けものフレンズR ”わたし”の物語   作:むかいまや

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1話Bパートな雰囲気です。

19/06/01 訂正
20/06/08 訂正


1-2

 わたしが立ち上がろうと身体を動かすと、お腹がくぅと鳴きました。余り大きな音では無いと思ったのですが、イエイヌさんはどうやら聞き取ったようです。彼女はくすりと笑いました。先程からわたしはとても恥ずかしいやらみっともないやら、そんなことばかりをしているような……?

「その前に、ご飯にしましょう? ね?」

 イエイヌさんはそう言って、先程床に落としてしまった紙袋からお饅頭を幾つか取り出します。

「これは……お饅頭?」

 わたしは率直な疑問を口にします。

「そうですよ。ジャパリまんです!」

 イエイヌさんはフレンズの皆さんはこれを食べているのだとわたしに告げながら、ジャパリまんをひとつ私に差し出します。

「そうなんですかぁ……ありがとうございます、イエイヌさん」

 いえいえと返事をしながら彼女はジャパリまんを頬張ります。もっきゅもっきゅと美味しそうに食べる彼女の姿を見てから、私も同じように口にします。

「あっ……! 美味しい……!」

 思わず感想が口に出てしまいます。お肉とお野菜がバランスの良い味わいを齎していて、少し薄味な気もしますが、とても美味しい味わい……。空腹だからか、ジャパリまんの味は身体に染み渡るようでした。

「んっく……。でしょう? 栄養満点ですし、ボス……えぇっとラッキービーストさんが毎朝配ってくれているんです!」

 また聞き慣れない言葉。ラッキービーストとは何のフレンズさんなんでしょう? 少しばかり考えましたが、答えは出ません。ここは素直にイエイヌさんに聞くとしましょう。

「イエイヌさん、そのぅ……ラッキービーストさんってなんのフレンズさんなんですか? ボスってことは……偉い方だったりします……?」

 イエイヌさんはまたも困ったような表情になりました。私、彼女を困らせてばかりですね……。

「えぇっと……ラッキービーストさんはラッキービーストさんです。フレンズでは無いと聞いたような気が……お話もしてくれませんし……あ、でもお掃除をしてくれたり、ご飯を用意してくれたり、優しい方ですよ!」

 どうやら不思議な存在のようでした。彼女でもわからないということは、きっとそういうことなんでしょう。……わたし、記憶は無いですけれど、こんなに『?』という記号が頭に浮かんだことって無い気がします。

 ジャパリパーク……本当に不思議な世界……わたしはこの世界に何故居るのか、わたしは何者なのか、早く思い出さなくてはなりません。その為にもはやくご飯を食べ終わって、『あの場所』に行かなくては。でも、それ以上に疑問も一杯……うーん……。

 考えながらご飯を食べていたからか、気付けば食事の手は止まっていました。顎に手をやって考え事をしているわたしをじっと見つめるイエイヌさんに気付きます。

「――あっ、ごめんなさい……お行儀悪いですよね……」

「いえいえ! あっ、わかりましたお水ですね! お待ちください!」

 そういって彼女は小走りに部屋を出て行きます。なんであんなのに楽しそうなんでしょうね……尻尾はぱたぱた振られていますし、顔も笑顔です。労働の喜び……とでも呼べばいいのでしょうか? わたしにはわかりませんが、彼女には彼女なりの楽しさがあるんでしょうね……というか、そもそもわたしお水を頼んでなんかいないのですが……ここはご厚意に甘えることにしましょう。

 

