幕間です。箸休めです。
ガラムって言うんですけどね、ゲロ甘いんですよ。
6月24日 加筆・修正
20/06/10 改稿
彼は、不意に強く吹き付けた潮風に、被るパナマ帽が飛ばされぬよう抑えた。ふぅと安堵の息を漏らし、視界を上げる。すると、既に景色は夕暮れで、彼はいささか驚いたような表情を浮かべ、手にした筆とパレット――橙色と黒が異様に目立つ――を近くの机に置く。
そして彼は、机の隣に乱雑に置かれていた鞄から、慣れた手つきで真っ赤な缶を取り出した。彼は缶の封を開け、煙草を取り出し、マッチを擦り、火をつける。口の端をゆがめながら瞳を閉じ、彼は数秒ほどかけてゆっくりと煙を吸い込み、同じくらいの時間をかけて吐き出す。
「うん、美味いな……」
誰に聞かせるでもなく呟いたはずの言葉だったが、彼の言葉に答えるように煙草の炎がぱちりと弾ける。
「あぁ、お前が居たか」
くすりと笑いながら呟く彼は、そのまま唇を舐める。ぶっきらぼうにさえ思える甘味を感じる。そして彼は瞳を開き、自らの描いた絵を眺める。その視線は、芸術作品に込められた意図を解読しようとするもののようでもあり、また、品物の価値を見定める商人のようなものでもあった。彼は暫く無言でそうしていた。
「ふむん」
ぽつりと呟く。
その声は風の音に、波の音に、掻き消されてしまうくらいささやかなものだったが、彼はその一言を切欠に片付けをし始める。
傍らに置いた机の上、そこにある雑多な道具類を慣れた手付きで纏め上げる一方で、特に何も考えていないかのように、筆洗に数本の筆を無造作に投げ入れるように突っ込む。時折、煙草の灰を、同じように机に置かれていた灰皿の缶に捨てつつも、ずっと煙草は加えたままだった。
後は水を捨てて、すすぐだけ、絵はもう少し乾かさないといけないだろうが……彼がそんなことを考えていると、不意に声をかけられた。
「まーた珍しいことしてますね、博士……っていうか、匂いあっま、なんですこれ」
裏の小屋……つまりは売店から出てきたスタッフがぽつりと漏らす。
「ん……? あぁ、キミか、どうも邪魔してるよ」
彼女は彼の言葉に返事をせず、イーゼルに置かれた画用紙をじいっと眺める。
「はー……博士は機械弄りと研究しか出来ないと思ってましたけど……綺麗なモノですねぇ……」
どこか馬鹿にしたような言葉だったが、込められた感嘆の思いは疑いようの無いものだった。が、彼は意図的にそこを無視し、彼女に返す。
「キミは中々失礼なヤツだねぇ……これでも学生の頃は趣味で美術をだね……」
「なんで誰も描かれて無いんです? この時間ならフレンズのみんなも、少し前だったらお客さんもいるでしょうに」
何処までもマイペースな彼女の言葉に、彼は却って小気味よさすら覚えた。
「キミね……」
そう言って少し考える素振りをして、彼は口を開いた。
「自分の気持ちの整理だよ」
彼は煙草を深く吸い込んだ。ぱちりと火花が散って、彼は細い煙を吐き出す。
「……あんな悲しいことがありましたからね……って、匂いはそれですか……きょうび煙草なんて誰も吸わないのに……」
彼女は何があったのかを知っている。いや、彼女だけではない。恐らくこの島に居る多くの従業員と博士、パークガイド、或いはそれらに準ずるスタッフの殆どが……彼に何があったのかを知っていたし、彼も彼らが抱いている感情を含めて、それを知っていた。
「美味いモンだよ? タバコだってさ、文化なんだ、悪いモンじゃない」
だからこそ、だろう。かつてと変わり無い、どこかマイペースでこちらの感情を無視していて、それなのに何処か察しの良い彼女のひととなりは彼に居た堪れない気持ちを抱かせる事はなかった。
「いやぁ、火花散らしながら吸われるタバコもどうかと……匂いも甘すぎません? 自分は嫌いじゃないですけど……」
しかめっ面をしながらそういわれても、と彼は思っただろう。
「……吸ってみるか? 無理強いはしないが」
彼女は首を振る。即答だった。
「……だろうな」
彼は言葉を続ける。
「あの娘があんな目に会って、私も煙草を止める理由がなくなったからね、久しぶりに、ね」
そう言って、自嘲気味に笑う彼の瞳は、海辺の夕焼けを写すには十分なほど、悲しげだった。
「……そんなこと……」
彼女はかける言葉を失ってしまったようで、視線が左右に泳いでいたが、彼は彼女の様子を気にせず続ける。
「あの娘だけじゃない、あの子だってそうだ。奇跡が起きて、それを奪われた」
煙草を吸いながら話す彼の言葉はどこまでも自虐的で、悲しげで……そうでないのは煙草から時折起こる火花だけ。
「あれを奇跡と呼ばないでなんて呼べば良い? ……いや、全ておこがましいものだったのか? ……僕は、そんな考え方は……」
彼は煙草を灰皿にぐしりと押し付け、火を消して中に捨てる。そして、自嘲気味に笑って、口を開いた。
「ごめんよ、困らせたかったワケじゃない……」
沈黙を余儀なくされた彼女を案じてか、或いは冷静になったか、彼の言葉はやはり自嘲めいていて……彼女はそれを察したのだろうか? 口を開く。
「……いえ、お気持ちは、全部ってことはないですけど……わかりますから……」
彼女の言葉に彼は返事が出来ず、或いはしなかったのかもしれないが、潮風を受けながら佇んでいた。
「……自分、戻りますね、もうちょっと作業があるので」
