『私が寝ている間、《何か》あったらお願いね、藍』
意味ありげな妖しい笑みと共に紫様が残した言葉を、私は強く噛み締めている。
「あはははっ! ねえねえ、私と弾幕ごっこしよ――うぎゃあっ!?」
木々の間から飛び出してきた闇を纏う人喰いの妖怪を五秒で片付け、魂のように抜け出たそれを回収する。
幻想郷中へと流れ、もはや全てを集めきるのは不可能かと思われる程に霧散した妖力を、私は必死に
これで何匹目の妖怪か、と数えることに大した意味はない。
より多くより広く、人間から何かを奪った大妖こそ、紫様の力を受け取っているはずなのだから。
しかしルーミアと言っただろうか、この妖怪は強さの割に、紫様の妖力を想像以上に有していた、不思議なことだ。
妖としていかなる道を歩んできたのか――などと余計な事に思考を裂いている場合ではない。
明らかに、足りないのだ。
幻想郷を跳び回り、不敬にも妖力に酔い痴れた妖怪たちを片端から片付けていく間に、覚えた違和感。
それが顕在化したのは地底を訪れた時のことだ。
全くと言っていい程に、紫様の妖力を感じない。
地底――妖怪の中でも嫌われ者や荒くれ者の集う場所で、人間を襲った者が一妖すらもいないなんて、あり得るはずがないのに。
何故か弾幕勝負に負けたような無残な姿となっている
それではと鬼の四天王に問うたところで、他人の恥を晒すのは趣味ではないとの一点張りだった。
最早、推測の段階ではない。
何者かが動いている。
私のように紫様の妖力を
『私が寝ている間、《何か》あったらお願いね、藍』
意味ありげな妖しい笑みと共に紫様が残した言葉を、私は未だ呑み込めないでいる。
「うーらめーしやーっ、あっ、間違えました、いや、やめ」
十中八九異変の雰囲気に呑まれただけの唐傘付喪神を一撃に
解っていたはずなのだ、理由があるはずなのだ。
幻想郷を我が子のように溺愛する紫様が、異変を起こした意図。
いや、異変だけならばまだ理解できる範疇だ。
今まで異変の騒ぎに乗らず、静かに鬱憤を溜め込んでいた妖怪たちに、発散の機会を与えたのだ――といったように。
しかしながら、危険と利益との採算が合わない、合わないにも程がある。
現に今、私は失われた妖力の全てを集めきれないでいる。
正体すらも未だ不明な、下賤な簒奪者の存在によって。
試されているのだろうか、と根拠の無い想像が脳裏を
妖怪の賢者が式として十全な働きをお前には出来るのか、と詰問されているように思えてくる。
挑発的に目を細める主の姿が自然と浮かび、不毛だと自身の思考を切り替えた。
命に従った先に何が待っていようと、一介の式が憂慮することではない。
そうして、専心とばかりに吐き出した息、その代りに取り込んだ空気に。
ちりりと程よく焦げた、柔らかい甘さを感じ取る。
鼻が、耳が、九本全ての尾が反応するのを、己の事ながら単純と思わざるを得ない。
揚げ、油揚げの炙りである。
思い出すのは、いつか小耳に挟んだ俗言。
曰く、「八雲紫の取次には、油揚げで式の妖狐を呼べばいい」という失礼千万極まりないものだ。
利いた風な口をきいた輩はその場で仕置きしたのだが、後になって妙に噂が広まっていたのには閉口した。
仮にも幻想郷を牛耳る八雲紫が式神を、其処らをうろつく畜生の如く扱うとはまともな神経とは思えない。
ふむ、と鼻をひくつかせて、思考する。
勿論、食物に釣られて姿を現す、などと噂が立つのは本意ではない。
ないのだが――現在は異変、それも直々の命を受けた非常時だ。
もしも冬眠中の紫様へ火急の要件が有るというのならば、反応しないわけにはいかないだろう。
故に、私が匂いの発生源へ向かうのも、致し方ない事ではないだろうか。
実に、致し方のない事である。
だが。
匂いの元は
「もうゆるしてぇ、正座は苦手なの……!」
「駄目」
「まったく、姉さんは堪え性が無いんだから」
「霊夢、そろそろ油揚げが焦げ過ぎるんじゃないか」
「あっ、リリカ、ちょっと浮いてる!
ズルしてる!」
「しーっ、言わなきゃバレな、あっ、いだだっ!?
お札、お札は駄目、ごめ、ごめんなさいっ!」
「霖之助さん、お醤油とおろした生姜、それから小皿を持ってきていただける?
