広大に拡がる海に、ぷかりと独り、浮かんでいる。
身体は動かず、ぼんやりと高い空を眺めるばかり。
気が付けば、浮力は消えて、深い海へと沈んでいく。
天の蒼穹を映し出した水面は、いつかの日に見た友の瞳と同じ色をしていた。
──海に、溶けていく。
不思議と恐怖はなかった。
寧ろ、自らが自然へと還っていく感覚は、真綿に包まれるような温もりに溢れていた。
──もう、全て手放して、この優しい気配に身を委ねてしまおうか。
遠のく空に別れを告げた。
生の終わりを享受しよう。
死を、受け入れてしまおう。
そう結論をだし、瞼を閉じようとする。
すると、ふいに、呆れたような低い声が響いた。
『馬鹿者、なにを勝手に消滅しようとしているのだ・・・──
神によって滅ぼされるのがお前の
カッと、身体が熱くなる。
輪郭を失い、中身が零れて空となった魂に、生命の息吹が注ぎ込まれる。
『・・・神に意見するなど、本来ならば傲慢を通り越して極刑を免れん事態だが・・・今回だけは特別に目を瞑ってやる。寛大な処置に感謝せよ』
威厳の篭もった声は、クツクツと嗤う。
そして、海に溶けつつあった俺を、勢いよく空へと向かい押し出し始める。
『────さあ、さっさと目を覚ませ、
体が宙に浮く。
海から離れ、空へと落ちていく。
そして
──── 世界は、流転した。
瞼の薄い皮膚越しに、眩しい光が覚醒を促す。
まだまだ微睡んでいたい欲求に駆られたが、なぜだか起きなければならない気がして、渋々と目を開く。
「・・・知らない天じょ・・・いや、めちゃくちゃ見知った天井だこれ」
10年の時を過ごした部屋で、間抜けな呟きを零す。
頭が霞んで、思考が上手く定まってくれない。
寝起きは良い方だと自負していたのだが、どうやら今日は身体の調子が悪いらしい。
「おはようございます、エルさん」
「あっどうも、おはようござい・・・・・・え?」
「そろそろ目覚めると虫の知らせが届きましたので、勝手ながらお部屋に上がらせて頂きました」
「・・・・・・」
穏やかな笑みを浮かべる桃色髪の少女に、思考が停止する。
ぎぎぎ、と首を動かすと、黄金の輝きを放つ獅子の聖闘士と、淡い色のワンピースを身に纏う金髪の女性と目が合った。
「・・・沙織様に、アイオリアさんに・・・海闘士のテティス? な、なんで俺の部屋に・・・────ッ!」
眠気も吹っ飛んで、混乱する脳みそを必死に動かした瞬間、
色の濃い記憶が俺の脳内を駆け巡った。
ジュリアンの誘拐。
女神アテナと海皇ポセイドン、神々の元に集う闘士達。
エルキドゥの力の開放。
神となった友人との激突。
──生の終わり。
・・・そうだ、何故たった一瞬とはいえ忘れられたのだろう。
走馬燈のように蘇る記憶の奔流に、嫌な汗が額を伝った。
「思い出しましたか?」
「・・・えぇ、全てを。・・・ですが、俺は死んだはずです。これでは辻褄が合いません」
「砕けた口調で構いませんよ。・・・確かに、貴方は海皇ポセイドンの鉾に貫かれて、死の淵に誘われました。ですが、海皇の──彼の手により、再び生を受けることとなったのです」
「・・・・・・は? ポセイドンが、俺を・・・?」
沙織さんの言葉を上手く飲み込むことができず、呆然と呟く。
自らの手で殺した人間を、自らの手で蘇らせた・・・?
