この物語は日本近代、戦乱期に各登場人物が生まれていたら、どのような生涯を送ったのか、という仮定で語られる物語です。
1904年 明治37年 本土 田中屋敷
田中義一は戦傷で中指を失った手で井戸から水を汲み上げると、神棚に供えた。
「……」
言葉無く一礼一拍すると、背後に嫁の気配を感じて振り返り、笑みかけた。
「おはよう」
「おはようございます。お義父さま……」
田中カナタは慌てて浮かべていた涙を指で払うと「アクビしただけです」などと不謹慎な言い訳をしたが、義父は見逃して庭に出た。
「……」
庭に咲いた花を選んでいると、カナタが庭バサミを渡した。
「こんな時代でなければ、ワシは紅花農家でもやっていたかもしれんな」
「陸将であらせられるお義父さまが、そんな風に言われてはイチタローが文句を言いますよ」
「似合いもせぬことを、志願しおって……」
「…………やはり……今度の戦は難しいのですか?」
物怖じする女であれば絶対に訊かないことを聡い嫁は平気で口にするが、義一は許した。
「ロシアとの戦に際し、もっとも重大で難しいものになるだろうな」
「…………そうですか……」
機密に触れない程度に教えられたカナタは内心の動揺を隠して「きっと大丈夫ですよ。イチタローの一は、お義父さまの一から戴いたのですから、一番運がありますよ」と微笑んだ。
中国東北部 遼東半島 旅順港 輸送艦伊吹
田中一太郎大尉は沈みつつある伊吹艦内を走り回っていた。
「加賀! どこだッ?! 返事をしろッ!!」
これで三度目になる捜索だが、見つからない。
間もなく伊吹は船底に仕掛けた爆弾により旅順港の狭い水路を塞ぐように沈没する。艦の外からはロシア軍の機銃が轟き続けている。
「加賀!!」
(………タイチョー……)
かすかに返事が聴こえた。機関室の奥から加賀正午二等兵はフラフラと立ち上がった。
「すいません……砲撃で……頭を打って……」
額から血を滲ませた正午を見つけると、一太郎は肩を貸した。
「脱出するぞ」
「…はい………」
全ての部下を確認した一太郎はボートに移乗した。激しく水面を叩くのは敵弾だが、運さえあれば当たらぬと叱咤して飛び乗らせる。
ドウゥンッ!
伊吹から轟音が響き、水面が揺れた。
見る間に伊吹は轟沈していく。
「伊吹……ありがとう」
沈みゆく艦に別れを告げると、ボートを漕ぐ隊員に方位を示し、舳先に立った。星明りと敵砲火だけが、方位と陸地を教えてくれる。
「あと少しで回収艦と合流できる! 手を休めるな!」
「「「よおそろッ!!」」」
無灯火のボートを敵の探照灯が探し当てることは確率としては低い。そして、掃射されている機銃が当たることも。
「タイチョー! 伊吹が! 完全に水没しました!」
正午の報告に、一太郎は頷いた。
「これでロシア極東艦隊は港内に封じ込めた」
「ですが、バルチック艦隊が派遣されていると聞いておりますが」
一太郎は内心で肩をすくめた。バルチック艦隊来襲の事実は上層部にしか伝えられていないはずだったが、陸将田中義一を父に持つ一太郎は当然知っており、また二等兵の正午にまで広まっているならば、隠す意味はなかった。
「正午、この作戦で旅順港内のロシア艦艇を封じ込めれば、少なくとも最悪のシナリオは回避できたことになる」
「………バルチック艦隊との合流を防いだということでしょうか?」
「そうだ。加賀も士官を目指すなら、大局的にものを見ろよ」
「はい…………では、バルチック艦隊は……どうなるのでしょうか?」
正午は少し考えてから尋ねたが、一太郎は笑った。
「そいつは、連合艦隊の仕事だな。なに、日清戦争で名を挙げた東郷平八郎どのが艦隊司令だ。相討ちくらいには運んでくれるさ」
「相討ちですか……」
正午が不安げに考え込んだ後、別の質問をしようと顔を上げたとき、一太郎の姿は轟音とともに消えた。
「タイチョー?! タイチョー?!」
要塞化された旅順からの流れ弾が、港封鎖の立役者を英霊に変えていた。遺骨一つ残さずに。
