オチは思いついたんですけど、書けるんですかね。
20/06/08 改稿
朝特有の鋭さのある陽射しが窓から差し込みます。
「ん……うぅん……」
眼が覚めたわたしは隣に眠るイエイヌさんの温もりを感じながら、眼を擦ります。イエイヌさんは尻尾を抱えるように丸くなって眠っていました。わたしはそっとイエイヌさんの頭を撫でます。彼女はもにょもにょと呟きながらくすぐったそうに顔を動かしました。そんな様子にわたしはつい、くすりと笑ってしまいました。
「顔、洗いますか」
誰に聞かせる訳でもなく呟きます。
「えぇっと……洗面台は……」
イエイヌさんのおうちを勝手に物色しているようで、なんだか申し訳ない気もしますが、そこには眼を瞑りましょう。
「台所……? 使うのかしら? こっちの扉の方にお手洗い……その奥にお風呂と……」
自分で自分の動きがなんだか猫みたいに思えてしまい、内心で小さく笑ってしまいました。ともかく、顔を洗いましょう。
タオルは幸い洗面台の下の棚にありました。きちんと洗濯されているようで、すぐにこのまま使えるようです。
洗面台に備え付けられた鏡を覗くと、そこには青味がかった緑色の髪の毛をした少女が映ります。襟足が長く伸びており、見たところ髪の毛をまとめたほうが良さそうです。また、彼女の瞳は両目の色がそれぞれ異なっており、右目は灰色の混じった赤色。左目は髪の毛と同じ青味がかった緑色でした。
はてさて、これは誰や如何にとわたしは疑問に思いますが、答えなどひとつしかありえません。この少女は、わたしです。その事実に気付くや否や、眩暈のような視界のブレがわたしを襲います。何かがおかしいのです。何かが違うのです。忘れてしまったわたしの記憶。その一部が唐突に取り戻されたような感覚。
「あれ……? わたし、こんな……」
世界に揺さぶられながら呟きます。しゃがむようにして、眩暈に耐えます。十数秒程度で揺れは収まりましたが、妙な動悸はまだ残っていました。改めて鏡をしっかりと見ます。
わたしの視界に入ってくる鏡の中のわたしは、焦燥感と猜疑心とがない交ぜになったような表情をしているだけで、先程と変わらないわたしでした。記憶の一部……そうは言いましたが、本当にほんの一部です。嘗てのわたしの姿だったかもしれない記憶、それだけ。その記憶の中にある姿は、顔の形や眼や鼻などの細かい形は(ぼんやりとですが)今と大差なく、単に月日を重ねたものに過ぎないように思われましたが、決定的に違っていたのは髪と瞳……昨日気づいた爪の色も、同様でしょう。
記憶の中のわたしは、真っ黒の髪に茶色の瞳をしていて、爪の色も桃色だった筈です。今のわたしと昔のわたし。眠っていた間に、一体何があったのでしょうか? まるで見当もつきません。
心を落ち着かせるため、そして朝の習慣として、顔を洗い終えます。その頃になると動悸も治まり、現状を受け入れるしかないのだという心構えも出来ていました。
「ふう……」
タオルを首にかけて、顔に残った雫をふき取りながらベッドの方に戻ると、イエイヌさんが起きていました。眠そうに眼をこすっていましたが、何よりも不安そうに辺りを見回していました。
「おはよう、イエイヌさん」
わたしに気付いたイエイヌさんは何も言わずにわたしに近づいてきました。
「ど、どうかしました?」
彼女はわたしの質問に答えないで、彼女はそっとわたしの胸元に顔をうずめました。わたしは困惑してしまいます。ただ、こうされると、何故でしょうね。どうしても彼女の頭を撫でてしまいたくなります。
一分に満たないほどの時間、わたしは黙って彼女の頭を撫でます。その内、小さな声でイエイヌさんが何かを呟きます。わたしは聞き取れず、聞き返しました。
「何か、言いました?」
彼女はわたしの胸元から顔を離し、頭をぷるぷると振って言いました。
「なんでもないです……おはようございます! ともえさん!」
朝早いというのに、元気ですね……イエイヌさん……それはさておき、今日はどうしましょうか。彼女と散策に出かける予定こそありますが、時間が早すぎますし……ここはひとつ、わたしの身体の調子を取り戻す為にも、ここでの生活を知る為にも、イエイヌさんの予定にくっついて動くのが無難に思われます。
