時折歩みを止めて、呼吸を整えたりしながらも、日が暮れる前にはお家に着きました。
「はぁっ……はぁっ……ふぅ……」
お家の中はひっそりとしていて、イエイヌちゃんがいるのかどうかさえ判然としません。けれども、電気が点いていることからしても、きっとあの子は居るでしょう。
わたしは扉の前で深呼吸をして、最後に覚悟を決めます。
「よっし……」
がちゃり、扉を開く音が聞こえます。
部屋の中では、イエイヌちゃんがベッドに丸くなっていました。わたしはそっと近づきます。彼女を起こしたくなかったですし、もしも寝たふりをしているのなら、彼女の思いを裏切るようなことは、もうしたくなかったのです。
わたしは彼女の隣にそっと腰掛けます。
わたしの背中と、丸くなった彼女の背中がくっつくかくっつかないか、それくらいの距離が、とてつもなく遠く感じました。
わたしが座っても、イエイヌちゃんは寝返りを打ったり、むにゃむにゃと声を出したりなどしないで、じっとしています。呼吸に合わせて小さくお腹や胸が動くくらいです。尻尾や耳なんかも身体にくっつくようにしていますので、本当に身じろぎひとつしません。
「……起きてます?」
何の反応もありません。眠っているのか、わたしを無視しているのか……。
「……」
わたしは何も言わず、彼女の頭を撫でつけようとしました。
けれども、彼女の頭に手が触れるや否や、彼女はそれを払うように頭を動かします。怒っているのでしょう、それも当然です。彼女を怒らせてしまったのは、わたしです。最もわたしの近くに居てくれる方を、ないがしろにしたのですから……彼女に触れるよりも先に、するべきことがあるのです。
深呼吸をして、緊張を解してから、わたしはイエイヌちゃんに語りかけました。
「イエイヌちゃん。わたし、謝りたいんです。聞いてくれますか?」
彼女の頭が、こくりと動きます。
「……わたし、イエイヌちゃんにずっと隠し事してきました。昔のことを思い出しそうになって、怖くて身体が震えちゃったり、イエイヌちゃんの過去を知って、話せなかったり。誰かが居なくなるのが嫌だから、自分を使おうと考えたり……そういうの、話してきませんでした」
イエイヌちゃんはじっとしたままです。
「イエイヌちゃんに心配かけたくなかったんです。イエイヌちゃんを混乱させたくなかったんです。イエイヌちゃんに引き止められたくなかったんです」
わたしは少し前の事を思い出しました。ひとりで旅に出ると言った、あの時のこと。
「わたしは、自分の問題は全部自分で解決しなきゃって思ってたんです。旅に出る時の事、覚えてます?」
こくり。
「あの時と、一緒で……イエイヌちゃんに行かないでって言われたら、わたし、行けなくなっちゃいますから……でも、行かないといけないんです。何があっても」
彼女は寝返りを打つようにして、わたしの背中に顔を押し付けます。彼女の腕はわたしの胴にぐるりと回されていました。
「わたしはね、イエイヌちゃん。誰の手も借りないで、わたしの問題をわたしが解決するのが当然で、絶対だと思ってました。それが辛くて、寂しくて、大変でも、そうするのが皆に迷惑をかけるよりもずっと良いって……それは今でもあんまり変わってません。わたしはわたしで、わたしの問題はわたしが解決しなくちゃいけない。そう思ってます」
わたしの言葉が部屋の静寂に溶けていきました。
「……それに、イエイヌちゃんと一緒に旅をすることになって、他のフレンズさん達だって居てくれて、楽しくて、嬉しくて……そんな幸せをくれた皆に恩返しをしたくて……だから……そうしようって」
小さくくぐもった声で「はい」と聞こえました。
「心配をかけましたよね……。自分勝手でした……頼るべき相手に頼らないなんて、話さなくちゃいけない相手に話さないなんて、ひどいですよね。今まで、ごめんなさい、イエイヌちゃん……」
イエイヌちゃんはぎゅうっとわたしのお腹に回した腕に力を入れました。
「もう隠し事はしません。……許してくれますか……?」
鼻をすする音がして、一拍置いてから、イエイヌちゃんは言いました。
「……ゆるします」
「ありがとう。イエイヌちゃん」
