透明人間にはどうやってなれるのだろう。

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透明人間

 -透明になれたら

 

 僕の胸の内にずっと昔から居座っている一種の感情だ。透明、あるいは無彩色。色はないけど確かにそこに存在するもの。空気や水なんかが良い例だろう。どちらも彩色を確認することはできないけど、存在を認識することができる。

 

 この感情がいつから芽生えたのか、僕もよく理解していない。気づいたらあった。そんな感じだ。人が意識せずとも喋れるようになってたり、文字が読めるようになってたり、友達が出来てたり、大人になってたり、時間の経過とともにこの透明願望とでも呼ぶべき存在は自分の中で徐々に肥大していった。

 

 透明になりたい。僕という人間は確かに他人の心を領地を微かに、あるいは盛大に占領しているが、誰も僕と関わることのできない、僕に興味を持たない、あるいは持たれない。そういう人間になりたい。

 雨にも風にも負けず、病人を看護し諍いを仲裁するような自己犠牲に満ち溢れた耐え忍ぶことを美とする人間なんてクソくらいだ。何故血を吐く思いをしてまで我慢を強いなければならないのか。何故赤の他人の面倒事に首を突っ込む必要があるのか。理解出来ない。そんなものは学校や大人が宣う綺麗事となんら変わらない。人と関わるメリットなどデミリットに比べればほんの僅かでしかない。それもあってもなくても大きな支障をきたすようなものでもなく、ちょっとした自己満足のようなものだ。

 だから、僕は、誰かと関わりを持つわけでもなく、自分だけで自己完結する世界。他人に揺さぶられず、自分の好きなように生きれるようになりたかったのだ。

 

 ▼

 

 過去の自分の意嚮を綴ったノートを見て溜息を1つ、空に放つ。

 これを書いたのは中学生の頃だったか。厨二病真っ盛りではないか。自分だけで生きていけると思い上がっていた過去の自分に憐憫の思いを馳せる。

 

 結局、自分は喜ぶべきかはたまた悲しむべきか、透明人間にはなれなかったと思う。独りだけで生きていけると盲信し孤独を好んだ結果、よすがとなるものを失い、そのくせ不特定多数からの非難、或いは糾弾を恐れて鋳型にはまったような模範的な行動をなし続けてきた自分は、何処にでもいる「ありふれた優等生A」のようなものとなってしまった。

 手のかからない子。それはつまり、信頼を置かれると同時に自分をあまり見てもらえないということ。「あの子なら優秀だしきっと大丈夫だろう。」その何の根拠も無い信頼が1人の人間として心を通わす機会を失わせ、心理的孤独に拍車をかける。まさにいるだけの存在。誰にも興味を持たれなかったが、他人の心に残る人間にはなれなかった。

 

 はたして、本当にこれが自分の望んだ未来なのだろうか。多分少なくとも過去の自分が求めたものでは無い気がする。

 中学生の自分は、人間らしかった。他人からの干渉を嫌うくせに、自分は誰かの心理的世界を堂々を占領する。自分がされるのは嫌だが、自分がするのは良い。実に人間らしく、独り善がりで、身勝手な考えだ。いっそ滑稽とすら言えるかもしれない。

 でも、今に自分にはもはやそれすら無い。己の世界を守る事も、他人に覚えてもらいたいという欲求すらも消え失せた。泡沫の理想は遠い昔に残滓すら残さず蝶とともにどこか遠くに行ってしまった。

 

 生きる意味などないが、死ぬ理由もないので生きている。強いて言うなら親不孝と言われたくないからだろうか。まぁ齢30を目前にして未だ浮かれた話の1つもできない自分は既に不孝者かもしれないが。

 

 大学卒業から約7年働いた会社は、先日クビになった。曰く不景気なんだそうで何人か社員を切り捨てる必要があったらしい。それなら仕方ない。どんなものにも犠牲はつきものだ。自分のどうでもいい個人的感情と会社の存続、どちらが尊重されるべきかは一目瞭然だろう。

 悔いがないと言われれば嘘になる。営業成績は決して良いわけではなかったがそれでも必死に今まで頑張ってきた。それを何の前触れもなくクビだと言われてみよう。悪くないのに辞めさせられる。これ程までに遣る瀬無い気持ちになろうものか。自分の一体何がいけなかったんだ。汗を垂らして、身を粉にして必死に利益に貢献した。その結果がこれだ。

