書けねーわ、キツイっすとか思っていたのにこの文字数。
20/06/09 改稿
わたしはイエイヌさん達に小走りに近づきます。けれども、どうにも砂に足を取られてしまって速度を出すことが出来ません。あと数歩、というところで思わず転んでしまいました。
「だ、大丈夫ですか? ともえさん」
「だいじょうぶ?」
ふたつの声がわたしに掛かります。ひとつはイエイヌさんなので、間違えようも無いのですけれど、もうひとつの声は心当たりがありません。この辺りで過ごしているフレンズさんなのでしょう。
わたしはイエイヌさんが差し出してくれた手を取って立ち上がり、膝や手のひらについた砂を払って、もうひとつの声の主を見つめました。グレーと白から水色にグラデーションしていく特徴的なショートヘアー。心配そうな表情浮かべながらも、はっきりとわかる人懐っこさそうな可愛らしい顔立ち。薄い青色の瞳は透き通るようです。水色を基調にしたセーラー服風のワンピース、腰には錨がモチーフであろうベルトに、短めのスカート。すらりと伸びる細っこくて透き通るように白い肌の足。その後ろ側には光沢を持った太い尻尾。真っ白の靴……
「あ、ありがとうございます、イエイヌさん……」
この子は? と問いかけるよりも先に彼女は名乗りました。
「あたしはバンドウイルカっ! よろしくねっ!」
彼女はにこやかにわたしに名乗ります。やはり、というべきでしょう。その笑顔は人懐っこさを覚えさせる柔らかなものでした。
「はい! わたしはともえです。こちらこそよろしくお願いしますね!」
わたしも笑顔で彼女に答えます。横を見れば心配そうな表情のイエイヌさん。
「ともえさん、お怪我はないですか?」
イエイヌさん。あなたは心配しすぎでは無いでしょうか……? いえ、お気持ちは嬉しいのですけれども……。
「大丈夫ですよ、イエイヌさん。これくらいなんてことありません。心配してくれてありがとうございます」
彼女を励まそうという思いもありましたが、何よりも事実ですからね。わたしの言葉を聴いてイエイヌさんはほっと息をつきます。
「ともえさんって、意外と運動苦手ですよね……? 無理しないで下さいね。いざというときは背負いますから!」
「え、えぇ……ありがとうございます……その時はお願いしますね……」
その時が来ないことを祈りましょう。申し訳ないですし、恥ずかしいですし、情け無いですから……
「ねぇねぇ、ふたりはどこから来たの?」
首を傾げながら問いかけるバンドウイルカさん。
「あぁ、そうですよね。草原の方から来ました」
わたしの言葉に続けてイエイヌさんが口を開きます。
「ともえさんと、私とで旅をしてるんです」
わたし達の言葉にバンドウイルカさんは目を輝かせます。
「ほんとっ!? 旅かぁ……」
キラキラと太陽の光を受けて輝く瞳は彼女の好奇心を表しているようでした。
「お話聞かせて欲しいんだけど……いい?」
もとより断るつもりはありません。ですけれど、わたしとイエイヌさんの手を取って、そんな瞳でお願いされてしまったら断ることも出来ませんよね。
「ええ、いいですよ。ちょっと長くなってしまいますね……どこか座れれば……」
わたしは周囲を見回します。そんなわたしの様子に気付いたのか、イエイヌさんがわたしの袖を引っ張って指を指しています。
「あそこ、行きましょう!」
彼女の指の先には小さな小屋と、その軒先から伸びる桟橋がありました。
「そうですね、そうしましょう。バンドウイルカさん、歩きながらで大丈夫ですか?」
楽しげに「うんっ!」と頷く彼女の顔を見て、わたし達はイエイヌさんが指差した建物に向かい、歩き始めました。足元からのわたし達の足音と、浜辺に打ち寄せるさざ波の音とが耳に届きます。
海、という存在は記憶をなくしたわたしにとって初めて触れる筈ですけれども、何故でしょう。不思議と懐かしい気持ちになります。あの『思い出』の光景に思いを馳せたときと同じ、優しいような、切ないような、憧れのような……。