こくりと彼女の頭が背中で動きました。
しばらくの間、わたしもイエイヌちゃんも、黙ったままでした。わたしは、やるべきことをやろう、そう思って口を開きます。
「イエイヌちゃん。何か聞きたいこと、あります?」
考え事をするように、少しだけ間をおいてから、イエイヌちゃんが尋ねました。
「……昔のともえちゃんのこと、教えて下さい」
「わかりました」
わたしがどこで産まれて、どこで育って、お母さんとお父さんの事や、ここに来た理由。ここで『イエイヌちゃん』に出会ったこと、一緒に暮らしていたこと、ここでの暮らし、どうして事故に巻き込まれたのか、どうして記憶を失ったのか……。その全てを包み隠さず彼女に伝えます。
「……大変だったんですね」
彼女はわたしの背中に顔を押し付けたまま言いました。
「んー……お父さんがずっと居てくれましたし、こっちに来てからはイエイヌちゃんがいましたから、平気でした」
わたしはそう言って、「他には?」と続けました。
「……昔の私のこと、教えて下さい」
「……良いんですか?」
彼女が混乱してしまわないかと思って聞き返すと、彼女はこくりと頷いて、促します。
「わかりました」
わたしは昔を思い出しながら、ゆっくりと語ります。
「わたしとあの子が出会ったのは、ここに来てすぐの頃だそうです。詳しい理由や経緯は知りませんが、気づけば既にそこに居た存在で、わたしの一番の友達でした。……一緒に生活しながら、わたしが大きくなって、学校に通い始めたらあの子も行きたいって言い出したりとか、それを叶えようとしてお父さんがあれこれやったりとか……。でも、そうですね……今のイエイヌちゃんと殆ど何も変わってませんよ?」
フレンズさん達の性格や個性が『引き継がれる』傾向が多いことには、とてつもない謎が潜んでいそうな気もするのですけれど、今のわたし……いえ、わたしと言う個人ではその謎なんてわかる筈が無いでしょうし……案外、謎なんて無いのかもしれませんが……。
「それで、わたしと一緒にセルリアンに巻き込まれて、あの子は居なくなりました。それは、わたしが確認したワケじゃないですけど……多分そうです。だから、昔のイエイヌちゃんと今のイエイヌちゃんは違うんです。記憶が違うのもそうですけど……今のわたしに取っての一番の友だちは、今のあなたです」
イエイヌちゃんは身体を起き上がらせて、わたしの隣に座り直します。そして、わたしの右手を握ってから、わたしの右肩に頭をこつりと載せました。
「ともえちゃん。思い出した、ことがあるんです……。セントラルから帰ってきた後に、思い出して……ともえちゃんに伝えようって思ってたんです」
泉でお話しようと思っていたけれど、わたしの隠し事があった所為で打ち明けるのが遅れたのだそうです。
「……なんですか?」
イエイヌちゃんが『思い出した』というのは、何とも不思議ですけれど、今話すということはなにか大きな意味があるということでしょう。
「フレンズになる前のことなんです。ずっと昔、お母さんが言ったんです。私のお母さんのお母さんのずっと前から教えられてきたこと……。ここでヒトを待てって」
思わずわたしはイエイヌちゃんの顔を見ます。けれど、肩に載せられた彼女の表情を伺うことは出来ません。
「ずっと昔にヒトに言われたって、そう教えてくれたと思います」
「それは……多分……お父さん……なんですかね……」
イエイヌちゃんは頷きました。
「たぶん、そうです」
「……ごめんなさい、イエイヌちゃん」
わたしは呪いだと思っていました。イエイヌちゃんがここで一生を賭して、来るはずの無い誰かを待つ。そんな呪い。希望の一切ない、呪い。だから謝罪の言葉をお父さんに代わって伝えました。
けれど、イエイヌちゃんは首を振って否定します。
「なんで謝るんですか? だって……だって、私とともえちゃんが会えたんですもの。私のお母さんも、そのお母さんも、今までの全部、それで良いって言うと思います」
イエイヌちゃんは、わたしの肩から頭を離して、笑顔でわたしの顔に向き合います。
眼の周りを赤く腫らしながら。
「それは、っ……結果論です。ここに縛られるなんて、そんな事……」
