けものフレンズR ”わたし”の物語   作:むかいまや

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https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im9098445 より設定をお借りし、書きました。
幕間です。箸休めです。

おかしいな、思っていたよりも長いぞ……?

20/06/09 改稿


幕間2

「ねえ、――――。なにをかいてるの?」

 わたしは目の前に居るその人に声をかけます。その人の顔は、わかりません。陰になっているのか、それとも記憶から抜け落ちているのか……まるで、いいえ、文字通り黒塗りになった顔がわたしの方を向いて、微笑みながら言いました。

「絵を描いているんだよ、――」

 わたしはその言葉を聴いて、わくわくしながら、イーゼルに置かれたままの絵を精一杯の背伸びをして覗き込みます。しかしながら、描かれている絵と、わたしの眼前に広がる光景とは著しく異なっていました。

 例えば、時間。目の前に広がる景色は太陽が燦燦と降り注ぐ芝生の生い茂る丘でしたけれど、描かれているのは夜。細っこい下弦の月がささやかに照らす夜の丘でした。例えば、山。遠くには山々が連なり、稜線が空との間に境界をぼんやりとスカイラインを生んでいるのですけれども、描かれた丘の向こう側には山が無く、夜空に煌く星星が、真っ黒な天幕に穴を開けたように幾つか描かれています。例えば、人。小高い丘の頂点の大木の下には家族連れが何組か居て、タイヘン賑やかなのですが、描かれているのは夜に不釣合いなほど白く輝くワンピースを着た女性の姿。風にスカートをはためかせながら、遠く夜空に思いを馳せているように、小さな横顔をこちらに見せています。

「なんで、よるなの? なんで? このひと、いないよ? なんで?」

 その人は苦笑いしながら、わたしの頭をそっと撫でます。

「絵っていうのはね、写真じゃないんだ。ありのままを描く必要は無いんだよ」

 わたしはその言葉に釈然としませんでした。今なら、きっとわかるのですけれど。

「へんなの」

 そういってそっぽを向くわたしの頭をそっと撫でるその人の手は、ごつごつしていましたけれど、暖かで、優しくて……あと、どこか妙ななにおいがしました。今からしてみれば、きっと懐かしいと感じただろうそのにおいは、きっとそのときのわたしにとって、心地の良いものではなかったのでしょう。

「……――――、たばこすったの?」

 吸わないって言ったじゃない、とむくれるわたし。それに答えるようにその人は言いました。

「ごめんごめん、辞めるのはタイヘンなんだよ? 控えるようにはしてるんだ……」

 申し訳なさそうな声でした。

「からだにわるいって、ぶくりゅーえん?」

 あははとその人は笑います。笑われてわたしはますますむくれてしまいます。

「ごめんごめん、笑っちゃダメだったね」

「じゃあ、やめよ?」

 正論……でしょう。何が「じゃあ」なのかは不明ですが、今のわたしでもそう思います。そういうとその人は真剣に悩みながら、ぼそぼそと呟きます。

「や……確かに身体には悪いけども……心には良いんだ……うーん、しかし……うーん……時期にガンにも効くように……するが……今は……うーん……」

 幾らなんでも妄言の類でしょう。その人の言葉に飽きたその時のわたしは、絵から目を離して眼前の光景を眺めます。折り良く吹いた風に髪の毛がそよぎ、雲が陽射しを遮り、光の柱を作ります。そのときの光景は、忘れてしまっていたのが惜しいくらいでした。感動にも似た思いが幼かっただろうわたしの心を揺さぶります。

「ねえ、―――――。あたしもえをかきたい」

 わたしの言葉を聴いたその人は心底嬉しそうに微笑み(顔はわからないのに、微笑んでいたんです。不思議ですよね)、わたしにスケッチブックと色鉛筆を数本渡してくれました。わたしは受け取るや否や、目の前の光景を写し取ろうと躍起になり始め、その人はわたしをそっと見守ってくれていたのでした。

 

 そこで、あの時思い出した記憶は途切れます。

 

「ともえさん、どうかしましたか?」

 お昼ごはんを済ませたわたしとイエイヌさんは、思い思いに食後の時間を過ごしていました。わたしは水を組んだコップを傍らに置き、時折舐めるように口に含んだりしながらよみがえった『思い出』の事を考えていました。どうやら思案に暮れている間に結構な時間が経っていたようで、心ここにあらずといった様子のわたしを、イエイヌさんは不思議に思ったようです。

