一応、念の為。
この作品はフィクションです。
夏の終わり頃のある晩。
狂乱が、ともえとイエイヌの家に訪れていた。
「お、おい……ともえも、イエイヌも……大丈夫か……?」
アムールトラの眼前には、奇妙な光景が広がっている。
「わ、わた、わたあぁぁあ――うぅう……ふえぇ、ひっく、ぐす……いえいぬぢゃあぁ……」
嗚咽を漏らして泣き叫ぶともえ。彼女はイエイヌの胸に顔をうずめて只管に顔をぐしぐしとこすり付けていた。
「うふふ、んふー、んふふぅー。かわいい、かわいいですぅ……ないててもともえちゃんすきぃー。わふぅー」
上機嫌でにたにた笑って――時折けらけらと笑い声を漏らして――いるイエイヌ。彼女はと言えば、心底嬉しそうにともえの頭を撫で回し、時折、頭皮の匂いを嗅いでは小さく吐息を漏らしている。
「いや、あの、あの、あのさ、だ、大丈夫か……? ホント……」
それを柄にもなくとりなそうとしているアムールトラ。ともえを止めれば良いのか、それともイエイヌにもっと真面目にするように言えば良いのか……悩んでいると腕をくいと引かれる。
「あーたしー! わーすーれーてーるーうーぅ!」
丸っこい声が耳に打ち込まれる。少し調子が外れているだけに、なおさらかしましい。アムールトラはドードーの朱に染まった頬と楽しげな垂れ目を見て俄に絶望にも似た表情を浮かべて隣を見る。
「ドードー……お前もか……」
知らず、偉人の言葉を借りていた彼女は眉間にシワを寄せて瞳を閉じた。
「あむぅるとらちゃん!」
ドードーは立ち上がり、アムールトラを見据える。腰に手を当てて、じっくりとお説教でもしようかという具合に威圧感を漂わせている。……彼女の身体は小さく、それでも背筋を伸ばしたアムールトラよりも少し背が高い程度で、威圧感というよりも背伸び感を感じるが。
「あのねぇ」
語尾で何故か音が上がる。それも必要以上に。調子が完全に狂っていた。
「おはなしがぁ、ありますぅー」
呂律の回らない言葉は、可愛らしくも面倒そうな雰囲気を纏っている。
「お、おう……」
「おはなしぃ、するのにそっぽむいてちゃぁー、めっ!」
アムールトラは抗う気力も無い。素直にドードーの言葉に応じ、身体を向き直す。
「……話って?」
一応、ドードーの言葉を促すが――
「お、おい、座ったほうが良いんじゃないか?」
ドードーは頭を小さく左右に揺らして、心地よさげに微笑んでいた。
「うん」
先程までの意固地な雰囲気が一瞬でかき消えるほどの素直さに、アムールトラは「えぇ……」と内心呟いてしまう。
そのまま沈黙が数秒続く。
アムールトラは周囲をきょろきょろと警戒しつつも話があると言ったドードーを見つめていた。そのドードーは目を閉じてともえとイエイヌのやり取りに耳を傾けている。ゆらゆらと揺れる頭は、喧騒に揺蕩う船のようだった。
「いや、ドードー」
しびれを切らしたアムールトラがドードーの肩をそっと掴む。その暖かさは常とは違うものだったが、それ以上の違和感が立ち込める部屋の中ではそれに気付くことさえ難しい。
「話って、何なんだ……?」
ドードーは身体をぴくりと動かす。
「そだったぁ。あのねぇ……んー……」
ドードーは唇をつんと上向きに尖らせて、考え込む。
が――
「やっぱいいやぁ」
「えぇ……」
今度は本当に口から出た。
「それよりもねぇ……そぉだぁ! ひざまくらぁ!」
大発見をしたかのように瞳を輝かせながら身体を前のめりにするドードーを断ることは、アムールトラには出来なかった。
「……か、構わんが」
アムールトラの耳にイエイヌの「それですぅ! ふっう!」というテンションの高すぎる声が聞こえた。が、アムールトラはその言葉を聞こえなかったことにして、ドードーの顔を見る。
「ど、どうぞ?」
アムールトラはそう言ってスカートの裾を整える。彼女の太ももにこてんとドードーは頭を乗せられた。
「これで良いのか?」
ドードーは上機嫌に「んー」と音を発し、彼女の脚を撫でる。
「すべすべぇー」
反応に困るアムールトラの耳にともえとイエイヌのやり取りが聞こえた。
「ねーませぇんー! ぐすっ、ひっく……うぅ……」
「わふぅ」
否定とも肯定とも、相槌とも取れないイエイヌの発言にアムールトラは思わず首を傾げる。
「それよりもですよぉ! わたしの身体……どうして……せーちょー、おそ……ふぇええぇ――」
ともえがまた泣き出したが、アムールトラは瞳を閉じて、眉間にシワを寄せるばかりだった。
「だいじょーぶですよぉ、私はともえちゃんのこと大好きですからー」
それは励ましなのか? とはアムールトラは言えなかった。完全にふたりの世界になっていた。
「あ!」
ドードーが急に声を上げる。
「どうした?」
アムールトラの言葉を無視して、急にドードーは身体を起こした。アムールトラは驚きこそしたが、どちらかと言えば疑問の気持ちが大きく、黙ってドードーの言葉を待つ。
「これじゃあ、のめないねぇー」
そう言ってドードーはグラスに注がれた琥珀色の液体をこくりと飲んだ。
ぽふぅと満足そうに甘く香る吐息を漏らすドードー。その隣に座るアムールトラは肩を落として、ため息を漏らす。
「……俺は……どうすれば……」
小さく呟いた彼女の声は、ともえの泣き声とイエイヌの笑い声に消されて行く。そんな中をマイペースにのらりくらりとドードーが揺蕩う。そんな夜。
事の始まりは、一ヶ月ほど前に遡る。
――――――
――――
――
梅雨の終わり頃のことです。その日はじめじめとはしていましたが、碧空の色濃さや時折吹く風が心地よいですし、空に翳りもありません。蒼天と言うにふさわしい、夏の入り口。
そんな日に、ドードーさんがわたし達のお家に訪ねてきました。
「ともえちゃん、こんにちわぁー」
「こんにちは、ドードーさん。どうしたんですか?」
今日は特別暑く、わざわざ出歩くフレンズさんも少ないでしょうに、何か用事でもあるのでしょうか?
