話し合いが食事処ナオで設けられた後、調査兵団は大急ぎで壁外調査へと赴いた。
大貴族からの妨害と解っていても従うしかなく、準備期間が短すぎる課題をクリアする為にエルヴィン団長は兵士の選別を行ない、人数を絞る事で武器・食糧の準備を短期間で済ませる策を行ったのだ。
おかげで今回の壁外調査が初の実戦となる新兵達は残念ながら居残り、それと選別されたのは腕の立つ者や経験豊富な者、何かしら技能に優れた者ばかりでそこから溢れた者も同様に待機命令が下される。
しかしながら例外的に選ばれた者が一人だけ居た。
訓練兵団の歴史の中で、最高成績を叩き出したミカサ・アッカーマン。
彼女だけはエルヴィンの指名を受けて参加している。
その事にエレンは非常に不満げであり、宥めるアルミンの苦労が目に浮かぶ。
調査兵団兵士であるライナーは苦笑するが、マーレの戦士隊の戦士としては現状に焦りを感じていた。
現在戦士隊には待機命令が下されていた。
エルディア政府が食事処ナオを敵視した事で、従業員として入っていたアニとマルセル、ニコロは危険な状態に陥っている。
まだバレてはいないと思うが、下手に姿を暗ますと疑われる可能性があるので逃げる事も救出する事も出来ない。
同時に食事処ナオに関わること自体がデメリットしかないので戦士隊の面々は用がなければ近づくなと厳命が下され、待機命令を出した隊長であるジーク・イェーガー隊長はマーレ本国へと帰還した。
これは食事処ナオにいる三名を救出後、本国まで撤退できるだけの支援を懇願しに行ったのだ。
が、正直その申請の許可は下りないだろうことを知っている。
何故なら戦士隊とはマーレに残されたエルディア人の末裔…。
マーレ人にとっては斬り捨てても構わない捨て駒であり、死んでも構わないから忠実な犬として成果を持って帰る事だけを求められている存在。
助ける筈も無いが何もしないよりマシだろう。
自分だって何かしたい。
仲間を護る為に動きたい思いもある。
しかしながら繋がりは表上常連客と店員であり、調査兵団新人兵士である自分にどの程度の事が出来ると言うのだろうか。それに下手に関わってこちらの身バレを引き起こしてしまう可能性が増えて、戦士隊にとってはさらに厄ネタが増える事に繋がる。
何かしたくても何も出来ない。
こういう場合は何かしら任務でも訓練でも頭を空にするぐらいやるべき事があれば良かったのだけれども、自分も含む新人は今回の壁外調査組から外れて、最近では慣れ始めた訓練ぐらいしかやる事がない。
さらに言えば経験豊富なベテラン勢はその経験から新兵の訓練を見ていたりしていたので、その層が居ない事で訓練の質も自然と落ちる。
普通ならばライナーも漏れなくその中に当てはまる訳なのだが、彼と一部の者は調査兵団エルヴィン・スミス団長直々の極秘任務を与えられた。
数は少数にて目標の警備及び警護が主任務とする任務で、武装は己が鍛えた肉体のみ。
対して敵と言えば勢力はだいたいの見当が付けども数は予想不可。
もしかしたら襲撃自体無いかも知れないし、数十人と言う大人数で事に及ぶかもしれない。
期間は最低で一か月弱…。
これだけ見ると非常に大変な任務であると思えよう。
任務である以上全力で努めなければならない。
ライナーとて全力で努めようとは思うものの、何処かで甘く考えてしまっている節がある。
「追加の牛丼二つ」
「牛丼二つ了解した」
ライナーは返事を返し、丼に炊きたての白米を装い、作られていた牛丼の具と汁をかける。
同じ動作をもう一度繰り返し、出来上がった牛丼二つをイザベルに渡す。
渡されるとせかせかと注文したテーブルへと運んでいく。
受けた極秘任務とは【食事処ナオの警備、及び食事処ナオの従業員の護衛】―――の筈なのだが、ライナーは食事処ナオのエプロンを身に着けて、厨房に立って手伝いを行っていた。
レイス家の一件にて大貴族の恨みを買う事になってしまった食事処ナオ。店主である総司を罪人にしようと貴族連中が動いている。
期間にして一か月後に異論を唱えた各兵団トップ陣営と兵団外の異論者たちを交えての、罪状説明を行ってから問題がなければ駐屯兵団が罪人を捕らえに行くことになっている。
それまでは安全…などと思うのは浅はかだろう。
その間に営業妨害や脅し、火付けなどの行為を行ってこないとも限らない。