一体どうして、そんな選択をするに至ったんだ、あの神様は。
話についていけず困惑する俺に、少女はゆっくりと口を動かす。
「命を守るために、敵も味方も、神も人も関係なく闘った貴方の在り方が、海皇の心に響いたのでしょうね・・・彼は無理を承知で、エルさんの魂を修復し、命を落とした海闘士達の肉体をも再生したのです」
「っ・・・その、無理っていうのは? ポセイドンは無事なのか?」
「えぇ、今はジュリアンの身体の中で眠っています。肉体の再生のみであれば、そう難しいことでもないのですが・・・魂の修復となると、神の力で以てしても容易なことではないのです」
少し考える素振りを見せた少女は、そうですね、と話し始める。
「散り散りに破り裂かれた書庫の本全てを、元の状態へと戻すような・・・いえ、それ以上に途方もない偉業を為さねばなりません。それを、膨大な小宇宙を削った直後に行い、成功させた・・・海皇は正しく、奇跡を起こしてみせたのです」
「・・・俺の命を守るために・・・・・・奇跡を──」
ポセイドン、と小さな声で神の名を口にする。
言葉にできない感情が込み上げてきて、思わず左胸の前で、強く拳を握った。
胸には鉾によって開けられた穴も、神鳴に焼かれた痕も、残っていない。
──器に宿る魂も、空色の輝きに守られるようにして、ここにある。
人の命を奪わないでほしいと叫んだ俺の言葉を、海皇は汲み取ってくれた。
神に逆らった人間である俺を、救ってくれた。
「──ありがとう、神様」
最大級の感謝の念をのせた言葉を、虚空に放つ。
海皇が眠りから覚めたら、直接礼を言おう。
そして、今度は魂を無理矢理引っ張り出そうとするんじゃなくて、言葉を交わそう。
どれだけ時間がかかってもいい、海皇とちゃんと話し合うんだ。
未来の課題を胸中にしまって、俺は一番の気がかりを尋ねることにした。
「沙織さん・・・ジュリアンは、無事なのか?」
彼女の説明のお陰で、ポセイドンの魂と共にあるということは把握できた。
だが、責任感が強く心配性なあの友人が、自らの意志でこの場に現れないなんてあり得ない。
俺の問いかけに、沙織さん達は険しい表情で目を見合わせた。
その様子に、俺の不安はますます増大していく。
まさか、口に出来ないほど状態が悪いのだろうか・・・そんな想像が脳裏を過ぎったタイミングで、テティスが一歩前に出た。
そして僅かな逡巡の後に、重い口を開く。
「・・・ジュリアン様は、今朝方、お倒れになりました」
「は、え?」
「12日間眠り続けるエルさんの側を離れず、徹夜続きで・・・周りの制止の声も届かず、とうとう無理が祟って体調を崩されたのです・・・今は寝室でお休みになられています」
「・・・・・・・・・・・・」
「今はお昼ですので・・・暫くはそっとして差し上げた方がよろしいかと」
「・・・えっと、怪我とかは?」
「
「・・・・・・なるほど・・・そっか、うん。よく分かった。ありがとう、テティス」
礼を述べ、俺は天を仰いだ。
ジュリアン、お前が無事で本当に良かったよ。
身体を張って頑張ったかいがあるってもんだ。
・・・だけど、今度は色々と物申さなきゃならんこともできたらしい。
安堵と気苦労の混ざった溜息を吐き出して、俺は緊張の糸を解いた。
ひとまず、峠は越えた。
怒濤の展開に精神的疲弊は凄まじいが、目的は無事に果たすことが出来たのだ。
ならば、一端はジュリアンが目を覚ますまで、彼の件は保留としよう。
俺は思考を切り替えようとして、そういえば、と口を開いた。
「どうしてテティスは、侵入者の俺に忠告をしてくれたんだ?」
「・・・それは」
「あぁ別に、言いたくなければそれでも大丈夫なんだけどさ、ずっと気になってたんだ」
「・・・いえ、言いたくないというよりも、信じて貰えないのかもしれないのですが・・・」
僅かに言い淀んだ彼女は、意を決したように俺を見た。
「エルさん、10年程前に海岸へ打ち上げられた魚のことは、覚えておいでですか?」