「えへへぇ、これ、プレゼント!」
ドードーさんは上着のポケットをがさごそと弄り、ひとつの包みを取り出します。彼女の手に収まるほどの小ささで、濃い紫色をしています。
「そんなわざわざ……ありがとうございます。お返しとか……えぇっと……」
考え込み始めたわたしを静止する様に、ドードーさんが言います。
「ううん。この前のクッキーのおかえしだから、気にしないでぇ」
「そうですか……でしたら、ありがたく頂戴しますね」
ドードーさんは微笑んで「うん!」と頷きます。
「っと、中に入りましょうか。外だと暑いですし、わたしは、手を洗いませんと」
畑仕事を終えたばかりのわたしの手を彼女にひらひらと見せます。
すると、ドードーさんはどこか感心したように頷きます。
「クッキーのそざい、だっけぇ? 出来ると良いねぇ……」
「えぇ、皆さんに迷惑かけないで、でも好きなことしたいって思ったら、頑張るしかありませんもの」
ドードーさんはくすりと微笑みました。
「ともえちゃんなら、大丈夫だと思うよぉ。頑張ってるしねぇ」
「ありがとうございます……さて、と。おまたせしました」
わたしは足元に積まれた草の山を端の方へと寄せて、お家へと入りました。
「おじゃましまぁす」
ドードーさんの声に、イエイヌちゃんが驚いたような声を出します。
「ドードーさんじゃないですか! ようこそです!」
彼女は絵本を読む手を止めて、とてとてとドアのところへ。
「この前のお返しにプレゼント持ってきてくれたんですって」
わたしの言葉に、イエイヌちゃんは「ほほぉ」とひと言。
「よかったですね! ともえちゃん!」
わたしはイエイヌちゃんに頷きます。
「お返し目的じゃなかったんですけどね……でも、やっぱりそういうのって嬉しいですから、本当にありがとうございます、ドードーさん」
ドードーさんは手をぱたぱたさせました。
「ううん、大したものじゃないからぁ、えへへ、そう言ってもらえると嬉しいよぉー」
彼女の手に動きにあわせてひらひら動く包みを凝視して、イエイヌちゃんが尋ねます。
「……それって、何なんですか……? 見たこと無い文字が書いてありますけど……」
ドードーさんは手を止めて、わたしに包みを渡します。
「んーとねぇ、ゴリラちゃんが言うには、こーぼってことらしいけど……わたしにはわからないんだぁ……」
受け取った包みは中にほんの数グラムほどの粉が入っているようです。表面を見てみると、アルファベットで色々と書いてありますが、その意味をわたしでは読み取れません。ひっくり返して裏面には日本語の書かれた箇所が……。
「えぇっと……ワイン酵母……?」
うーん……?
「わかるぅ?」
イエイヌちゃんもきょとんとした表情ですし、わたしもなんだかよくわからないですし……。
「えーっと……うーん……あ!」
足りない知識を総動員して必死に考える内に、ひとつの答えが浮かびます。
「パン! パンですよ!」
……イエイヌちゃんもドードーさんも揃って首をかしげます。このふたりにそういうことされると可愛くってたまりませんけど、そういう話では無く……。
「酵母は……発酵っていう加工があるんです、それをする為に必要なもの……だったはず……」
わたしもなんだか正しいことを言えているかわかりませんけど……
「はっこー? 光るのぉ……?」
ドードーさんの言葉にイエイヌちゃんがぎょっとした顔を浮かべますが、わたしは首を振って否定します。
「えぇっと……わたしも詳しくないんですけど、目に見えないちっちゃな菌が……この場合は酵母ですね……食べ物や素材を変化させてくれるんです。例えば、えぇっと、ドードーさんならわかりますかね……? 納豆とか。あぁいう感じに……」
ドードーさんは眉間にシワを寄せて、しっぶーい顔を浮かべました。
「あ、あそこまで臭いは強くないと思います。ワインですから、ぶどうっぽい匂いでしょうし、それを使ったパンとなれば……そういう香りなのかなーって思いますが……」
ぶどうという言葉にドードーさんの表情は一変します。
「ほんとぉ! んふふー、あんまり食べたこと無いけど、好きだよぉーぶどう!」
イエイヌちゃんが面白そうに瞳を輝かせて、ドードーさんの顔を見つめます。
「ぶどー……どういうのなんですか……?」
ドードーさんが簡潔にぶどうの味や形、匂いを説明すると、みるみる内に彼女は顔をほころばせていきます。
「わふぅ……そんなものが……」
わたしは呆れ混じりに乾いた笑い声を漏らしてしまいます。
「あはは……これはぶどうとは違うので、結構違う味とか匂いになりそうですけど……」
「でもでもぉ!」
ドードーさんがきらきらした瞳をわたしに向けます。
「普段と違うものとか作れたり、食べられるってことだよねっ!?」
ほわほわと期待に胸膨らませた言葉でした。
「うーん……」
わたしは腕を組んで考えます。プレッシャーもありますが、それよりも出来るかどうか、です。
「断言は出来ませんけど……でも色々方法はありそうですから、調べてみますね……。あ、ドードーさんもイエイヌちゃんも、もしも完成したら一緒に食べましょう? 他の方には……多分、秘密の方が良さそうですけど……」
今回、作るかもしれないモノは量が少ない酵母を用いるものです。でしたら、酵母を持ってきてくれたドードーさんと、作るわたし、そしてイエイヌちゃんだけの秘密にした方が良さそうです。もしも量が確保出来るなら、隠したりなんてしたくはありませんが……。
「そっかぁ……」
ドードーさんが少しだけ悲しげに言葉を漏らします。
「……ドードーさん、どなたかお呼びしたいんですか……?」
イエイヌちゃんの言葉に、ドードーさんは申し訳無さそうに「えへへ……」と声を出します。
「あのねぇ、アムールトラちゃんを呼びたかったんだぁ。最初からともえちゃんをあてにしてるようでごめんねぇ……。でも、こういう機会ってあんまりないから、アムールトラちゃんとお話出来たらなぁって思ってたのぉ……」
「アムールトラさんですか……」
そう言えば、セントラルでの一件の恩返しを出来ていないような……。感謝の言葉は以前お伝えしましたけれども……。