「どうしましょう、イエイヌさん。何かお手伝いできることとか、したほうが良いこととか……そういうのってありますか?」
うーんとイエイヌさんは唸りながら考えます。
「そう、ですねぇ……お手伝いしてもらいたいこと……命令とか指示とかでしたらなんでも良いのですけれど……」
昨日は見せなかった一面。彼女の闇? は深そうです。
「い、今なんて? いいえ、なんでも……そうです! ジャパリまんをいただける……んでしたよね、そこまで案内していただけますか?」
とりあえず話題を逸らすことは出来たような気がします。命令とか指示とかなんて思いつきませんし、思いついてもする気にはなりません。
「わかりました! では行きましょう。ともえさん」
彼女はとてとてと歩いていきます。
「イエイヌさん」
わたしは彼女を呼びとめました。
「まずは顔を洗いましょう?」
イエイヌさんは耳を赤くして「はい」と返事をしたのでした。
イエイヌさんが顔を洗い終えるのを待っている間、手持ち無沙汰でしたので部屋の中を眺めることにしました。
昨晩は帰ってきて早々、わたし、寝てしまったんですよね。どれくらいの期間かはわかりませんが、長時間寝たままで、眼が覚めて……そうしていきなりあの距離を歩いて……肉体的にも精神的にも疲労が貯まっていたのでしょう。
イエイヌさんのおうちに戻るなり記憶がありません。ベッドに腰掛けたあたりまでは何とか覚えているのですが……もしかすると何かの後遺症で記憶に障害でも……と考えたあたりで、一冊の本が壁際の棚にあることに気付きました。
気になって手に取ってみると、どうやら図鑑のようです。『動物図鑑』そう書かれていました。ふむ、これから沢山のフレンズさんたちと接するのです。彼女達と仲良く生きるためにも、知識があるに越した事はありません。後ほどイエイヌさんに譲ってもらえるか聞いてみましょう。
「お待たせしました! ともえさん!」
イエイヌさんが戻ってきました。彼女は水滴を振り払うように軽く顔を振ります。そして何か思いついたように、手をぱちんとたたきました。
「あ、そうだ! ともえさん! これを……どうでしょう?」
彼女はクローゼットの中から一着のベストとサファリハットを取り出します。昨日わたしが回収した鞄と似た色合いの青色が基調となっていて、使いやすそうなポケットが幾つか付いている袖なしのベスト。そして、カーキ色の生地に先端が空色に染められた羽根のついたサファリハット。可愛らしさと実用性を兼ね備えた中々素晴らしい一品たちです。
「朝と夜はまだ冷えますので、どうぞ。昨日の夜、ともえさんが眠っている間に見つけたんです! あと先日ともえさんが眩しそうにしていたので、お帽子も……どうぞ!」
楽しそうにベストとハットをひらひらさせるイエイヌさん。
「気持ちは嬉しいのですが……イエイヌさんは着ないんですか?」
「私には毛皮がありますので! 平気です!」
けがわ……毛皮……? 服を……? なるほど、そういう解釈なのですね。口にはしませんが、わたしは何となく納得しました。が、ちょっと動揺してしまいます。
「そ、そうですか……」
ヒトとして私に染み付いているであろう『常識』がなんだか間違っているような気がしてきます。
「ではお言葉に甘えて……サイズもちょうどいいですし、暖かいですね……ありがとうございます、イエイヌさん」
わたしが彼女にそう伝えると、彼女は満面の笑みでした。
「いえいえー、お役に立てて何よりです! ミョーリニツキルってヤツですね!」
どこで妙に難しい言葉を覚えてくるんでしょう……? ともかく、イエイヌさんには感謝です。
「では行きましょう! しゅっぱーつ!」
念のため……というよりも、何かに役に立つかもしれない。そう思って、わたし鞄に図鑑を押し込みます。そうして、わたし達はおうちを出ました。
イエイヌさんの言うとおり、外は少し冷えていて肌寒いくらいでした。イエイヌさんに先導してもらいながら、わたしは彼女に疑問に思ったことを問いかけます。
「パークにもやっぱり季節ってあるんですか?」
「はい! と言っても、このちほーはそこまで暑かったり寒かったりはしないそうですよ?」
なるほど……ちほーというのはそれぞれ特色があるんでしょうね……
「イエイヌさんは別のちほーに行ったことってあるんですか?」