本来ならば調査兵団ではなく憲兵団、もしくは駐屯兵団に依頼するのが筋だろうが、憲兵団ナイル団長は自身と家族に被害が及ぶのを恐れて積極的に関わろうとしないし、こちらよりとは言え中立らしく傍観に近い駐屯兵団も同様だ。
なのでエルヴィンが自身の所から兵士を派遣したのだ。
メンバーはエレン、アルミン、ライナー、ベルトルト、ミーナなどなど十人にも満たない。
理由はこの五人を見て察せられるように食事処ナオの常連客で新兵という事から…。
つまりエルヴィンはこのような状況でも店が混雑して、自身が食事に有り付けなくなるのを危惧しているのだ。
なんにせよ危険性を考えたら必要な事だと理解し、任務に赴いてきたのだが正直いらなかったのではと内心想っている。
総司に説明し、護衛に付いたその日にチンピラ数名による営業妨害が行われた。
早速仕事だと止めに入る前にアニ一人で片付けられてしまった…。
たった一人にボコられるとは思っていなかった彼らは、ナイフを手にして怒りを露わにするもナオも参戦して一人と一匹により返り討ちにあっていた。
特にナオにやられたやつは可哀そうと言う感情すら抱いてしまう。
なにせナオは鋭い爪で引っ掻くと言うより表皮を切り裂くのだ。
それも目元を狙うと言う非常に怖い攻撃をしてくる。
決して失明させぬように瞳を直接狙わず、目の周辺を狙って「失明させられるかも」と恐怖を植え付けようとする。
凄いと言う単純な感想と共に俺達の仕事が無いなと思いつつ入り口に立っていたのだが…。
常連客全員が店が今後営業出来ないかも知れないと知れ渡り、連日店内は芋を詰め込んだ袋のように人で溢れかえっていた。
総司達は二交代制で働いていたが、どう見ても人手が足りてない。
ライナー達は三交代制で入り口に立ち続けているので、一組は休んでもう一組は待機状態で待つ。
正直に言うと暇なので手伝うとエレンが申し出て、申し訳なさそうだが大助かりの総司がその提案を受けたのだ。
それも賄い付きで従業員同様に時給を出すという。
ここの給金はかなり良く、さらにただで食事処ナオの食事にありつけるという事で、自由参加であったが実質全員参加となってしまった。
以前調理を習ったライナーとベルトルト、エレン達は厨房を担当し、残りはフロア担当を三交代制で手伝っていた。
今の時間はライナーが厨房の手伝いに周り、もう少しでエレンと入れ替わる予定だ。
ちらりとマーレにも存在しないガラスに数字を浮かぶ“電子時計”なるものを見て時刻を確認する。
「もう交代の時間ですね。賄いの用意を致しますね」
「了解です」
注文が殺到しているというのにそれらのほとんどを捌きつつ、こちらも気にしている辺りさすがだなと感心しながら用意された席へ向かう。
店内のカウンター席にテーブル席は埋まり切っている。
店としては客の回転率を下げるような事はしたくないだろう。
その考えからライナー達は外で立ち食いでもすると言ったのだが、働いてくれているのにそんな事はさせられないと空いていた壁際に奥の住居スペースより持って来た机と椅子を置いて、従業員用の飲食スペースを用意してくれたのだ。
“従業員用”と書かれた席にはフロア担当として働いていた者と、もう少しして厨房に入るエレンが居て、前者は賄いを口にしてエレンは自腹でハンバーグを食べていた。
空いていた席に腰かけて出された賄いである丼に触れる。
蓋がしてあって中は見えないので、食べようとすると一番最初に蓋を開ける事になる。
パカリと隙間が出来るともくもくと湯気が立ち昇り、美味しそうな匂いが一気に漂う。
賄いで出されたのは“かつ丼”。
平日ランチとして丼物は多くの者から好まれている事は知っていた。この“かつ丼”というのはまだ食べていないが既にとても好みだ。
定食メニューにもある“とんかつ”が豪快に一枚使われ、まだ半熟に近い玉子でとじられていた。
味は言うまでもなく美味いんだろうなと期待を込め、主役であろうとんかつの一切れにフォークを突き刺して齧り付く。
肉厚な豚肉が薄い衣を羽織り、噛み締めれば豚の旨味に肉を食べたという実感を十分に与えて来る。
柔らかく噛み締めれば溢れ出る肉汁に、まろやかな玉子と深い甘味が合わさって非常に美味い。
とんかつ定食を一度エレンから聞いて食べたことあるが、あのカリッとした衣は玉子でとじられた為に、しっとりとして柔らかく飲み込み易い。
カツを一切れ食べた事で隙間が空き、下に敷き詰められていたライスが顔を覗かせる。
タレと玉子が掛かって艶やかなライスを今度は口にする。