 暫くすると、イエイヌさんは両手で水が入ったコップを持ちながら、零さないように慎重に歩いてきました。

「ふぅ……中々緊張しますね……! どうぞ!」

 いや、あの、その、嬉しいのですけれども……コップから溢れんばかりに注がれた水。そんなに注がなくても……。

 彼女には妙に抜けているところがあるような気がしてきて、親近感が沸いてきます。

「あ、ありがとうございます……」

 彼女は何処で覚えてきたのでしょうか「ささっグイっと」なんて言っていますが、それはちょっと……ひと口ふた口含んでコップをベッドの脇にあるサイドボードに置きます。

「ご、ごめんなさい、ひと口ではちょっと……」

 私は彼女の意向に答えられ無かったことを申し訳なく思って、つい謝ってしまいましたが、彼女はもうこの状況自体が楽しいかのように心からの笑顔を湛えていました。

「いえいえ、大丈夫です!」

 首を傾げながら私をじっと見つめてくる視線。その視線は時には楽しげで、時には悲しげなものであったようにも思えます。

 わたしには、彼女の思いはわかりません。ただ、何故だか妙に寂しいような悲しいような、そんな思いを抱いている様に思われました。献身の裏には自らの寂しさを、悲しさを、紛らわしてしまいたいという思いが隠れている……? どうしてでしょうね、わたしは、そんなあなたを救ってあげたい……わたしと彼女の付き合いは、恐らく一時間にも満たないのにそんな思いを抱いてしまいます。

 

「あっ、そうです! ちょっと失礼しますね」

 イエイヌさんはそう言って部屋の奥の方へととてとて歩いていきました。彼女を待つ間に、わたしは半分ほど残っていたジャパリまんをふた口でぱくぱくと押し込むように食べて、水で流し込みます。お行儀は悪いですが、彼女に見つめられていた恥ずかしさやら、早く『あの場所』へ行きたいという思いやら、そんな思いが胸中を巡っています。

 ジャパリまんを食べ終わり、ふぅと一息ついていると、彼女が戻ってきました。戻ってきた彼女に、わたしは一言告げます。

「じゃあ行きましょうか、お願いします、イエイヌさん」

 彼女は「はい!」と元気良く答えてくれました。

「よいしょ……っと」

 私はベッドから降りようと身体を動かします。あの夜と比べるとずっと身体は動かしやすく感じます。

 わたしを支えるように、イエイヌさんがすっとわたしに近寄りました。「ごめんなさい」と彼女に告げてから、わたしは肩を借りるようにして立ち上がります。やはり、というべきでしょうか、膝に力を入れようとしてもどうにも力が入りません。どうしてもぐらりとバランスを失ってしまいます。わたしは、立ち上がり方すら、忘れてしまったのでしょうか? イエイヌさんはわたしの身体を支えながら「大丈夫ですか!?」とわたしの事を案じてくれました。

「だ、大丈夫ですよ。暫くすれば、良くなりますから……きっと暫く歩いていなかったんでしょうね。申し訳ありません……」

 大丈夫、そう自分に言い聞かせてわたしは一歩を踏み出します。

「無理はしないで下さいね? 私、心配です……」

 イエイヌさんの言葉に、わたしはそっと首を振って答えます。

「だ、大丈夫です……動物の赤ちゃんだって、すぐに歩き始めるそうですし、大丈夫です」

 ヒトは確か歩き始めるまで結構な時間が必要だったような気もしますが……それでも、自分でそう考えなければ立ち上がることさえ出来ない気がしました。

 

 イエイヌさんにドアを開いてもらい、外に出ると、天高く輝く陽光に目が眩みそうになります。イエイヌさんの肩に回していない手で眼を陰に入るように覆います。少し汗ばみそうな、ちょっと暑いかなというくらいの気温ですが、風がのんびりと吹いていて、そのお陰で不快ではないどころか、むしろ心地よいくらいでした。

「えっと、私が寝ていた建物まで、どれくらいの距離ですか?」

 うーんとイエイヌさんは考え込み始めます。

「そうですね……そんなに歩かない筈です。ちょっとしたお散歩くらいの感覚でしたから……ちほーは跨いでないですし、すぐですよ、すぐ」

 具体的な時間で伝えてくれないのでしょうか? それとも時間に対する感覚が弱い? というか、ちほー? とは一体……場所? それともそのまま『地方』? 色々と疑問は浮かびますが、彼女を信じましょう。

 

 暫くイエイヌさんに手伝ってもらいながら進みます。二、三十分ほど歩いたでしょうか? 幸い、道は草の生えていない土道の部分を中心に進むようで、転んだり躓くようなことも無く、無事に進むことが出来ました。

 歩きながら、わたしはわたしを助けてくれたフレンズさんのことについて、イエイヌさんに尋ねます。

「そういえば、アルマーさん? センさん? ってどう言った方なんですか?」

 私は額に流れる汗を拭いながらイエイヌさんに問いかけます。彼女はわたしを支えているからか少し疲れてしまっているようで、ふうふうと呼吸しています。

「えーっと……」

 イエイヌさんは考えるように呟きましたが、どうにも疲労の色が見えています。

「無理させてごめんなさい、イエイヌさん……。お願いなんですけれど、あそこの木陰で休んでも良いですか……?」

 イエイヌさんは少しだけ掠れた声で「はい」と答えて、わたしの指差す方向に足を向けなおしました。彼女の疲労を鑑みてというのもありましたが、私自身も疲れていたのは事実ですしね。丁度良いところに木陰があって助かりました。