 理不尽。あまりにも理不尽だ。誰が悪いわけでもない。ただ、たまたま自分が辞めされられただけ。自分じゃなくても他の誰かが同じ目に遭っていた。第1、社会に理不尽は付き物だと散々言われ続けてきた。覚悟はしていた。でも、実際に身に降りかかるとは思っても見なかった。

 これ程までに辛いのか。自分の努力を路傍の石を蹴るようにいとも容易く踏みにじられるのは。

 その夜は、後輩に付き合ってもらいやけ酒をした。家に帰り、十数年ぶりに涙を流した。

 

 そして頭痛に苛まれながら起床した次の日。部屋にはしわくちゃのシャツやスーツが乱雑に散らかっていた。判然としない意識の中、取り敢えず散乱した部屋を片付けながらこれからどう過ごすか計画を立てる。

 ハローワークか何処か仕事を紹介してくれる所には明日行こう。今日は体調はあまり著しくないし何かする気分にもなれない。幸い無趣味だったので親へ仕送りしていても貯金は増え続ける。切り詰めれば多分1年は持つだろう。

 なら今日はどうやって過ごそう。先も行ったが無趣味なのでしたいことが何1つとしてない。なんとなく、本当になんとなく、外に出てみようと思った。最近は働きづめだったし家にいたら頭も心も体さえも腐れ死んでしまいそうな気がしたから。

 

 財布など、最低限の荷物だけ持って外に出る。荒んだ心とは裏腹に、雲1つなく、青空が雑多に屹立するビルの彼方にまで広がっていた。

 陽炎がゆらゆらと世界を歪める。平日の昼間、灼熱の街には誰も居ない。当てもなくふらふらと歩いていると、バス停を見つけた。

 炎天下の中だからか、外には誰もいない。皆カフェや店の中で涼んでいるが、自分はどうもそんな気にはなれなかった。

 暑い日は嫌いだ。汗で体がジトジトするし、頭がまるでサウナの中にいるようにぼーっとしてくる。でも、ふとした瞬間に横切る風が、まるで砂漠で見つけたオアシスのように安心感があり、この世の何にも換えが効かないほどとても心地よいものだから、一方的に憎めない。

 炎天下の中、バス停で座り続ける。この地獄の業火のような所業を耐え続ければ、いつか涼風が癒してくれると信じているから。無意識のうちに、暑さと仕事を重ねていたのかもしれない。

 

 風は吹かなかった。けれど、その代わりに、1人の少女が颯爽と現れた。

 

「おじさん、こんな暑い日に何してるの?」

 

 何の混じりっけのない、純粋無垢な瞳を携えた少女が自分の前に仁王立ちしていた。

 麦わら帽子に、白のワンピースを着ており、濡れ羽色の髪を肩ほどの長さまでに伸ばしている。肌は陶磁器のようにきめ細かく、色白い。高く美しい鼻梁に、キラキラと好奇心を惜しげもなくさらけ出し輝いて見える目。身長は女性にしては少し高く、座っているとは言え少し見上げるように顔を見るには上に向ける必要がある。スレンダーな体をしているが、出るところはしっかり出ており膨よかな双丘が胸に強調されている。絵に描いた娘、絶世の美少女。彼女を表すのにこれ程しっくりと合う言葉を後に先にも自分には思いつかなかった。

 

「見ればわかるだろ。座ってるんだよ。」

 

 彼女の質問にそう答える。

 

「何で?」

「待ってるから。」

「バスを?」

「違う。」

「じゃあ何を?」

「風を。」

「何で?」

「風と共に全てを流したいから。」

「全てって?」

「遣る瀬無さ、怒り、悲しみ、なにもかも、全部。」

「ふーん。」

 

 人差し指を顎に当て目を閉じ、少し考えるように唸ってから微笑を湛えて彼女はそう言った。非常にあざとくはあったが何故か彼女がやるとそれが当たり前で、まるで彼女のために生まれた仕草のように思えた。

 

 会話が途切れ、再び風を待ち続ける。やがて少女は好奇心を満たすことができたのか、別れを告げてきた。

 

「ありがとう、おじさん。じゃあまたね。」

「ああ、またな。」

 

 再び合う日など二度とこないだろうと思いながら、そう答える。立ち上がり、帰宅するため歩みを進める。変わらず風は来なかったが、心は少し晴れやかとしていた。

 

 それから毎日、とは言っても再び仕事に就くまでにかかった1ヶ月の間だけだが、毎日バス停で座った。彼女と話したら、心が満たされる気がしたから。残念ながら毎日会えるわけではなかったけれど、それでも週に2、3回は彼女に会えた。

 