「でしたら、アムールトラさんもお呼びしましょう。わたしも、ご一緒したいですから。……でも、それ以上は……足りなくなっちゃうかもです……」
ドードーさんはこくりと頷いて、けれど少しだけ寂しそうな顔を浮かべていました。きっと大勢の方と一緒に楽しみたかったのでしょう。
「なんだかごめんなさい……頂いたものなのに、勝手に決めちゃって……」
わたしがそう言うと、ドードーさんは「ううん」と否定しました。
「仕方ないよぉ。これしか見つからなかったんだし、喧嘩になっちゃう方がもっと嫌だものぉ」
改めて、わたしは彼女に謝罪の言葉を伝えました。と、ひとつだけ気になったことがあります。
「そういえば、ドードーさん、これはどこで見つけたんですか……?」
「あ! 確かに……。もしももっと見つかるようでしたら、他の方も呼べますし……」
イエイヌちゃんもぱちりと手を叩いて言いました。
「ゴリラちゃんのお家、だよぉ。いつもお茶を飲むお部屋の隣のお部屋ぁ。でもあの時はこれだけしか見つからなかったのぉ……」
ふむ……。
「でしたら、明日か明後日か……晴れたときに図書館に行って調べてみますね」
と、そんな感じで昼下がりの時間は過ぎていきます。この後はお茶を飲みながら、ゆっくりとイエイヌちゃん、ドードーさんと過ごしました。
さて、次の日。
その日も幸いにして晴れた日和でした。風が少しだけ吹いていて、青空に浮かぶ大きな雲がのんびりと漂うような日。お散歩も兼ねてイエイヌちゃんと一緒に図書館へと出かけました。
「わっふぅ……ぱん、でしたっけ……それっぽい本はいっぱいありますけど……」
イエイヌちゃんは書架に並んだレシピ本を、じいっと見つめています。
「……これは……多すぎてわからないですよねぇ……」
高さ二メートル幅四メートルほどの大きな本棚。その一列分を占めるのは『手作りパン』の本ばかり……。こんなに同じ料理のレシピがあるというだけで驚きです。
「んー……これなんかはドライフルーツなんか使ってるんですねぇ……」
適当に手にして開いた本の一ページを指差します。
イエイヌちゃんは興味深げに本を覗き込みました。
「ふむふむ……ともえちゃん、これ……材料、大変じゃないですか……?」
「そうなんですよぉ……できればラッキービーストさん達の負担にはなりたくないですし……」
その後もわたし達はああでもないこうでもないと悩みながら本をぺらぺら捲り……ひとつの答えに至ります。
「――つまり、作れるのはぷれーんのぱんだけ……でしたっけ?」
イエイヌちゃんは腕を組んで呟きます。
「そうですねぇ……そうなります。美味しいとは思いますけど……ジャパリまんの皮のところだけみたいな感じになっちゃうかもです……」
手作りパンであるならば、そんなに味気ないものとはならないかもしれません。けれども、ジャムや中に混ぜ込む食材ですとか、味付けの材料の調達は難しいというのが結論でした。であるならば、物足りなさを覚えてしまったり、そもそも量を作れそうになかったりと、パンを作るにはちょっと難しそうです。
「なので……他に何か作れるか調べたほうが良さそうです。もしかしたらクッキーみたいなお菓子とかも作れるかもですし……」
導き出した結論に落ち込み気味なイエイヌちゃんでしたが、わたしの言葉に少しだけ晴れたような表情を浮かべます。
「でしたら、頑張って調べませんとね!」
「ですね……! イエイヌちゃんもお手伝いお願いします!」
イエイヌちゃんは「はい!」と元気よく頷いて、視線を本棚へと向けました。わたしも頑張りませんと……!
それから一時間ほどしても、なかなか良い結果にはめぐりあいません。
「んー……なかなか捗りませんね……」
わたしのぼやきにイエイヌちゃんも「うーん」と唸り声をあげます。
「ですねぇ……小麦粉を使うのはわかりましたけど……それは今は難しいんですよね? ともえちゃん」
わたしは頷きます。彼女の言うとおりです。
可能な限り、ラッキービーストさんにお願いして小麦粉をいただくという手段は取りたくありません。パークの裏側……というか見えない場所で動いている機能を使うことはなんだかズルいことをしている気持ちになりますし、何よりもわたしのわがままで彼らの負担を増やしたりもしたくありません。
「うーん……お家にはもう小麦粉は殆ど残ってませんし……畑が上手いこと実るまでは……難しいかもですね……」
どちらとも無くため息がこぼれました。
「わたしはもうちょっと調べます。イエイヌちゃんはこれが他にあるか探してきてもらってもいいですか?」
わたしはイエイヌちゃんに酵母の袋を見せて、お願いします。
「ぶんたんですね! わかりました!」
イエイヌちゃんはそう言って、図書館を出ます。酵母がもうちょっと見つかると嬉しいのですけれども、それ以外でも何か使えそうなものがあれば、ゴリラさんと相談したいところです。
そんなことを考えながら、ぼんやりと足だけ動かしていると、レシピの棚とは全然違う難しい棚の前へとわたしは来ていました。
「……ここは……えぇっと……?」
生物系の本が集まったコーナーのようです。動物や昆虫の図鑑や、動物の歴史や身体の仕組みを漫画で図解してくれる子供向けの書籍……不思議な生き物辞典なんていう本もありました。
「ははぁ……なるほど……」
ある程度、子供向けを志向しているのか、わかりやすさを中心に様々な本が並んでいます。
「ここは……違いそうですね……戻りましょ……」
わたしは踵を返し、先程まで居たレシピ本の辺りへと戻ります……と、一冊の本が目に入りました。
「『酵母の働き』……?」
生物というには小さすぎる気もしますが、酵母だって要するに『菌』ですから、生き物……。
「ちょっとだけ……見てみますか……」
その本は文字が多く、読むのに少しばかり時間がかかりましたが気になる点が一点。見つかります。
「お酒……?」
ちょっとだけ、イケナイコトの匂いがしてきました。
けれど、好奇心がふつふつと……。ポケットにしまっていた包みを取り出して、眺めると、なんだか奇妙な考えが浮かびました。……もしかして『作れる』?