別段時間はかからず、桟橋にわたし達は到着しました。陽射しが少し傾き始めたからか、建物の屋根が陰を作っています。強すぎるくらいに色彩が強調された陽射しの世界を切り取るその陰は、お話をしながら腰掛けるのに正に最適だったと言っても良いでしょう。
わたしを真ん中に、右手側にバンドウイルカさん、左手側にイエイヌさんが腰掛けます。当初、彼女に話しているのは旅の目的についてです。
アルマーさんとセンさんに会ってお礼をするため。そして、自分のことについて知るため。後は少しの好奇心。そんな感じです。バンドウイルカさんはわたしの言葉に相槌を打ったり、時折質問をしてくれたりなどしっかりと聞いてくれました。特に先日のセルリアンの事件のふたりの反応はなんだか不思議でした。イエイヌさんは何故だかおろおろし始めましたし、バンドウイルカさんは「ひゃぁー」と心底怖がるような素振り……ああ言った事態は普通では無いんでしょうけれど……。
「そんなに怖い話でしたか……?」
うんうんと激しく頷くおふたり。
「ここはそもそもセルリアンってそんなに多くないの」
バンドウイルカさんの言葉に、そうですそうですと頷くイエイヌさん。
「私もそう教わりましたし、今まで見かけたことはありましたけれど、襲われたりは……ハンターさん達の数もそんなに多くないそうですし……無事でよかったです……」
イエイヌさんは胸を撫で下ろすようにしています。
「そ、そうなんですか……てっきり、ひとけの無いところには一杯居るのかと……」
「うーん、結構見当たらないよねー。見かけたら、あたしも皆に伝えて回るけど……そんなに会ったこと無いかなぁ……」
バンドウイルカさんは思い出すように上を向いて呟きます。
彼女達の言葉に、私は自分の無謀さに反省の思いを抱いてしまいます。ここは優しい世界であるという認識。それはあながち間違ったものでは無いと思うのですけれど、それでも自然に包まれた世界であるということは間違いないのです。
それは、単なる優しさ以上に厳しさや困難に包まれているということでしょうし、セルリアンという明確な脅威も存在しています。それに対してわたしは何が出来たのでしょうか? ただ怯えていただけです。
「イエイヌさん、一緒に来てくれて、本当にありがとうございます」
わたしはイエイヌさんの方に向き直り、改めて感謝の言葉を伝えます。わたしは弱い。それはどうしようもなく事実です。記憶がどうとかそういう話ではなく、肉体的な強さはフレンズの皆さんにずっとずっと劣ります。早く走れず、力も無く、そんなわたしがひとりで旅をすることの無謀。ロードランナーさんの言葉は、事実でした。だからこそ強く感じるイエイヌさんへの感謝の思い。この感情は、きっと彼女に伝えなくてはならない感情です。
「いえ、そんなに大したことは……でも、私がともえさんを支えますから……だから、安心してください!」
彼女の言葉が、わたしの心を励ましてくれます。思わず顔がほころんでしまうような、そんな感じです。
「ふたりは仲良しさんだねー、ふふっ」
「ええ、そうですとも!」
イエイヌさんが肯定します。わたしだってそう思っていますよ。イエイヌさん。
「ありがとうね、イエイヌさん」
わたしはそう言って、言葉を続けます。
「えーっと、じゃあお話の続き、しますね」
――――――
――――
――
ここに到着するまでの話をし終わり、わたしは水平線に視線を動かします。雄大で広大で……遠くどこかに、きっと何かがある、そう思わせてくれる光景です。イエイヌさんもわたしも、バンドウイルカさんも何故だかしみじみとした様子で、黙って海を見つめています。
「そういえば、バンドウイルカさん」
すべき質問を思い出しました。わたしはバンドウイルカさんに尋ねます。
「なぁに? ともえちゃん」
「アルマーさんとセンさんって、どちらにいらっしゃるか、わかります?」
わたしの質問にバンドウイルカさんはうーんと首を捻ります。
「少し前までは居たんだよねぇ……コウホウ? のお仕事って言ってたかな」
コウホウ……?
