薄暗い店内の中をぐるりと見回します。店内にはしっとりとした、というのが適切だと思われる空間が広がっていました。
数メートル四方、わたしの様な子供でさえ十歩も歩かずに端から端まで歩けるような広さで、『家族でわいわいがやがや』というよりも、親しい人と、あるいは一人でゆっくりと雰囲気と味を楽しむような、そんなお店のような印象です。それを示すかのように、落ち着いた雰囲気の木製のテーブルと椅子が数脚ずつ。また、カウンターも用意されています。
カウンターは一本の長い木材を使用しているようで、継ぎ目のようなものが一切見えません。背の高い椅子は固定されていて、わたしの様な身体の小さい方は足が浮いてしまって使いづらそうでしたが、数は三脚でしたので、こちらの利用者は余り主眼に置かれて居なかったのでしょう。
……メインストリートに面していて大人向けというのも不思議な印象ですけれど、天気の良い日などは表に椅子や机を出して、おしゃれな午後を演出……なんてこともあったのかもしれませんね。ここから出るのが急だったからか、それとも当初は戻ってくる予定だったのか、それは今ではうかがい知ることは出来ませんが、お店の入り口側には金属製の机と椅子、それとパラソルが置いてありました。これらが外に置かれていたのかもしれません。
天井には丸っこいランプが下がっており、天井の真ん中にはファンが着いています。わたしがそう思うのも妙な話ですけれども、どこか古臭さを感じるものの、不快ではない、むしろ『懐かしい』……そんな印象です。
視線をカウンターの奥側に向けると、そこにはキッチンと思われる空間が広がっていました。きっと目当てのものはそこにある筈……。
思わず、椅子の背もたれに触ってしまいます。手には埃の塊が着いていて、それは時間の経過を強く意識させました。壁紙は日光で色あせている程度でしたし、床も埃や色あせが目立ちましたが、内装の全ては、大きく壊れていたり欠けていたりという様子がありません。
「結構綺麗なんですね、ここ……」
外の有様と比べると、いくらか過去の面影をそのままにしている為、そう感じたのかもしれません。
イエイヌちゃんがわたしの言葉に訝しげな表情をします。
「……そうですか……? 私にはちょっと埃っぽくて……くしゅん! ご、ごめんなさい!」
彼女のくしゃみで埃が舞い上がります。それでも大きな塊などは少し動いた程度でした。
「けほっけほっ……つらいなら、外で待ってて大丈夫ですよ? イエイヌちゃんも、アムールトラさんも……」
イエイヌちゃんもアムールトラさんも、ふたりして首を振ります。顔の辺りを手でパタパタして埃を避けながら、ですけれど……。
「護衛だからってのもあるが、面白そうだからな。居るよ」
「アムールトラさんの言うとおりです! 一緒にいたいですし、こういうところ、めったに来ないので楽しいです!」
わたしは少しだけ「無理をさせているのでは?」申し訳ない気持ちになりましたけれど、薄暗い店内で光を反射する彼女たちの瞳に、嘘の色も無理な様子も見られません。
「わかりました、ありがとうございます。……でしたら、探してほしいものがあるんです――」
わたしは彼女達に幾つか探して欲しいモノを伝えます。『麺棒』『のし台』『ふるい』『型』『バット』『クッキングシート』……あれば助かるのは、これくらいでしょうか? それぞれの形状と役割を伝え、彼女たちに店内を探すようにお願いします。無くても仕方ないですし、汚れが酷くて使い物にならない可能性もあります。ですからそれっぽいものを見つけたら教えてもらうようにお願いしましたが……どうなることやら。
わたしの説明が終わると、皆さんそれぞれの持ち場に移動します。わたしとラッキービーストさんはキッチンを、イエイヌちゃんとアムールトラさんはキッチンから続く倉庫の方を担当します。
「ふんむ……」
腕を組んで、周囲をぐるりと見回します。
壁は凹凸の一切ないつるりとした壁紙で、客席側と同様に汚れは多少ありましたけれど、時間経過以外の汚れも無いですし、異臭やぬめり、カビなどの水回りの汚れも見当たりません。またカウンター側からは見えなかったのですが、奥の方には機材が纏まって置かれています。
「大事に使われてたんですねぇ……」
そう言いながら、わたしは引き出しの中や、天井から下がる棚などをまさぐります。そこには、かつて使われていたであろう調理器具が丁寧にしまわれていました。例えば、やたらと重いフライパンが数枚重なってぶら下がっていたり、例えば、お皿が重なって置いてあったり、例えば、包丁があったり……。そのどれもが丁寧に手入れされていたようで、避けられない埃などはともかく、サビや食べ物の汚れなどは見当たりません。
わたしは床にかがんで戸棚を弄りながら尋ねます。
「ラッキービーストさん、ここって電気点きます?」
目が慣れては来てますので、大丈夫といえば大丈夫ですけれど……点くのであれば探索の一助となるのでしょうけれど……。
「……ツカナイヨ」