「いえ、ちょっと考え事を……」

「そうですかぁ……よいしょっと、体調を崩したのかと思っちゃいました、良かったです」

 イエイヌさんは椅子の位置をわたしの隣に動かして、腰掛けます。いじらしいというか可愛らしいというか、そんな様子のイエイヌさんにわたしはくすりとしてしまいます。

「ご心配をおかけしました。……イエイヌさん、今日はどうしましょう? お散歩に行って、その後は……うーん……」

 このまま『おうち』で過ごしても良いのですけれど、幾分手持ち無沙汰ですし、少しくらいは身体を動かしたいところです。

「そう、ですねぇ……どうしましょう。お散歩しながら考えます?」

「そうですね、そうしましょう」

 身体を動かせば何か思いつくだろうという判断です。

 

 わたし達は支度をして、『おうち』を出ます。澄み渡るような空にのんびりと漂う雲。良いお散歩日和でしょう。

 

 イエイヌさんは時折わたしの顔を覗き込むように伺いながら、わたしの隣を歩いています。その度にわたしは「うん?」と口に出したり出さなかったりしながら、イエイヌさんに答えるように、目線を合わせます。幾度もちらりちらりと彼女の尻尾が視界に入ります。それは楽しげに揺れるものでした。

 彼女はにっこりと笑ったり、はたまたすぐに視線を前に向けたり……落ち着いていないというと悪く言うようですが、彼女の動きのひとつひとつが楽しげなものであるように思われます。

「ねえ、イエイヌさん」

 わたしの問い掛けに彼女はこちらを見て応じます。

「なんですか? ともえさん」

「ひとつお願いがあるんですけど、いいですか?」

 彼女にお願いをするのは何度目でしょうか? 大小問わずにいくつかを積み重ねて来た気もしますが、彼女からお願いをされたことは、殆ど……いえ、まったくありません。単に彼女の性格なのでしょうけれど、ずっと頼みごとばかりしていて「申し訳ない」という思いが積もっていくような気持ちもします。

「はい! なんでしょう!」

 彼女は尻尾を振りながら、本当に嬉しそうに答えてくれました。

「えぇっと……この辺りに住んでる……んですかね、フレンズさん達にご挨拶をしたいなぁと……」

 彼女を喜ばせるような『お願い』をしないといけないのではというちょっとした責任感さえ感じていたのですけれども、どうやら杞憂だったようです。

「はい! よろこんで! ……でも皆さん決まったところに居るとは限らないんですよねぇ……」

 イエイヌさんの困ったような、呆れたような、そんな声にくすりとしてしまいます。

 確かに、ナワバリに住んでいるといっても、その範囲は曖昧でしょう。重なっていたり、出かけていたり、一緒に暮らしていたり……もともとの動物と同じような生活をしているとしたら『渡り』をする子もいるのでしょうし……

「そういえば、そうですよね……大丈夫ですよ、気負わないで下さい。長く暮らしていればその分沢山のお友達も出来るでしょうし、焦ったりはしていませんよ」

 気のせいでしょうか? 『長く暮らしていれば』と言ったときにイエイヌさんの耳がぴくりと動いたように見えました。

「うーん、となると……最初はロバさんに改めてご挨拶するとして……うーん……」

 ふふっとくすりと笑ってしまいます。

「ともえさん? どうかしました?」

「ごめんなさい……思い出した人にちょっと似ていたので」

 イエイヌさんは不思議そうに首を捻ります。

「思い出した……何か思い出したんですか? 教えてください! お役に立てるかもですし!」

 そこが基準なんですね……。

「いいですよ、歩きながらで大丈夫ですか?」

「はい!」

 彼女はわたしの話に時折相槌を打ったりしながら、静かに聴いてくれました。わたしの話が終わると、彼女は考えるような素振りをして、そっと言いました。

「ともえさん、その人、誰です?」

 イエイヌさんの声色が若干低いような……いえ、問題はそこではなくて……

「わからないんですよねぇ……顔がわからなかったというのも大きいですけど、断片的に思い出しただけで、どういう理由でそこに居て話をしていたのか、絵を描いていたのか……まったく……」

 わたしの思い出した記憶はそれと、それに付随して今のわたしの心に浮かんだ安心感にも似た感情。決してそれに連なる前後の出来事が胸中に沸き起こることはなかったのです。

「余程親しい方のようですけれど……お友達って感じじゃないですものねぇ……」

 ひとつの可能性が頭を過ぎります。

「わたしの……お父さん? それとも、別の誰か、絵の先生……?」

 後者は最初にこの記憶を取り戻したときの直感。前者は、今ふと思いついた可能性。

「オトウサン……? 何となくわかるんですけれど……」

 不思議そうに首を傾げるイエイヌさん。そういえばフレンズさん達って野生動物から変化(進化?)した存在なんでしたっけ……となると、『家族』という概念にも食い違いがあるかもしれません。