彼女は首を振ります。
「違います。私がここに居たかったんです。ここで、誰かに……いえ、ともえちゃんに、会いたかったんです……! ともえちゃんだって知ったのは、つい最近ですけど……でも、でも……!」
彼女はほろほろと涙を流し始めました。笑顔に涙なんて、ズルいですよ。
「ずっと逢いたかったです!」
あぁ、この子には、かなわない。そう思いました。
わたしは何も言わず、彼女を抱きしめました。強く、強く抱きしめます。きゅうと声が出ちゃいそうなくらい、イエイヌちゃんもわたしを強く抱きしめました。暖かで、柔らかで、想いの籠もった抱擁に、今日起こった何もかもが、溶けて消えたようでした。
お互いにしばらくそうしていましたが、不意にお互いに身体を離します。
「ともえちゃん」
イエイヌちゃんは覚悟を決めたようにわたしの顔をじっと見つめて尋ねます。
「計画……? お話してもらってもいいですか……? ゴリラさんから聞いてはいますけど、ともえちゃんの口から聞きたいです」
わたしはゆっくりと頷いて、ドードーさんにお話したことを全て伝えます。ついさっき、彼女に話したことが、わたしの想定しうる全てでしたから……。
イエイヌちゃんはわたしの説明を聞いてから、口を開きました。
「……行ってほしくないです」
「皆そう言うんですね……。ゴリラさんも、ドードーさんも同じこと言いましたよ」
「でも、行くんですよね?」
「はい。わたしにしか、出来ないことですから」
わたしの言葉にイエイヌちゃんはひとつため息をつきます。
「わかりました。もう、止めません……私や、皆の為になんて言われたら、何も言い返せないですもん」
わたしは困ってしまい、乾いた笑いを漏らします。
「いつ頃……行くんですか? あと、場所は……?」
「真っ赤な太陽が見えたら、その時に……。場所は、わたしが眠っていた研究所です。別の部屋にあるそうですから、そこに」
「そうですか……」
イエイヌちゃんは俯いてから、顔を上げて、尋ねます。
「ともえちゃん、ワガママ、言ってもいいですか……?」
「……ええ、なんでも」
わたしの言葉に答えようとして、言葉を引っ込めて、もう一度口を開こうとして、またまた彼女は口を閉ざします。
「どうしたんですか……まったく……」
「いえ、その……恥ずかしくって……」
もじもじとした様子のイエイヌちゃんに、わたしは発破をかけるように、言いました。
「なんて言おうとしてるのか、大体わかってますよ?」
わたしの言葉に、イエイヌちゃんはぷっくりと頬を膨らませます。
「むぅっ……じゃあ当ててくださいよぉ……」
わたしはイエイヌちゃんをもう一度抱き直して、そっとささやきます。
「ずっと一緒に居ましょう? わたしが彼処に行くまで、ずっと。わたしが彼処から帰ってきてから、ずっと。ずっと……」
イエイヌちゃんはきゅっとわたしの身体を抱きしめて、そのまま何も言いません。
「もし、また記憶をなくしたりしても、ずっと……そんなわがまま、許してくれますか?」
イエイヌちゃんは震える声で、ささやき返しました。
「せーかい、です……」
彼女の表情なんか、わかりません。けれど、想像がつきました。真っ赤ですよ、彼女。だってわたしがそうなんですもの。
「……ほら、わかってたじゃないですか」
「……ズルいですよぉ」
ふたりして小さくくすくす笑いが始まって、微笑みあって……。その日は、ゆっくりとお話をしました。わたしが覚えている昔の事や、わたしの知らないパークの事。明日の予定、明後日の予定、帰ってきてからしたいこと、帰ってくるまでにしたいこと……色々。
そうして眠りにつく頃に、わたしは我が身の幸福を痛感しました。愛する存在が居ること、待っていてくれる存在が居ること、隣に眠ることを受け入れる存在のあること、そのために出来ることがあること。それらがどれほど幸福であることか、わたしは身体を震わせるほどの喜びを抱きました。
