生まれも育ちも海無し県ですので、海の描写は難しいのです。
20/06/09 改稿
朝日が強く差し込み、わたしは目が覚めました。ベンチで寝ていたからか、身体の節々が痛みます。水平線の向こうには太陽が輝いています。
「んっ……ふぅ……覚悟はしていましたけど……結構辛い……」
わたしは身体をほぐすために伸びをしながら呟きます。雨風をしのげて、地面に直接寝ることも避けられる……それだけでもありがたいことですけれど、やはりベンチに横になって眠るというのは結構しんどいものですねぇ……。
「ん……うーん……」
わたしの呟きで目が覚めたのか、イエイヌさんも起き上がります。
「おはようございます、イエイヌさん」
「ふぁい……おはようございます、ともえさん……」
言い終わるや否や、イエイヌさんはふわぁと欠伸をしてから伸びをします。わたしも釣られて欠伸をしてしまいました。
「……ともえさん、もう出発します?」
それでも良いのですけれど、身体をほぐしたり、軽く顔や身体を清めたいところです。
「そうですねぇ……もう少ししたら、川の方に言って少し身体をぬぐおうかな、と思ってます。イエイヌさんはどうします?」
寝起きでぼんやりしているからか、数秒の間をおいて、イエイヌさんは答えます。
「私も、行きます」
そう言って彼女は再び欠伸をしました。それでも眠たげな半目。彼女のおっとりとした様子に、なんだかわたしも眠くなってしまいそうです。眠気を払うようにほっぺたを軽くぺちぺちと叩いて、ドアを開いて表に出ます。心地よく冷えた朝の大気がわたしを出迎えます。
今日が、始まりました。
わたしが小屋の外で軽くストレッチの続きをしていると、先程よりも覚醒しているのであろうイエイヌさんが出てきました。彼女は「どうぞ」といってわたしに鞄と帽子、それと水筒を手渡します。
「ありがとうございます。じゃあ川の方にいきましょうか!」
わたしの言葉にイエイヌさんは「はい!」と元気良く、ですがどこか眠たそうに答えます。彼女の返事を合図にするように、わたし達は歩き始めました。
道を横切り、木立に入ると、ひんやりとした空気がわたし達を包みます。むしろ寒いくらいでしたけれど、お陰で歩いているだけで目が覚めるようです。フレンズさんなのか、それとも自然の動物なのか、小鳥の囀るようなチチチという可愛らしい声も聞こえます。深呼吸をすると、しっとりとした空気がわたしの身体に染み渡るようです。
「前から思ってましたけど、空気が美味しい……」
わたしの言葉にイエイヌさんは首を傾げます。
「……? 味、しませんよ?」
こういった感覚はヒト特有なのでしょうか? それともここの空気しか知らない為に比較のしようがないのか……
「うーん……説明しづらいというか何と言うか……綺麗な空気だなぁといいたいのですよ」
そういうと、彼女は納得したようにふんふんと頷いています。わたしもわたしで、何故ここの空気が『美味しい』と思ったのかという疑問を抱きます。もしかしたら、嘗てのわたしの記憶の名残かもしれませんね。
暫く歩くと小川が見えました。道中では先日のようなセルリアンの出現なども無かったのは、幸いでしょう。
「よし、っと……」
わたし達は小川の傍らにしゃがみ込みます。わたしとイエイヌさんは水を手で掬い、顔を洗います。手と顔に触れる水はとても冷たいものでした。
「ひょえぇっ……!」
イエイヌさんが奇妙な声を上げます。
「ど、どうかしましたか……?」
彼女はバツが悪そうな顔で雫を垂らしながら言いました。
「ちべたいです……」
やっぱり、似るものなんですねぇ……。思わずくすりと笑ってしまいました。
顔を洗い終えたわたしは、昨日かいた汗を軽く拭おうと思い、タオルを流れに浸し、絞ります。そうしてベストだけ脱いで、服を脱がずに軽く擦るようにして拭いました。そんなわたしの様子をじいっとイエイヌさんは不思議そうに眺めます。