「魚? ・・・あぁ、覚えてるよ。あんなに鮮やかなで綺麗な鱗、一度見たら忘れないよ。でも、どうしてあんたがそのことを?」
「・・・私、なんです」
「は?」
「私が、その魚なのです。・・・釣り糸に絡まり、干からびる時を待つばかりだった私を見つけてくれたのが、エルさん、貴方なんです」
「・・・テティスは人間なんじゃ・・・?」
「偉大なるポセイドン様の力によって、
「・・・・・・そういうことだったのか」
にわかには信じられない返答内容に、時差が生じる。
彼女の不可解だった言動の理由は、理解できた。
だがポセイドン、あんたは駄目だ。
何も理解できる要素が見つからないぞ。
・・・いや、大雨や洪水、肉体や魂の再生ができるくらいだ。
気まぐれかその場のノリで魚を美女の人魚姫にしてしまったのだろうか。
「・・・海皇はあれか、お伽噺とか結構好きなタイプか・・・」
何だかちょっと親近感を感じつつも、時代の先を行く神の行いに、思わず頭を抱えたくなった。
ポセイドン、あんたなら未来でも生き残れるよ。
多分ソシャゲで女体化されたりアニメで黒幕にされたり、苦しい道のりが待っているのだろうけど。
がんばれ、神様。
「そうだ・・・沙織さん、テティス。せっかく忠告してくれたのに、無碍にしてしまって申し訳ない・・・気遣ってくれて、本当にありがとう」
「
「海龍様によって異次元に飛ばされてしまったときは肝が冷えましたが・・・最終的にジュリアン様も、エルさんも無事に帰ってこられたのです。賞賛こそすれど、口を尖らせる謂われはありませんよ」
二人は優しい微笑みを浮かべながらそう言った。
なんというか、いい人達すぎる。
もしかしたらテティスも女神なんじゃないのか?
好意に照れくさくなって、思わず目を泳がせる。
すると、少しの間を置いて、今まで静かに佇んでいたアイオリアさんが言葉を放った。
「聖闘士も海闘士も、誰一人として命を落とさなかった。死者を出さぬ聖戦など、歴史を紐解いても一度として存在すまい。エル、君の勇気と選択に感謝する。療養中の星矢達に代わって礼を言わせて欲しい」
「・・・結果としてそうなったにすぎないよ。死者が出なかったのだってポセイドンが身体を張ってくれたお陰で、奇跡のような偶然が重ならなければ、今頃世界は海に覆われていたかもしれない」
「だが、その結果は、君がいなければ訪れなかったものだろう。君ではなく、私やミロが海皇神殿へ乗り込んでいれば、少なくとも海闘士は一人として生き残らなかったはずだ」
「・・・・・・」
「フッ・・・なにも、一切合切、君の選択が正しかったと言っている訳ではない。だが、君が願い、手繰り寄せた未来は、敵も味方も関係なく、全ての者の命を尊重したものだった。相手が神であることを理由に信念を曲げず、誰かを切り捨てることなく、意地を貫き目的を果たした・・・・・・そんな真っ直ぐな君の生き様が、私には輝いて見えた。ただ、それだけのことなのだ」
光を散りばめた瞳を向けて、アイオリアさんは穏やかに言う。
だけど俺は、その言葉を素直に受け取ることが出来なかった。
「俺には見合わない言葉だよ・・・海龍にも言われたけど、俺は"甘い"んだと思う。何でもかんでも手を伸ばそうとして、最後には死んでしまったんだから」
命の奪い合いなんてしたことがなかった。
甘さ故に敵の攻撃を何度も食らい、命を落とした。
今だって、誰かを犠牲にする選択はしたくないと思う。
だけど、その結果として自分が死んでしまうのは、矛盾している。
命を大切にしろと主張するのなら、自分の命だってその対象にしなくちゃ説得力なんて皆無なんだから。
でも、だとしたら。
正しい選択とは、一体何なのだろうか。
「エルさん、戦いとは信念と信念のぶつかり合い・・・自らの正義を掲げる者同士の衝突なのです。ですから、きっと、"正しい"と呼べる様な道は、拳を握った者の数だけ存在するのだと思います」
沙織さんが言う。
正義の形は、人の数だけあるものなのだと。