少し悩んだように間を置いて、彼は答えました。彼はそのまま言葉を続けます。
「セルリアンが、デタトキ、ハイデンシセツがコワレチャッタ。ゴメンネ」
抑揚のない声でしたけれど、どこか申し訳無さそうな声色に思われました。
「ラッキービーストさんの所為じゃありませんよ。それにダメで元々って思ってましたから」
彼はわたしの言葉に答えず、わたしの近くに寄ってきて、手元で目を光らせます。……いや、文字通りの意味ですよ? 目が光ったんです。多分、わたしの手元を照らしてくれているのでしょう。
「……! ありがとうございます」
感謝を伝えて、中を弄りましたが……どうやら消耗品しか無いようです。それも未使用のスポンジですとか、そういうモノばかり……って、あら。
「……クッキングシート……?」
四本ほどの未開封の筒が出てきました。それもビニールか何かで纏められているものです。透明なビニールの下には『クッキングシート』との文字が書いてあります。ボロボロになったビニールを破り、筒を一本だけ開封します。
「ところどころ箱は汚れてますけど……中身は無事そうですね……」
ぱりぱりとしつつも、つるつるとした不思議な感触。梱包がしっかりしていたのか、環境が良かったのか、もしかしたら両方かもしれませんが、湿り気も無いですし、カビや虫食いと言った汚れも見当たりません。
ラッキービーストさんのライトを借りながら箱の裏面に書いてある使い方を見てみると、かなりの高温まで使えるということがわかりました。
「うん、これなら……次はっと……」
わたしは視線をキッチン奥側に向けます。あの辺りは見たところコンロなんかもありますし、オーブンも、きっと……。そう思っていたのですけれども……どうやら難しい問題に直面してしまったようです。
「流しと、冷蔵庫……で、コンロがあって、この下がオーブンなのは間違いないんでしょうけど……」
先程のラッキービーストさんの話を考慮すると、おそらく動作しないでしょう。電気が通っていないだけでなく、危険性の高いガスなどはそもそもこの辺りでは使えなくなっていそうです。あ、ちなみに冷蔵庫は少し怖いので中は見ません。虫とかは割と平気ですけど、あんまり多いと探索どころではなくなりそうですし……。
「ラッキービーストさん。これ、使えます?」
コンロとくっついているでっかいオーブン。流石にこれを持ち出すことは出来ません。せめて使用可能ならば、またココに来ればよいだけなのですが……。
わたしの言葉を受けて、ラッキービーストさんは小さく動き回ってあちこちを確認します。そして、彼は首を振るように身体をひねらせ、否定しました。
「コワレテナイケド、エネルギーキョウキュウがトマッテル。フッキモ、ムリダネ」
「ですよねぇ……残念です……」
とは言いましても、内心ではどこか安心していました。ここを使えるようにするというのも大変でしょうし、それに、ここに通うというのもなかなか骨の折れる仕事です。勿論、ここが使えるのでしたら、(一回だけしかクッキーを作らないという前提ですが)、それでも構いませんし、手っ取り早いのは間違いありませんけれども……。
「でっかい鉄板はありますけど……使うかと言われると……うーん……」
わたしはぱたりとオーブンを締めて、棚を再び弄り始めました。
しばらくの間、収穫が無かったので客席側の方も含めて歩き回ります。こちら側にも、消耗品の類がいくらか引き出しや棚にしまわれていましたが、そのどれもがわたしが今必要とするものではありません。流石にストローや紙ナプキンなどを持って帰っても仕方ありませんからね……。
「こんなものですかね……思ったよりもなにもない……。……ん?」
ふと奥の壁を見てみると、そこには一枚の絵が飾られていました。わたしは絵をうっすらと覆う埃を適当なモノで拭い、じっくりと絵を眺めます。
「この絵は……んー……? ここ?」
色鉛筆か水性絵の具で描かれたと思われる絵。柔らかな色合いで、レストランか喫茶店の様な内装が描かれていました。その絵には人影が幾つかあり、内装はここと似ている所が多数ありました。窓から見える外側の光景は、白くぼやけていたり、そもそも描かれていなかったりという具合でしたが、パラソルを開いた机が見えます。天井からは丸っこいランプが幾つかあって、それもここと似ています。もしかしたら、このお店のことを描いた絵なのかもしれません。それか、この絵に似せて作ったのかもしれませんね。
ただ、いくつか異なる点がありました。少しだけ垣間見えるキッチンの奥側には石かレンガで組み上げたと思われる窯がありましたし、客席には見当たらない座席同士を仕切る壁があったり、パイプの組み合わさったでかい機械がカウンターの上に置かれていたり……。
「色々と違いますね……なんででしょう……?」
考えながらじっと見つめていると、絵の下側に『改築予想図!』と鉛筆で走り書きがされています。あぁ、なるほど……と思わず呟きます。すると、見計らったかのようなタイミングでイエイヌちゃんの声が聞こえました。
「――ゃーん! ともえちゃーん!」