「ともえさんって……綺麗好きですよねぇ……」
「うーん……なんでしょう。汗でベタベタするのは避けたいですし、臭いとかも気になりますし……」
ちょっとばかり恥ずかしいような話ですけれども、正にその通りです。殆ど何も持たずに旅に出る以上、お風呂に入ったり、服を頻繁に変えたりなど出来る筈も無いですし、その事は覚悟していますので望んだりもしません。ですけれど、少しくらいは身なりを整えておきたいと思うのも、また人情というところでしょう。
「うーん、ともえさん、ヘンなにおいとかしませんけどねぇ……」
イエイヌさんはわたしに近づいて、すんすんと鼻を鳴らします。
「ちょ、ちょっ……は、恥ずかしいですって」
わたしは思わず飛びのくようにイエイヌさんから離れます。そんなわたしの様子をやっぱり不思議そうに見るイエイヌさん。
「むしろいいにおいですし、安心してください! 結構離れていても、ともえさんのにおいなら、私、わかりますよ!」
胸を張って彼女は言いましたが、わたしはなんだか非常に恥ずかしい気持ちです。
「えー……えぇっと……喜んでいいんですか……?」
ヒト……少なくともわたしが抱いている『常識』とフレンズの皆さんの抱く『常識』が異なることは理解していましたけれども……
「はい!」
イエイヌさんは、恐らくわたしよりもずっと鼻が利くはずですし、そのイエイヌさんが自信を持って肯定してくれているのです。きっと自信をもっても良いのでしょうけれど……何と言うか、その……『体臭に自信があるヒト』という存在は、わたしには妙に違和感が目立つ言葉のように思えます。いっそのこと、そんな『常識』を覚えているよりも、わたしの過去についてもう少し覚えていて欲しかったものです……。
「そういえばフレンズの皆さんは着替えとかしないんですもんね……」
イエイヌさんもロバさんもロードランナーさんも、同じ服を着ています。汚れや傷も殆どありませんし、きっと『フレンズ』としての特性や特徴なんでしょうね。深く考えても仕方が無い気がしますので、ざっくりと『そういうモノ』だと受け入れましょう……。
とそこまで考えて、『常識』があることの大切さに気づきました。わたしがフレンズさん達のような体質で無い以上、清潔さを保つことは重要なことです。想像して少しぞっとしました……。フレンズさん達に少しばかりの羨ましさを抱きながら、わたしは身体を拭い終わり、タオルをすすぎます。
さて、今日はどれくらい歩けるでしょうか? 新たな出会いや、楽しい出来事。もしかしたら辛いことや大変なこともあるのでしょうけれど……イエイヌさんが一緒ならば、きっと大丈夫。そう思います。わたしがそんな思いを抱いている間、イエイヌさんと言えば周囲をきょろきょろ見渡したり、お耳をぴくりと動かしながらも流れに手をさらして遊んでいたり……。水筒に水を汲み終わって、最後の準備の終わりました。
「よし……イエイヌさん、行きますか!」
わたし達の間に「おー!」という具合の声が響きます。
木立から道に戻り、うみべちほーに向って歩みを進めます。具体的な時間こそわかりませんが、太陽の傾き具合から言って、まだまだ朝と呼べる時間でしょう。空の様子はといえば、今日は風があまり吹いておらず、雲も少ないようです。
「今日は暑くなりそうですねぇ……」
イエイヌさんはわたしの呟きに「ですねぇ」と答えます。昨晩写し取った地図(正確に描けたか、といわれるとちょっと自信はないですけれど)で見たところ、うみべちほーまではそこまで距離はなさそうです。ですが、どこかで一端休憩をしたほうが良いかもしれませんね……。
っと、話は変わりますけれど、ご飯、どうしましょう?