神奈川県 横須賀港
高らかに軍艦マーチが響き渡る中、加賀音緒は夫の姿を見つけ、手を振った。巡洋艦霧島のタラップから夫は静かに降りてきた。正午は妻と息子を少しばかり抱きしめると、離れて立っていたカナタに歩み寄った。すでに戦死の報を受けていたカナタだったが、義父が止めるのも聞かずに帰ってくる艦を迎えに来ていた。
「…………カナタ………これが……」
正午は言葉が選べずに、ただ士官室から集めてきた一太郎の遺品を入れた風呂敷を渡した。数冊のノートと衣類だけだった。
「……ありがと……」
「………」
「…………」
「……」
カナタは風呂敷を受け取ると、海を見た。正午が何を言うべきか煩悶していると音緒に軍服の袖をつかまれた。
「…」
音緒はカナタに一礼した。
「田中さん、この度の中佐への御昇進、おめでとうございます」
「「…………」」
出陣も帰還も、そして戦死による二階級特進も、すべて「おめでとう」と言って祝うのが、日清戦争以後の習わしだった。
「…………」
「…」
「……」
カナタは音緒に応えず、正午を見た。
「イチタローの最期は………立派だった?」
「……ああ……最期まで隊員全員を帰還させようと…………遅れたオレを三度も探しに来てくれたから…………オレは助かった…………けど…」
「そう、ならいいわ」
カナタは続きを遮ると、突堤へと歩き去った。
「………カナタ……」
小さくなるカナタの背中を見ている正午に、息子の手を握った音緒が近づく。
「お家に帰りましょう、あなた。扉も、ずっと待っていたのよね」
五歳になる二人の息子は「別に…待ってねぇ…」と出征続きで会うことの少ない父から顔を背けた。なつかない息子の頭を軽く撫でると、正午は音緒の目立つようになった腹に手を当てた。
「やっぱりデキてたのか?」
「ええ、もう六ヶ月です。本当にメデタイこと続きですね。御国も勝ち戦でしたし、あなたも本当にご苦労さまでした。きっと昇進なさいますわよ」
「……そうか……名前を考えないとな……」
「それでしたら、良い名を考えたのですが……」
「どんなだい?」
「男の子でしたら、東郷さまがロシア艦隊を一蹴なさったのに、ちなんで一蹴と名づけようかと……ダメでしょうか?」
「いいと、思うよ」
音緒に答えながらも、正午は突堤に見えるカナタの小さな背中が、嗚咽に揺れているのに気づいていた。
雨が降り出してきた。
「………」
遠くて聞こえないが、正午にはカナタが声をあげて泣き始めたのが、わかった。
「…………」
「田中中佐は英傑として、軍葬さられるらしいですわ。立派な方でしたね」
「……タイチョーのおかげで……オレは帰ってこれたんだ」
「……」
「タイチョーこそ、生きて帰れば東郷どのに並ぶ功労者だったのに……」
「あ、せっかくの正装が濡れてしまいますよ」
音緒は自分の上着を脱ぐと、軍から支給されたばかりの正装が濡れないように正午の肩にかけた。
「さあ、濡れないうちに帰りましょう」
「……ぁ…ああ……」
正午はカナタが後を追って身投げするような性格でないことを熟知していたが、心配なことに変わりはなかった。
「………あなた…」
「……」
正午は音緒と膨らんだ腹に視線を落としてから「少し待っててくれ」と言い、番兵を呼んだ。ポケットから出した20銭を番兵に渡すとカナタを指して「彼女は田中陸将の娘だ。大事ないように」と告げた。番兵は敬礼で応えた。
「………ごめん…………これくらいしか……できないから……カナタ……」
もう一度だけ突堤を見た正午は静かに帰宅した。
翌年 1905年(明治38年)9月5日 東京日比谷公園
休暇を与えられた正午は妻と二人の息子を連れて、公園を歩いていた。
「今日は、ずいぶん人が多いな」
「そうですね。少し物騒なほど……怖い…」
音緒は産んだばかりの一蹴を抱きなおすと、正午に寄り添った。公園内は喧騒が沸き起こっている。
(明治政府は腰抜けだっ!)
