幻想郷に海は無い。
川や湖なんかはあるにしても、寄せては返す
イコールで、船が無い。
さらにイコールを付け足して、船幽霊たる私、キャプテンムラサは不満なのだ。
いや、元キャプテンと言うべきか。
聖から与えられ、聖を封印より助け出した聖輦船は、今や命蓮寺として改装されてしまったことだし。
それ自体はまあ、仕方ないかな、と思うところもなくはないけど。
陸の上だし。
そんなわけで、キャプテン改めただの幽霊系妖怪少女・村紗水蜜ちゃんは欲求不満なのである。
むらむらなのである。
広大な海面から暗い暗い深海へ、役目を果たせず藻屑となる船体を、体温とともに命を失う人間の表情を、全然見れてないのである。
ま、たまには悪戯の範疇で、顔を洗おうとと桶に下げた里人の後頭部を、こう、くっ、と抑えてみたりはするけれど。
いくら船を沈めても死なないらしい、居眠り好きな死神の船頭さんをターゲットにするのが関の山。
寺の建前もあるし、そこら構わず沈め殺すのは控えているから、物足りないのは事実なのだ。
で。
物足りないので、やっちゃうことにした。
なぜだか今日は抑えが利かない、と辛そうに言う事はできるけど、だいたい、妖怪が欲求を抑える方が大変なのだ。
今、私の中で渦巻いている衝動は、あるべくしてあったものに違いない。
だから、寺に丁度いた人間には悪いけれど、いや、実際は悪いとはあんまり思わないけれど。
ちょっと溺れ死んでもらおう、と門の前に立ち、寺を呑みこむくらいに高波を立てる。
腐っても船幽霊だ、これくらいは当たり前、大量の水はでかい湖から持ってきた。
湖底が見えるくらいには浅くなったから、人魚とかが水揚げされかけていたっけ。
良く考えたら人里の人間を襲った方が近かったかもしれない……まあいいか。
寺自体を壊してしまうかな、なんてぴたりと波を止めてはみたけど、命蓮寺はもともと船なわけだし、ま、大丈夫だろう。
溺れて死ぬような妖怪は……あ、星は泳げないって言ってたっけ……きっと一輪がどうにかしてくれるはず。
さあ、と留めていた大波を解放しようとした、その瞬間。
寺の門から、虎が飛び出した。
なんだ一休さん対策か、とよく分からない想像を放り投げて、地を駆けていく虎の着ている服を見る。
というか、服を着ている虎なんてそこらにいない。
そんなの、虎というより、寅である。
寅丸星である。
門前のヤマビコの大きすぎる悲鳴で余計に驚きながらも、何があったの、と寺へ目をやれば、聖が息を切らして現れた。
何でも、いきなり星が人間を襲いかけたのだという。
妖怪としての力を抑えきれなくなったのか、あのような姿にまでなって。
なんとか抑えようとした聖だったが、逃げられてしまった、とのこと。
品行方正なあの星が、とは、今まさに人間を襲おうとしていた私は口にすることができないけれど。
というか、危ない。
寺に波をぶつけていたら、聖に色々と大ダメージだった。
何が『物足りないので、やっちゃうことにした』だ、と数分前の自分に言いたいくらい。
当然ながらここで問題となるのが、それはどうしたと指さされる、未だ待機中の50メートル級高波。
さて、なんと言い訳しよう、思考時間は一秒。
「……み、水が苦手な星を捕まえようと思って!」
我ながら完璧な答えであった。
***
待て待て、と地を駆ける寅っ子を追いかけて、やってきたのは迷いの竹林。
虎だからこういう場所が好みなのか、と思うけれど、どうやら違ったらしい。
林の中心、おそらく永遠亭の方角へまっしぐらだったからだ。
道を迷わせるという竹林の妖精も、匂いを辿っているのだろうネコ科動物には無力か。
そういう私も、星を追うように先行させた高波の後ろを、空からついていくだけ。
星の着ている法衣、林の中では目立つ白と赤のおかげでなんとか見逃さずに済んでいるのだった。
久しぶりの虎姿だから慣れが足りないのだろうか、地を駆ける速度は大したことがなくて、今に限ってはありがたい。