「無いですねぇ……話には聞いたことはあるんですけれど……わたしはフレンズになったばかりですので」
そういえばそうでした。
「何処か行ってみたいちほーって、ありますか?」
イエイヌさんは悩むように首を捻ります。
「うーん……考えたことが無かったですねぇ……うーん……」
フレンズになってから日が浅いからでしょうか。それとも生活に適した土地から離れたくない、とか? 色々事情もあるのでしょうか。あまり詮索しないほうが良いのかもしれません。
「寒いところはあまり得意では無いですけれど、雪とか見てみたいですかねぇ……綺麗そうですし……ゆきやまちほーだと見られるとか……」
なるほど、ジャパリパークでしたらきっと綺麗な雪景色を眺めることが出来そうですね。わたしもぼんやりとそんなことを考えてしまいます。
「ともえさんは……あっ、見えましたよ! あそこですあそこ」
イエイヌさんの指の先には屋台風の小さな小屋がありました。嘗ては売店として運用されていたのでしょうか? 軒先には汚れて読むことが出来ませんが『屋さん』という文字が確認できました。小屋の中には山積みになっているジャパリまんと、ひとつの影が見えます。
「おはようございます! ロバさん!」
イエイヌさんが小走りになって駆け寄り、挨拶をしました。
「お、おはようございます」
ロバと呼ばれたフレンズにわたしも挨拶をします。
「おはようございます、イエイヌさん。そちらの方は……」
「あっ……ごめんなさい、わたしはともえです。よろしくお願いします、ロバさん」
わたしはぺこりとお辞儀をして応じます。
「はい、よろしくお願いしますね、ともえさん……ですね」
ロバさんはそう言って会釈をしてくれました。
「それにしても、イエイヌさん。今日も早いですねぇ。素晴らしいですよー。健康に早寝早起きは重要ですからね」
ロバさんは腕を組んでうんうん頷いています。ふむ、フレンズさん毎にこだわりポイントみたいなものがあるんでしょうか?
「ロバさんには負けますよぉ。いつも日が昇るころにはここにいますし……毎朝大変じゃないですか?」
イエイヌさんが問いかけます。わたしも同感です。毎朝この時間となると幾らなんでも大変でしょう。
「うーん……そういわれると大変ですけど……好きでやっていることですし……それに何よりも、皆さんが快適にジャパリまんを食べることが出来るということが嬉しいですし、気にしたことは無いですよ」
そういわれると確かに説得力があります。
「あの……ロバさんがこのお仕事……ですかね、始める前はどうだったんですか?」
ロバさんは思い出すような素振りをしながら語りました。
「えぇっと……結構前ですけれどね。ボスはいつもここにジャパリまんを置いてくれるのですけど、そりゃあもう毎朝大変でしたよ……」
その光景を思い出したのか、彼女は呆れたように乾いた笑いを漏らします。
「このあたりをナワバリにしてる子達が皆来て、それでごった返しで……ちからの強い順みたいなところがありましたからね……食べられない子が居たことは無かったはずですけど……」
大変なんですねぇ……それはそれで見てみたい、と思うのはわたしのわがままでしょうね。
「で、見るに見かねたロバさんがこのお仕事を始めた、と……ありがとうございます!」
イエイヌさんが感心した様に頷きながら言いました。
「いえいえ、それほどでもー」
ふふんと誇らしげなロバさんでした。
「っと、昔話はこれくらいにして……おふたり分ですね。はい、どうぞ」
簡素な袋に包まれた数個のジャパリまんを受け取ります。そうして、わたし達はお礼を述べて帰ることになりました。わたしは皆さんへの挨拶を兼ねて残ろうかと思ったのですが、ロバさんから止められました。
「空腹でぴりぴりした子もいますし、挨拶どころでは無いですよ……? なんだか情けない話ですが……」
わたしは思わず乾いた笑い声を漏らしてしまいました。
何と言うか……恐ろしいですね……フレンズもヒトもけものも、食欲には負けるんでしょうね、きっと。
では失礼するとしましょう……と、その時でした。雑談やら足音やらが入り混じった雑踏の音がわたし達の耳に届きます。振り返ってみてみると、軽く土煙を上げながら凄いスピードで走ってくる子も居ます。