微睡みの中、伸ばした手に暖かな手が触れます。もう、イエイヌちゃんは眠っているでしょう。けれど、彼女はわたしの手にそっと指を絡ませて、満足げな鼻息を漏らします。そして、彼女は身体をわたしの方に寄せました。わたしの頬に、彼女の額がくっつきます。柔らかで、なめらかで、温かい……そんな彼女の肌が、手が、わたしの気持ちを落ち着け、深い眠りへと誘いました。
それからの三日間、わたし達は一緒に過ごしました。
一日目は、イエイヌちゃんと一緒に彼女が見つけた泉へ行き、絵を描きました。この日は幸い、夏の様なからりとした日和でした。お互いに、いわば『リベンジ』の様な心持ちで居たのは間違いありません。
この時、イエイヌちゃんも絵を描いてみたいとのことで、一緒に風景をスケッチしました。わたしはスケッチブックを膝に置いて、イエイヌちゃんにはスケッチブックの一ページと黒の鉛筆を渡しました。描き終えると、わたし達はお互いの絵を見比べてみたり、はたまた、わたしが彼女に描き方を教えてみたり……そんなのんびりとした時間を過ごしました。
二日目は、お家でふたり、ゆっくりと過ごしました。この日も透き通る様な青色を湛えた空が眼に眩しい日でした。
午前中はクッキー作りの為のコンロを設置する場所を一緒に考えました。周囲の木の葉や草むら、石……そんな物を少しだけ動かしたり片付けたりしながら過ごします。ゆっくりと作業を進めていると、いつの間にかお昼を少し過ぎたくらいの時間になっていて、イエイヌちゃんがハーブティーを用意してくれていました。彼女が言うにはわたしの『真似』をしたけれど味はまだまだ、だそうです。それでもイエイヌちゃんが用意してくれたというだけで、わたしは嬉しくて、これまでで一番美味しい、そう伝えました。彼女はまんざらでもなさそうな表情を浮かべましたが、「しょーじんあるのみ、です」との事……。
その後は、部屋に戻って絵本を読み聞かせしたり、イエイヌちゃんに文字のテストをしてみたりという具合です。
そして、三日目。窓から覗く空は、曇り空でした。気温も低く、少しだけ風の吹く音が部屋からでも聞こえる、そんな日でした。イエイヌちゃんが言うには、雨は降らなさそうとのことで、午後からのお散歩の予定は変更せず、昼過ぎに家を出発することになりました。ですけれど、身体を冷やすのは良くないという事となり、早めに帰る予定です。
曇り空で、寒さに震えながら……という点さえ除けば、以前と変わりない道のり。ですが、初めて丘の上へ向かった時と違って、今のわたしとイエイヌちゃんの関係は、少し変わっている様に思えました。言ってしまえば、あの時から変わらずわたしと彼女は友人で、大切な相手であったのは変わりないはずです。けれど、どこか、変わっていると思いました。記憶を取り戻したからなのか、それとも、先日のわだかまりが解消されたからか……それははっきりとはわかりません。
もしかしたら、わたしの中に燻り続けている『計画』の実行の日が近づいていることを感じているからかもしれませんが……結局の所、そう思った理由はわかりません。
丘の上に到着してからも、周囲を散策してみたり、腰を下ろして広場の景色を見てみたり、そんなふうに思い思いの時間を過ごしていました。そして、夕方くらいになった頃、唐突に空の色が変わりました。
わたしもイエイヌちゃんも、同じように空をじっと見つめていました。
別離の現実が近づいた証拠。真っ赤に染まる雲と、空。曇り空で無ければ、きっと太陽が真っ赤に燃えていたことでしょう。
「……」
漠然と抱いていた不安感が、焦燥に変わって心臓に早鐘を打ちます。
「……ともえちゃん」
震えそうな声をかすれさせながらイエイヌちゃんがわたしの名前を呟きます。
「イエイヌちゃん。明日、あそこに行きます……それまでは、一緒に」
せめて、彼女に不安を抱かせないようにと、微笑んで伝えます。彼女は地面を見つめながら、頷きました。
十分間ほどで、空の変化は収まり、元の濃灰色に戻ります。けれど、胸のざわめきがどうしても収まらないわたし達は神秘と見紛うほどの現実を見届けてから、お家に帰ることにしました。
お家への道中も、お家へ着いてからも、言葉を交わすことはありませんでした。イエイヌちゃんはわたしの事を気遣ってか、それとも寂しさを紛らわせようとしてか、わたしの近くにずっと居てくれました。わたしがベッドに腰掛けて画集を眺めている時などは、そっとわたしの隣に座って一緒に画集を見ながら過ごしてくれたり……。
