜けない。ゆえに剣の柄から手を離し、遮る形で広げた。
「それ以上は何もさせない? 惜しかったな。私の行動は、すでに終わったんだ」
不敵に口端を吊り上げ、女性は大仰な仕草で肩を竦める。その動作に呼応した訳ではないが、事前に施されていた術式が同じタイミングで作動し、目の前に現れた。
周りの希薄なマナを嘲笑うほどに膨大な量で展開された魔法はラインハルトを全方位から囲み込む。数十、あるいは百をも下らない球状の物体。一つ一つが致命傷を引き起こしうる濃密さを以ってブルブルと振動する。少し離れたルイですら、生存本能が悲鳴を上げて動悸に締め付けられた。
蚊や蜂の羽音にも似た空気の揺れを弾かせ、斉射。
それだけで爆発したかのような光と衝撃が部屋を埋め尽くした。
ラインハルトは、動かない。
エミリアの二の舞を演じた。少なくとも、ルイはそう思った。
ラインハルトには魔法が届かない。届いたとしても、通用するかはまた別の問題だ。散々見せ付けられて実感した。思い描いたのと同じ光景、魔法が彼に触れる直前に形が崩れ──
「なっ!?」
──その中から零れ出てきた、もう一つの術式の信管が、作動した。
「二十数年生きていれば、一度くらいはその体質を利用されたこともあるんじゃないかな? いやまあ、もし仮にあったとしても私の構築と比べてもらっては困るけどね」
至近距離で放たれた第二の魔法。それは分解されつつも、同時に構成が歪なものへと変化していく。
絢爛に瞬く視界の中で、ラインハルトは目を瞠った。
女性の狙いは最初から、幾重にも織り込まれたこの不整の術式だったのだ。本命の中身は均一でない複数属性の配合とでたらめの演算方式。まともでないからこそ、暴発した際は計り知れない威力を発揮する。
その事を悟られない為に、普通の魔法を装って耐性を持つラインハルトの油断を誘った。ダミーである外側をわざと破壊させることにより、かろうじて僅かな隙を作ることが出来た。たった一瞬。だが、それさえあれば十分だった。
解けて渦を巻きながら歪な魔法は満を持して炸裂する。
完璧に計算された誤算が、かつてない相乗効果を生み出した。
「以前彼の記憶を見た時、面白いものがあったんだ。それを参考にとはなんだが……外は
「くっ…………君はまさか、『亜人戦争』の——」問う声は、しかし遠ざかる。
「魔女、だとでも? 残念ながら不正解だ。確かにあれもリューズ・メイエルの複製体だったか。だが所詮は、一方的に魔女と呼ばれ忌避されていただけだろう?」ひらひらと手を振り、別れを告げる彼女。いや。「私はエキドナ。自他共に認める、『強欲』の魔女さ」
事実を言うならば、エキドナの渾身の攻撃を直に喰らってもなお、ラインハルトは戦闘不能に陥ってはいなかった。
全くの無傷という訳ではない。凝縮された衝撃波が全身を打ち据え、深手を負った部位は皮膚が剥がれて真新しい血も噴いている。吹き飛ばされた状態で体勢を直すにおいても決して容易などとは言い難い。
ただ、それで戦況が変わるかと問われれば答えは否。結局のところ、一度限りにして一時的な時間稼ぎでしかないのだ。
よってエキドナは彼が戻ってくるまでの数十秒の内に事を済ませなければならない。
ルイは、若干戸惑いを見せるも彼女に話し掛けた。
「本当に、殺してくれるのか」
「もちろんさ。一度言った言葉の保障はしよう。……ただしね。ボクは悪い魔法使いなんだ。君の要望通りに死ねるとは、思わない方がいいよ」
「────」
激突の痕をひょいと飛び越え、正面から見下ろすエキドナが背中に手を回した。そしてどこからともなく取り出したのは、彼女の身体がすっぽり入り切るほどのクリスタルだ。手と足を失ったスバルならば簡単に入る大きさ。
スバルの記憶がまたしても疼く。エキドナという名前と、やっと見えた薄紅色の長い髪。生気の欠如した二つの瞳。
「今から君の体を、つまりはナツキ・スバルの肉体をここに入れる。安心してもいい。痛くはないさ」相好を崩す彼女の表情は、まるで仮面を被っているかの如く発言する内面の感情と噛み合っていない。「ただし君の魂の方だが、そちらには少々、付き合ってもらうよ。──誰もが羨む、魔女たちのお茶会にね」
「ちょ……ちょっと、ま」
