私の名前は
いつ生まれたのか、どうやって現れたのか。それは知らない。気付いたら私は寂れた村の道端に瓢箪を持って佇んでいた。自分と言う存在が何であるかは何故か理解していたが、それだけ。あとは何も知らなかった。
最初の頃は大変だった……。
右も左もわからない状態でいきなり野生にぽいっ、である。様々なことに右往左往しながら、手探りで私は何とか生き延びてきた。
ある程度生活が整って来た頃には十年が経過し、弱いながらに己の目的を見付け、余裕のある生活をするのに何百年と経った。
そして現在、私は周の国のとある森の中で一人チビチビお酒を飲んでいる。
このお酒はそこらの村から勝手に拝借させてもらった物だ。味はあまり良くない。良くないのだけど、今は味なんか気にしてられないくらい、お酒を飲んでないとやってられないのだ。
身に纏った衣服もボロボロ。光で輝く自慢の金髪は見る影もなく、鬼の象徴である二本の角も土と泥だらけ。
それもこれも、つい最近この辺りに現れた九本の狐尾を持つ妖怪のせいである。
この辺りは近くの湖に住む水虎と呼ばれる妖怪のテリトリーで普段は私以外何者も近付かない。私はお互いに不干渉の誓いを立てた上で、水虎に私がこの森に住める条件を取り付けたのだ。だから私と水虎以外森には誰もいない。
水虎は中妖怪の中でも強い部類に入る。そんな強い妖怪様が何故私のお願い事を聞いてくれたのかは謎であるが、まあそんな事は些末な問題だ。
そんな事情があるから、私はとある機会にお気に入りの酒を蔵から引っ張り出して飲んでいた。しかも、国の祝い事で振る舞われる筈だった醸造酒だ。昔、王宮に入る機会があった時に盗んだ秘蔵のお酒である。
そんな時だ。あの九尾の妖怪が現れたのは。
厳密には私の前に現れて何かしたわけではない。遠目で九尾を眺めたときはその膨大な妖気に恐れて身を隠した。九尾はそのまま私に気付かず通り過ぎると水虎の所に現れて争いを仕掛けたのだ。
激しい妖怪同士の戦い。近くにいた私は堪ったものではない。
周りの木々を薙ぎ倒すほどの局地的な暴風が起こった。その影響で私は酒諸とも吹き飛ばされ、酒の入れ物は死んだ。
今私はぶっ掛かった酒でびしょ濡れの上、跳ねた泥や土で汚れ放題。
飲んでなきゃやってられないわチクショー……。
「あー……ったく、こんだけ飲んでるのに何で酔わないんですかーー!!」
チビチビとやけ酒を飲んでいた私だが、とうとう盗んだ酒すら飲みきってしまった。だと言うのに私はほんのちょっとすら酔った様子がない。
ちなみに自慢じゃないけど、私はいくら飲んでも酒に酔ったことがないのだ。それが良いことの時もあるし、今のように酔え無くて悪いこともある。
例外として酔えるお酒もあるんだけど………これは駄目。やけ酒で飲んでいいお酒じゃない。命の危機にしか飲まないと決めているんだ。
「もういいです。ふて寝しましょう。あの九尾の妖怪もその内水虎が倒してくれるでしょうし。終わるまで寝ま―――」
「コォォオオオオン!!」
「すっ?」
突然後ろから狐のような鳴き声が轟いた。直後、私の背筋に気持ちの悪い悪寒が駆け巡る。
私が寝ようと屈みかけた姿勢でいたことと、慌てて振り返ろうとしたせいか木の根が私の足を引っ掻けた事が幸いした。
直後、転けた私の頭上をとてつもない速さで何かが通りすぎたのだ。
「わわわっ」
前方にあった太い木の幹が何かにくり貫かれたように穴が空いた。その木はバランスを保てなくなったのか私の方へ倒れてくる。
いくら弱くても木に押し潰されたくらいで死ぬ私ではないが、今はそれで時間を取られる訳にはいかない。
私は慌ててそれを避け、突然奇襲してきた輩がいるだろう背後を振り返る。
そこに件の襲撃者はいた。
「グルルるる…………」
腰辺りまで伸ばした私と同じ金髪に、小さい体。顔は美しく整っており、世の中のそう言う趣味の男達が放って置かないだろう。
付け加えるなら、その幼女の頭から狐耳が飛び出し、腰から九本の尾を生やしている事くらいか。