「・・・だけど、結果的に死に至った俺の選択は、本当に正しいと胸を張れるようなものだったのだろうか・・・俺は、俺の正義が分からない・・・」
「その疑問を忘れずに、これからも"答え"とは何なのかと探し続けて、生きていけばいい。思考を止め周囲の声を聞かず、自らが絶対だと力を振りかざすのではなく、どうすれば刃を交えた相手とでも分かり合えるのかと悩み、後悔のない道を辿れているのかと過去を振り返る・・・それは、答えを確立していない、君だからこそ出来ることだろう」
「答えを、探し続ける・・・」
「それにな、エルよ・・・君の"甘さ"は、神の心を動かし、多くの人間の命を救った"強さ"なんだ。決して間違いなどではない・・・誇りを持て」
「アイオリアさん・・・」
目元が熱くなるのを堪えて、黄金の聖闘士を見上げる。
迷い、惑う心を抱えて生きていくことは、悪いことではないのだと、戦士は言う。
どんな人生を歩めば、こんな真っ直ぐな言葉を口にできるのだろうか。
地上の平和を守るために、女神の元に集った戦士。
平和を守る・・・言葉にすれば簡単で、よく聞くフレーズだ。
だけど、彼ら聖闘士たちはそれを現実に実行している。
年齢も、性別も、生まれた土地も関係なく、途方もない戦いに身を投じている。
誰かがやらねばならないのだから、自分がやるのだと言って。
あぁ、だからなのか。
そんな、誰かを守るために、命を燃やし続ける戦士の言葉だからこそ、こんなにも強く心に響くのだろうか。
貰った言葉を噛み締めるようにして、想いを紡ぐ。
「・・・俺は、戦いとは無縁の人生を送ってきて、今は未だ、命を大切にしなくちゃいけないってことぐらいしか、真っ直ぐに言えることはない・・・だけど、きっと、これからも何度も選択を迫られる時が来る。だから、その時にまた死んでしまうことがないように、考え続けることにするよ──今度こそ、大切なものを守り抜くためにも」
俺の甘さを強さといってくれた、貴方の言葉を信じて。
そんな想いを込めて、言葉を連ねた。
アイオリアさんは優しい微笑みを浮かべて、頷いた。
「また何か困り事があれば、いつでも
「えぇ、いつでもいらしてください。・・・それでは、私達はそろそろお暇するといたしましょう」
「えっ、も、もう行くのか?」
部屋を出て行く二人に向い、焦ったように声を掛ける。
すると、振り返った沙織さんが困ったように眉尻を下げた。
「申し訳ありません・・・少々、相手をしなくてはならぬ者がいるのです。私も、もう少しゆっくりとお話をしたかったのですが・・・」
「あぁ・・・グラード財団のトップってだけでも忙しいのに、アテナともなれば予定も満載だよな・・・。引き留めて済まなかった」
俺は微笑する少女に謝りながらも、少し悩んだ後に、問いかけることにした。
「・・・最後に一ついいだろうか」
「なんでしょう?」
「────俺の能力については、何も聞かなくていいのか」
言わずもがな、と思いつつも、何も聞かれなかったことが逆に不自然で、俺は言葉を放った。
沙織さんは一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、やがて口元を綻ばせながら、凜と紡ぐ。
「ふふ・・・貴方が命を尊び、私達と同様に平和を願う──誰かの為に立ち上がる勇気を持った
教えてくださるのであれば、喜んで耳を傾けますけどね。
そんな言葉を最後に残して、女神の宿命を背負った少女は部屋を後にした。
日が傾き、世界は今、落陽に至る。
ギィ、と音を上げる扉を静かに閉じて、俺は暗い部屋へと足を踏み入れた。
「・・・ぅ・・・嫌だ・・・私を置いて、死なないでくれ・・・」
「・・・・・・すぅ──」
魘される男の枕元に歩み寄り、俺は大きく息を吸い込む。
そして、前世で観たテレビ番組を思い浮かべながら、叫んだ。
「おはよおおおおございまああああす!!!」
「────ッ!?!?」
カンカンカンカンッ!!!