「イエイヌさん、ご飯はどうしますか? 今、手元にジャパリまんは無いのですけれど……」
わたしがそういうと、イエイヌさんは申し訳なさそうに答えます。
「ごめんなさい、ともえさん……私も……持ってくれば良かったですね……」
「いえ、責めるつもりは……では無理しない程度に急ぎましょうか。うみべちほーの方で配っている余りとかあるかもですし」
そう言ってわたし達は少しだけ歩くペースを上げ、進み始めました。
「そういえば、ともえさんはアルマーさんとセンさんにお会いするのが目標でしたっけ?」
「そうですよ。会いたくても会えないなら、会いに行けばいい、という考えです」
わたしはイエイヌさんの先を歩きながら、振り向かずに答えます。目先の目標でもあるだけで何となく前に進んでいる気にはなるものです。
「ともえさんは前向きですねぇ……」
イエイヌさんの言葉は何処か自嘲気味であるように思えました。
「……性格は、みんなそれぞれ違いますから。会いに行くといっても、もしかしたら、入れ違いが続くかもしれませんしね」
わたしの言葉にくすりと笑うイエイヌさん。
「優しいですね、ともえさん」
「そうですかね……?」
わたしの言葉が、彼女の琴線の何処に触れたのかはわかりません。もしかしたら、彼女は『待つ』という行為をずっと続けていた自分に何か思うところがあるのでしょうか?
「待ち続けるって、タイヘンですもの。わたしは身体を動かしていたほうが気楽ってだけです」
わたしがそう言って後ろを振り向くと、イエイヌさんと目が合いました。心なしか彼女の目が潤んでいたのは気のせいでしょうか? と、その時です。
「あっ! ともえさん、あれ!」
ふぇ? と声を上げてしまいました。彼女の指差す先には、ぴょこぴょこ跳ねるようにしながらくさむらの中を移動している大きなカゴがありました。
「あれは……なんです……?」
セルリアンでは無いのでしょうけれど、とわたしは付け加えます。
「多分、ラッキービースト……ボスさんですよ! もしかしたら……」
なるほど、ラッキービーストさん……。わたしが納得していると、イエイヌさんは小走りに茂みに近づいていきます。後を追いましょう。
「よかったぁ……帰り道だったんですかね……? ボスさん。貰ってもいいですか?」
わたしが彼女に追いつく頃には、そのぴょこぴょこというカゴの動きは、イエイヌさんの質問に答えるように止まり、彼女が取りやすいように傾いているように見えます。
「ふぅ……びっくりしましたよ……。おはようございます、ラッキービーストさん。わたしも良いですか?」
視線を落とすと、カゴの陰になっていて、ラッキービーストさんの姿は見ることが出来ませんでしたが、イエイヌさんがしっかりとジャパリまんを幾つか拝借しているのを見ると、どうやら正解なのでしょう。
「オつかれさまデス、ハカセ。ドウゾ」
ハカセ……? 博士? 人名? うーん……? わたしの疑問を他所に、イエイヌさんは驚きの声を上げます。
「しゃ……喋れたんですか……? というか、ハカセじゃないですよ! ともえさんです!」
イエイヌさんの声を聞くと、ラッキービーストさんは頭に載せたかごを地面に投げ置きました。そして、イエイヌさんの顔と、わたしの顔とを順番にじいっと見つめます。
「ホントウ?」
わたしの顔を見て問いかけるラッキービーストさん。
「……えぇっと……なんて答えたら良いのでしょう……」
少し思案してわたしは口を開きます。
「はい、わたしはともえです」
ラッキービーストさんの胴体にくくられたレンズがきらりと光ります。
「ケンサクチュウケンサクチュウ……ガイトウジョウホウ、カクニン。トウロクめいヲていせいシマスカ?」
……何の情報でしょう? とはいえ、ラッキービーストさんたちに間違って覚えられるのも、間違えられた方にも申し訳ないですし……
「ええっと……訂正してください」
「リョウカイ……カンリョウ……オつかれサマデス」
終わった……のでしょうか? いつの間にか地面に置かれたカゴを手に持っていたイエイヌさんは、そっとラッキービーストさんの頭の上に戻します。
「あ、ありがとうございます、ラッキービーストさん」