自分に出来ることが無い、と感じたのか彼女はそっと口を開く。
「悪いね……というか、キミ、非番じゃなかったのかい?」
当然の疑問だった。
別の島での『アレ』があってから来園者の完全退去が実施された。その為、ただでさえする事がなくなってしまったこのパークだったが、更に続くようにこちらの島での『アレ』……。
いまやパーク全土に及ぶ動きは『撤退』或いは『敗北』の言葉の相応しいものであった。
「非番ですけど……やることは山積みですから。主に片付けですけど……博士達の退去はまだ時間あるそうですけど、接客クルーは今週が期限なので……」
失意、無念、悲しみ、寂しさ、そんな感情が込められているのは、彼でもわかった。
「あぁ、そうだったね……彼女に一言、伝えておこうか? キミ、特別仲が良かったろう。担当の私でさえ妬くくらいだ」
彼の提案に、彼女は考え込むような素振りをして、言った。
「……じゃあ、そうですね……手紙をしたためますので、それを届けてください」
何を添えようか……などと考えている彼女を尻目に、彼は再び煙草に火をつけ、答えた。
「海で働いているのに、森の方に仲良しが居るってのもな、不思議だよ、まったく……とりあえず度々ここには来るから、折を見て渡してくれれば大丈夫だ」
彼女はぼんやりと考えるのをやめて、「わかりました!」と答え、続ける。
「じゃあ、また今度、お会いしましょう! では失礼しますね!」
元気良く告げる彼女に彼は軽く手を振って応じる。そのまま彼女は背中を向けて歩き出すが、そこに彼は声をかけた。
「僕はキミを恨んじゃいないよ」
彼は視線をキャンパスに向けたまま言葉を続ける。
「あの子もそうだろう。……だから、気に病む必要は無いよ」
彼女は足を止めて、振り返ること無く応じた。お互いに表情は伺い知ることは出来なかった。けれど決して笑顔で無いことだけは、お互いに理解していた。
「……あの時一緒に行っていればって、思わなかったって言ったら、嘘になります」
「だろうよ。キミは変なところで真面目だからね」
ふたりとも口を開かず、響くのは風と波の音だけだった。
数秒ほど経って、ゆっくりと彼は言い聞かせる様に言った。
「キミが居ても、多分あの子はああしただろう。もしかすると、キミが巻き込まれなくてよかった、なんてあの子は考えてたかもしれない」
「……優しい子でしたからね」
彼は彼女の言葉に頷いた。
「何度も引き止めて、悪かったね」
小さく首を振って彼女は応じた。見えていないとしても、それは彼女自身が気持ちを入れ替える為の儀式めいた行為だった。
「……いえ、そう言ってもらえて……少しだけ楽になりました。では、失礼しますね」
彼は小さく「ん」と呟いて応じた。それから少しして、ドアの開く音がして、閉まる。と、彼女の声が再び聞こえた。
「あぁ、絵も楽しみにしてますからね、ここに飾りましょう」
取り繕ったように普段の声だった。であればこそ、彼は普段の通りに応じる。
「お断りさせていただきます」
「えー、なんでですかぁ」
不服そうな顔を見せる彼女だったが、一方で、彼の顔はどこか憂いを帯びていた。
「誰に見せることもないのに飾るのもね……何より恥ずかしい」
「そうですか? 綺麗な絵だと思いますよ? とにかく、飾りますからね!」
そう言って彼女は売店の片付けに戻っていった。
「こりゃあ失敗できんな……」
ぼそりと呟く。煙草の灰を灰皿に落とし、絵を改めて見つめる。浜辺から一望した海の景色。絵の左端から伸びる岬とその上の灯台。それに寄り添うように設置された研究所。白く泡立つ波に、影。白く輝く太陽と、その影。誰も居ない浜辺。
「我ながら、悲しい絵を描いたモンだ」
そりゃあそうか、とひとりごちる。あの娘を、あんな目に合わせておいて、楽しい絵を描ける物か。自嘲気味に笑う。煙草がぱちりと弾ける。
「タイトルは……どうしようか……?」
彼の頭に浮かんだのは、悲しい言葉だった。「あの娘の居ない海」。彼はふんと鼻を鳴らし、呟く。
「……書くとしたら、英語か、ドイツ語だな……こっぱずかしい……さて、と。残りも片付けて、帰るとするか……」
彼は、煙草を灰皿に捨てて、筆洗と他の荷物をまとめ、水場へと向かい歩き始めた。
入れ違いになるように売店の電気が消え、ドアが開かれる。また、彼が居ると思ったのだろう。彼女は居ないはずの彼に声をかける。
「とーさかさーん! 寝袋ー! って……あれ? 居ない……マイペースな人なんだから……」
途方に暮れる彼女だったが、どうせ再び会うのだからと諦め、ドアの鍵を閉め、帰路に着いた。
「……あまりに惨いわよ。あんなの……こんなの……」
その言葉は、風に掻き消えて、何処にも運ばれなかった。それを知ってか知らずか、不意に可愛らしい少女が彼女に言葉をかける。見た所、水棲のフレンズだろうか? 彼女たちと、ヒトとが寄り添い合う光景が、消えてしまうことは受け入れるしかない。しかし、取り戻せないとは受け入れきれない。そんなことを内心思いながらも、彼女は少女と言葉を交わす。
不意に、口が滑る。
「……どうして……はぁ……」
「どうしたの?」
問いかける少女に首を振ってなんでもないと答える。あぁ、願わくば彼女達に幸福と平穏を……。彼女は心の奥底から、人生で初めて、本心から他者のために、祈った。