「ふう……」

 お互い木の幹に寄りかかるようにして座ります。わたしを支えながら歩いていたイエイヌさんの疲労は結構なもののようです。暫くお互いに言葉も交わさず、休みむことになりました。

「これ、どうぞ。お水持ってきたんです。今日は暑そうだったので、用意してきました!」

 イエイヌさんは肩から提げた水筒をわたしに差し出します。どうやら出発前に持ってきたようです。わたしは自分のことで精一杯で彼女の気遣いにも気付けなかったようです。

「ありがとう、イエイヌさん。先に頂いちゃって良いんですか?」

 わたしが遠慮の気持ちを示すと、彼女は首を振って答えます。

「いえいえ、私よりも先に。あなたの方が大変ですもの」

 彼女の優しさに答える形で、わたしはひと口だけ頂きましょう。貰った水はまだ冷たくて、喉を下る冷たさがなんとも気持ちよく感じました。

「……美味しい! ありがとうございます、助かりました……お返ししますね」

 イエイヌさんは「いえいえ」と答えて受け取り、わたしと同じようにこくりこくりと水を飲みます。飲み終わると、思い出したかのように彼女は話始めてくれました。

「アルマーさんとセンさんは、私の恩人です――」

 

 彼女が言うには、フレンズになった当初、色々なことを教えてくれたり手伝ったりしてくれた恩人だそうです。パークでの掟、どうやってご飯を得て、どうやって棲家を得て、どうやって生きていくべきなのか――彼女達は、イエイヌさんにそう言った基礎基本を教えてくれたのだそうです。

 フレンズになったばかりの子でも基本的な常識は記憶した状態で変化するので必要ないといえば必要ないのかもしれない、けれど、改めて知ることでよりよく生きて行けるはず……その言葉と一緒に、彼女達はイエイヌさんに手ほどきをしたそうです。

「そもそも、アルマーさんとセンさんは、二人で何でも屋のようなことをしているそうです。最近はタンテイ? とか言うのもやっているそうですが……」

 わたしは相槌を打ちながら、彼女達に感謝します。彼女達のおかげで、イエイヌさんがここに居て、わたしの命が助かったのだとさえ言い切れるような気がします。

「それで、ですね、あの夜、私は夜の散歩のつもりであの建物に向ったんです。そうしたらあなたが眠っていて……私ひとりの力ではどうにもならなかったので、おうちの近くにいたお二人に手伝ってもらって、運んだんです」

 イエイヌさんはひと息ついてから、続けて言います。

「あなたが眼を覚ましてくれて、本当によかったです。こうしてヒトとお散歩できるなんて、まるで夢見たいですもの!」

 彼女の無条件の肯定にも似た優しさは、多分、彼女の孤独感の裏返しなのだと思います。わたしは、何よりもその彼女の優しさに、今頼ることしか出来ないことが悔しく思えました。わたしは彼女に何も出来ない、無力な存在です。いつか、恩返しをしよう。そう固く決意しました。どんな形で彼女に恩返しを出来るのか、それはわかりません。ですが、何か、こんなわたしでも彼女に何か出来る筈です。

「ありがとう、イエイヌさん」

 自然と笑顔になりながら、彼女に応えます。いつか、ゆっくりと当ての無い散歩でも彼女としてみたい。そう思いました。

 

 休憩を終えたわたし達は再び出発します。休んだお陰か、それとも身体が歩き方を思い出しているのか、イエイヌさんの手を借りずとも歩くことの出来るようになってきました。

「本当に大丈夫ですか……?」

 木陰から歩き始めて数歩のところでよろめいたわたしを心配そうに覗き込むイエイヌさん。

「大丈夫、大丈夫。これでも元気になったんですよ? それに、何時までも頼ってばっかりじゃ、申し訳ないですから……」

 半分本当、半分嘘でした。元気になったのは事実ですし、歩くことも出来ます。ただ、このまま目的地までひとりで行けるかと問われると言い澱んでしまうような、そんな具合です。