あと、お酒とか無いかしら?」
「……異変解決はいいのかい?」
折檻されている二体の騒霊を尻目に、巫女と店主が網の上の油揚げを囲んで居た。
***
躁とは精神の異常高揚だ。
自身と世界との繋がりを過剰に認識し、そこに距離など存在しないかのように錯覚する。
故に能動的。
起こす行動が周囲へ与える影響、それを殊更に有り難がる。
故に無節操。
素晴らしき物などどこにでもあると、事の陳腐さを即座に思い知る。
故に、短絡的。
深みを知ることなく直情に跳ね回る心が、他者への同調を行うなど不可能で。
詰まる所、正しく世界を見ずして、正しく世界と付き合える筈もないのだ。
「――それで、こういった状況な訳、か」
僅かに開いた扉から覗ける店の中、人間の少年と騒霊の長女とが見つめ合っている。
騒霊の表情は真剣そのもの。
対して少年の側は、暗く昏く光無い
室内に低く響く、落ち着いた弦楽器の調べ。
鬱の音、躁とは真逆の滞留。
妖怪にはある種の心地良さすら感じるこの音色は、普通であれば人間には害となる。
それを正面から受け止め続けている少年だったが、安定を多少下回る程度の症状で済んでいるようだった。
理由はすぐに分かるような、単純なものが二つ。
騒霊の奏でる鬱の音が、精神を鎮め過ぎないよう、適度に加減されていること。
そして。
破壊され床に散乱した古道具が、つい先ほどまで躁の気に侵されていた人間が居たことを、明瞭に示していた。
よくよく見れば、未だ弦を弾き続ける騒霊の衣服も、襲われたかの如く乱れていた。
恐らくそれも少年の仕業なのだろう、妹の責を
周りは誰も止めなかったのだろうか。
「丁度いたし、手っ取り早かったし」
油揚げをむぐむぐと咀嚼しながら、言い訳染みた説明をする巫女。
どうやら、この状況を指示したのは博麗霊夢らしい。
しかし暴れられた店の主は兎も角、別に私にとっては、少年が鬱だろうが躁だろうが大して関係の無い事柄だ。
重要なのは。
紫様の妖力を、この少年が大量に有しているという異常事態、それだけだ。
私が東奔西走して集めた量など比べ物にならない程に凝集された、濃い妖力。
これが紫様の妖力でなければ、この私が気付かなかった訳が無いのだが。
式神である私に与えられる力は、当然の事ながら紫様の妖力。
自身の匂いを感じ取るのが難しいように、失われた妖力を感じ取ることは困難なのだった。
「言っておくけど」
膨らませた頬に似合わぬ声色で、博麗の巫女が釘を刺す。
「当然だけど、あんたの主人がやらかしたんだから、全部片付けてから帰るのよ」
「商品の支払いも」
店主の一言は無視するとしても、聞くまでも無い言葉だった。
なにせ、最初から私はその為に動いていたのだから。
紫様の命に、
私は振り向くことなく了承の返事を返して、常よりも随分と寂れて見える店内へと、足を踏み入れた。
道具の残骸を踏み鳴らし、散れ、と視線で騒霊を下がらせる。
何事かと極小の興味を
閉じた精神と目が逢った。
呆けたように椅子へ体を預けている少年の頬を、両の手で包む。
そのままゆっくりと、触れるか触れないかといった輪郭を、指先でなぞる。
敏感な触感を通して、私の存在を語りかける。
僅かに震え始めた吐息に、意識の浮上を確信する。
左の掌で頬を支えたまま、右手を後ろに回し髪先を撫ぜる。
音もなく肩が揺れ、黒い瞳に、
笑む。
最も単純な肯定を、少年の瞳に焼き付ける。
一瞬の脈動と発熱を、正に手に取って感じとり、波を逃さぬよう耳の後ろに爪を掠らせる。
震えた息が声帯を抜け、微かな声となった。
眼球を射抜いたまま微笑みを保ち、ただ、待つ。
相手が私を求めるのを。
褒美だったのだ。
式神の私にとって、主の妖力は甘露。
それを内に秘めた人間など、供物以外の何者でもない。
紫様は最初から、
私の行動も少年の運命も、見えない
尾が九本にまで裂ける程に人間を欺き、化かし、惑わし続けてきたこの妖狐。
たかが人間の子供を
「――僕の」
少年の唇から、言の葉が落ちる。
「――僕の名前は、
「――
飾りなく放たれた願いに、私は目を細め、小さく頷いた。
地へ舞い落ちる欠片に光が乱反射して、扉の隙間から入り込む。
雨だった。
直に雪へと変えるだろう肌寒さが、終わりの季節を物語る。
物欲しげに潤んだ目が、閉じられる。
自身の全てを捧げるその姿に、抑えていた情欲が体中を駆け巡り。
「いただきます」
この獲物は自分の物だと主張するかの如く、深く、深く、口をつけた。