わたしは「はーい」と返事をし、彼女たちの居る倉庫の方へと移動しました。
倉庫に入ると、イエイヌちゃんとアムールトラさんは見つけてくれた道具や機材などを見下ろしながら、一冊の雑誌を捲っていました。
「おふたりとも、お疲れさまです……って何を読んでるんですか?」
イエイヌちゃんは雑誌を閉じて、わたしに手渡します。
「これ、あっちの部屋にあったんです。文字は読めないですけど、しゃしんでしたっけ、一杯あったので面白くて……」
彼女が指す先には小さな部屋がありました。その部屋は机と椅子、そして本棚があるだけの小さな部屋で、おそらく事務作業等が行われていたのだろうと思われます。わたしはちらりと部屋を覗き込んでから、イエイヌちゃんから渡された雑誌を読み始めます。光がまったくないところに置かれていた為か、劣化もほとんど無く、『図書館』に置かれていてもおかしくはなさそうなくらい良い状態です。
「『簡単! DIY!』……?」
中身をざっと見ると、日曜大工の事が書かれた書籍であることがわかりました。
「ふんふん……結構使えそう……」
お外で使える椅子や机って無性に魅力的に思いません? それはさておき、あれこれ色々な情報が丁寧に書いてありますので、良い本だと思えますし、読んでいるだけで興味が湧いてくるような素敵な雑誌です。とはいえ、材料も無ければ道具もない今、知識だけ得た所で気を紛らわすくらいのことしかできませんが……。
「……ん?」
わたしはページを捲る手を止めて、ひとつのページに眼が釘付けになりました。そのページを見て思いついたことは少し突飛な気がしましたけれど……。
イエイヌちゃんとアムールトラさんはわたしの様子が気になったのか、わたしの両脇に立って、しげしげとページを眺めていました。
「……どうした? 変なものでもあったのか?」
「ともえちゃん? この四角いの、気になるんですか?」
ページの詳細を頭に入れる前に、彼女達の疑問を解消したほうが良さそうです。
「これ、オーブンの作り方です。……まだちゃんと読んでないですけど……もしかしたら作れるかもしれません」
よもやオーブンを素人が作れるとは思いませんでした。とはいえ必要な技術や道具の問題はありますし、作れたとしても燃料や使い方に関する問題だって……ひとつ解決の手がかりが見えたのに、もっと問題が生まれます。何とも悔しいですが、作り方に関しては、明るい所でもう少しこのページを読み込んだほうが良さそうです。
「本当ですか……!?」
わたしが興奮気味に話したからか、イエイヌちゃんも釣られて勢いよく言います。
「問題は山積みですけどね……でも、ここのオーブンは使えそうもないですし、他の場所の手がかりもありませんから……やるしかありません。ともかく、お手柄です! イエイヌちゃん! アムールトラさん!」
わたしの言葉に嬉しそうに彼女達は笑ってくれました。それだけで、どこか救われた様な気持ちになりますが、肝心なのはクッキーを作ることですから、まだ油断なりません。……あ、そうですそうです。
「それはそれとして……。おふたりの見つけたものってこれですか?」
おふたりはそれぞれ頷きます。
「ちょっと確認させてもらいますね」
わたしはそう言って、彼女たちの見つけてくれた品々をひとつずつ見ていきます。
まず、麺棒が一本。少し汚れていますが、しっかり洗って乾かせばなんとかなりそうですね。のし台も同じ様なものが一枚。持ち帰るには不便そうですが、車もありますしなんとかなりそうです。また、ふるいは未使用と思われるものが段ボール箱に残っていたそうです。これは問題ないでしょうね。バットと後は陶器のお皿が幾つか……。こちらも未使用のようです。
頼んでおいたものはこれで全部の筈。他にもめぼしいものは倉庫の中にありそうですが、ひとまずはこれくらいにしておきましょう。
「ふむふむ……ありがとうございます! おふたりとも……助かりました!」
嬉しくてわたしはばんざいをして彼女達とハイタッチを交わします。まずはイエイヌちゃん。いえーいと楽しげに。次はアムールトラさん……と思ったのですが、彼女はどこか恥ずかしそうにもじもじとしています。仕方ないので彼女の胸元で遠慮がちに挙げられた両手に軽くぱちんと手を合わせます。
「本当に皆さんのおかげです……ありがとうございました!」
「いえいえ、お宝探しみたいで楽しかったです!」
「俺もこんな事したことなかったからな、いい経験になったよ」
おふたりとも朗らかな表情で言いました。髪の毛に埃が着いていたりしましたけどね……。
「じゃあ一旦荷物を外に出しましょうか。お手伝いお願いします」
その言葉を合図に、わたし達は荷物を外へと持ち出します。
「あぁ、そうです、鉄板も持っていったほうがいいかもですね……」
荷物を持って倉庫から出たおふたりの背中を見ながら、わたしは呟き、袖を捲くるのでした。
そこまでモノが多かったわけではないですので、殆ど時間を必要とせず、荷物を持ち出し終わりました。太陽の傾き具合はお昼過ぎと言う具合でしょうか?