「イエ、では、ともえ。しつれいしマス」
そう言ってラッキービーストさんは再びぴょこぴょこと跳ねるように移動し始めました。
「……なんだったんでしょう?」
イエイヌさんは不思議そうに呟きます。
「なんだったんでしょうねぇ……」
わたしもぽつりと呟きます。『わたしの情報がある』ことがどういうことなのかさえ、今のわたしにはわかりません。とはいえ、わたしが『あそこ』で眠っていた以上、何らかの情報がパークの中にある可能性をぼんやりと考えていましたが、どうやらその考えは正しいようです。今回、わたしが質問をするよりも先に、ラッキービーストさんはどこかへ言ってしまいましたが……
「それに……ボスさんはお話できたんですね……」
そういえばそうです。てっきり違和感無く受け入れていましたが、皆さんから聞いた話ではラッキービーストさんは寡黙な方だというお話でした。話は聞くし、行動もしてくれるけれども寡黙な(というか喋らない)不思議な存在。けれどフレンズさんたちの生活をサポートしてくれている存在……というお話でしたからねぇ……。
「不思議ですね……何か条件でもあるんでしょうか?」
わたし達はふたりしてラッキービーストさんから頂いたジャパリまんをもぐもぐしながら歩き始めます。疑問は尽きませんが、考えても仕方が無いことでしょう……
「あっ、もしかして、ヒトとしかお話しないのでは……」
イエイヌさんがぼそりと呟きます。
「えっ、そういうことなんですか?」
直感ですけど……とイエイヌさんは言いましたけれど、的を射る答えだと思われます。要するに、ヒトとは会話するが、何らかの事情からフレンズさん達とは会話しない、ということでしょう。理由や事情は……わかりませんけれど。
「まぁ……それはそれとして……ご飯の心配もなくなりましたし、そこまで急がなくても良いかもですね」
偶然の遭遇でしたけれども、ラッキービーストさんのお陰で少しばかり余裕が生まれました。少しだけ多目に拝借させていただいたので、今日一日ならば余裕を持って行動できるでしょう。
それに……何よりも自分自身の過去について一歩近づけたのではないのでしょうか? と言っても……そうなってしまうと、ますます機会を逃してしまったことが悔やまれますね……。
想定外の遭遇の後、わたし達は再び歩き始めます。歩いている内に太陽は空高くに昇っていきます。今朝方想像したとおり、どうやら気温が結構な温度にまで上がっているようですし、先程までとは少しばかり空気が違うように思われます。うみべちほーに近づいているから、ということもあるのかもしれません。気温や空気の変化は、わたしの身体を流れる汗の量からも判断は出来ましたけれど、何よりもイエイヌさんの呼吸が荒いことからも想像は容易です。わたし達の体調を考えると、そろそろ休憩をしたほうが良さそうです。
「イエイヌさん、あそこで休憩しましょう」
わたしは木立の方を指差します。
「……はぁ、ふぅ……良いんですか……?」
一緒に旅をする以上、お互いの体調管理は当然のことです。
「ええ、急ぐ理由もありませんから」
微笑みながら彼女に答えます。イエイヌさんは申し訳なさそうにしていますけれど、やはり辛そうにしています。わたしは彼女の手を引くようにして木陰に向います。
「なんだか、ごめんなさい……」
イエイヌさんの言葉を無視する形になってしまいましたが、程なく、わたし達は木陰に到着し、腰をおろして涼みます。わたしは「ふぅ」とひと息ついてから、水筒を彼女に手渡して言いました。
「無理はしないで下さい? 急ぐ必要があったとしても、です」
彼女は「はい」と小さな声で答えます。
「具合はどうですか? くらくらしたりとか……そういう……」
イエイヌさんはわたしの言葉に首を振ります。
「そこまででは……ちょっと暑くていつもよりも疲れ気味な程度です、たぶん……」
彼女はそう言って水筒を開け、ひとくちほど水を飲みました。こくりと動く彼女の喉には口元から溢れた透明なしずくが見て取れます。
文字通り、ひと息ついたからか、彼女の疲労も少しばかり回復したようです。もしかしたら、昨日の疲れが抜け気って居ないのでしょうか?