人間の多くいそうな里ではなく永遠亭に来たのは、きっと、大怪我をした血の臭いでも嗅ぎつけたのだろう。
これは丁度いい、と私は頬を歪める。
聖の前で、寺に訪れた人間を溺れさせるのは自制したものの、別に欲求を解消できたわけではない。
医者の所にいる死にかけの人間なら、一人や二人くらい、居
なんてことを思っていると、わりとすぐ、いやに大きな屋敷が見えた。
このままのペースでは、星が先に突っ込んで行ってしまうだろう、それは困る。
一息に噛み殺されでもしたら、溺れ死んでくれないじゃない。
まだ見ぬ土座衛門候補を救うため、私は大波で永遠亭を沈める。
さんはい、ざっぱーん。
手段と目的が一周回って合致した波に、木造建築は憐れ水の中だ。
船ばかり沈めていた私には、地上の建物を沈めるというのは、少しばかり背徳的というか、なんというか。
正直に言うと、悪くないかもしれない……あ、星のことすっかり忘れてた。
「……陶酔してるところ悪いんだけど」
背後。
誰もいないと思っていた空間から、声を掛けられる。
悪寒が全力疾走する背筋をぐぐぐ、と捻ってみれば、半身を改造されたような衣装センスの赤青さんが、穏やかな笑みを浮かべていた。
穏やかな笑み、というのは客観的な表現であって、直面している私には穏やかさなど欠片も見られない、威嚇用の笑顔だ。
さてこの人物、もしかしなくても。
「……永遠亭の、方?」
「貴方がたった今、丸ごと水底に沈めた屋敷に住んでいる者、という意味では、そうね」
そう返して、笑みがさらに深まった。
あっ。
これ、駄目な流れだ。
「まあ待ちなさい、さっきの虎も貴女のところのでしょう。
ちゃんと持って帰りなさいな」
「勿論です、それでは」
「それから」
声色で他人の行動を制限するのに慣れている人間に、逆らってはいけない。
そんな存在、人間というには逸脱しすぎているとは毎度ながら思っているのだけどね。
「あと一つ、お願いがあってね。
彼の『攻撃』を受けて欲しいの」
そんな物騒な依頼は嫌だなあ、と思いつつ、指さされた方へと目をやると、そこには妖怪兎に抱えられた人間の子供の姿。
息も絶え絶えなその様子から、溺れ死ぬ数歩手前くらいだったろうか、なんて見定めてしまうのは船幽霊のサガか。
しかしこの少年、どこかで見たかと思い返せば、数日前に寺で騒ぎを起こした外来人だ。
なるほど、星の狙いはこの子だったのか、遅ればせながら納得する。
匂うのだ――××しろ、と、抗いがたい魅惑の香りが。
欲を誘う、暗い香りが。
「『蟻穴を開ける程度の能力』と言っていたかしら――この少年の異能。
話を聞く限りにおいて、現在蔓延っている異変を解決する手段に成り得る、そう考えているの、私は。
もちろん仮説の段階でしかないし、異変の根源を解決し切るには至らない可能性の方が高いのでしょうけど。
まあ、医者の真似事をしていることだし、対症療法を否定する気はさらさら無いわ」
私の心境を全く無視して、永遠亭の住人さんは意味不明にべらべらと喋り倒す。
何言ってんだろう、という表情は少年を抱えている妖怪兎も同様らしく、そして少年も話を聞くどころではない。
つまりこの場で言葉は無意味だ。
「つまりつまり、何より雄弁なのは行動――!」
目の前の危険人物に逆らった場合とそうでない場合との利害を天秤にかけ、私は無意識に前者を選択する。
それは単純に、子供一人くらいなら溺れ殺せるだろう、という直情的な打算が大半を占めた結論かもしれなかった。
永遠亭を呑みこんだ大量の
先手必勝。
その言葉の正しさを、私は身を以て体験する。
体験させられる。
まるで、瞬間を切り取ったように断続。
まるで、時間を司ったかのように隔絶。
どこからか現れた黒髪の麗しいお姫様が、
意識の無い少年の手を引っ張って、
あらゆる事象を飛び越えて、
私の手首を切り裂かせた。