つまり何が言いたいのかと言うと、だ。
完全に私がさっき話していた九尾の妖怪である。本当にありがとうございました。
…………じゃねぇ! ちょっと待って! 何でこの妖怪がここにいるの!? 水虎と争っていた筈じゃ……
その時私は見てしまった。九尾の左手に幼い虎の首があったのを。舌が力なく垂れ下がり、顔はピクリとも動かない。
ヤバイヤバイヤバイ。脂汗が止まらない。私は今さらになって如何に自分が危険な状態でいるのかを認識した。
水虎はこの辺りの妖怪の頂点に君臨する。どんな妖怪も水虎を恐れ、近寄らなかった。
それが少女のような見た目からは想像できないこの九尾の妖怪が殺した。争った後だと言うのに特に外傷もなく、水虎を生首の死体に変えてしまった。
確実にこの九尾は大妖怪に分類される実力を持つ。
「な、何か私に用ですか? 」
そんな天下の大妖怪様が目の前にいる。一言話すだけでも声が震えるのは仕方がなかった。
というかこの妖怪。さっき後ろから襲ってこなかった?私の背後にある太い木がへし折れているんですけど? 私が躓いた時に殺そうとしましたよね? え、殺意高くない? 私何かしましたか?
「ガルルぅ……」
襲ってきた九尾が口を開いたかと思えば唸り声しか漏らさない。人間の見た目をしている割に言葉は喋れないのかもしれない。
ただ目が語っている。私を喰らってやると言う意志が垣間見えるのだ。
しかしまて。私を食う? いやいや、美味しくないから。私、貴女より人間ぽい見た目しているけど、見て角。私妖怪だから鬼だから! 人間みたいに美味しくないよ。止めてくれ。
そんな私の弁明の余地もなく、九尾は再び襲い掛かってきた。
「ちょ、まっぶぇあッ!!!??」
お腹に刺さる激痛に口から変な声が漏れた。
て言うか痛い。痛い痛い痛い!! なにこれ、私のお腹に九尾の尻尾が突き刺さってるッ………
「がフッ…………ぅえぇぇ……」
お腹から尻尾が引き抜かれるとまた変な声が漏れる。
て言うか血が………ヤバイ。血が止まらない。いや、そんな事どうでもいいからお腹が痛い。腹痛とか言うレベルじゃないから。お腹に大きな孔が空いてるんだもん。
は、早く止血しないと…………でも痛くて動けな………あ、ヤバ。意識が…………。
気付いたら私は荒れた土地で倒れていた。
なんだここ。私はこんなところ知らないぞ。て言うか九尾の奴は? どどどどどどこ行った!?
キョロキョロと辺りを見回しても、倒れた木々が腐り落ち、荒廃した土地が広がっているだけ。いや、マジで何処だここ。確か私は九尾に腹を刺されて死んだ筈じゃ……生きてたの?
…………お、おお。刺された筈のお腹も元に戻ってる。流石腐っても鬼である。腹部に巨大な穴が出来た筈の服も何故か復元しているのは謎だけど。
それにしてもここはどこだ? そもそも私は何故殺されなかったんだろうか。食らうじゃなかったの? いや、食われたくは無いけどさ。
全てが謎だらけ。ううむ……まさにミステリー。この難解な事件を解き明かせるものはいるのだろうか。
「さて……馬鹿な事を考える前に、せめて自分の居場所をしっかり把握しておかないとですね」
ツラたん(泣)、とかふざけてる場合じゃない。て言うか本当にここどこ? 周りは全て腐った倒木で埋め尽くされている。かつては綺麗な森だったような跡も、枯れ落ちた葉と沼のように湿った泥で見る影もない。これじゃあ食料の調達も儘ならない。
て言うかまて。私が今まで貯めてきた秘蔵のコレクション達は? 数々の名酒は? まさか、全てあの森に置いてき、た……?
「う、嘘でしょ……?何年掛けて集めたと思ってるんですか……?」
え、マジで? 本当に? 冗談じゃなくて?
……
………
……………………………………………………
あの狐ぇぇぇぇええええええええ!!!!!
次会ったらあの狐の尻尾を束ねて私の掛け布団にしてやる! モフモフしてモフモフしてモフり尽くしてやる!!