「ふむ、ほほぅ……」
読めば読むほど面白い働きをしてくれるんですね……酵母さん……。
「もしかしたら、お酒づくりの本も……?」
試しに探してみて……それから決めましょう。ちょーっと、悪いことしてる気分になりますけど……。
そんな思いを抱きながら、レシピの立ち並ぶ本棚を見つめます。わたしは本棚の最下段にお酒についての本が並ぶ箇所があったことに気付きました。
「こんな所あったんですねぇ……」
カクテル、日本酒、ワイン、ウィスキー……後はおつまみに関係したものが幾つか……。
「うーん……なんとも……そもそもお酒って作ったらダメだったと思いますし……」
そりゃあ無いですよね……と思った矢先、目当ての本が見つかりました。
「これ……? 自家酒造って書いてありますけど、ようするに……そういう事……?」
犯罪では……? そう思いつつページを捲って行きます。
「へぇ……ジュースとか果汁で作れるんですね……パークだと難しい……? でも、果実はありますし……」
リンゴを使ったシードル。ぶどうを使ったワイン(もどき? よくわかりませんが……)。洋梨を使ったペリー。バナナを使ったお酒や蜂蜜から作るお酒。はたまた、梅を漬け込むモノやコーヒー豆を漬け込んだモノまで、様々な記事が写真とともに掲載されています。
「色々、あるんですねぇ……」
それぞれのページには作り方を非常にざっくりと纏めた情報も書いてあったりなどします。もし材料があるならわたしでも作れそうなくらいです。……情報の末尾には、違法です、と書かれてましたが。
「……イエイヌちゃんにも聞いてみましょう。お父さんに怒られちゃいそうですけど、でもちょっと興味が……」
悪い子です、わたし……。お父さん、ごめんなさい……。
けれど、考えてみればわたしの年齢って幾つなんでしょう? 生きた年数だけなら二十年は経過しちゃったりしてるんですかね……? ま、身体はすっとんぺったんですけどぉ……。
見つけた本を鞄にしまって、上階へ。
以前と変わらず照明が少なく薄暗い建物ですけれども、不思議と以前ほどの不気味さは覚えません。きっと、過去にわたしがここにお世話になっていたということを思い出せた事に加えて、度々ここに来ているということが、気持ちを整理してくれたのかもしれません。かつてと大きく変わったパークの姿に虚無感を抱くことも、かつて見知った方々が居なくなっている事への寂しさも、殆ど感じなくなりました。慣れた、のかもしれません。受け容れた、のかもしれません。
一番の理由は、きっと、わたしは今も昔もここに居るのだということに気づけたからでしょう。きっと明日も居ます、明後日も、明々後日も、ずっと……。隣にはあの子が居て、皆が居て……。それで十分。もちろん、『外』への興味だってありますけれど、それを望むことは無いでしょう。物理的に不可能だから、というのは理由の一つ。一番は、わたしがここに居たいと、あの子の隣に居たいと、そう願っているのですから。
普段通される、玄関から入ってすぐの部屋へ向かい廊下を歩いていると、別の部屋からイエイヌちゃんとゴリラさんの声が聞こえてきます。
「あの辺にあったかなー……どうだったかなー……」
「あっちですね!」
がたん、ごとん。
そんな具合でしたので、思わず扉を開いて中を覗きます。
「……な、何を……?」
振り返ってわたしを見つめるおふたり……。部屋の中は乱雑に物が置かれており、ちょうどイエイヌちゃんが取り掛かっていたであろう場所はひっくり返った籠やら布切れやらで溢れています。
「あぁ、ともえか。調べ物は終わったのか?」
「一段落、ってところです……えぇっと、これは……?」
イエイヌちゃんがわたしに駆け寄って来ました。
「ゴリラさんに探しものしたいとお願いして入れてもらったんですが……」
イエイヌちゃんの言葉を引き継ぐように、ゴリラさんは肩を竦めました。
「もともと退去のときの物置だったんだよ、ここ。その時以来手つかずでなぁ……要不要をわけないで、邪魔になりそうな物を押し込んでたんだ」
少しだけ過去を懐かしむような言葉でした。少しだけくすりという笑いを漏らしたのは、悲しい出来事ではあっても、彼女なりに楽しい思い出があったのからかもしれません。
「なるほど……」
「で、探し物ってなんなんだ?」
彼女は不思議そうに尋ねます。
「あ、そうでしたそうでした。……これです」
わたしは包みをゴリラさんに手渡します。しげしげと眺めた後、彼女はわたしに返しました。
「ワイン酵母、ねぇ……多分、これで最後だと思うぞ……島中を探せば酵母自体はあるかもしれんが、これと同じものは無いだろうな……」
わたしもイエイヌちゃんも、肩を落としてしまいました。
「そもそもコレ、この島の物じゃない……と思うぞ? お前の親父が、トーサカが島の外からつーはん? したんだったかな……何故か俺に自慢してたのは覚えてる」
わたしかイエイヌちゃんか、それは定かではありませんが「えぇ……」という呟きが聞こえました。
「……何やってんですか、お父さん」
「トーサカなぁ……アイツ趣味人とか自称してたが、まぁ実際に多趣味だったんだろうな……」
呆れたような声色に、郷愁を思わせるセピア色が混じっています。
「そういう話何も聞いてませんけどねぇ……あ、でも多趣味は多趣味でしたかね……」
思えば、許可は貰ったと言ってテントを持ち出して林の中に泊まったり、絵を教えてくれたり、機械いじりをしていたり……
「あ!」
お父さんとの日々を思って、ふと思い出したことがありました。
「時々、美味しそうに何か飲んでたような……」
視界の端に見えるイエイヌちゃんの表情に好奇心の色がさしました。
お前にはまだ早いよ、と言って飲ませてくれなかったのですけれど、甘い匂いがしたような?
「まぁ、何に使ってるのかは知らんが……使い方がわかるならお前が持つべきものだと思うぞ」
ゴリラさんは腰に手をあてて、言います。
「あはは……そういうものですかね……でしたら、遠慮なくいただかせて貰います……」
「何度も言ってるが、使われないのが一番可哀想だからな。大事にしてやってくれ。……で、他に何か探すものはあるか? この部屋に何かあるかはわからんが……」
「んーっと……」
イエイヌちゃんの顔をちらりと伺うと、不思議な位楽しそうなな表情を浮かべています。
「イエイヌちゃん? どうかしました?」
「探しもの、楽しくって、つい……」
えへへと申し訳無さそうに彼女は頭を掻きます。
「でしたら……もう少しだけ探しましょうか? ゴリラさん、大丈夫ですか?」
ゴリラさんは「構わんよ」と言い、壁に寄りかかります。
「まずは片付けから、ですね……!」
わたしは袖まくりをしながら、ひっくり返ったガラクタ(というと失礼ですけど)の山を見つめるのでした。
物の山を大雑把に別けて行く内に、イエイヌちゃんが面白そうなものを見つけます。
「……! これ、なんですか!?」
イエイヌちゃんがわたし差し出したのはかなり大きなボトルです。未開封のものですし、色も透き通った琥珀色です。
「蜂蜜……だなぁ……」
「蜂蜜……!」
確か、先程の本に……。
わたしの思いを他所に、ゴリラさんはうんうん唸って誰のものかを思い出そうとしているようです。
「も、もしかして、何かに使えます……?」
イエイヌちゃんは宝物を見つけたワクワクを抑えられないのか、しっぽを大きく振っていました。
「ちょうど、図書館で見つけたレシピで使えるかもです……問題は食べて平気なのかですけども……」
どれほどの時間が経過しているのか、結局わたしはわからないままです。ラッキービーストさんに聞いても「シラナイホウガイイヨ」の一点張り。ライセンスを提示しても「ダメ」なんですもの……。わたしに知識と技術があれば星の巡りから判断したりも出来るかもしれませんが……。
「あー……思い出した……」
わたしとイエイヌちゃんは一斉にゴリラさんの顔を見つめます。
「な、何を期待してるんだ、お前たち……」
彼女はこほんと咳払いをしてから、ゆっくりと口を開きます。
「……やっぱり、トーサカだったかなぁ……うん、そんな気がする……。研究室でにたにた笑って、撫で回してたようなような……ともえの持ってる酵母をつーはんって言ったろ? それのしばらく後の話だった筈だが……」
もしかして、お父さん結構悪い事してました……?