「そんなに気になさらないで良いんですけれども……」

 わたしは返事に困ってしまって乾いた笑い声を漏らしてしまいました。

 

 道を進んで暫くした頃、わたしはイエイヌさんに尋ねます。

「イエイヌさん、あとどれくらいですか?」

 わたしはふうと息をついて草原を走る道の先に眼をやります。

「そうですね……あとちょっとです。お日様がてっぺんに来るころには到着すると思います」

 あとちょっと、そう聞いて俄然元気が沸いてきました。「よし」と意気込んで歩き始めます。

 

 舗装されている道ではないので、少しばかり大変なのは変わりませんが、草が生えていない土道がずっと続いています。恐らく、『あの場所』はパークの中でもある程度の役割が担われていた建物なのでしょう。

 考え事をしながら歩いていると、不意にイエイヌさんが立ち止まって、言いました。

「あそこです、あそこ!」

 イエイヌさんが指差した場所、そこがわたしの居た場所のようです。ぱっと見た感じは単なるひとけの無い廃墟。ですが、良く見てみれば、屋上には何か黒いガラスのような不思議な屋根がありますし、幾つかのケーブルやアンテナがあり、この建物が何らかの役割を担っていたであろう事がわかります。とはいえ、妙に古ぼけたような雰囲気も感じてしまいます。

「ここから入って……こっちです」

 イエイヌさんの指示に従って進みます。風化してしまったのか、それとも元々無かったのか……それはわかりませんけれど、看板や案内板と言ったこの建物の正体がわかるようなものはまるでありません。

 少しだけがっかりしてしまいながらも、彼女についてあるき続けます。さほどの時間を経ずに、わたし達は建物の裏口に到着しました。

「ここにあなたが居たんです」

 その場所は確かに私が最後に見た光景を望む場所でした。わたしが開いてそのままになってしまっているのでしょう、開け放されたドアも確認できます。

「で……わたしは、このドアから出てきた、筈……」

 わたしが奥を指し示すと、イエイヌさんもそれに従って、ドアの向こう側をじっと見つめるのでした。

 明りが陽光だけだからか、やはり薄暗く、ひとけの無い上に、あの夜には見えなかったぼろぼろの壁紙。外の優しげな光景とは裏腹に、何故か無情さや儚さや訳のわからない不気味さが漂っていました。

 

「入りましょう」

 以外にもイエイヌさんが先に進むことを促します。

「なんだか不気味ですけど……怖くないですか?」

 その言葉に彼女は首を振ります。

「怖くないといったら嘘になるかもしれません……でも、あなたに取って大切な何かが見つかるかもしれないんですよね? だったら行かない訳が無いじゃないですか!」

 そういう彼女の身体は震えていますし、いつの間にか私の先に居た筈の彼女は私よりも少し後ろに下がっていますし、尻尾も丸まっています。

「無理をしなくてもいいんですよ? ここまで案内してくれただけで、わたしは本当に助かりましたし……」

 わたしは彼女の身を案じる言葉を投げかけましたが、彼女は頑と譲りません。

「し、使命……ですから……!」

 自分の意思すら殺して何かに縛り付けられているような言葉。ですが、強い決意を感じさせる言葉。わたしは胸が痛くなるような思いを抱きました。恐らく、今のわたしに彼女の意思を覆すだけの言葉はありません。彼女に帰るように伝えることが、かえって彼女の尊厳を蔑ろにするようにさえ思えます。

「そこまで言うなら……はい、お願いします。イエイヌさん」

 私は言葉を続けます。

「でも、何か危ないことがあったり、どうしても無理そうだったら、おうちに帰ったり、他のフレンズさん達を呼んだりしてください。あなたにも無理をして欲しくないです」

 そう伝えて、わたしは彼女に手を差し出します。

「手、繋ぎましょう?」

「はい! かしこまりました!」

 彼女の手は、手袋越しでしたが、柔らかく温かでした。

 ……ところで、イエイヌさんは感情の動きがわかりやすい子なのだなぁと思います。手を繋いだ途端、しおれていた耳と尻尾はしゃんとなって、身体の震えも止まっていました。とはいえ、私だって、先程まで感じていた恐怖のような感情は、イエイヌさんと手を繋いだ途端、何処かへ消えてしまいました。ありがとうございます、イエイヌさん。