「また会えたね。おじさん。」

「ああ、また会えたな。」

「また風を待ってるの?」

「まぁそんなもんだ。」

 

 彼女はいつも座らず仁王立ちで会話していた。曰く、見上げているあなたの表情が見たいから、らしい。よく分からないが好奇心旺盛な人は往々にして理解しがたいことをたまにすることを長い人生で経験していたため特に触れなかった。

 取り留めのない会話を炎天下の中し続ける。不思議と中に入ろうという気にはなれなかった。

 

「なぁ。」

「ん?何?」

 

 いつもと同じように一等星のような輝きを持った目を自分に向けながらそう聞いてきた。

 

「お前、学校行ってないのか?」

「…所属はしてるよ。」

「てことは登校はしてないんだな。」

 

 目に僅かな影が射した。タブーだったのだろうか。話題を変えようと口を開こうとした時、数舜速く彼女が言葉を発した。

 

「ねぇおじさん。」

「透明になれたら、って思ったことある?」

 

 まるで過去の自分を見ているようだった。自分は不登校だったわけではないが、社会的疎外感は少なからず感じていた。

 

「死にたい、とかではないのか?」

「うん。透明になりたいの。」

 

 訥々と、彼女は心の内を語り始めた。

 

「私はね、1人で生きたいの。誰にも左右されることなく、視線や社会的立場なんて捨て去って、自分の感性を信じて行きたい。誰も私に関わって欲しくないの。でも、私のことを忘れないで欲しい。私がいたことを覚えていて欲しいの。だって誰も私のことを知らないのは寂しいと思うから。変な話だよね。私は自分しか知らないのに、他人には私も見て欲しいと思ってるんだから。」

 

 そう言って、彼女は頰を掻きながら少し気まずそうにはにかんだ。

 

「いや、変じゃないよ。自分は、とても人間らしいと思った。」

 

 ゆっくりと、首を横に降る。」

 

「人間らしい?」

「そう。人間らしい。」

「どうして?」

「そうやって独りよがりな考えを出来るのは人間の特権だからさ。」

「本当に?」

「というと?」

 彼女がそう聞いてきたが、質問の意味がわからなかった。

 

「確かに思考出来ない動物や野生の本能に従って行きてる動物もいるけど、例えば猿とかああいう動物も考えを持って行動してるんじゃないの?」

「でも例えその他の動物もそういう独善的な考えをしていたとしても、僕たちには分からないだろう。」

「確かに。」

「だからそこら辺は特に考えなくていいんだよ。異種族を含めず、同じ人間同士で決められるならそれで。」

「そういうものなの?」

「そういうもの。」

「ふーん。」

 

 少し納得がいっていない様子だったが、渋々といった感じで分かってくれた。多分理屈として理解できなくはないが、感性が理解していないのだろう。そこもまた人間らしい。

 

「ねぇ。私、なれるかな?」

「透明人間に?」

「そう。なれると思う?」

「もうなってるんじゃない?」

「本当に?冗談は嫌だよ?」

「なれてるとも。僕が保証するよ。」

「そう。ならありがとう。」

 

 彼女は立派な透明人間だ。

 -自分を信じて生きている。曇りなき眼がそれを証明している。

 -他人を気にせず生きている。不登校であることがそれを証明している。

 -誰かの心の中に生きている。僕がそれを証明している。

 

「じゃあまたね。」

「ああ、また。」

 

 いつも通りの挨拶をして彼女はそっと席を立つ。自分の前を通り過ぎて、陽炎の中にその身を投じていく。

 彼女が自分の前を横切った時に感じたあの風を、自分は恐らく生涯忘れることはないだろう。

 彼女との会話が、自分の心を綺麗にしてくれた。

 彼女との日々が、童心を呼び覚まし、自分だけの、僕の世界を蘇らせてくれた。

 彼女のその目が、僕という存在を認識してくれた。

 それらは僕が勝手にそう思っておるだけであり、彼女が本当にそう感じているかは分からない。あの会話を最後に彼女とは一度も再開することは無かったので本当はどう思っていたのか今でも分からない。でもそこもまた人間らしいと思う。

 

 結局、ついぞとして自然が僕の気持ちを流し切るに足る量の風を吹かすことはなかった。でも、あの時、颯爽と現れた少女が起こしたさざ波すらできない微風が、僕を変えてくれた。透明人間というものは、どうやら自分だけでなれるものではなかったらしい。

 

 僕が彼女を透明人間にしたように、名前も知らない彼女もまた、僕を透明人間にしてくれた気がした。


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