「みんな来ましたね……急いでも数は変わらないのに、まったく……」
そういうロバさんの顔は呆れたようでしたが、何処か楽しげでもありました。
「さ、離れたほうが良いですよ。巻き込まれでもしたら大変ですからね?」
改めてロバさんにお礼をし、わたし達は屋台から離れました。背後から諌めるような会話をするロバさんの声も聞こえましたし、それに反論するように「へっへーん」と応える声も聞こえて来ます。
「あの子は何のフレンズなんでしょう……」
羽根のあるフレンズさんは、やっぱり鳥さんなのでしょうか? と、わたしは興味が引かれ、つい振り返って足を止めてしまいますが、イエイヌさんがジャケットの裾を軽く引いて言いました。
「早く行きましょう? ともえさん。声からするとロ……じゃなくて、多分お話をするどころではないですよ……?」
イエイヌさんの方を見てみると、彼女は屋台の向こう側から来る十数人以上はいるであろうフレンズさん達を指差していました。急いでいる子も居ればフレンズ同士で話し合う子も居ます。ただ……彼女達の背後には闘争心や競争心とも呼べるようなものが見えるような気がします。
「あ、あはは……あれは……そうですねぇ……ご挨拶はまたの機会にしましょう……」
はい、怖気づきました、わたし。
わたし達は屋台のある広場を後にします。やはり……というべきでしょうか。がやがやと喧騒が聞こえてきます。イエイヌさんの言う通り、退散して正解だったのでしょう。
「イエイヌさん、あそこっていつもあんな感じなんですか?」
わたしが尋ねるとイエイヌさんはあははと乾いた笑いを出します。
「今日は特に凄いですね……」
そんな他愛ない話も程ほどに、わたし達はのんびりと歩きます。イエイヌさんはふんふんと鼻歌を歌いながら、時折わたしの方を振り返ります。どうして振り向くのかはわかりませんけれど、わたしはそれに笑顔で応えます。
太陽が高くなってきたからか、段々と暖かくなってきましたし、時折吹く風の含んだ冷たさが心地よくもありました。遠くには高く聳える山があり、そのまま視線を下に動かすと風にそよぐ木々や草叢があります。爽やかで、暖かくて、素敵な光景でした。ふと、あの日の夜を思い出します。「絵を描こう」という決意。イエイヌさんに相談してみましょうか? それとも、自分ひとりであそこまで行ってみましょうか?
そういえば、わたしの眠っていたカプセルには、わたしの思いを見計らったかのようにスケッチブックが添えられていましたが、昔のわたしも絵を描くのが好きだったのでしょうか? 顔を洗ったときに戻った記憶はわたしの外見だけ。何もわかりません。ただ、ふつふつと湧き上がるこの欲求は、記憶を思い出すに辺り、重要な予感がします。
「ねえ、イエイヌさん」
「はい、何でしょう! 準備なら出来てますよ!」
なんの準備でしょう……?
「お家に帰ってご飯を食べたら、またあそこへ行きませんか? まだ調べたいこともありますし、やりたいことが出来たんです」
あ、でもわたしひとりでも大丈夫ですけれど……と伝えようとすると、わたしが言葉を発するよりも早く、「はい!」と彼女は言いました。うーん……彼女と一緒に出かけることが出来るのは幸いなんですけれど、彼女は本心からそれを望んでいるのでしょうか? ふと疑問に思ってしまいます。尻尾をふりふり答えるので、恐らく嫌ではないのでしょうけれども、申し訳ないというかなんというか……。
そんなお話も程ほどに、わたし達はお家に着きました。
「ふぅ……ただいま」
わたしがそう言って扉をくぐると、イエイヌさんも同じようにして扉をくぐります。
「そういえば……ただいまって言っておうちに入ったことは無かったですねぇ……」
イエイヌさんが感慨深げに言いました。
「そうなんですか? というか……」
ひとつ疑問が浮かびます。
「フレンズのみなさんって、イエイヌさんのように『おうち』があるんですか?」
わたしは手を洗いながら尋ねます。
「うーん……むしろ私のようにこういう『おうち』のある方が珍しいですかねぇ」
イエイヌさんは机にコップとジャパリまんを並べながら答えます。
「そうなんですか? てっきり皆さんおうちがあるものかと……」
手洗いを済ませた私は椅子に腰掛けます。