「ど、どういうお仕事です……? それ……」
「んーとね……確か……」
うんうん唸りながら考え込むバンドウイルカさん。
「バンドウイルカさん。大丈夫です。どっちの方に行ったとかそういう話で良いので……」
わたしがそういうと、彼女は「それなら……」と言ってわたし達が来たそうげんちほーから大きく逸れた方向を指差しました。
「確か、さばんなちほーの方に向ってったよ!」
ふむ、何かあるのでしょうね……それが依頼なのか、それとも個人的な都合なのかはわかりませんけれど……。
「ありがとうございます、バンドウイルカさん」
今日は時間的にもここで休ませていただくのは間違いないですし……出発は明日か、それとも明後日でしょうけれど、次の目的地が決定したというのは十分成果だと呼べるでしょう。当ての無い旅ほど辛いものは無いでしょうから。
「ううん、覚えてなくてごめんね、ともえちゃん……」
わたしはバンドウイルカさんの言葉を首を振って否定します。
「次の行き先が決まっただけでも十分ですよ」
わたしの言葉にイエイヌさんも頷きます。
「目的があるっていうことほど、気持ちが楽になることはありません。私からもお礼を……ありがとうございます、バンドウイルカさん!」
どうやらイエイヌさんもわたしと同じ思いを抱いていたようです。
「えへへ……なんだかありがとうね……!」
バンドウイルカさんは少し間を置いて、続けます。
「ねえ、ともえちゃん、イエイヌちゃん。見てて!」
彼女はどぼんと海に飛び込みます。わたし達の間に、唐突な出来事に対する困惑が一瞬訪れましたけれど、その困惑は間も無く感嘆の思いへと変わりました。
「わぁっ……凄い……」
イエイヌさんもわたしもわぁっと言う声を上げます。バンドウイルカさんは空高く跳ね上がり、空中でくるりと一回転して再び海に戻っていきました。跳ねる水しぶきも気にせず、わたし達は彼女の姿を追うことしか出来ません。海面からわたしの背丈よりもずっと高く、真っ青な空を背負いながら、バンドウイルカさんと白く泡立つしぶきが浮かんでいました。彼女の尻尾や髪の毛、水しぶき……それらが光を受けてきらりと輝いている光景は、呼吸さえ忘れさせてしまうようです。
一瞬の間をおいて、バンドウイルカさんは水面から顔を出して言いました。
「どうだった!?」
その顔はとても楽しげでしたけれど、どこかわたし達に期待を寄せている様にも見えました。
「凄いです! バンドウイルカさん!」
わたしとイエイヌさんは声をそろえて同じ言葉を発しました。
「えへへぇ……ありがとっ! お話聞かせてくれたお礼ねっ!」
朗らかに笑いながら、彼女は続けます。
「ほら、皆も泳ご? 楽しいよ!」
「はい!」
イエイヌさんは彼女の声に応じる形でざぶんと飛び込みます。衝動的に海に飛び込んだからか、最初の方こそあっぷあっぷと言う具合に慌てていた彼女でしたけれど、バンドウイルカさんの手を借り、上半身だけ曲げるようにしていますが、落ち着いたように浮いています。時折水を掻く為か、バンドウイルカさんと繋いでいない左手の方をゆるく動かしています。
「ともえさん!」
イエイヌさんに呼ばれましたが、どうにも気後れしてしまいます。
「あのぅ……えぇと……せめて着替えを……」
彼女達のように服のままで……となると……下着でというのも……うーん。困ったわたしは周囲を見回します。すると、背後の建物の中に水着のようなものが見えました。
「あっ! バンドウイルカさん。この建物の中って入れますか?」
少し考え込む素振りをして、バンドウイルカさんは答えます。
「入ったことは無いけど……多分……」
「ありがとうございます!」
わたしは正面の入り口に向います。背中越しに「どうしたんだろうね?」とイエイヌさんに問いかけるバンドウイルカさんの声が聞こえます。それに応じるように「多分、服を……」と答えるイエイヌさんの声。やっぱり、フレンズさんには不思議に思えるのでしょうか……?