「ちょっと聞き辛いんですけれど……イエイヌさんにはご家族……えぇっとお父さんやお母さん、ご姉妹って居るんですか……?」

 わたしの質問はある意味で禁忌に思われました。彼女の口からそういった言葉は聴いたことがありませんし、フレンズさん達のありようにわたしは詳しくありませんが、どうも「一種一体」が原則のように感じられます。そうでなければ、自分の事を「イエイヌ」だとか「ロバ」だとか種族名で呼びませんもの。

「……? うーん、良くわからないですねぇ……でも、家族ならともえさんがいるじゃないですか」

 イエイヌさんはにっこりと笑いながら私に言いました。

「あはは……そういうことなら、わたしもイエイヌさんが家族ですね」

 わたしは微笑みながら、「どっちがお姉さんなんでしょうね」と冗談を言いましたが、わたしの胸中には不思議な感情が渦巻いています。なぜ、今まで自分の家族の事を考えなかったのか……いいえ、自分が捨て子であるという可能性を考えてしまったのは事実なのです。ただ単に、考えないようにしていたのかもしれません。

「まぁ、答えなんか出ませんよねぇ」

 わたしはつい、呟いてしまいます。それを聞いたか聞かないかはわかりませんが、イエイヌさんがわたしに問いかけます。

「……ねえともえさん。行きたいところがあるんですけれども、良いですか?」

「ええ、いいですよ、行きましょう」

 わたしがそう答えると、イエイヌさんはそっと手を差し出します。わたしは何故だか彼女から慰められているようにさえ思いました。

「ふふっ、ありがとうございます」

「なっ、なんのことですか?」

 顔をぷいと背けるイエイヌさんですけれど、尻尾の動きが大きくなっていますし、心なしか、可愛らしいお耳がこちらを意識するように向いているんですけれどねぇ……。

「イエイヌさん。わたし、思いました」

 イエイヌさんは「はい?」と言いながらこちらを向きます。

「わたし、大きいお耳もふさふさの尻尾も、無くてよかったなぁって」

 わたしの言葉に込められた意味合いを彼女は理解したのでしょうか? それはわかりませんが、イエイヌさんはくすりとして、言いました。

「ともえさん、結構似合うと思いますよ?」

 果たして彼女はとぼけたのでしょうか? ちょっとわたしにはわからない、ということにしておきましょう。

 

 暫く歩き、わたし達は良く通る道(広場に向う道です)から外れます。道は広場から外れる方向に続いており、流れる小川を渡るように小さな木造の橋を渡ります。

「こっちの道はこんな風になっていたんですねぇ……」

 わたしの先を行くイエイヌさんに声をかけると、彼女は振り向かずに答えます。

「えぇ……もうちょっと歩いたら坂道です。大丈夫ですか? ともえさん」

 ふむふむ……体調の方はもう言うまでも無いですし、疲れも特に感じておりません。

「大丈夫です! もしかして、広場から見える丘の上に向ってるんですか?」

「あ、わかっちゃいましたか……そうです。あの丘の上からの景色が、私は好きなんです」

 わたしは、彼女の言葉を聞いて自分が喜びにも似た感情を抱いていることに気付きます。イエイヌさんから、イエイヌさんの個人的な感情、特に自分自身を表現する言葉。それを聞けたことが、なんだか格別に嬉しいのです。

「……どうして笑うんですかぁ、もぅ……」

 イエイヌさんが困ったような表情で言います。どうやら私は笑ってしまっていたようです。

「なんだかごめんなさい……イエイヌさんの好きな場所が聞けて嬉しくて……」

 わたしの言葉にイエイヌさんは少しばかり顔を赤くして、道の先に顔を向けます。

「どうしました? イエイヌさん」

「い、いえ……さあ、行きましょう?」

 わたしの手を強く引いてイエイヌさんは進んでいきます。

 

 歩いている内に道は段々と傾斜のかかった道になって行きます。広がる光景は変わらず平原ですが、目の前に見える丘が近づいているのがわかります。心地よさにも似た疲労感を覚えながらわたし達は進みます。進んで進んで、坂道を昇り……丘の頂点に到着します。