 

 おぼろげな記憶を頼りに道を進みます。あの夜とは違って、窓から差し込むのは陽光ですし、わたしの意識も身体もはっきりとしています。お陰であの晩に抱いた果ての無い迷路のような印象は無く、寧ろ、何かの跡地のようなそんな物悲しい印象さえ受けました。壁には剥がれてしまったのか、それとももともと無かったのかはわかりませんが、装飾などもありませんでした。

「えぇっと、この角を曲がって……その次も曲がって……」

 つい呟いてしまいます。返事を求める言葉ではなく、わたしが自分の中で確認をするための言葉なのに、何故かイエイヌさんは律儀に「はい!」と返事をしてくれます。そんな様子にわたしはつい、くすりと笑ってしまいます。

「ど、どうかしましたか?」

 イエイヌさんが問いかけます。

「いえ、イエイヌさんが可愛らしくて」

 思わず思ったことをそのまま伝えてしまいます。彼女は顔を真っ赤にして俯いてしまいました。それに耳はぴんとしているし、尻尾はぶんぶんと振られているし……そういう私も伝えた言葉のまっすぐさに後から顔が真っ赤になってしまいます。

「さ、行きましょう?」

 照れ隠しに彼女の手を引っ張るようにして先に進みます。あぁ、恥ずかしい。

 

 わたしが眠っていたであろう部屋の前に到着しました。何故だかごくりと喉を鳴らしてしまいます。

「……開けますね」

「はい!」

 ぎいっという重い音が響きながら、ドアが開いていきます。部屋の中はわたしが目覚めた時と変わらない、淡い黄色い光と、ドアの真上の緑色の光がありました。ですが、私達の背後から差し込む陽光のお陰か、ドアの横にスイッチのようなものがあることがわかりました。

「これは……スイッチ? 何の? 電気……なのかな」

 わたしが考え込んでいると、イエイヌさんが不思議そうに問いかけます。

「何かわかりましたか? これですか?」

 考えることで一杯で、彼女の言葉を無視するようになってしまいました。

「うーん……いいや、押してから考えましょう」

 わたしはスイッチをぱちりと押します。ぶうんという低く小さい音が聞こえると同時に、部屋の電気がつきました。イエイヌさんは少しびっくりしたように身体をぴくりと震わせました。「きゃっ」という可愛らしい声も一緒です。

「ご、ごめんなさい、びっくりさせちゃった……」

「いえ、ちょっと急だったもので……」

 恥ずかしそうに顔を俯かせて彼女は言いました。イエイヌさんには少しばかり申し訳ないところですが、電気が点いたお陰で部屋を見回すことが出来ました。

 

 部屋は真っ白な壁紙に真っ白なタイルが敷き詰められた部屋でした。廊下の荒れ具合とは違い、小奇麗さがまだ残っています。床や天井には何本かケーブルが走っていて、そのケーブルは部屋の別の出口と、数個のベッドのようなカプセルとに繋がっていました。カプセルは五台程ありましたが、中は全て空でしたし、蓋が開いているものは、恐らくわたしが眠っていたであろうそれ以外にありませんでした。

「ここに、わたしは眠ってたんですかね……」

 わたしは蓋の開けているカプセルに近づきます。すると鞄が一緒に入っていることに気付きました。

「こんなものが……どうして気付かなかったんでしょう……」

 そう言ってわたしは鞄を持ち上げます。肩から掛けるタイプのバッグです。青色を基調とした可愛らしい鞄でしたが、布の具合やつくりの頑丈さは無知なわたしでもすぐにわかります。何か入っているかもしれないという好奇心から鞄を開くと、中には小さなペンケースと、一冊のスケッチブックが入っていました。

「これは……わたしのもの?」

 首を傾げると、隣に居たイエイヌさんが鞄やスケッチブック、ペンケースに顔を近づけて、すんすんと臭いを嗅いでいました。

「これはあなたのものです! 間違いありません! 匂いが一緒です!」

 彼女を信用していない訳では無いのですが、わたしと一緒に眠っていたこの鞄が他人のものということはありえない話ではあります。とはいえ、わたしには出来ない方法で、鞄とその中身がわたしのものであるということのお墨付きをくれたイエイヌさんには感謝です。