栄光に思え、との一言が唇に紡がれるが、聞き届ける暇もなくルイはクリスタルに吸引された。万華鏡を思わせる不可思議な光の乱反射を浴びながら抗えない波に精神だけが流される。意識のトンネルを抜け、招かれた先に一筋の白光が差したのはすぐだった。
急激な変化に頭が付いていかない。目を開けると、爽やかな空気がルイを出迎えた。思わず感嘆を漏らすほどの大空に大草原。果てしなく続くパノラマの風景に腰を突き、気付けば足元に広がった金髪をおもむろに弄っていた。
金髪。
簡素な服。
間違いない。本来あるはずのない空間で、ルイは自分の姿に戻ったのだ。ナツキ・スバルという殻から、この世界に引きずり出された。
嫌な予感がして周囲を見渡すが、地平線まで同じ景色が続くばかりで、これといって目に付くものが無い。人工的な物が排除され、特筆すべきものもない平坦な自然だけが取り残された風景だ。
まさか何も無い空間に閉じ込められたのか。そう思ったのは、ほんの数秒だけだった。
「──すんすん。あれぇ~? この匂い……もしかしてぇ、新しいお客さんですかぁ~?」
「ひッ!?」
直前まで誰もいなかったはずの背後から声がして振り返る。
少女だ。見たところ、ルイと同じかそれ以下の年齢と思しい少女が奇妙な棺にその身を入れて佇んでいた。目隠しに拘束具といった格好がまず目を引き、次に全体としての雰囲気に圧倒される。人間のようでいて、人間とは決定的に違う雰囲気が本能の嗅覚とでもいうべき感覚に引っ掛かった。
この女は危険だ。だが一方では妙な親しみも感じる。胸の奥に潜んだ『暴食』の欲望が何かを叫んでいた。歓喜か、畏怖か。鏡を覗き込んだのに自分でない存在が映っていたような、そんな引っ掛かり。
「なんかぁ、懐かしい匂いもしますねぇ~。うぅ~、がじがじ」
小さく生え揃った歯を鳴らす仕草が、異様に嫌悪感を掻きたてるようでルイは尻餅をついたまま後ずさりする。
だが、それで終わりではない。
「新しいというか、かなり特殊な客が来たさね、はぁ。あの子以来に面倒なことが起こりそうで胃が痛いよ、ふぅ」
「もう、セクメトはまたそうやってやる気を削ぐんだから! 久しぶりのお茶会でしょ! ちゃんとしなきゃ駄目じゃない!」
「んー? はは、ルバに叱られてるのか? 叱られてるってことは、はは、アクニンなのかー?」
「お……お客さん、困って、る、みたいだか……ら、落ち着いて、お茶で、も……ん、お話、はどう、かな?」
幻覚、瞬間移動、悪夢。現状を説明できる様々な理屈が頭に思い浮かんでは、即座に否定して次の希望を探す。しかし無駄なことだった。どれだけ考えても答えは一つしか無く、どれほど遠ざかっても逃げられない。右に左に、どこを向いても人ならざるものが囲んでルイをこの場から離さない。
そして極め付きは、最後に姿を現した影だ。気が付いたら傍にいた他の化け物とは違い、虚空から出現するのを両目でしかと見届けたにもかかわらず、一番不可解な雰囲気を纏った存在。
いいや。
ルイはスバルに成りきっていた際に、あれを目にしていた。
ついさっきだって、顔は見れずとも大事な部分を握られた。
無意識に避けていた記憶と忘れようも無い痛みが胸に蘇る。
「ぐ、ぁッ……し、『嫉妬の魔女』……!?」
「────」
無言のプレッシャーにルイは身震いを禁じ得ない。気を抜けば、魂ごと吸い寄せられるような威圧が僅かな反抗心をも叩き伏せる。戦意を、徹底して砕く。
そこにいるだけだ。佇む、ただそれだけで決着が着いた。
「君が少し前に『死に戻り』を告白してアレと繋がりを作ったせいで、侵入を許してしまったようだ。つくづく、他人の意思を踏み躙る自分勝手な在り方には吐き気がするが……まあ、今回ばかりは不問に付そうじゃないか。君のナリキリ行為を、アレの『嫉妬』がどう判断するか。興味が無いと言えば嘘になるから、ね」
声が聞こえる。
エキドナの、『強欲の魔女』の、悪い魔女の歓迎の声が。
「──ぜひ、ご賞味あれ」
みんなの力で成し遂げた快挙。
魔女のお茶会はもう少し書きたかったのですが、重要さに欠けたのと、結の部分を引っ張りすぎても退屈だろうという理由から割愛しました。
いつか機会があれば、『暴食ちゃんと七人の魔女─ドキドキ(魔)女子会編─』でも書いてみたいなと思います。
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