この怨み絶対に晴らして
―――ドンッ
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい調子に乗りました何でもしますだからこれ以上私を不幸にしないで。
…………焦った。突然近くで大きな音がしたから驚いてしまった。あ、別にビビって無いからね? ただすこーし驚いただけだから。それだけだから。驚きすぎて涙なんか垂れて無いんだから!!
それにしても何なんだいったい。何か空から落ちてきたような衝突音だったけど…………ふむ。
………ふむ
……………ふむ、ふむ。
おかしいな。私の目の錯覚かな? それとも疲れてるのかな? なんか、ボロボロになった九尾の狐らしき物体が倒れて見えるんだけど。
「ガフッ……ぁ」
ものっそい瀕死である。このまま放っておけば死ぬんじゃないかと思われるほど、瀕死である。
うーん? もしかしてこの大地が腐ったような光景は、私が何処かに移動した訳じゃなくて単純にあの森が腐ってこうなったってこと? そうなると森を腐らせたのも、九尾を瀕死に追いやった誰かと言うことになるけど…………。
私は空を見上げた。
「ひっ!」
そこには蛇のような細長いニョロニョロした物体が空を悠々と泳いでいた。ちなみに蛇ではない。何故なら身体中に鱗が生えており、顔からは鹿のような角と髭が伸びている。
そして一番違うところと言えばその体躯。蛇なんかと比べ物にならないほど大きな身体が九尾と私を見下ろしていたのだ。
………あわ、あわわわわわ!!!
ちょっ、何アレ!? 龍じゃん!! 何でこんなところにいるのさ! てかずっとこっち見てるし!! え、貴方も私を食う感じ? 齧っちゃう感じ? ああ…………痛いのは嫌だよ。せめて痛くないよう一思いに………
内心で慌てている私を他所に、かの龍は私や九尾から興味が失せたのか、顔を反転させると何処かへと飛び去っていってしまった。
その光景は幻想的で、空の支配者とも言える貫禄があった。頭がパニックになった私には、それをただ呆然と眺めることしか出来なかった。
「………水龍」
去っていく龍の様子を眺めながら、私はとある噂を思い出していた。
あの水虎がいた湖。あの湖には水龍が封印されていたと言う伝説が近くの村で噂されていた。私は眉唾物だとまったく気にしていなかったが、どうやら本当だったようだ。
水虎は妖怪であると同時に、もしかしたら水龍を封印する守り神だったのかもしれない。いや、それとも水龍を封印する悪い妖怪だったのか。
死んだ今となってはどっちが事実なのかわからないが。
いや、それよりだ。え、怖。ガチで怖い。私が知らなかっただけで、この辺りの森は人外魔境の地にだったの? まあ妖怪が住んでる時点でそうではあるんだけどさ。
て言うか危な! 私も運が悪ければ巻き込まれて森と同じ道を歩むことになったかもしれないんじゃん!!
「げほっ、げほっ……ぐっ、かはッ!」
ん? なんかすごく苦しんでいる呻き声が聴こえる。………あ、忘れていた。そう言えば倒れている狐がすぐ傍にいたのだった。
ふむ………本当にこの九尾は死にそうである。恐らくあの水龍にヤられたのだろう。良く見れば尻尾も何本か引き千切れて酷く無惨な姿だ。感じる妖気も少なく、かなり憔悴しきっていて可哀想に思えてくる。
…………………
「ぁぐ、んぅぅぅ―――!」
…………………
「はッ、はッ、はッ―――」
…………………
…………
……
駄目だ。無視できない。いくら先程私を襲ってきた敵だとは言え、ここまで弱まっている彼女を見捨てることが出来ない。
私は強い者が嫌いだ。だけど、死にそうになっているこの九尾を見ていると、今の私と重なって見える。その姿を見ると、まるで自分自身を見捨ててるようで、耐えられない。
「はぁ…………仕方がない」
そう、仕方がない。仕方がないのだ。
彼女を見捨てれば後味が悪くなりそうだ。そうなるとお酒の味も悪くなる。酒好きの私としてそれは看過できない。
結局、どんなに弱かろうと私は鬼なのだ。好きなことをして、後悔せずに生きる。
鬼に横道はない
私はそれを胸に図太く生き続けてきたのだから。
仕方なく、私は倒れて小さな九尾の体を抱き上げた。