木製の扉をがちゃりと押し開けると、見えていたとおり、水着や日傘のようなもの、はたまたビニール製の玩具(でしょうか?)などが陳列されていました。きっと、ここは嘗て利用されていたお店のようなものなのでしょう。薄暗い空間に、窓から強い光が差し込む様子は、どこか寂しげな様子にさえ見えます。そっと、何かが並んでいたのかもしれない机に触れると、どこか悲しいような、寂しいような、そんな思いを抱いてしまいましたが、皆さんを待たせているのでしたね。急がないと。
「うーん……」
わたしは水着と思われる数着の衣類を物色します。どれも若干の埃を被ってこそいますが、穴が開いていたり、ボロボロになっていたりという様子はありません。
「これにしましょう。なんだか盗むようで申し訳ないですが……」
わたしはぼそりと呟いて、一着の水着を取りました。濃い緑色のワンピース型。腰の辺りには可愛らしいフリルの長めのスカートがあり、そこにはパークの各所で見かけてきた「の」をかたどったモチーフが白抜きでちりばめられています。サイズがわたしにあっているように思われたのもありますけれど(おんなのこ用Mサイズと書かれています)デザインが可愛らしいというのもありました。
「ちょっと失礼して……」
わたしは部屋の隅っこに移動し、着替えます。見た目通り、シンプルな構造でしたので、時間は然程必要ありませんでした。
「ちょっとゆるいような……?」
ですがこれよりも小さいサイズとなると、見たところ本当に小さい子供向けのようで、わたしの体系には適していないようですし……ふと思ったんですけれど、この水着、イエイヌさんだとキツいんでしょうね、背丈は同じくらいなのに……なんだか悔しいような情け無いような……。着替えは終わりました。帽子とリボンは置いて行ったほうがよさそうですね……さて、表に出ましょう。部屋を出ようと思い、入り口に視線を向けます。するとひとつの絵が目に入りました。
「この絵は……」
浜辺から一望した海の光景の絵でした。
わたしのスケッチブックと同じくらいの、然程大きくは無いものでしたけれど、窓から差し込む光で照らし出されているかの様に輝いていた所為か、わたしの興味がついつい惹かれてしまいました。
絵の左端から海原を抱え込むように伸びる丘があり、その丘には陰になっていてはっきりとはわかりませんけれど建物の輪郭がぼんやりと描かれていて、その隣には光を受けてはっきりと描かれた灯台とがあります。絵の色合いからするとお昼時でしょうか? 全体的に明るい色調でしたけれど、そこに生き物の姿はありません。海は少しだけ白く波が立っていますけれど、強調されているように感じるのは、その波の――いいえ、灯台も含めた――影。それは絵の左半分を薄く広く覆っていました。わたしの胸中に浮かんできたのは、悲しみのような思いです。
もしかしたら、わたしの心の奥底の不安だとか、この建物に感じる郷愁のような感情が、そう思わせているのかもしれませんけれど……。眺めていると、悲しみとも寂しさとも虚しさとも付かない、不思議な感情を抱かせる絵でした。
「っと、遅れちゃう遅れちゃう……」
この絵をじっくりと眺めるのは後にしましょう。少なくとも今日一日はここに滞在することになるでしょうしね。後ろ髪を引かれるような思いを抱きながら、わたしは建物を後にします。
強い日差しに目をくらませながら、肌を焼くような暑さを感じる表に出ます。すると、はしゃぐ皆の声が聞こえました……うーん? 先程よりも声が増えているような……?