ライスの味わいにタレと玉子が絡んでおり、これだけでも美味しく頂けるだろう。
されど丼物で求められるは具材とライスを一つにする事と、短時間で掻き込める食べ易さ。
今度はカツとライスを一緒に頬張る。
重圧な豚の旨味にタレ、玉子の味わいがライスに合わさり、濃い目の味わいが多少薄まるがそれが丁度良い濃さだ。
他の丼に比べれば掻き込み難いが、急ぐ必要のない自分には何の問題もない。
ガブリとカツを齧り、隙間よりライスを掻き込む。
ガツガツとマナーの欠片もない汚い食べようだが、この掻き込む食べ方こそ“丼物のマナー”と言うのが常連客の認識である。
同期や周囲の常連客と比べてもガタイの良いライナーが丼を持つとどうも小さく見え、同時に彼の胃を満たすには足りなさ過ぎる。
「総司さん、かつ丼のおかわりを頼みます」
「畏まりました」
おかわりと注文して総司が作り始めると、それを眺めながら一緒に付いてきた
温かく、塩気がありながら何処かホッとする味わいに先まで急くように食べていた様子は消え去り、ゆっくりと味わいながらコクコクと飲む。
合間合間にポリポリと歯応えがあり、甘みと旨味のあるたくあんを口にする。
さっぱりとかつ丼の後味を消し去っておかわりに備える。
たくあんを食べきり、僅かに残っていたミソスープを啜って飲み切ると、出来上がったかつ丼が目の前に置かれた。
食べ切った食器類を避け、おかわりのかつ丼を手に取るとまた同じようにがっついて食べきっていく。
二杯で止めとこうと思っていたのだが、誘惑と胃の大きさから足りずに結局四杯もおかわりしてしまった。
さすがにお腹もいっぱいに満たされ、満足そうにお腹を撫でながら背凭れに全体重を預けてギィと軋む音を鳴らす。
「あぁ、お腹いっぱいだ。これも美味かったですよ総司さん」
「そう…ですか」
ライナーは総司の生返事に首を傾げる。
いつもであれば柔和な笑顔を浮かべ、礼と共に受け取るというのに今日の総司は何処か微妙な表情を浮かべる。
「なにかあるんですか?」
「あー…いえ」
別段詮索するのも無粋かと思いつつ、気になったのでそのまま問いかけてみる。
何か言い辛そうに考え込む総司は、困ったと表情に浮かべながら重い口を開いた。
「私の祖父も料理人だったのですが、未だに祖父のかつ丼を超えられないんですよ」
総司曰く、そのかつ丼は肉が解けるような柔らかさがあり、脂っぽさが有りながらもさっぱりと食べ易く、濃厚な風味と複雑でより深い甘味を持ち、衣は薄くもしっかりと香ばしさがあった。
食べたのが幼かったゆえに詳しく理解できず、さらに“何時でも食べれる”という安易な考えから深く知ろうとしなかった。
ゆえに亡くなってしまった今となっては知る由も無し。
幼い頃の薄っすらとした味の記憶だけを頼りに作るも、未だにその味を再現する事さえ出来ないとの事で、多少眉を歪めて悔しそうな表情を浮かべている。
「総司さんでもそう言う感情有るんですね」
隣で食っているだけかと思っていたエレンも聞いていたのだろう。
突然口を開いたと思えば失礼な発言を発した事に咎めたほうが良いだろうかと悩むも、自分も同様に想ってしまったが為に即座に口にすることは出来なかった。
「私も人間ですからね。感情はありますよ」
苦笑してしまった。
調理の時だけは真面目に、普段は穏やかな笑みを浮かべたりと感情は無いとは言わないが、薄く見えてしまうのだ。
だからこそ今日の悔しそうな表情が強く印象に残り易い。
「総司さん、アレ見ても同じこと言えます?」
「え………貴方達まで私を何だと思っているのですか?」
エレンが指差した方向にはとてつもなく忙しいというのに総司の表情を目にして、信じられないと言った様子で固まったアニやユミルが居た。
膨れっ面をしたりと今日は何時にない総司の表情が見れるな。
明日は豪雨ではないだろうかと思い、ライナーはクスリと笑う。
大貴族による危機が迫っていると分かりつつも、このような日常がずっと続く様な気さえ思い浮かばせる。
が、彼の想いは届かず、一週間後の食事処ナオの扉には“休業”の看板が掛けられるのであった…。
●現在公開可能な情報
・思い出のかつ丼
唯一総司が頭を悩ましている料理。
彩華も何度か食べた事があり、彼女もあの味を再び食べたいと願っていても未だ敵わない。
作っていた祖父も良く食べていた祖母も亡くなり、父はそれほど食べた事が無かったのでもう調理法を知る者はいないのだ。