「えぇっと……どなたかと勘違いしてたりとか、そもそもここの物ってことは……」
ゴリラさんは悩んだように首をひねりました。
「なんとも言えんなぁ……流石に全部覚えてるワケじゃない。ただ、ここの物ってことは無いと思うぞ。腐らない食い物は大体あっちにあるんだ」
彼女が指差したのは別の部屋の方向でした。恐らく、流し台がある部屋なのでしょう。
「きゅーとーしつ、って言ったかな。だから個人の食い物じゃなければあそこに置かれるんだ。気づいてれば俺も紅茶やコーヒーに使ってるしな。ここにあるってことは誰かの持ち物だ。まぁ、誰にも使われないだろうし、ここ以外でも見つかりそうなシロモノだが……」
わたしはワルイコトと意識してしまい、言葉に詰まります。
「あの、ゴリラさん……。これ、頂いても良いですか……?」
それを察したのか、それとも先程の会話の流れから必要と思ったのか、それは定かではありませんが、イエイヌちゃんがゴリラさんに尋ねました。
「んー……構わんが……それは俺も使えるからなぁ……」
少しだけ渋るような雰囲気を見せるゴリラさん。それもそうでしょう。甘味となれば少なからず欲望の対象になるものです。
「その……畑の小麦が出来たらですが……それで作ったクッキーに混ぜてお渡しします。それじゃダメ、ですか……?」
わたしがそう言うと、ゴリラさんは「まいったなぁ」と頭の後ろに手を組みました。
「お前にそう言われると、やりたくなっちまうんだから……ズルいぞ?」
「す、すみません……でもちょっとやってみたいことがあって……」
ゴリラさんは微笑みながら「ふんふん」と促すように相槌を打ちました。きっと、何をしたいのかを知りたいのでしょう。
「その……酵母と、蜂蜜で……お酒を……」
わたしの言葉を聞いたゴリラさんは眉間にシワを寄せて、数秒ほど考え込みます。
「うーん……良いんじゃないか? ここじゃそういうものも手に入らんからな」
わたしはダメと言われると思っていましたので、きょとんとしてしまいます。
だって、年齢に身体に風紀に……色々問題がありそうじゃないですか。
「へ……? 良いんですか……?」
「良くない。って言っても意味がないからな」
わたしは思わず眉間にシワを寄せて居たようで、ゴリラさんはくすくすと笑ってから自分の眉間をつんつんと突いて茶化しました。
「ここはもうヒトの手に無い。それなのにお前がヒトの法を厳密に守る義理はない。もちろん、何やっても良いわけじゃないのはわかってるだろ? お前がソレくらい考えられるのは知ってるからな。それに、歳で言うなら俺とお前はどっこいだぞ?」
あ、そう言えば……パークの最年長の方と同い年か、下手するとわたしの方が年上の可能性までありましたね……。
「それに、酒がどれほど恐ろしいか、お前も身を持って知る良い機会だ。飲みたいんなら、飲んでみろ」
放任、とは少し違う教育方法の様に思われました。
「な、なるほど……あ、そうです、完成したらゴリラさんにお渡し――」
「いや、いい」
驚くほど早い否定の言葉に少しだけびっくりしてしまいます。
「あー……悪い悪い。興味無いワケじゃないんだよ。ただなぁ……アレを目にするとなぁ……」
不穏な空気が辺りに漂い始めます。
イエイヌちゃんはなんだか怯えたようにわたしの手を握っていますし、ゴリラさんはぞくりと身体を震わせていました。
「な、何が……あったんですか……?」
ゴリラさんはふっと遠くを見る目に。
「……研究員達が酒を飲む場所にたまたま居させてもらったことがあってな――」
曰く、ちょっとした歓迎会だったそうです。新入職員の歓迎会に、互いの紹介とヒトの文化を知るという名目でゴリラさんはその場に立ち会った。その宴の場は高揚の頂点に突入した頃、テーブルの上は空になった瓶やら缶やらで溢れていて、ある者はつまらない冗談を繰り返し、ある者は泣き叫び、ある者は笑い狂い、ある者は眠り……混沌の様相を呈していたそうです。
「あの場はどうかしてた……俺は酒を飲ませて貰えなかったが……それで良かったと思ってる……」
一瞬の沈黙の後、イエイヌちゃんが恐る恐る尋ねます。
「そ、それからどうなったんですか……?」
「それから、か……ある奴はしきりにトイレに行っていた。多分、吐いてたんだろうな……恐ろしいぞ、酒は……そのまま流れ解散とか何とか言ってたが、まともだったのは俺だけだ……」
ひえっと恐怖の言葉をイエイヌちゃんが漏らすのが、わかりました。
ゴリラさんがぱちんと手を叩きました。それではっと意識を取り戻したかのように、空気は元に戻ります。
「ま、上手に飲めれば楽しいとはトーサカの言葉だ。作るのも、飲むのも、失敗しても構わん。好きにしろ。が、無茶はするな。それと、完成したらラッキービーストに安全かどうか確認してもらうこと。……最後に、もしも量を安定して作れるようになったら、俺に隠さないこと。一応キケンだからな。いいな?」
わたし達は厳かに頷きます。お酒の持つ力(もはや魔力と言っても過言ではなさそうです)に対して敬意とも恐怖ともつかない、奇妙な感情がわたしに芽生えていました。
「あぁ、それと、ここの片付けは頼んだぞ。蜂蜜をやる代わりだ。頼んだぞ」
ゴリラさんはくすりと笑って、部屋を出ていったのでした。
片付けがひと段落する頃にはもう夕方。わたし達は帰路につくことになりました。
今日は割に暑い日でしたけれども、室内は空調が効いていた事もあってかそこまで体力は消耗しませんでした。とは言え、です。普段やらないことをいっぺんにやったものですから、わたしもイエイヌちゃんも疲労困憊という具合。
「ふひぃ……たいへんでしたね……」
イエイヌちゃんがため息まじりに言いました。
夕暮れが彼女の髪の毛を照らして、灰色の髪はどこか茶色がかった不思議な色へと変わっていました。
「ほんとうに……わたしのわがままに付き合わせちゃってごめんなさい、イエイヌちゃん……」
今日の作業であの部屋の半分ほどが片付きました。