(なぜロシアから賠償金を取らない!)
正午は眉を顰め、呟いた。
「国力が及ばないからだ。そんなこともわからないか」
日比谷公園に集まった国家主義者を中心としたアジ演説に正午は反感を覚えた。
「オレたち軍が、どれだけ苦労してロシアに辛勝したと思ってるんだ。何も知らないクセに」
「あなた………それは軍人さんから、言えばそうなるのでしょうが………ただ彼らは生活の苦しさと、重い税に怒っているの………実際、お米の値段だって天井知らず……扉も食べ盛りになったのに……軍の昇給より、ずっと早く物価が上がってしまって……」
「音緒……それは………わかるけど……けどさ。あのままロシアと戦ったって……賠償金を取るどころか……」
日本海海戦に勝利したときに、日本が諸外国からの借金と国債でまかなった戦費は国家予算の八年分にのぼっていた。長期戦となればロシアとの国力差によって形勢逆転されることは明々白々だった。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介で結ばれたポーツマス条約に不満を唱える感情は理解できたが、正午は納得できなかった。
(明治政府を打ち倒せ!!)
政府を糾弾していた国民大会は正午たちの眼の前で、暴動へと発展した。官邸、警察署、政府系新聞社を目指して暴徒が進み始めた。
「止めないと! 音緒! 扉と一蹴を安全なところへ!」
「あなたは?!」
「黙って見ていられるか! アイツらの頭を冷やしてやる!」
怒鳴った正午は群衆の中へと消えた。
数週間後 加賀家
黒い和服を着付けたカナタは数珠と線香料をもって加賀家の敷居を跨いだ。
玄関で音緒に一礼して挨拶する。
「ご主人さまのご逝去に大変驚いております。さっそくお悔やみにうかがうべきところですが、なにぶん都合がつかず、ご会葬に参列かなわなかったことお許しくださいませ」
「………何しにきたの?」
子供を寝かしつけていた音緒は不機嫌そうにカナタを睨んだ。
「霊前に焼香を…」
「笑いに来たんでしょ?!」
音緒が喚いた。
「笑いに来たんだ?! ザマァミロって思ってるんだ?! そうよ! 私も未亡人よ! 白々しい顔してないで笑いなさいよ!」
「音緒さん……私は……ただ…」
「帰って! ずっと、あの人は私じゃなくて…っ……っ…帰って! 二度と来ないで!」
「…………心から、お悔やみ申し上げます。なにとぞ、お心を強くもたれ、ご自愛なされますよう」
型通りの言葉を残してカナタは玄関を出た。往来に出ると、生垣越しに仏間と座敷が覗けた。
「…ショーゴ……バカなんだから……」
仏間に見える骨壷に瞑目して、目を開けると音緒の妹と目が合った。脚萎えの妹は座敷牢に隠されている。世間の目を憚るように座敷の奥に監禁されていた。
「………………」
廊下から音緒が現れると、障子をピシャリと閉めてしまった。
「………ショーゴのバカ……」
小さな声で呟くとカナタは歩み去った。
翌年 8月 澄空霊園
海軍中佐、故田中一太郎の墓碑は海軍省直々の建立だけあって、どの墓石よりも高く空に聳えていた。
「イチタロー……」
名前だけを呼ぶとカナタは念仏を唱えず、献花して瞑目した。田中家の縁者、海軍関係者からの花で墓前は敷き詰められている。
「いっぱい……お花がもらえたね。いっそ、花屋でも開業する?」
冗談を言ってから、カナタは別の墓石を探した。
「……………ショーゴ……」
カナタは何を言っていいか、わからなくなった。
「………」
加賀家の墓石は草に埋もれ探すのも大変だった。今年に入って一度も手入れされた形跡がなかった。
「…………子供二人もいると、忙しいんだねぇぇ……しょうがない。やさしいカナタさんが掃除してあげるよ。バカショーゴくん」
カナタは一度帰宅して着物を脱ぐと、モンペ姿に草刈鎌を持って、加賀家の墓を整えた。
「そういえば、ショーゴは一人っこだし、お父さん、お母さんも結核で死んじゃったんだよね」
語りかけても答えはないが、ようやく献花すると立ち上がった。