手に持った鍋とお玉を打ち付けて、追い打ちをかけるのも忘れない。
「な、なななっ!? 何事だ!?」
「おはようございます」
「・・・え、える??」
「おはようございます、ジュリアン坊ちゃん」
「・・・エル、なのか?」
「おう、起きたかこのあんぽんたん」
「・・・・・・」
ポカーン、と間の抜けた表情で静止するジュリアンを余所に、俺は鍋とお玉を適当な棚に置くことにした。
締め切ったカーテンを開けると、部屋は燃えるような朱に包まれた。
「夢、ではないのだな・・・」
呆然と俺を見つめる顔色の悪い男は、やがて苦悶に満ちた表情で拳を握りしめた。
シーツに深い皺が寄る。
俺は、静かに呟いた。
「本当に、全てを、覚えているんだな」
「・・・あぁ・・・お前が怒るのも無理はない・・・」
「・・・・・・」
「っ・・・済まない・・・いや、許してくれとは言わん・・・お前が生きていてくれただけで、私は、私は・・・」
ジュリアンは眉間に深い皺を刻む。
そして、口元に大きな弧を描きながら、涙を流した。
俺は小さく息をついた。
「・・・お前、どうして俺が怒ってるか、分かってないだろ」
「っ・・・なにを言う! 私はお前を、エルを殺そうとしたのだぞ!? それ以外にどんな理由があるというのだ!」
「ちっげーよ馬鹿! それはジュリアンの意志でやったことじゃないだろ!」
荒い息で叫ぶジュリアンの言葉を、打ち消すようにして言い放つ。
困惑する男に目を合わせて、俺は低い声で問いかけた。
「12日間も、徹夜続きでぶっ倒れたって? 何やってるんだよ、らしくもない」
「・・・お前を・・・死んだように眠り続けるお前を、放っておけるわけがないだろう・・・!」
「だからといっても限度があるだろ! 眠りこける人間の隣で『12日間連続徹夜チャレンジ!』とか何の番組だよ速攻で企画倒れになるわ! 締め切り前の漫画家じゃないんだぞ!? 気持ちは嬉しいけど夜ぐらいは寝ろ!」
「・・・ぐ・・・」
「・・・せっかく、せっかく無事に帰ってこられたんだ・・・。頼むから、自分の身体を労ってくれよ。これ以上心配させないでくれよ、ジュリアン」
「エル・・・」
体調管理は当主の勤め。
昔から執事長が口酸っぱくなるまで言っていた言葉だ。
緊急時であるのなら多少の無理は仕方がないと思う。
だが、冷静さを失い、ぶっ倒れた挙げ句、周りに心配をかけるのは駄目だろう。
今回はただでさえ誘拐騒ぎが解決した後だったのだから。
「「・・・・・・」」
夕日が完全に沈みきり、窓からは星光が注ぎ始めた。
沈黙が満ちる。
澄み通った夜の空気が無性に恋しくなって、俺は窓を開いた。
そして、ベッドに腰掛けるジュリアンの前に移動して、
──俵のように、脇に抱えた。
「なっ、え、エル?」
「よし、窓から放り投げる」
「──はあ!?」
「・・・っていうのは冗談だ・・・──舌を噛むなよ、ジュリアン」
「っ!」
ジュリアンに負荷がかからないように魔力の膜を展開して、夜の帳へと繰り出した。
ひゅう、と冷たい風が頬を撫でる。
神秘の力を足裏に束ねて、満天の星空へと駆け上がっていく。
まるで、銀河の中に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚えた。
「ソロ家があんなにも小さく・・・」
「ずっと前から、やってみたかったんだよな。・・・ギリシャの空は、星がよく見えて綺麗だったから」
前世の日本じゃ、田舎か町全体が停電になった時ぐらいしか、こんな星空は拝めなかった。
まだ21世紀に入っていないってのも大きいのかもしれないが、天気さえ良ければ毎日見ることの出来る星の海が、俺は心底好きだった。
・・・昔の人は凄いよな。
星を繋げて生み出した星座や、現代でも語り継がれる、神話なんてものを創造してしまうんだから。
今も昔も関係なく、この宝石のような夜空は人々の心を癒やし、惹きつけてきたのだろう。
「エルキドゥの力を封印し続けていたら、こんな体験もできなかったんだろうな」