物の山を切りわけ、掘り返し、並べ直す。言葉で言うのは簡単ですが、実際に身体を動かすとなると、また違うもの。イエイヌちゃんに手伝ってもらったのはありがたくも申し訳ない話です。
「いえいえ、けっこー楽しかったです! それに、その、おさけ、ちょっと興味ありますし……」
「あはは、イエイヌちゃんも結構悪い子ですね……」
イエイヌちゃんは「えへへぇ」と照れたように笑います。
「成功するかはわかりませんけどね……それに、まだ作り方も確認してませんから」
わたしは鞄をぽんぽんと叩きます。
「本は見つけたので、それを見て……必要なものをまた見繕わないとですよー」
イエイヌちゃんの瞳に、俄に「やる気」のようなものが煌めきます。単に夕日かもしれませんけどね。
「んふー……! がんばります!」
おー! と彼女は空に手を突き上げます。
「ええ、頑張りませんと……!」
ドードーさんたってのお願いです。それに、アムールトラさんと一緒にゆっくり出来るなら、お話もしたいです。アムールトラさんは、口数は少ないですし、物静かな方ですけど……でも優しい方ですから。きっと、もっと仲良くなれるはず。
「ま、ず、は……っと」
わたしは鞄の中から本を取り出し、目的のページを開いて眺めます。歩きながらなので、ざっくりとですが……。
「容器……ビンとか、壺とか……? うん、材料は平気そう……時間はかかるけど……そこまで難しくも……うん、何とか……?」
考え事が口から出ていたようで、イエイヌちゃんがくすりと笑います。
「どうしました?」
わたしが聞き返すと、彼女は微笑を浮かべたまま、少しだけ照れて言います。
「やるぞー! ってなってるともえちゃんが、きれいで、つい……えへへ……」
「……そうですか?」
わたしが聞き返すと「ぜったいにそーです!」と彼女は胸を張りました。
わたしは照れ隠しに空を見上げて返します。
「夕日がきれいなの、見間違えたんじゃないですか?」
イエイヌちゃんはそっとわたしの腕を抱きしめました。暑いはずなのに、心地良い。
「じゃあ、それでいいですよー」
わたしは小さく笑みを零しながら、本を鞄にしまいます。
「イエイヌちゃんの方が――いえ、なんでも」
足を止めて、そっと彼女の額にキスをしました。ふわりとくすぐる髪の毛に、どこか名残惜しさを抱きます。
「……褒めてくれたお礼です。行きましょ?」
照れ混じりの笑みで、彼女は「はい!」と答えます。
「帰ったら私からもちゅーしますからね」
「その前に……シャワーかお風呂か、ですかね」
汗もかきましたし、ホコリだって付いているでしょうから。
「りょーかい、です!」
そんなにかしこまらなくてもいいのになんて、今更ですね。
それから二、三日ほどかけて、わたしは何とか瓶を用意できました。
「これでようやく作れますね……」
わたしはお家の流しで大瓶をひとつと小さな瓶とを水で洗い、直射日光に晒して乾燥させ終わったわたしは、それを室内に戻します。
「お疲れさまです! セントラルまで行った甲斐がありましたね!」
ゆっくりとわたしは頷きます。
小さい瓶が見つかったのはゴリラさんのお家でした。スイングキャップのおしゃれなガラス瓶で、恐らく一リットル程度が入ると思われました。本数にすると四本。恐らく、お父さんの使い古しか、使い残しか……そのどちらかでしょう。結局、事ここに至ってわたしはお父さんが自分でお酒を作っていたことを認めざるを得ませんでした。
「……殆どお父さんの残したものですけどね」
イエイヌちゃんは乾いた笑いを漏らします。
「でもまぁ、おっきい方を見つけたのはわたしですから」
少しだけ誇らしげに、大瓶を撫でます。あの時行った喫茶店の奥に安置されていました。梅酒用と書かれた紙が中に入っていて、蓋と瓶とがテープでくっついていましたので、未開封なのでしょう。中に入っていた用紙によれば、容量は十リットル。運ぶことの大変さは言うまでもなく、洗うことさえ一苦労でしたが、作る量自体は不満のないところです。
窓から差し込む陽光に雫とガラスが煌めきます。それは不思議な位綺麗で、これから作る蜂蜜酒の前途を照らしてくれているように思われました。
「そしたら、後は蜂蜜と水と酵母を入れて放っておくだけですね……」
イエイヌちゃんは「ほへぇ」と相槌らしき声をらします。
「結構簡単なんですねぇ……」
「ですねぇ……むしろ準備の方が大変だったくらいです」
わたしが呆れ混じりにつぶやくと、小さく彼女は笑いました。
「でも、温度とか色々条件もありますし、放っておくだけと言っても手間はかかりますね、これは……」
大雑把なのでレシピと呼べるかはわかりませんが、作り方はこうです。
第一に綺麗にした瓶を用意する。
第二に瓶に蜂蜜と水と酵母を入れて混ぜる。ここで水と蜂蜜との量を調整して味の濃さや度数の高さを調整できるのでしょう。
第三に発酵が始まり、終わるまで待つ、または終わらせる。この間、発酵でガスが発生するとのことですから、完全密閉はしないこと。また、温度が低いと発酵が起こらなかったり、時間がかかりすぎる、とのこと……。この点は夏場の今なら気にすることは無いでしょう。
第四に長期間熟成させる。今回はお試しくらいのつもりですので、長期間の熟成をさせるつもりはありません。とは言え、一週間程は置いておきたいところ。ここはもしかしたら他の本を探してみて、決める方が良いかもしれません。
「後は……そうですね、果物とか入れると味も変わるらしいですけど……今は無理ですから」
イエイヌちゃんは少しだけ残念そうな顔を浮かべます。
「りんごとか、ぶどーとか、そういうの入れるんですかね……? 美味しそうですけど……」
「なんというか、名前も変わるらしいですよ? そこまで詳しくは書いてないですが……。それに、普通のを一回飲んでみて、それから比べるのも面白そうですねぇ……酵母は何回か繰り返し使えるそうですから」
んふふーとイエイヌちゃんが楽しげな声を漏らします。