「田中さん、なにやってるの?」
背後から音緒に声をかけられた。
「……」
「…………」
「勝手に……ごめんなさい……ちょっと草が目立ったから……」
「…………」
音緒は黙ってカナタと加賀家の墓石の前を素通りした。音緒の後ろに小柄な男性が続いた。
「……………」
カナタが見ていると、音緒が振り返って睨んできた。
「なによ?! 再婚しちゃいけない?!」
「………べ……別に……好きにすれば……」
「なら、そんな目で見ないで!」
怒鳴った音緒は井戸から汲んだ水を、力丸家先祖代々の墓に浴びせ、線香と献花を済ませるとカナタの前を通り過ぎる。
「……あの……音緒さん……」
「なに?!」
「………ショーゴの……お墓は……」
「知らない!」
「…………もし、よければ永代供養権を私に…」
カナタが明治民法下の供養相続権の話を持ち出すと、力丸音緒は怒った。
「フザけたこと言わないで! あんたなんか、なんの権利も無いでしょ?!」
「………………」
音緒と力丸真紅郎は霊園を去った。
「……バカショーゴ……無縁さんになっちゃうぞ……はぁぁ……また、イチタローの、つ、い、で、に見に来てあげる。拗ねるなよ」
カナタは墓石を撫でると、帰宅した。
12年後 1918年 大正7年 帝国ホテル
原敬を首班とする立憲政友内閣の陸相となった田中義一は多忙を極める中、よく家を守ってくれているカナタをホテルレストランの昼食に招き、本題を切り出した。
「そろそろ、うちの次男、二太郎と結婚してはどうか?」
「そのつもりはありません」
日露戦争では10万もの兵が失われ、未亡人が嫁ぎ先の次男三男と再婚することは珍しくなかったが、五回目になる提案を無碍に断った義娘を義一は笑った。
「大日本帝国広しといえど、陸相の私にこうまでハッキリものを言うのは一人だけだな。原総理でも少しは遠回しに断るものだ」
「頑固者ですから」
「そうだな、一太郎より頑固だったな。だが、いつまでも独り身では淋しくないか?」
「私はイチタローが守った御国を守り続けるお義父さまが、銃後の憂いなく御仕事なされますよう御家を仕置きさせていただいていれば満足です」
「……では、憂いなきよう二太郎と孫をつくってはくれんか?」
「それと、これとは同じ問題ですが、実行する気はありません」
義一は大笑いした後「男であれば、その胆力と聡明……大臣ともなれたろうな」と付け加え、カナタを残して御前会議に向かった。カナタは昼食を終えると、ホテルを出て執事が待っている車に乗った。車窓から街並みを眺めていると、見覚えのある顔があった。
「……」
商店街の魚屋で木箱を抱えている音緒と目が合った。
「……魚力……というお店なの……」
「何かおっしゃられましたか?」
田中家の執事、梅原ジイヤがバックミラー越しに尋ねた。カナタは「いいえ」と答えたが、しばらくして口を開いた。
「さっきの商店街に魚力という魚屋がありましたね。あそこに御家の魚を注文なさい」
「はい」
忠実な執事は理由も訊かず、指示を実行した。
カナタは義父が考え事をしやすいように書斎を整えていると、大八車が裏口に止まったのに気づいて炊事場に降りた。予想通り、音緒が木箱に詰めた魚を土間に配達していた。
「お久しぶり、音緒さん」
「………毎度ありがとうございます。80銭になります」
音緒は伝票を用意するとカナタを一瞥しただけで形式的に処理しようとする。
「ねぇ、少し話せるかな?」
「……あいにくと…」
テヌグイで手を拭いた音緒は顔を背けた。
「少しでいいの」
「……」
「あのね…」
「笑うんでしょ?!」
音緒が声を張り上げたので、炊事場にいた家人たちまで驚いた。
「笑うために注文くれたんだ?!」
「…」
「ええ、そうよ! 貧乏よ! せっせと働かないと五人も子供いるもの!」
「…………扉くんと一蹴くんは、お元気?」
「知らない!」
「…」
「あんな子たち丁稚にやったわよ! 前の夫の子なんていてもダンナが不機嫌になるだけじゃない! 知らないわよ!」