「それぞれ皆さんナワバリがありますし、好みもありますからね」
続けてイエイヌさんは幾つかの例を出します。
「例えばアルマーさんセンさんは一緒に暮らしているそうですが、眠るときは地面の穴や洞穴で寝るそうですし、ロバさんは草原の木陰で過ごすことが多いそうです」
その日の天気や気温、やりたいこと、そういった色々な要因もありそうな話です。フレンズになる以前の動物だった頃の習性が彼女達の暮らしぶりにも反映されている訳ですね。
「では……何故イエイヌさんはここに……?」
私は動物としてのイエイヌの生活を調べようと、鞄に押し込んだ百科事典を開きます。
「うーん……私はフレンズになったときからここに居たというのが大きいですかねー」
わたしはページを捲りながら彼女の話を聞きます。
「フレンズになったときにここに居て……最初にいったそうです。ここで待つんだって……私は覚えてはいないんですけれど、でも、ここに居なくちゃいけないんだって思いは……今でも、あるんです」
今までに無いほどの強い意志を彼女から感じました。イエイヌさんがフレンズになる前に、一体何があったんでしょう。
「でも、私がフレンズになる前のことは何も覚えていません。私は……私は、どうしたら良いんでしょうね……えへへ」
どこか照れくさそうな言葉でした。けれど、わたしから彼女に伝えられる言葉はありませんでした。わたし自身が、囚われるべき過去が無いのに過去に囚われていると言う身の上ということもありますし、わたしの言葉が彼女の意志を変えてしまうのではないかという恐怖もありました。
わたしは、わたしの力で、他者を変えてしまっても良いのでしょうか? 過去という根拠を持たないわたしが? そんなこと、許されない。わたしはそう思います。もしかしたら……わたしが他者の本質を変えることへ恐怖を抱いているというそれだけかもしれませんが……。
わたしに返す言葉が無い以上、必然的に部屋を包むのはしんとした空気だけになります。耐えられなくなったのか、それとも自分の言葉が齎した沈黙を破る義務を感じたのか、イエイヌさんが口を開きます。
「……なんだかごめんなさい、ともえさん。困らせたくなかった訳では無いんです」
わたしは彼女の言葉を聴いて返します。
「いいえ、わたしがイエイヌさんにひとことでも言えることが出来ないことが……それよりも、ご飯にしましょう? ね?」
わたしが促すと、イエイヌさんは「はい!」と元気な返事をしてくれました。わたしの気持ちを汲んでくれたのかはわかりませんが、何よりもその返事がありがたく感じました。
気付けば、辞典はイエイヌの頁になっていました。そこには手書きの文字が書いてあります。『 せ な ち 』。インクが擦れてしまっているため、何と書いてあるかは、わかりませんでした。
不思議な沈黙。互いが互いの触れてはならない事柄に触れてしまったが故の沈黙。わたし達は黙ったままジャパリまんを頬張ります。気付けばお互い食べ終わっていました。
「……そういえば、ともえさん。やりたいことって何なんですか?」
イエイヌさんが不意にわたしに尋ねます。そういえば、お話していなかったですね。
「絵を……描こうと思ったんです。折角のスケッチブックですしね」
「へぇ……絵ですか……凄いですねぇ、ともえさん……」
彼女は「ほへぇ」と妙な吐息を漏らします。
「そんなことは無いですよ? わたしが絵を描けるか、わたしもわかりませんしねぇ……」
わたしは自分の発言にはっとします。彼女にとって反応しづらいことを言ってしまった。そう思ったのです。
「出来上がったら是非見せてくださいね!」
幸いというべきだったでしょうか? それとも彼女は気を使ってくれたのでしょうか?ともかく、わたしの恐れていた事態は避けられました。
「えぇっと……あんまり期待しないで下さいね? わたしにもどうなるかわかりませんので……」
言うまでも無いことです。身体に染み付いているほどの技術があるのなら話は別でしょうが……今のわたしにそんなものがあるのかどうか……。
疑問は尽きませんが、自分自身のやりたいことをやってみようかな、と思うのです。ロバさんが他者の為にと働くように、イエイヌさんが自分の思いを貫くように。わたしだって何かしたいんです。