その優しさが、却って明日の朝を、そしてその日から始まるであろう彼女の孤独を考えさせてしまいます。けれど、わたしも彼女と少しでも長く居たいのは確か。わたしは上の空になりながらも、彼女の身体に触れながら、彼女の香りを確かめながら、画集のページを捲っていました。
日が暮れて、夜。
わたしはひとりでお風呂に入っていました。これは、単に身体を清めたいという思いもありましたけれど、カプセルから出てきた時に身体が汚いと嫌だな、なんていう他愛ない思いからです。イエイヌちゃんは一緒に入ると言ってくれましたが、わたしは断りました。
「少しだけ、ひとりにさせてください」
イエイヌちゃんは少しだけ迷った様子を見せましたが、頷きます。
「わかりました! こっちでお待ちしてますね!」
……気丈に、振る舞ってくれていることは、すぐにわかりました。
湯船に浸かりながら、何かを考えようとしていたのですけれど、どうしても考えが纏まりません。考えるべきことも、考えたくないことも、全部、お湯に溶かしてしまったような、そんな気持ちです。
頬をぺちりと叩いて、気を入れ直します。
「やることを、やるだけ……」
浴室に投げかけた独り言は、うわんうわんと唸る様に反響し、消えていきます。
言ってしまえば、何のことはありません。とても単純で、とても簡単なのです。カプセルの中で、眠るだけ……。
けれど、いつそこから出られるのかわかりません。次にエネルギーが不足した時まで目覚めないことだってありえます。そうなれば、短くても数年という単位でわたしとイエイヌちゃんは離れ離れです。わたしは眠って、目覚めるだけの一瞬の出来事でしょうけれど……イエイヌちゃんからしてみれば、一瞬なんかではありません。文字通りの数年を過ごすのです。その苦しみを彼女に味あわせたくなんてありません。
はたまた、目覚めてから記憶をなくしてしまっていた場合……わたしは楽かもしれません。また記憶を取り戻そうと頑張るだけです。それに、記憶を取り戻すことを諦めることだって選択するかもしれません。けれど、イエイヌちゃんは、わたしの過去を全部知っていて、それを押し込めながらわたしと初めて会い直すことを選ぶでしょう。
……彼女は聡明ですから……記憶をなくして混乱したわたしの事を案じて、わたしとの思い出をすぐには語らないでしょう。だからこそ、彼女はひどく辛い思いをしなくてはならない……そんな予感がしました。
「一番辛いのは……イエイヌちゃん、なんですよね……」
色々考えてみても、何も変わりませんし、何も出来ません。わたしは長く息を吐いて、お風呂を出ました。
お風呂から出ると、イエイヌちゃんが外を眺めていました。
わたしはタオルで髪の毛の水気を拭き取りながら、尋ねます。
「……外、どうかしました?」
彼女はわたしの方を向いて、言いました。
「雪……? 降ってます。綺麗ですね、雪って」
高揚と諦観の混じった不思議な声色でした。
その声に導かれるように、わたしも窓の外を眺めます。窓から滲み出るような冷気の向こう側に、うっすらと積もり始めた雪達が見えました。
「……寒いですもんねぇ……夏だと思ってたんですけど、まぁ、ここまで……」
天気の異常を嘆く言葉に同調したのでしょうか、彼女は外をじっと見つめたまま、こくりと頷きました。
「イエイヌちゃんは……初めてでしたっけ、雪」
「はい……冷たいんですよね?」
わたしは少しだけ窓を開いて彼女に手を伸ばすよう促します。そして、彼女はひとひらの雪を手のひらで受け止めます。けれど、手袋越しとは言え、彼女の体温の為にすぐに雪華は液体へと変わってしまいます。
「あっ……溶けちゃいました……」
「冷たくて黒い布とかあれば、結晶が見られるんですけどね……」
イエイヌちゃんはふむふむと呟いて、外に積もった雪を熱心に見つめています。
「何かありました?」
「い、いえ……頑張れば見えるかなぁと思って……えへへ」
なるほど……? 説得力があるような、無いような……?