「でしたら、次が楽しみです!」
「……イエイヌちゃん。嫌いな味だったらどうするんですか……?」
わたしの意地悪な言葉に、彼女は「うーん」と考え込みます。
「……その時はその時、です!」
「なるほど、そう来ましたか……。味の方は甘いと思いますけど……」
甘い、という言葉に彼女は笑顔を浮かべます。
「何にしても、楽しみですね、完成。……まずは上手いこと発酵が進んでくれるとありがたいんですけども」
「だいじょーぶです! ともえちゃん、がんばってましたもの!」
「ありがとうございます、イエイヌちゃん」
そう言って、わたしは仕込み作業を始めました。
それから更に時間が経って、もう夏の終り。消え入るような虫の声に、色濃い夕焼けに、長い影が瞼に焼き付くようなそんな時間。発酵と熟成と、ラッキービーストさんのチェックと、そういった過程が全て順調に終わり、今日が蜂蜜酒を飲む日になりました。
わたしは畑を眺めながらドードーさんとアムールトラさんが来るのを待ちます。
「よくもまぁ、こんなになって……」
眼前に広がる小さな畑には、黄金色混じりの緑の海が広がっています。風になびき、頭を揺らし、ざわりざわりと音を立てる畑……。品種が優秀だとか、土地が肥沃であるとか、色々理由はあるんでしょうけど――
「けっこー、やれるもんですね……」
刈り取りと脱穀という問題を考えると、これからの苦労に恐怖を覚えますけれどね……。けれどやりたいことのためにも……
「おまたせぇー」
「よう」
いつの間にやら、おふたりが来ていました。
「おふたりとも、こんばんは」
わたしの返事におふたりが返事をして……そうしてお家に入ります。
「おじゃましまーす」
「邪魔するぞ……」
机にコップとボトルを並べて支度をしていたイエイヌちゃんが楽しげな笑顔を浮かべて玄関に駆け寄りました。
わたしとイエイヌちゃんの勧めに応じる形で、彼女たちは椅子に座ります。
アムールトラさんは不思議そうに瓶を覗き込みます。瓶の湾曲の為に彼女の瞳が大きくなったり小さくなったりして、少しだけくすりとしてしまいました。
ドードーさんがじいっと琥珀色を見つめてから、わたしの方を向いて尋ねます。
「ともえちゃん、これって……ジュース? 作るのお菓子だと思ってたよぉー」
今まで秘密にしてきただけあって、彼女は驚き混じりの視線でした。
「いえ、お酒です。頂いた酵母と蜂蜜で作ったんですよ」
「おさけぇ……へぇ……」
ドードーさんは再び視線を瓶へと戻し、しげしげと眺め始めました。
「……これ、飲んで平気なのか……? 泡とか出てるし、底の白い粉も……」
わたしは申し訳無さから乾いた笑い声を漏らしてしまいます。
「お酒以上の害は無い、そうですけど……心配ですよねぇ、すみません……」
イエイヌちゃんはわたしの言葉を継ぐ様に口を開きます。
「味見しましたけど、美味しいですよ! 甘くってほわほわして……。ともえちゃん、注いじゃって良いですか?」
わたしは頷いて促します。すると、イエイヌちゃんが瓶の蓋を外します。スイングキャップがくるりと回り、金属とガラスのぶつかる軽くて高い音が部屋に響きました。
とくとくとコップに蜂蜜酒が注がれていくと、底から泡がふわりふわりと浮き上がりました。琥珀色の液体は電灯の光を反射し、立ち上る泡沫が川面を思わせるような涼しげな印象です。
イエイヌちゃんが全員分のコップにお酒を注ぎ終わった頃、わたしはゆっくりと口を開きます。
「えぇっと、ドードーさんから頂いた酵母で、蜂蜜酒。作ってみました……お口に合えば幸いですけども……いただきます」
わたしの合図に合わせて、いただきますの声がみっつ、上がりました。
――――――
――――
――
これが成り行き。
美味しいの合唱があって、気分の良くなったともえが一番最初に酔っ払った。泣き上戸だった。イエイヌとドードーはともえが酩酊し始めるのと同時くらいに気分がよくなってきたようで、ペースが上がった。その結果、出来上がったのが笑い上戸のイエイヌと、マイペース度合いの増したドードーだった。
最初の数口だけ飲んだアムールトラは「甘すぎる」と感じた為に飲むペースが遅かった。それが幸いして殆どシラフだったのだが……それはシラフでありながらも酔っ払い空間に巻き込まれる不幸でもある。
アムールトラは小さくため息を漏らし、頬杖をつく。
「んふーんふふー」
イエイヌがコップに口をつけて、蜂蜜酒を飲み干す。
「ともえてゃん」
イエイヌがともえの名を呼ぶと、流れる涙をシャツの袖で拭ったともえが応じる。
「なんですかぁ……?」
「まだ、残ってましたよね……?」
ドードーは「ほんとぉ!?」と言うと同時に、アムールトラがあまり飲んでいないことにも気づいた。
「ちょっと待っててくださいねぇ……」
鼻を啜りながらともえは席を立ち、キッチンに向かう。それを見送りながら、ドードーはアムールトラに尋ねる。
「あむーるとらちゃん、たのしーぃ?」
アムールトラは呆れ混じりに笑い声を漏らす。
「……まぁ、な」
巻き込まれる不幸……そう確かに彼女は感じていたが、それでも尚、アムールトラは不思議と悪い気持ちでは無かった。むしろ心地良ささえ覚えていた。むろん、困りこそするが、周りで誰かが楽しんでいたり、誰かと誰かの話が聞こえたり、雰囲気を楽しむという経験に純粋に喜んでいたのだ。
「じゃーぁ、のもっ?」
酒を飲んだのは初めてなのに、熟練の酔っぱらいさながらの催促だった。
「いや、その……甘くてな……ゆっくり飲ませてもらうよ」
「そっかぁ……でもたのしーなら良かったよぉ……ともえちゃんにもそう言ってあげなねぇ。けっこー気にしてるだろぉからぁ」
ドードーはそう言ってグラスをひと口煽る。漏らす吐息の甘さがアムールトラの鼻をくすぐる。
「あむーるとらさぁーん」
キッチンの方から声をかけられる。ともえの声だった。
「どうした? ともえ」
すっと立ち上がって、アムールトラはキッチンへと向かう。
「てつらって貰っても良いですかぁー?」