「・・・エルキドゥ・・・確か、ギルガメシュ叙事詩に登場する、かの王の唯一無二である親友の名、だったか・・・──まさかエル、お前は・・・」
「俺はエルキドゥじゃないよ。・・・俺はジュリアンの友達の、エルだ」
空に立つ身体を降下させる。
ゆっくり、ゆっくりと高度を下げていく。
「・・・スニオン岬」
ジュリアンが着地地点に気が付き、呟いた。
テティスから聞いた。
この岬が、ジュリアンが海へと攫われた、全ての始まりの地であったということを。
静かに大地に足を着けて、ジュリアンを降ろす。
「いつだって、大切な話をするときは、自然とこの岬に足を運んでたよな」
「・・・そうだな・・・だが今は、苦い記憶の残る場所となってしまった・・・」
辛そうな表情を浮かべた友人に、良心が痛んだ。
だが、この地を彼にとって悲しい場所で終らせたりはしないのだと、小さな決意を抱く。
「なあ、ジュリアン・・・俺、けっこう嬉しかったんだぞ」
「嬉しかった? 喜べるようなことなど、何も・・・」
「・・・海皇の魂に飲み込まれて、人類を滅ぼすとか、怖い顔で恐ろしいことを口にしているのに・・・それでも俺の事はちゃんと友達として見てくれていたのが、本当に嬉しかった」
「・・・・・・」
例えそれが、迷いを生み出す原因であったとしても。
10年という時間が紡いだ繋がりが、神となった友人の心の中に、当たり前のように存在したことが、嬉しくて仕方がなかった。
「ジュリアンの意識が残っていてくれたから、俺は前を向けた。海皇から友達を取り戻してやるんだぞって、諦めずに意地を貫き通せたんだ」
もしもあの時、ジュリアンが完全に、海皇に飲み込まれてしまっていたら。
取り戻そうとした友人が、既に消えてしまっていたとしたら。
俺はきっと、我を忘れて力を振りまき・・・取り返しのつかないことをしていたのではないか。
「・・・お前というやつは」
ジュリアンは唸るような声を出した。
「だからといって、自分に刃を向けた相手を、そう簡単に許そうとするな。・・・その甘さは毒となる・・・つけこまれるぞ」
「許すもなにも、俺に刃を向けたのはジュリアンじゃないだろ。・・・それに、大丈夫だ。俺は確かに甘いけど、足下をすくわれそうになったって、もう何も、怖くなんかないんだ」
「・・・何故そう自信満々に言えるのだ、お前は」
「だってそうだろう? 優秀な当主様が、隣で目を光らせてくれてるんだから、俺は安心して構えていればいい」
「っ・・・・・・私をあてにするつもりか」
「頼りにしてるとも。・・・今回は俺、結構頑張っただろう? だから今度は、ジュリアンが俺に力を貸してくれよ」
俺は、意地の悪い笑みを浮かべて言った。
泣き笑いにも似た、不細工な表情になった友人は、小さく肩を震わせながらも、諦めたかのように鼻を鳴らす。
「・・・仕方がない。不器用な従者だが、当主として・・・いいや、友として、その肩を支えよう」
「はは、めちゃくちゃ心強いな・・・恩に着るよ、ジュリアン」
尊大な言葉に思わず頬が緩む。
このまま笑いながら、話を弾ませていたい気持が生まれたが、俺はその欲求を断ち切った。
冷たい夜風を胸一杯に吸い込んで、背筋を伸ばす。
全身を引き締めて、俺は口を開いた。
「──すまなかった」
10年間ため込んだものを吐き出すように、言葉を連ねる。
「俺は、記憶喪失なんかじゃなかった」
次の言葉を促すように、静かに佇む友人に向って、俺は喋り続ける。
「・・・俺は、こことは違う地球の日本に生まれた、別の世界の人間だったんだ。運悪く神の雷に当たって死んで・・・運命と大地を司る、ニンフルサグって女神様に命を拾われて、この世界に転生したんだ。・・・また死んでしまうのが恐ろしくて、この身体に宿った力の責任から目を逸らして・・・・・・俺はジュリアンに、嘘をついた」
自嘲するように顔を歪める。
情けない声が喉から漏れ出た。
「ごめん・・・友達って言ってくれる相手を、俺はずっと騙し続けていたんだ。・・・もしも、今回みたいな騒動でも起きなかったら、俺は今でもこのことを口にしなかったと思う・・・救いようがない、最低な裏切り者だ」