「難しいんじゃないですかねぇ……どうなんでしょう?」
彼女は首を振ります。諦めたように、窓を閉めました。
「無理そうです……」
わたしは小さく笑って相槌を打ちます。
「今度はちゃんと用意をしてから、見ましょう? ……積もったら、きっと綺麗ですよね、草原……」
きっと綺麗。そう思うと同時に、この寒さや雪によってつらい思いをしている方がいるのかもしれないことに気づきます。
「……でしょうねぇ」
イエイヌちゃんはそれを知ってか知らずか、小さな声で同意しました。
「……わたしは髪を乾かしたら、寝ますね。イエイヌちゃんはどうします?」
「私も寝ます。先にベッドに入って待ってますね」
わたしは了承の意を伝えてから、洗面所に戻りました。
髪を乾かし終えたわたしは、部屋の電気を消して、ベッドに入ります。
「……ともえちゃん、くっついて良いですか?」
彼女は天井を見つめながら、そう言いました。
「良いですよ、ちょっと頭あげてください」
イエイヌちゃんは「ん?」と戸惑う声を漏らしましたが、わたしの言う通りに頭を少し上げてくれました。そうして出来た隙間にわたしは腕を通します。
「はい、じゃあ、こっちに」
そう言ってわたしはイエイヌちゃんをぐっと抱き寄せます。腕枕と言うには少し違います。というのも、彼女の頭は枕の上ですし、わたしの腕は彼女の首の辺りを通っているのですから。
「ち、近いですね……」
照れくさそうに彼女は言いました。それに、少しだけ身体を強張らせているようでした。
「んーでも……」
なんと言えば彼女は承服するでしょう?
「そうですねぇ……寒いので……。良いですか?」
「は、はい……」
彼女はそう言って身体の力を抜きます。
すると、わたしの脇腹に彼女のお腹が当たるようになりましたし、頬を彼女の鼻と唇がくすぐります。ずっとそうするべきだったと言わんばかりに、彼女はわたしの腕の中にすっぽりと収まりました。そして、お腹の底の方から込み上げてくるような愛おしさを感じました。そんな思いを堪能しながら、わたし達はお互いに言葉を交わすこと無く、そうしていました。
イエイヌちゃんの呼吸に合わせて、お腹が動いて、わたしの肋の辺りに押し付けられた胸からはとくんという鼓動が繰り返し伝わります。わたしの足が、暖かな彼女の足に当たります。あまりの冷たさに彼女は一瞬だけぴくりと足を逃しましたが、すぐにわたしの足にぴったりと足をくっつけてくれました。
彼女の匂いと熱と、柔らかさ、呼気の湿り気、呼吸の音、お腹や胸のささやかな動き……そのどれもが愛おしく、離れがたい誘惑にさえ感じます。けれど、けれど……。
目を閉じてしまえばすぐにでも眠りに落ちてしまいそうな夜。少しでも長く起きていたいと思うのは、わがままなのでしょうか? ですが、そんな思いも無視して、睡魔はわたしの意識を奪い去っていきました。
次で終わりです