駆け足になりながら先程のところまで行くと、フレンズさんがもうひとりやって来ていました。つやつやとした長い黒髪で、丈の短い空色のパーカーを着ていて、裾から伸びる細い腕は黒い手袋のようなもので覆われています。その子はバンドウイルカさんと一緒になってイエイヌさんに泳ぎを教えていました。
「速く泳ぐには、こうだよ、こう!」
バンドウイルカさがはそう言うと水面下でふよふよと動く陰が見えます。……多分尻尾を動かしているのでしょう。
「こ、こうですか……?」
多分……イエイヌさんも尻尾を動かしているのでしょう……。
「うーん、泳ぎ方を教えるなら浅瀬に行った方が良いと思うんだけど……」
後姿でしたけれど、首をかしげている様子です。
「お待たせしました、皆さん」
皆さんの視線がわたしに集中します。何というか頑張って尻尾を動かしているんでしょうね。眉間に皺を寄せてイエイヌさんは言いました。
「おかえりなさい、ともえさん」
「おかえりー。不思議なオヨウフク? だねぇ……アシカちゃんの毛皮みたいな感じ」
笑顔で答えてくれるイエイヌさんとバンドウイルカさん。やっぱり、彼女達からしてみたら、洋服という概念は違和感があるんでしょうか……。
「あら、どうも初めまして。カリフォルニアアシカよ。よろしくお願いしますね……フォルカでいいわよ」
器用にくるりとターンして、こちらに振り返ってそういった彼女は、首を軽く動かして挨拶をしてくれました。お腹よりも下は海面よりも下なので良くわかりませんけれど、先程見えた水色の丈の短い半袖のパーカーの下に黒地のインナーを着ているのがわかります。髪の毛は真っ黒でしたけれど、バンドウイルカさんと同じように光沢が目立ちました。彼女は黒縁の眼鏡を掛けていて、その弦のところからはひと房ずつ灰色の髪の毛が飛び出しています。
「よろしくお願いします、フォルカさん。わたしはともえです」
わたしはしゃがんで挨拶をしました。
「……あなた、私みたいな姿なのね。陸の生き物でしょう?」
そういうフォルカさんに、バンドウイルカさんが答えます。
「アシカちゃん。ともえちゃんは、えぇっとー……オヨウフク? 着替えるんだって」
その言葉を聴いて眉間に皺を寄せるフォルカさん。ですが、彼女の表情はどこか興味深げなものに惹かれるているように見えます。
「へぇ……不思議ねぇ。ともえさん、よろしければ後で詳しくお話しましょう?」
「ええ、大丈夫ですよ」
わたしは頷きます。別段困ることでもありませんし、彼女達と楽しく過ごすことが出来るならそれが一番ですもの。
いつの間にかイエイヌさんはバンドウイルカさんの手を持ってぷかぷかと浮いています。
「さぁ! ともえさん、どぼんと!」
楽しげにそういうイエイヌさんですけれど、やっぱり躊躇してしまいます。
「そうは言われても……わたし、泳げるんですかね……?」
「大丈夫大丈夫! 私達が支えてあげるから!」
「そうそう、安心して」
バンドウイルカさんとフォルカさんがそう言ってくれていますし……飛び込むのはちょっと怖いですけど、ゆっくりなら、うん……。桟橋に腰をつけてゆっくりと足を水面に伸ばします。
「ひゃっ!」
温度が想像していたよりも低く、驚いてしまいました。とはいえ、これで躊躇っていてはダメでしょう。ゆっくり、ゆっくりと足を伸ばします。
「……えいっ」
もう足が限界というところで意を決して身体を投げ出します。身体は海に吸い寄せられるように落ち、すぐさまどぼんという音が聞こえて、すぐに壁を一枚隔てたようなくぐもった、ごぽこぽという泡の弾ける音が聞こえてきます。全身はひんやりと冷たい海水に包まれてびっくりしていますし、「どうやったら浮くのか」という根本的な疑問も沸き起こります。わたしは怖くて目が開けらませんし、ただただどうしたら良いのだろうか? という困惑の思いに囚われてしまいます。ですが、パニックに囚われるよりも先に、すぐに誰かの優しい手に引かれ身体を支えられます。
「ぷはぁっ……!」
わたしが顔を海面から出すと、皆さんが一斉にわたしに声をかけます。