「さすがイエイヌさんですね……わたしには匂いなんてわかりませんし……ありがとうございます!」

 彼女の方を見ると、何かをねだる様な表情でわたしをじっと見つめるイエイヌさん。

「……どうかしました?」

 どうしたら良いのかさっぱりです。

「い、いえ、ちょっとお役に立てたご褒美を頂こうかな……なんて、ちょっとだけ……」

 申し訳なさそうに応える彼女。わたしは「うん?」と返します。

「今のわたしに出来ることだったら、なんでも……なんですか?」

 わたしは笑顔で彼女の申し出を受けます。こんなにも親切にしていただけたのです。何だってやります。限度はありますけれど……

「えっと……おうちの時のように、撫でてもらえますか?」

 とても申し訳なさそうに彼女は言いました。

「おやすい御用です。今までありがとうございます、イエイヌさん」

 わたしは手をズボンでパンパンと払い、彼女の頭を撫でます。さらさらとした髪の毛が、妙に力の入っているお耳が、手のひらに当たりました。当たるたびにぴくりと動く耳の可愛らしいことと言ったら……! 暫く彼女の髪と耳とを独り占めできたことは、案外今日一番の収穫だったのかもしれません。

 ひと段落ついたかな、というタイミングでそっと手を離します。彼女が顔を上げると、その目尻には涙が貯まっていました。わたしはつい慌てて彼女に謝ります。

「い、痛かったですか? それとも触っちゃいけないところとかありました? ご、ごめんなさい……」

 イエイヌさんは涙を振り払うように首を振り、言いました。

「いえ、違うんです……胸がぎゅうってなって……それで、つい……嬉しいんです、うれしいんですけど、なんだか寂しくなってきちゃって……」

 わたしはおうちを出る前にそうしてくれたように彼女を抱きしめます。

「大丈夫ですよ、イエイヌさん。わたしが居ますから。大丈夫です」

 やっぱり、彼女は陽射しの匂いがしました。柔らかくて、やさしくて、そんな匂いがしました。

 

 イエイヌさんと一緒に、わたしが眠っていたであろうカプセルの淵に腰掛けて、鞄とその中身を詳しく見ることになりました。

「何か他にはあるかな……」

 わたしが鞄をくるくる見回してみたり、ポケットをひとつひとつまさぐっていると、イエイヌさんが何かを見つけたようです。

「あの……このスケッチブック? でしたっけ、ここに何か書いてあります」

 イエイヌさんはその箇所を指差しながら、スケッチブックをわたしに差し出して見せてくれました。その箇所はスケッチブックの裏表紙でした。

「私、読めないので……あなたなら、と思って……」

 ええっと……『おなまえ と    も え』?

「うーん……? はっきりとは読めないですね……インクが滲んでるのか汚れてるのかはわかりませんが……」

 わたしは眉間に皺を寄せながら伝えます。

「あの! あの! 読めるところだけで良いので、読んでください!」

「おなまえ、と、も、え……多分名前なんでしょうけど……うーん……」

 わたしは悩みながら考えます。わたしの言葉を聴いて、イエイヌさんは嬉しそうに言いました。

「と、も、え……じゃあ、ともえさんですね!」

 彼女はにっこりと笑っています。悩んでいたわたしがなんだか馬鹿らしくなってきます。それが本当の名前かどうかなんていうのは、きっと問題じゃありません。彼女やこれから出会うであろう沢山のフレンズの皆さんが呼んでくれる名前こそが、これからのわたしなんです。記憶を取り戻してからのことなんて考えるだけ無駄です。正解でも不正解でも、前に進みましょう。その為の道を今、イエイヌさんが教えてくれたのです。

 

 すぅっと息を吸い込んで、彼女に告げます。

「はい、わたしはともえです」

 胸に手を当てての自己紹介。自然と笑みがこぼれます。過去のこと、本当の名前、気にならない筈がありません。ですが、彼女が与えてくれた大切な一歩。それを尊重するということ。それは今のわたしにとって何よりも大切なことです。

「よろしくお願いします、イエイヌさん」

 わたしは彼女に手を差し出します。

「良かったら、お友達になってもらえますか?」

 わざわざ言うのは、少し照れ臭いですけど……

「はい、こちらこそよろしくお願いします! ともえさん!」

 彼女は満面の笑みで、わたしの手を握ってくれました。よろしくね、イエイヌさん。

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