「・・・・・・」
ジュリアンは、何も言わない。
・・・まぁ、当然といえば、当然だよな。
幻滅したのだろう。
10年間も、誑かされてきたのだから。
居たたまれなくなって、目を伏せた。
俺はどうして、こんなにも心の弱い人間なのだろう。
それに、友達を騙し続けてきた罪悪感を抱えてもなお、この縁を切りたくないと強く願う。
女々しいことこの上ない。
「・・・・・・他には?」
「・・・え?」
「他には、何か隠していることはないのか?」
「い、いや・・・もう、なにも・・・」
「・・・全く」
呆れた様子で、ジュリアンはため息を吐き出した。
思っていたのと違う反応に、俯いていた顔をあげる。
友人は、射ぬくような真剣な瞳で、歩み寄った。
「この、臆病者」
「っ・・・ごめん──」
「──今更そんな事を言われて、この私が怒るわけがないだろう」
「・・・え?」
「・・・いや、そうだな。友であるというのに、抱えた悩みを打ち明けて貰えなかったことは、酷く悔しく・・・悲しい」
「ジュリアン・・・」
「フッ・・・情けない顔をするな、お前はもう少し、自らに見合うだけの自信を持つべきだ。だが、そうだな・・・今は腹を割って話が出来たことを喜ぶとしよう・・・これで、私達は、"本当の友"になれたというわけだ」
優しい空色の瞳を細めて、ジュリアンは微笑んだ。
「っ・・・ありがとう・・・俺みたいな卑怯者を、友達と言ってくれて、本当にありがとう」
貰った言葉の温かさに答えたくて、背一杯の笑みを唇にのせる。
胸中に沈殿していた不安が、一掃されていくようだ。
これからは本当の意味で、孤独を恐れる必要はないんだ。
もう、こそこそと隠し事をしなくて、いいんだ。
「・・・──私の身体を使い、世界を滅ぼそうとするだけに飽き足らず、エルの命に手を掛けたことは到底許すことのできぬ悪逆非道な愚行だったが・・・こうした機会を得られたことだけは感謝しよう・・・海皇ポセイドンよ」
苛立ちを隠す素振りなど、
一度海へと連れて行かれた場所だろうに、よく座れるものだと感心する。
星間飛行をした影響だろうか。
俺も、倣うようにして隣へと座った。
「なぁ・・・これから、どうするつもりなんだ」
「どうするとは?」
「・・・ジュリアンの中で眠っているポセイドンとか、俺は詳しくは知らないけど、蘇って入院中の海闘士とか・・・聖戦は終わったけど、問題が山積みだ」
「あぁ、そのことか・・・安心しろ、やるべき事は既に決めたのだ・・・──私は、ソロ家と海闘士たちの力を結集し、地上を平和な人の世へと導く」
強い光を灯した眼で、ジュリアンは空を仰いだ。
「海皇の理想とやらに手を貸す気はないのだが・・・私は、私自身の意志で、地上の平和を守りたいと思ったのだ。・・・謂われ無き暴力に晒される者。理不尽な悪徳に抗う術を持たぬ者。そんな声なき声のため、これからは生きていきたいと切に願う。・・・多くの人を傷つけ、命を冒涜した、罪滅ぼしの気持もあるのだがな」
「・・・だからそれは、ジュリアンが背負うものなんかじゃ──」
「いいや・・・確実に言えるとも。海皇の魂に浸食されていたとはいえ、あの瞬間の私は、世界を滅ぼすことこそが、自らの使命なのだと本気で思っていた。ならば、背負わなければ・・・私は、私でいられなくなる」
「・・・だったら、俺も一緒に背負うよ。従者としても、友達としても、俺はジュリアンに協力したい」
「・・・・・」
友人は口を閉ざし、苦しそうな表情で瞼を閉じた。
目の下の隈が、月光りに照らされて、痛々しさを主張する。
「・・・なぁ、エルよ。お前は自由になるべきだ」
「自由・・・?」
「10年前、私が父に口添えしたことにより、お前はソロ家に縛られることになった。・・・だが、もうそれも終いだ。・・・死んだように眠るお前を見て、理解した。友が元気に生きていてくれるだけで、私は幸せ者だったのだと」
陰りのある微笑みで、ジュリアンは語った。
まるでそれが、俺にとっての最適解であると断言するように。