「大丈夫ですか? 水とか飲み込んだりしてませんか? ともえさん!」
「ね! 楽しいでしょ? ともえちゃん! 手持っててあげるから、泳いでみよ?」
「やっぱり陸の生き物なのねぇ……泳げそう? 無理そうなら教えてあげるわ」
一辺に話しかけられてしまい、困惑してしまいました。わたしは口に少しだけ入った海水の塩気に顔をしかめながらも、ひとつずつ、答えていくことにしました。
「イエイヌさん、心配してくれてありがとうございます。ちょっと口に入っちゃいましたけれど、大丈夫ですよ」
わたしの言葉を聴いたイエイヌさんはほぅと安堵の息をつきます。
「楽しいかと言われると……ごめんなさい、ちょっとわからないです」
その言葉を聴いてバンドウイルカさんはどこか悲しげな表情になりました。
「ですけど、楽しさを教えてもらってもいいですか? わたし、頑張りますので……!」
「うん! 任せて!」
バンドウイルカさんはぱぁっと花が咲いたような満面の笑みです。
「だから、フォルカさん。まずは浮き方……? から教えてもらってもいいですか?」
「ええ、いいわよ。そうしたら、浅瀬に行きましょうか。足が付いた方が安心でしょう?」
わたしは彼女の提案にはいと答えます。わたしはフォルカさんに引っ張られるようにして移動します。イエイヌさんも、バンドウイルカさんも一緒です。
「そういえば……」
わたしの声にフォルカさんが振り返ります。
「ん? どうかした?」
「ありがとうございます、フォルカさん。ずっと支えてくれて……」
フォルカさんは、そっと微笑んで言いました。
「ふふっ、どう致しまして、ともえさん。でも練習は厳しく行くわよ?」
思わず「えぇっ」と声に出てしまいます。フォルカさんは先程よりも少し大きく笑って、「冗談」と付け加えました。とりあえず、一安心……なのでしょうけれど、今、わたしは、足をばたばたとバンドウイルカさんやフォルカさんの真似をして動かしているだけなのですが、それでも足に疲労が貯まっているのがわかります。となると、泳ぎの練習は結構大変なのでは……? 体力づくりと受け入れて、頑張りましょう、わたし。
わたしはバンドウイルカさんに手を引いてもらいながら、フォルカさんに簡単に泳ぎを教えてもらいました。イエイヌさんもフォルカさんやバンドウイルカさんから簡単なアドバイスを貰ったりしながらわたしの横を泳いだり、少し遠くまで泳いでみたり、はたまたぷかぷか浮いてみたりと悠々と過ごしています。
やはり、というべきでしょう。幾らか時間が経つ内にわたしの身体は疲労を訴えます。わたしはバンドウイルカさん、フォルカさんから離れて休憩を取らせていただきました。砂浜の、波打ち際に腰掛けます。
「ふぅ……」
わたしが息をつくと、ちょうどイエイヌさんがわたしを追いかけるように浜辺に戻ってくるところでした。彼女は「よいしょ」と呟いて、わたしの右隣に座り込みます。足だけ波に触れるようなくらいの位置に座るからか、波に巻き上げられた砂が足の裏をくすぐり、少しばかりこそばゆく感じます。
「楽しいですね、海って……疲れますけど……。ね、イエイヌさん」
ほへぇという具合に脱力した顔のイエイヌさんは、そのままの表情でこちらを見て、答えます。
「はい! 私は、多分、泳ぐのは得意じゃないですけど、ぷかぷか浮いたりしてるのってけっこー楽しいです! それに……ともえさんが楽しそうにしているのが一番わたしは嬉しいんです!」
くすりと笑ってわたしは答えます。
「そんなこと言われても……困っちゃいますね、ふふっ」
えへへと照れるように頭を掻くイエイヌさん。お互い、疲れからか口数は多くなく、わたし達の間には少しばかりの静寂が訪れます。波の音と風の音。沖合いからは、楽しげな笑い声。声の主たちはといえば、バンドウイルカさんとフォルカさん。浜辺から少し離れたところで何処からか持ち出したボールを使って遊んでいます。海の上だというのに右に左に前に後ろに、自由自在にボールが絶えず行き交うその光景は驚嘆以外の何物でも無いでしょう。楽しげに遊んでいる彼女達の姿をぼんやりと見ていると、不意にわたしの右肩にこつんという可愛らしい重さを感じます。