覚束ない足取りで、彼女は大瓶を抱え込もうとしていた。
「俺が持っていくよ。お前じゃ、危なっかしい」
しまった、とアムールトラは直感した。何かと泣きっぱなしなともえには、こういう言葉は禁句なのではないかと感じたのだ。
「えへー、ありがとうねぇ、前も、今日も、ほんとうに、ありがとうねぇ」
ともえはアムールトラの意に反して、笑みを浮かべて彼女の手を取った。
「おかげさまで、こうしてらえるんです。ほんとうに、ありがとうございます」
ともえはそう言ってふらりと身体が揺れたが、それをアムールトラが支えた。
「お見舞いの時も言ったが、俺は何もしてない。頑張ったのはお前さ。今日も、前も」
彼女はそう言って、ともえの頭を撫でようとする。が、ともえが瞳に涙を貯め始めたのを見て、やっべと口に出しそうになっていた。
「な、なんか言ったか? す、すまん……」
びょええとともえは泣き出す。それを聞き取ったのか、イエイヌが駆け寄る。
「と、ともえちゃん? だいじょーぶですかぁ!?」
慌てた様子でイエイヌはともえの頭を抱き込み、そっと髪を撫でる。
「がんば――がんばったねって、いわれ、……うれし……ぶぇええ――」
アムールトラもイエイヌも困惑していた。褒めて泣かれるほど、困ることも無いだろう。
「ともえちゃん、いつだって頑張ってるじゃないですかぁ、いいこいいこ。……あっち戻りましょう?」
イエイヌの言葉にともえはこくりと頷いて、居間へと歩きだす。そんなともえの肩をそっと支えるイエイヌ。ふたりの姿に、アムールトラは「伊達に一緒に居ないんだなぁ」とぼんやりと思った。
イエイヌは振り返ってアムールトラに言う。
「アムールトラさん、すみません、大瓶とそこの掬うやつを……お願いします」
「お、おう」
やや気圧されながらも、返事をし、アムールトラは大瓶とレードルを持って居間へと戻ったのだった。
居間に戻り、テーブルに頼まれた品々を置くと、イエイヌは全員分のコップにさっとレードルで掬ったお酒を注いだ。ねっとりとした蜂蜜の匂いと、ふわりとしたアルコールの匂いが部屋に漂う。
「ほら、ともえちゃん。用意しましたよ」
イエイヌはそう言い終わってから、アムールトラに小さく会釈をした。
ともえは「んっ」と鼻を啜ってから応じ、グラスに口を付けた。それに合わせてイエイヌもひと口分を飲む。
「ねぇ、あむーるとらちゃん」
ドードーが小声で尋ねる。
「ふたり、仲良しさんだよねぇ」
彼女の言葉に、アムールトラはともえとイエイヌの姿をじっと見つめる。グラスに口を付けてお酒を飲むともえを、幸せそうに、心底幸せそうに眺めているイエイヌ。
「だなぁ」
ちょっとした危うさのようなものを感じなくもない光景。だが、だからと言ってそれをアムールトラは否定したく無かった。
ドードーがこくりとコップを煽り、満足げに鼻息を漏らした。
「いいよねぇー」
ドードーに倣って、アムールトラは蜂蜜酒に口を付ける。
優しい、甘い味だった。繊細な香りがした。「作る人に似るのかな」とアムールトラは思う。
「……なんとも言えんが……まぁあそこまで仲が良い奴らはそんなに居ないだろうなぁ」
呆れ半分、微笑ましさ半分という不思議な塩梅の言葉に、ドードーはくすくす笑った。
なんとも気恥ずかしくなったアムールトラは、蜂蜜酒をもうひと口煽る。
「だろうねぇ……ねぇ、あれくらい大事な子って居るぅ?」
アムールトラは「んー」と少しだけ考え込む。
大事かどうかという尺度で言うならば、そんな相手は居ないと断言できる彼女だったが……
「……そうだなぁ、気になる奴なら居るが――」
そう言いながらドードーの方を見つめ直すといつの間にやら彼女の姿は消えていた。
「ついていけん……」
思わずぼそりとつぶやくアムールトラだった。
彼女の視界に、蜂蜜酒がいっぱいに注がれたグラスが入る。彼女はともえの言葉を思い出していた。
お酒を飲むと、酔っ払う。ペースは程々に。気持ち悪くなったら飲まない。酔っ払いすぎると、オカシクなるかもしれない。
そんな言葉を、思い返していた。
「……いっそ……?」
彼女の視界の先ではどこからか戻ってきたドードーがイエイヌに抱きついていた。ともえはドードーに張り合うようにしてイエイヌの腕に抱きついている。声が入り混じって誰のものかはわからないが「ぎゅー!」と聞こえる。
「はぁ……」
作ってくれたともえには失礼だが……そう思った。が、少しぐらい羽目を外したいし、羽目を外さなければアイツラにはついていけない。そんな考えが彼女の頭をめぐる。
アムールトラはくっとコップを一気に空にする。嚥下してすぐには何も感じなかったが、次第に頭がぼんやりしてきて、ふわふわしてくる。
「ほっほーぉ。これはこれは……」
不思議な呟きは誰の耳にも届かず、けれど、楽しかった。
アムールトラの記憶はそこからぼんやりとしたものになる……というか、彼女は酔うと眠くなるタイプだった。酩酊を意識し始めるや否や、アムールトラは遠慮なくベッドにごろんと寝転んだ。
「……おれはねる」
ともえとイエイヌが驚きと困惑の声を漏らしていた気もするが、アムールトラはそれを無視して眼を閉じる。
「あたしもぉー!」
寝るとは思えない元気な声色の後に、アムールトラの後ろ側がぽすんと揺れる。アムールトラのしっぽがぺちりとドードーの身体を叩く。だが、それを意に介さずドードーはアムールトラにくっつこうとすり寄って、きゅっと服の裾を掴んだ。イエイヌとともえは、何やら相談していたようだが、間もなく部屋の電気を消して、ベッドに潜り込んだ。
小さなベッドに四人が眠る。
アムールトラは丸く膝を抱え込んで、ドードーはそんなアムールトラに抱きつくようにして、ともえとイエイヌはベッドから足だけだらりと垂らしながら、手をつないで仰向けに……。ぼそりと誰かが「すやんぬ」とつぶやいた。意味すらわからないが眠いことだけは、辛うじて皆理解できていた。
窮屈そうで、けれど幸せな夜は、翌朝の頭痛で明けるのだった。