「…………ショーゴの子ども…」
「正午?! 何もかも、あの人のセイよ!」
「……なに、言ってるの?」
「いいわね、田中さんはッ! 立派な戦死されたものね! あの人は非番中の事故扱いよ! 戦死にもならない! 兵歴だって3年未満だったもの! 遺族年金なんか出やしないのよ!」
「…………それは……お気の毒なことだけど……」
「笑いたいでしょ?! 笑うんでしょ?! ええ! 再婚したって幸せになれなかったわよ! 再婚した途端に、お義父さんが事故死したわ! それで店はメチャメチャ! 私まで配達しないと食べてもいけない! それも税が重いからよ! 戦費! 戦費で! 田中大臣さまは徴収なさるけど、もう食べてもいけないわよ!」
「…………」
「ああ、本当に私って、つまらない男と結婚した!」
「……どっちのこと? 今のダンナさん……それとも…」
「両方よ! 犬死したバカ男と、ノータリンで赤字続きの真っ赤か男! どっちも最悪!」
「…………」
「とくに正午の方がバカね! すっごいバカ! あんな死に方するなんて! 思い出すだけで腹が立つわ!」
「……黙れ!!」
カナタは怒鳴ると、平手で音緒を叩いた。
「ショーゴもイチタローも立派だった! 御国のために戦った! 最期の死に方なんて関係ない!! あの二人がいなかったら、10年前に御国は負けてた!! とっくに植民地にされてた!! 二度とショーゴの悪口なんて言わせない!!」
「…………大臣ご令嬢がそう思うなら年金出してよ! 正午の内助の功は私よ!! なんで、御国は一銭もくれないの?! 税ばっか取ってく!」
「………………わかった」
カナタは裁量で動かせる30円を音緒に渡して告げる。
「一蹴くんと扉くんの親権、それに正午の永代供養権、それと交換してあげる。今夜のうちに弁理士と行政書士を遣わせるから」
「…………卑怯じゃない? 私がお金に困ってるからでしょ?!」
「黙れ! どっちも投げ出したクセに!」
「……………二度と、顔見せないで!」
「ええ、そのつもりッ!!」
魚代の80銭が飛ぶと、二人は永遠の別れを告げあった。
炊事場での苛烈な事件は、すぐに義一の耳にも届いた。カナタの懇願を義父は受け入れ、内務省に口利きすると、田中一太郎の生前に遡って実子扱いとさせた。丁稚に出されていた一蹴は見つかったが、扉は行方不明だった。突然に田中家に迎え入れられ驚いている一蹴にカナタは母親らしく微笑みかけた。
「一蹴はね、本当は、ここの家の子だったのよ。一蹴の一は、一太郎お父さんの一と、義一お祖父さまの一から引継いだの」
「……そうだったんだ! ぉ……お母さん……」
「はい」
自分の言葉を素直に納得した一蹴を見て、カナタは心の中で思った。
(……ちょっとアホね。大臣はムリ……)
「明治のカナタ」 終幕
史実
田中義一
明治~昭和初期の軍人政治家 1863~1929
陸軍大将。日清・日露両戦争に従軍。のち陸軍省に入り、軍務局長・参謀次長を経て、原敬・第二次山本権兵衛内閣の陸相となる。1925年立憲政友会総裁に就任し、27年若槻礼次郎内閣のあとをうけて組閣。治安維持法改正・共産党弾圧などの反動政策を行い、対中国積極外交をおしすすめた。29年7月、張作霖爆殺事件により総辞職し、2ヵ月後急死した。
日露戦争
明治37~38(1904~05)
日本と帝政ロシアとが満州・朝鮮の制覇を争った戦争。04年2月国交断絶以来、同年8月以降の旅順攻囲、05年3月の奉天大会戦、同年5月の日本海海戦などでの日本の勝利を経て同年9月アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によりポーツマスにおいて講和条約成立。
日清戦争
明治27~28(1894~95)
日清食品株式会社がイスラム教国に肉骨粉を混入した麺類を販売したことをきっかけに94年6月バルト海沖で日本海軍とイスラム連合艦隊が戦闘開始。日本は洛陽、台湾、黒海などで勝利し、95年4月講和条約を締結。