「ならいいですけど……」
わたしを追いかける為に無用な疲労をしてしまったという疑問は口にはしませんでした。けれども、わたしは少しばかり不安な気持ちになります。彼女の襟巻き(マフラーでしょうか?)だとか、腕を覆う長い手袋だとか、そういったものを外せば良いのでしょうけれど、彼女が言うには落ち着かないとのことでしたし……。
「ありがとうございます、ともえさん」
彼女はわたしに水筒を返しながら言いました。わたしもひとくち頂きましょう。
「んくっ……ふぅ。……? どうしました? イエイヌさん」
息をつきながらイエイヌさんの方を見ると、何故か彼女と視線が会いました。気のせいかお耳(ヒトの方です)が赤くなっている気がしますが……気温の所為でしょうか? 彼女は目が合うとすぐに顔を背けます。
「い、いえ……何でも……」
その後、彼女はぼそりと呟きました。それはそれは小さい音で、はっきりと聞き取ることは出来なかったのですけれど、何となく、彼女の言いたい事がわかりました。
「わたしは気にしませんよ? 直接となると困りますけど……そもそも水筒はひとつしかありませんしね」
わたしの言葉を聴いてイエイヌさんはぴくりと身体を震わせます。
「な……なんのことです? そ、そんなことより、行きましょう! 体調も戻りました!」
慌てて取り繕うように立ち上がるイエイヌさん。まったく、同じ飲み口を使ったことなんて気にしなくても良いでしょうに……以前も同じ水筒を回し飲みしたじゃないですか。まぁ、それはそれ、ということで……。
「本当に大丈夫ですか? 急ぐ必要はありませんし……」
わたしが立ち上がりながら尋ねると、彼女は「大丈夫です!」と答えてくれました。見たところ、彼女の息も整ったようですし、出発するとしましょう。くれぐれも彼女が無茶をしないように気をつけないといけませんね。彼女が『気負う性格』なのは、わたしにだってわかりますもの。
歩き始めて暫くの間、景色は今までのものから変わりませんでした。右手側には木立が茂り、左手側には広がる草原。ある地点を過ぎると、くさむらはぱたりと茂るのをやめ、木立は変わらずありましたけれど、それも疎らに……更に少し進むと、目の前には大きな門。その門には「うみべちほー 入り口」と大きな丸っこくて可愛らしい文字で書かれていました。所々装飾が剥げていたりもしましたけれど、幸い、可愛らしさを辛うじて感じられる程度には本来の意匠が残っていました。
「ここが……うみべちほーの入り口なんですかね……案内もしてますし……」
わたし達は歩みを止めはしませんでしたが、疑問に思ってイエイヌさんに質問します。彼女の方が、きっとパークについての知識は多いでしょうから。
「うーん……そうなんでしょうねぇ……境目には門があるとのことですので、きっと……」
彼女も確証を得ていないような口振りです。
「イエイヌさんもちほーを渡るのは初めてでしたっけ?」
「はい! そうです!」
後ろを歩くイエイヌさんに目線をやると、楽しげに微笑んでいて、尻尾もゆるりと振られています。休憩を挟んでから、歩くペースを落としたからか、それとも暑さに慣れてきたからか、彼女には疲労の色は見られませんでした。
「楽しみですねぇ、うみべちほー……」
わたしが彼女を見ながらそういうと、イエイヌさんも「はい!」と微笑みながら答えます。その後、すぐに彼女はとてとてっと小走りになり、わたしの横に並びます。そして、イエイヌさんはわたしの目をじっと見つめてきました。何となくでしょうけれど、彼女がして欲しいことが直感的にわかりました。
「どうぞ、イエイヌさん」
わたしが手を差し出すと、彼女は驚いたように目を見開いて、わたしの手を取ります。