わたしはイエイヌちゃんの身体や髪の毛に着いた汚れをそっと手ではたき落としながらラッキービーストさんに尋ねます。
「ラッキービーストさん。車ってこっちに動かせますか?」
ラッキービーストさんは、こともなげに答えました。
「モウ、ヤッテルヨ。アト、スコシデ、トウチャク」
あら、お仕事の早いこと。流石ですね……と、次の質問をしないといけませんね。わたしはイエイヌちゃんから手を離して(少し名残惜しそうな声が聞こえました)、先程見つけてもらった雑誌を手に取ります。
「それと、その……お伺いしたいんですけど……お話してた倉庫にレンガってあります? 大きさとしては――」
わたしは雑誌のページをラッキービーストさんに見せます。彼はページをしばらく眺めてから答えます。
「チイサイホウナラ。ギリギリダイジョウブ」
わたしはよしっ、とガッツポーズをします。このページには、手作りオーブンについて書かれているのですが、ふたつ例が挙げられていました。ひとつはレンガをたくさん使ってドーム状に形をつくり、見た目が可愛らしいけれど、作成難易度の高い本格的なもの。もうひとつは、レンガを四角形に積み上げたもので、無骨ではあるものの形成の手間や難易度は極めて低く、材料もレンガだけで良いというものでした。
「わかりました。ありがとうございます。でしたら……次は倉庫ですね」
わたしはアムールトラさんの方を向きます。
「次はアムールトラさんです、車が到着するまでですけど……」
アムールトラさんはむず痒そうに身体をぷるりと振ります。
「俺はこれで十分だ」
そう言って、アムールトラさんはぺっしぺっしと手や尻尾を使って身体を払っていました。
「そ、そうですか……」
でしたら大丈夫だとは思いますが、ちょっと触りたかったなぁというのは言わないほうが良さそ――唐突に、身体に寒気が走ります。ぞわりという震えを抑えるように、わたしはぎゅっと身体を縮こまらせます。
「や……なん……で……?」
立っていることも出来ず、その場にしゃがみ込むわたし。理由もわからず身体に走った恐怖の感覚は、何かを想起させるようでした。それも、嫌な記憶。
そんな時に、イエイヌちゃんがわたしの事を案じて両肩に手を当ててくれました。
「と、ともえちゃ――……こんな時に……!」
「イエイヌ。守っててやれ」
アムールトラさんも、イエイヌちゃんも、今まで聞いたことのないくらい真剣で、真面目な声でした。
「ぇ……? え?」
半ばパニック状態に陥ったわたしは周囲を見回しますけれど、わたしには何もわかりません。いえ、なにか嫌なモノが近くに居るということだけはわかりました。
「ともえ、タッテ。ニゲルヨ」
?
「ボスの言うとおりです」
?