「ふふっ……イエイヌさんったら……」
遊びつかれたのか、彼女は眠ってしまっていました。膝を抱えるようにして座り、頭をわたしの肩に乗せる彼女の姿はなんとも可愛らしいのですが、ちょっとした悪戯心――魔が刺すというやつでしょう――がわたしの心に沸き起こります。
「……」
わたしは彼女を起こさないようにそっと左腕だけ動かして彼女の右頬をもにゅりとつまみます。
「うぅん……」
痛くしないように、起こさないように、そうっと彼女の頬をもにゅもにゅ弄っていると、何故だか物足りないような気持ちになってきます。ですけれど、寝苦しげな表情になるイエイヌさんを見ると、段々と眠っている彼女の邪魔をしてしまうのが申し訳ないという感情が勝ってきます。
わたしは彼女の頬に添えられた手を離し、視線を海に戻します。陽射しはまだ強いものの、だいぶ傾いてきました。もう少ししたら、空は茜色に染まるのでしょうね。今晩はあの建物で休ませていただくとしましょうか……。
少しすると、ボールを抱えたバンドウイルカさんと長い黒髪を整えるフォルカさんが浜辺に向って歩いてきています。わたしは口元に指を当て、彼女達に静かにとジェスチャーでお願いをします。彼女達もどうやら察してくれたようでくすりと微笑んで、わたしと同じようにジェスチャーをします。
ちらりと視線を動かすと、灯台の影の掛かり方と湾の形がちょうど『あの絵』に似ているということに気付きました。
「あれ……? あの絵って……ここの……」
わたしの呟きを聞き取ったのか、バンドウイルカさんは不思議そうな顔をします。
「絵? どうかしたの?」
わたしは彼女たちに事情を説明します。わたしが着替えをした建物の中に小さな絵があったこと、その絵がここから見た光景を描いたのではないかと感じたこと。
「そんな絵があったんだぁ……アシカちゃんは知ってる?」
フォルカさんは頷いていいます。
「あそこでしょう? 知ってはいるけど、しっかり見たことは無かったわね……」
一緒に行って見てみましょうとフォルカさんは提案します。わたしは頷いて、そっとイエイヌさんを揺り起こします。
「むにゃ……ふわぁ……ごめんなさい、寝ちゃって……どうかしました?」
「イエイヌさん、起こしてすぐで申し訳ないんですけれど――」
わたし達はイエイヌさんに事情を説明し、建物の中へと入っていきました。
「これです」
わたしは指を指して言います。
「ともえさんの言うとおり、あそこの景色だと思います……」
イエイヌさんは眠たげな目を擦りながら言います。バンドウイルカさん、フォルカさんもイエイヌさんの言葉に賛同します。
「ふむ……」
改めてじっくりと『絵』を眺めます。夕方に差し掛かっているとはいえ、太陽はまだ部屋を明るく照らしています。お昼に見たときと同じ、悲しげな印象を覚えるのですけれど、陽射しが赤味がかっているからか、その印象をわたしはより強く感じます。
「綺麗な絵だねぇ……描いたひとは、きっと海が好きなんだろうね。綺麗に切り取ったみたい……」
バンドウイルカさんがそっと呟きます。
「あら? あなたはそう思うの? 海が好きそうなのは同感だけれど、わたしは何だか作者の『理想の海』を描いてるように感じるわ」
フォルカさんは考え込むように、顎に手をあてて呟きます。その様子を見て、イエイヌさんはわたしに尋ねます。
「ともえさんは、どう感じるんですか?」
わたしは、彼女達と違った感情を抱いています。だからでしょうか、少し感想を口にするのが躊躇われましたが、そっと口に出します。
「わたしは……悲しい絵だなって思いました」
わたし達の間に流れる疑問のような感情は益々濃くなっていきます。その空気を察してか、それとも無意識にか、それはわかりませんけれど、イエイヌさんが口を開きます。
「答えって……あるんですかね?」
言い終わって、どこかハッという顔をするイエイヌさん。各々が考えていたのを邪魔をしてしまったと思ったのでしょうか?