「元は日本人だったというではないか・・・そうだ、確か日本に別荘があったな。そこで暮らしてみてはどうだ? 生まれた国が恋しいだろうに、私は本当に気の回らぬ──」
「あの、それは、遠回しな解雇通知ということでよろしいですか・・・??」
「んん? いや、そういう意味ではなく・・・」
「頼む」
「・・・は?」
「・・・・・・お願いします、クビにしないでください。・・・仕事は楽しいし景色は綺麗だしここで解雇されると次の職場に求めるハードルが高くなりすぎて就職先が見つかる気がしない」
「・・・・・・このまま、ソロ家の従者として一生を終えることになっても、構わないと言うのか?」
「構わないどころか大歓迎・・・というよりも、前提からしてずれてるんだ」
どうしてそんな思考に陥ったのかと疑問に思いつつ、指摘する。
「これは、俺が自分の意志で選んだ道なんだぞ。やりたいようにやってきたから、俺はここにいる」
「・・・私を庇って言っているのか?」
「全く。というか、どうしてそんな勘違いに至ったのかを知りたいぐらいだ」
「・・・・・・・・・」
虚ろな目で、ジュリアンは右手を額にあてた。
「はっ・・・沙織さんの言ったとおり、早々に話せば片づく問題だったという訳か・・・」
眉をピクピクと震わせ、口端をつり上げながらジュリアンはぶつくさと呟いている。
その顔を見たら、容姿端麗の言葉が悲鳴を上げて逃げ出しそうだ。
俺はけらけらと笑った。
「じゃあ、良いよな? 海闘士がジュリアンに手を貸すんだ。古参の俺だって協力させてくれよ」
「・・・道のりは、険しいぞ」
「楽勝。きつかったら俺が抱えて飛んでやる」
「ふ・・・お前ほど心強い味方はいないな・・・──これからも、よろしく頼む、エル」
「任せろ! ついでにエルキドゥの素晴らしさも存分に知って貰うからな、覚悟しろよジュリアン」
ゆっくりと立ち上がり、俺は友人に手を差し出した。
「あぁ、そうだ。すっかりタイミングを逃してたな」
「・・・? なんだ、また何かしでかしたのか?」
「いつもやらかしてるみたいに言うの止めような?」
失礼な発言に、思わず突っ込みを入れた。
俺ほど安定した人間はいないというのに、何て酷いことを言うのだろう。
呆れながらも、手を掴んだ友人が、再び海へと落ちてしまわないように、慎重に引き上げていく。
広大な海を背に立つジュリアンに向って、俺は満面の笑みで言葉を紡いだ。
「──16歳の誕生日おめでとう、ジュリアン。君の未来が、幸せに満ちたものでありますように」
神に祈るようにして、俺は、友達の幸福を願った。
以下、あとがき(長いので読みたい方だけどうぞ)
無事に完結させることができました。
応援してくださった方々に感謝致します。
原作の海王編のジュリアンソロの最後が余りにも辛すぎて、どうにかできないものかと思い、「せや、エルキドゥなら何とかしてくれる」とホワイトデーピックアップで来てくれたエルキドゥを見ながら執筆を始めました。ですが、エルキドゥ本人の喋り方や行動が、作者にはかけず…最終的にオリ主という手段をとることにしました。
4話程度の短編にする予定が、大分オーバーしてしまうことになりましたが、まあ、なんとかまとまった内容にできたかなという感じです。
(海王編の)青銅も全員出せましたし、書きたいように書けたかなあと思いつつ、作者が聖闘士星矢を好きになった原因の某双子座の男を出すことが出来なかったのが、唯一の心残りです。ですが、海王編では既に…ですから、こればかりはどうしようもないものだと目を瞑ることに致します。
海王は女神とは協力はしませんが、人の命を守りつつ、理想郷を創るという選択をしましたので、冥王は神2柱勢力&人類の脅威に対して特攻を持つ主人公を相手取らないといけなくなりましたね。
がんばれ、冥王。
楽しく執筆することが出来ました。
読み返すと読みずらい部分が多くてHPがごりごり削れていく文章ですが、それでも最後までお付き合い頂けた方には、感謝しかありません。
本当にありがとうございました。