「……なんで判ったんですか?」
「なんででしょうねぇ……何となく、ですかねぇ……」
わたしの言葉に彼女は「ズルイです」とぼそりと呟き、わたしはその言葉にふふっと笑って返します。
門を抜けると、景色が一変しました。
まず最初に感じるのは空気の違い。今まで触れていた草原の空気とは異なり、しっとりとしていますし、何処か違った独特のにおいのする空気です。そして、一面の海が最初に目に入りました。それは本当に広大で、雄大で……水平線というものがこれほどまでに驚きを与えてくれるものだとは思いもしませんでした。遠く漂う大きな白い雲も、何処までも続いていそうな真っ青な空も、全てがわたしにとって驚きの対象でした。
右手を見ると、木立が門を境にぱったりと無くなり、そこには海に流れ込む、ゆったりと広がる水の道があるばかり、その上を渡るように橋が架かり、その先には弧を描きながら続く道……左手を見ると、同じように曲がった道が続いています。道の果てには青と白とを基調にした海っぽさそうな印象を受ける建物と、矢鱈に背の高い白い塔(灯台でしょうか?)があります。
どうやらこの門は、緩やかに弧を描く湾の真ん中にあるようです。ここから浜辺までは少し距離があるのか、波の音は小さく控え目で、白く泡立つしぶきはあまりに小さくて見えません。
門の辺りは一段ばかり高いところになっているようで、浜辺や波打ち際の様子は地面の陰になっているところもあります。ですけれど、お昼を直前に控えたような穏やかな雰囲気は強く感じましたし、広大な海の優しさのような印象と突き放すような厳しさとがひしひしと感じられます。
「うわぁ……凄い……」
素直な感情を呟きます。どうやらそれはイエイヌさんも同じだったようです。いいえ、わたしよりもきっと強い感動を覚えていたのかもしれません。
「凄い! 凄いですね! ともえちゃん!」
ぴょんぴょんと跳ねるようにしているイエイヌさん。彼女の反応からしても、ちほーを越えるとがらりとパークの雰囲気は変わるようです。
「ふふっ……行きましょう? イエイヌさん」
少し残念そうにしているイエイヌさんを尻目に、わたしは彼女の手を引いて歩き始めます。少し進むと、階段が見つかりました。階段を下り、わたしたちは浜辺に降り立ちます。イエイヌさんは押さえが利かなくなったようで、走り出してしまいました。
「あ……あはは……元気……」
わっふわっふという具合に走り出し、ひゃっほうと声を上げてさえいます。わたしはといえば、景色に感動にも似た感情を抱いているのは言うまでもありませんが、それはそれとして、ひとつの懸念が頭を過ぎっていました。
「さて、今晩、どこで寝ましょうか……」
何というか、感情や遊興よりも先に、自分自身の安全を優先させてしまう思考が情けないような、悲しいような気持ちにもなりますが、仕方の無いことだと受け入れましょう……。
さて、少し歩きながら、見て回りますか。周囲を見回しながらイエイヌさんの向ったほうにのんびりと歩きます。より強く感じる波の音と優しく吹く風の音とがわたしの耳をくすぐります。心地よさを感じながら歩くと、足を踏み出す度ににざくりと音のする砂浜。そして何よりも独特の空気……! 草原とは、まるで別世界に降り立ったのだということを痛感します。
砂に足を取られてしまい、中々速度を上げられないでいると、イエイヌさんが「ともえさーん」と言いながら手を振り、わたしを呼びます。
「まったく、焦らなくても……」
わたしは苦笑しながら、彼女に手を振り返します。
「……ん? あの子は……?」
わたしに向って手をふるもう一人の影。あの子はどなたでしょうか……?