「ふぅ、到着です! ともえさん、大丈夫ですか?」

 イエイヌさんは振り返ってわたしに問いかけます。わたしはといえばイエイヌさんのペースに合わせて歩いたからか、少しばかり息が上がっています。

「ふぅふぅ……ちょっと疲れましたけど……体力つけないといけませんねぇ……」

「無理はしないで下さいよ……? ほら、見て下さい! ともえさん!」

 彼女が指差すのは丘の向こう側。少し傾いた陽射しがのんびりとゆったりと、柔らかく照らす広場と、その周囲の草原。自然の中にヒトの営んだ痕跡が、その中で今はフレンズさん達がそれぞれ思い思いに過ごしているのでしょう。少しだけ長くなった影の中をそっと歩くフレンズさんの姿も見られます。あの子はどなたなんでしょう……イエイヌさんに聞いても首を振ります。流石に見えませんよね……。

「そうですか……そうだ、イエイヌさん。この景色を描いても良いですか?」

 私はイエイヌさんに尋ねます。すると彼女はふふーんと鼻を鳴らして言いました。

「そのつもりで、ともえさんをここに連れてきたんですよ!」

 見透かされていたような悔しさにも似た感情よりも、ずっと強く、わたしはわたしのことを彼女に理解してもらえていた事が本当に嬉しく感じられます。

「……! こそばゆいですね……」

 えへへと恥ずかしがってしまうわたし。そんなわたしを見て、イエイヌさんがぼそりと呟きました。

「やりかえしてやりました……!」

 片手をぐっと握り締めています。イエイヌさんはわたしに妙な対抗心を沸かしていたようです。なんともいえない、胸から込み上げてくる愛しさのような感情。感謝と気恥ずかしさと嬉しさ。ふふっと笑いが零れます。イエイヌさんもわたしに釣られて笑い始めました。

 少しして、わたしは鞄からスケッチブックと色鉛筆を出して、風景を描き始めます。以前と同じように、自分でも不思議に思えるくらい、迷い無く滑り始める手。果ては見て取れず、水平線まで広がって見える草原を、陽射しを浴びて少し長くなった陰を湛える広場を、果てまで続くあの道を、ゆっくりと、それでも確かに、わたしはスケッチブックに描いていきます。

 そんなわたしを後ろからじぃっと見つめるイエイヌさん。時折、何故だか警戒するように周囲を見回しているようでしたけれど、彼女は殆どの時間をわたしの手元を眺めて居たように思います。横目で見ていただけですけれどね。

 そんな折、何かの気配を感じました。

「ふう、今日はこんなところだなー帰るかー……おおっ?」

 可愛らしい声でしたけれど、知らない声です。不思議に思って振り向くと、そこには羽根のように跳ねた髪のショートカットの女の子が居ました。両耳に挟むように綺麗な羽の髪飾り。半袖半ズボンの涼しそうな格好で、ちらりとぴょこぴょこ楽しげに跳ねる長い尻尾も見えます。

「……ロードランナーさんですか……セルリアンかと思いましたよ……」

 イエイヌさんが彼女に言います。セルリアン、フレンズの敵。そんな言葉が呼び起こされます。

「失礼なヤツだな、オイ。イエイヌぅ……久しぶりにあったのに、セルリアン扱いはひどいぞ」

 腰に手を当てて彼女は言いました。彼女の言葉も一理あるでしょう。ロードランナーと呼ばれた彼女にわたしは興味が惹かれました。

「えぇっと……イエイヌさん。彼女は?」

 イエイヌさんに聞くと、紹介してくれました。

「彼女はロードランナーさんです。こちらはともえさん。わたしのお友達です」

 イエイヌさんはロードランナーさんにわたしのことを紹介してくれました。うーん……どこか聞いたことのある名前……

「こ、こんにちは、ロードランナーさん。わたしはともえです。よろしくお願いしますね」

 胸の中の疑問はさておき、わたしは彼女に名乗ります。

「おう、ともえだな! よろしく! じゃあな、あたしは帰るぜ!」

 あっ、そうですそうです。コヨーテさんから伝言を……

「あ、あの。コヨー……あー……」

 帰るぜ! とは聞こえましたけど、もう丘の下に……

「あー……そのー……イエイヌさん……忙しない子ですね、ロードランナーさんって……」

 半ば呆れながら、半ば彼女のスピードに感心しながら、私はぼそりと呟きます。イエイヌさんも「えぇ……」とそっと呟きました。わたし達の間に奇妙な沈黙が一瞬訪れます。

「……絵、描きますか」

 わたしは再びスケッチブックに向き合います。

 

 西の空が茜色に染まり、東は透き通るような菫色に変わった頃。わたしは絵を描き終えました。

「ふう、出来ましたよ、イエイヌさん」

 そういって振り向こうとすると、イエイヌさんはわたしの肩の上を通すようにして絵に顔を近づけます。彼女の両手はわたしの肩に乗せられていて、彼女の全身のぬくもりを背中に感じました。