「多分、イエイヌさんの言うとおりですよ」
わたしは続けて言います。
「『答えなんて無い、あるとしたら、きっとわたし達の考えたこと』……」
イエイヌさんがわたしをじっと見つめて言います。
「何か思い出したんですか?」
わたしは首を振って答えます。
「ふっと言葉が思い浮かんだだけです。そこまででは……」
バンドウイルカさん、フォルカさんも不思議そうな顔をしてわたしを見ましたけれど、口を開くことはありませんでした。不思議な沈黙が、室内に立ち込めます。何かを口にするのが躊躇われるような風にも思われましたし、何かを喋るよりも考えていたいという思いを共通して抱いているようにも思われました。少しして、バンドウイルカさんが口を開きます。
「そういう、こと……なのかなぁ?」
「多分……描いた人に聞かないとわからないんでしょうねぇ……」
わたしの言葉は身も蓋も無いように思われましたけれど、きっと事実でしょう。
「どうしようも無い……わよねぇ……」
フォルカさんも諦めたように呟きました。
不思議な沈黙の中わたしは、わたしの抱いた感情を、思いを、形にして残したいという思いを抱きました。この絵に対して、自分なりの答えを描きたい……わたしにはそれくらいしか出来ないから……。
差し込む日差しが白色を帯びたものから朱色に変わるころ、わたし達は解散ということになりました。わたし達は建物から出て、挨拶を交わします。
「ねえ、ともえ。何時頃出発するのかしら?」
フォルカさんの質問に、わたしは唸りながら答えます。
「うーん、明日にでもと思っていたんですけれど……ちょっと予定が変わりそうですね」
イエイヌさんは不思議そうにわたしに尋ねます。
「あれ? どうかしたんですか?」
「いえ、ちょっとここに残る理由が出来たので。時間はそんなにかからないと思いますが……一日くらい余計に掛かってしまうかもしれません。ごめんなさい、イエイヌさん」
イエイヌさんは首を振ります。
「いえいえ! ともえさんと一緒に居られるなら何時までもどこでまででも、です!」
ありがとうございます、イエイヌさん。彼女の言葉を聴いて、バンドウイルカさんは楽しげに笑って言います。
「じゃあ、明日も遊ぼうね! イエイヌちゃん! ともえちゃん!」
「ええ、喜んで」
続けてフォルカさんも、少しだけバンドウイルカさんを嗜めるような口調で言いました。
「もう! ドルカとだけじゃなくて、私も忘れないでちょうだい。約束、忘れちゃダメよ?」
わたしは笑顔で「はい」と返事をします。
手を振りながら彼女達は各々のナワバリへと帰っていきます。砂浜を歩く音と、またねと交し合う言葉。どこか心地の良い感情がわたしの胸を満たします。そうして、間もなく彼女達の姿は見えなくなりました。
「さて、と……まずは着替えますか……ちょっと失礼しますね、イエイヌさん」
「はい! わかりました! ここで待ってますね」
今日と明日の朝の分のご飯は鞄に入っていますので心配はありませんし、今晩過ごす場所も、この建物を使わせてもらえる以上、改めて探す必要もありません。ひとまずのところは安心して過ごすことが出来そうです。
後は……贅沢を言うようですけれど、身体に付いた海水や汗、砂の汚れなどを落とすためにも、水浴びをしたいというところでしょうか? この後軽く散策をしてみましょう。
着替え終わって戻ってみると、やはり疲れが抜けていないのか、イエイヌさんは座り込んで壁にもたれかかって眠っています。わたしも彼女と同じように、全身が心地よいくらいの疲労を訴えていますし、少しくらい寝てしまっても……とはいえ、水浴び……うーん、ちょっとだけ、ええ、ちょっとだけです。すぐに起きられるでしょう。そう信じましょう……。わたしはイエイヌさんの隣に腰掛けて、壁に寄りかかって瞳を閉じました。気温は暑いくらいでしたけれど、イエイヌさんの体温はどうしてか不快ではありません。すうすうと規則正しく聞こえる彼女の寝息は、抗いようのない眠りをわたしにもたらそうとするようにさえ思えます。三十分、三十分だけ……仮眠です、仮眠……