「ど、どういうこ――きゃっ」
必死に絞り出した声でしたが、イエイヌちゃんは返事をせず、わたしを抱きかかえます。彼女、こんなに力があったんですね。
「任せました! アムールトラさん!」
「ああ」
ラッキービーストさんとアムールトラさんを残して、イエイヌちゃんは真っ直ぐに海の方へと走り始めました。
「な、なにが……?」
わたしの問に、イエイヌちゃんがとぎれとぎれに応えます。
「セルリアンです」
わたしはその言葉に、彼女の身体に回した腕をぎゅっと締めます。
「けはい、が、しました」
わたしの腕に力が籠もったのを感じたのか、彼女はそっと微笑んで、わたしを見つめます。
「私も居ます。アムールトラさんも、ボスも……だからだい――」
どごん、と大きな音がしました。耳に響き続けるようにさえ思える轟音にわたしはきゅっと眼をつむりました。彼女はさらに速度をあげます。
早鐘を打つ心臓の所為で、時間の感覚がおかしくなっていました。
どれくらいの距離があるのかはわかりません。ただ、イエイヌちゃんは立ち止まりました。そして荒れる息を整えて、言いました。
「この辺りまでくれば、大丈夫だと思います。はぁ、はぁ……。隠れていてください。私とアムールトラさんで退治してきますから、待っててくださいね」
彼女はわたしをそっと降ろします。眼を開くと、そこは大きなレンガ積みの建物と建物の間でした。彼女の優しい言葉に、わたしはだんだんと落ち着いてきましたが、それでも、不安は不安です。それに、言葉が詰まって出てきません。
「ぁ……いえ、いぬちゃ……?」
それでも、せめて伝われと思い、心配だよと目線を送ります。
「だいじょーぶです。私だって弱くないんです。アムールトラさんだってお強いんですから、へーきです。待っててください」
そういうなり彼女は立ち去りました。
どごん、どがん。わたしは涙を流しながら、眼を閉じて、帽子を深く深く被りながら小さくなります。嗚咽しか漏れ出ないのですけれど、内心はわがままでした。ひとりにしないでほしかった。一緒にいてほしかった。
けれど、と自分を叱る自分もいました。お前は何も出来ないのか。お前は泣くだけなのか。お前は逃げるだけなのか。自力で逃げるわけじゃない、逃げさせてもらうだけなのか。それで良いと、本当に思っているのか? 何も出来ないグズ。非力で、迷惑をかけて、誰かに危険を背負わせて、後ろで泣く、無能。
……怖いものは怖いんです。何かをされた訳でもないのに、一度、小さいのを見た時でさえ、腰が抜けたのに……イエイヌちゃんがあんなこと言うようなヤツなんです。わたしなんて、わたしなんて……。
真っ暗な視界の中、恐れと自己嫌悪で一杯の頭に、音だけ聞こえます。
ごん、という音が響きました。
ぱりん、という音が重なって響きました。
そして幾つもの音が響きました。
それは段々と近づいてきて……。
「ともえ、オマタセ」
唐突にかけられた声に、ぴくりと身体が動いてしまいました。震えながら、恐る恐る顔をあげると、ラッキービーストさんが目の前にいました。
「トラックニ、ノッテ」
わたしは彼の言葉に従い、這いずるように前に出ます。建物の陰から出ると、すぐそこにトラックが乗り付けてありました。
「ニゲルヨ」
右を向くと、十メートルほど先でイエイヌちゃんとアムールトラさんが大きなセルリアンと対峙している姿が見えました。
「よかった……ともえちゃん!」
早く逃げてください、と彼女はわたしを見て、言いました。そう言った瞬間に、セルリアンの真ん中にある瞳が動き、イエイヌちゃんを睨みつけます。そして、触手のような腕が動いて――
自然と身体が動きました。火事場のなんとやら、というヤツでしょうね……目の前の光景はゆっくりと動くように感じられましたし、それなのに自分の身体は奇妙に速く動いているように思えました。
セルリアンの腕は、正確にイエイヌちゃんを攻撃する軌道を描いています。わたしだって、彼女を守れるんです。だって、そうしないと、また……『また』……?
「イエイ――」
アムールトラさんの言葉に、わたしの動きに、イエイヌちゃんは驚きの表情をしました。そして、ゆっくりとセルリアンの方に向き直ります。きっと避けきれないでしょう。わたしでさえ、そう思いました。
わたしは、彼女がセルリアンの腕に襲われる前に、彼女の背中に触れることが出来ました。あぁ、良かった、そう思いながら、走った勢いをそのままに、全力で彼女を突き飛ばします。イエイヌちゃんはその場から弾かれました。と言っても、数歩分くらいしか彼女は動きませんでした。でも、これで、彼女は大丈夫。守れました。正確な軌道を描いている以上、彼女が居た場所に今居るわたしにしか、攻撃は当たらないでしょう。
「――!」
姿勢が崩れ、倒れながらイエイヌちゃんはわたしの顔を見つめました。驚愕と、恐怖と、困惑の表情でした。絶望に、似ていました。
わたしは、間に合えばいいな、と思って彼女に微笑みます。
「だめ!」
イエイヌちゃんの声が聞こえた時には、わたしに見えたのは綺麗な夕焼け空でした。
もう少しで終わりそうなのでがんばります