「はえぇ……」

 妙に気の抜けた声を上げて感心してくれるイエイヌさん。

「ど、どうでしょう? 今回は、見えたままを描いたつもりですけれど……」

 イエイヌさんが好きだといった場所を、わたしは出来る限り、切り取るように描こうとしました。

 それは、この丘に来なくとも彼女が愛する光景を見られるようにするため。それは、彼女が教えてくれた光景に対する感謝と尊敬の思い。そんな色々な感情が混じっていたからだと思います。

「とても……綺麗、です……」

 イエイヌさんはほうと息をつきます。わたしはなんだか嬉しくなって、わたしの右肩の上にある彼女の顔にそっと顔をくっつけます。

「お褒めいただき、光栄です、イエイヌさん」

 少しばかり大仰な言い方になったのは恥ずかしかったからです。

 イエイヌさんはわたしの顔に彼女の顔をこすり付けるようにして答えてくれたのでしょう。小さくわたしは笑い、彼女も同じようにささやくように笑います。

 幸せなんてものは、わたしに断定できません。ですが、きっと、これは幸せのひとつの形なのでは無いでしょうか? わたしを家族と呼んでくれたこと、彼女のお気に入りの場所を教えてくれたこと、彼女がわたしを褒めてくれたこと、彼女がわたしを認めてくれていること、彼女がわたしを守ろうとしてくれていたこと。その全てがわたしの今を肯定してくれているように思います。

 

 暫くふたりで何も言わず、夕暮れに佇みました。お互いの間に流れる空気は緩やかで、なめらかで、優しいものでした。夕日に浮かび、夜に沈む。そんな平原の姿をふたりで眺めることの無上の感動。それは確かなものでした。そうしている内に、辺りは真っ暗になります。

「帰りましょうか、イエイヌさん」

 彼女はえぇと頷き、そっと立ち上がり、わたしの前を歩きます。そういえば、イエイヌさんはわたしの前を歩くことが多いことに気付きます。特に知らぬ道や夜道では……彼女なりの心配りなのでしょうか? 道案内として、或いはわたしを守ろうとして……? その真実はわたしにはわかりません。単なる道案内ということが多いのでしょうけれど……。

「ねえ、イエイヌさん。手を繋いでもいいですか?」

 夜道への恐怖を、彼女への感謝の思いで隠すつもりはありませんよ?

 わたしの申し出を彼女は快く引き受けてくれました。ありがとうございます、イエイヌさん。

 

 丘を下りきり、道を歩いて……わたし達は広場の周辺まで戻ってきました。静まり返った広場は朝の喧騒がまるで嘘のようです。朝に来る度に感じる混沌のような雑踏、喧騒……それらが妙に懐かしく思えます。殆ど毎日の恒例なんですけど、ね。

 隣を見れば真剣に道の先を見つめるイエイヌさんの顔が目に入ります。耳はしゃんと立っていて、時折ぴくりと方向を変える様に動いています。尻尾は楽しげですけれど、彼女自身も含めた安全の為に気を張っていてくれているのでしょうか?口だけ動かすようにして、感謝の気持ちを伝えます。イエイヌさん、ありがとうございます。口を動かし終わったくらいのタイミングで、イエイヌさんが私の顔を見つめてきます。頭の上に「?」が浮かんでいそうな顔でした。

「どうかしましたか?」

「い、いえ、なんでもないですよ、イエイヌさん」

 不思議そうにしているイエイヌさん。そうだ……

「イエイヌさん、今日描いた絵は、おうちに飾りましょう?」

「えっ? 良いんですか?」

 楽しみですねぇなんて、わたし達は話しながら歩きます。ふいに、わたしの心にひとつの思いが過ぎります。「ずっとこうしているのか?」と。

 イエイヌさんとふたりで、ずっと暮らす。あぁ、それはなんて甘く、美しく、魅力的なんでしょうか。きっと、それは素敵でしょう。ですが、それは……多分、きっと多分、わたしの過去を放棄するということ。いつか、わたしはわたしの過去の為に決断しなければいけません。あの夜のことがよみがえります。『旅に出ること』……いつか、きっと、いつか。決断したらすぐに旅立たねばならないでしょう。

 とはいえ、もう暫くここでのんびりしてもバチは当たりませんよね……? ひとまずは明日か明後日か……まだ知らないフレンズさんたちと会えることを願って、今日を終わりましょう。

 

 「ただいま」という声がふたつ重なって『おうち』に響きます。今日は楽しい一日でしたね。イエイヌさん。明日もよろしくお願いしますね。

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