どこか遠くで、蝉の鳴き声に混じって金属の触れ合う音が微かに聞こえました。
真夏の盛りと言わんばかりの昼、部屋にこもる熱気の為に、わたしは窓を全部開いて少しでも風を取り込もうとしますが……それもなかなかうまく行きません。
そんな中、わたしはお家のクローゼットをがさごそと探り続けていました。
「えっと……? これはーっと……」
中からずりずりと引き出したダンボールにメモなどは無く、ガムテープできっちりと封をされているばかり。
「よいしょっ、と……」
お父さんの無精に呆れながらも、わたしはガムテープを剥がし、中を覗き込みます。そこには英語と思われるタイトルが記載された本が何冊も入っていました。
「……これは……うん、お父さんのですね」
呟いた言葉にイエイヌちゃんが尋ねます。
「ともえちゃん、お家の中で探しもの、ですか……?」
彼女は床にべったりと張り付いていて、少し顔を上げていました。
「えぇ。……ほら、ゴリラさんのお家で色々探したじゃないですか。それで、ここにも何かあるかなーと……」
淡い期待を示すと、彼女は「ほへぇ」と呟いてから床に再びべたりと張り付きます。
「いくら空調止まってるからって、それは汚れちゃいますよ……?」
先日ラッキービーストさんがわたしに伝えたのですが、点検だそうです。
なので今は、部屋の中に電気は通っていません。
「むぅ……そうですけど……こうしてた方が涼しいですし……」
ごにょごにょと言葉を濁すイエイヌちゃん。
「イエイヌちゃんらしいですけどね」
わたしはそう言って、視線をクローゼットの中に戻します。ダンボールは後何個かありました。
「えぇっと、これを……よっ、と……」
同じようにしてダンボールを引き出します。こちらも先程と同じようにメモ書きなどは無く……ってあれ?
「なんで奥側にメモが……普通手前じゃ……」
マジックペンでしょうか、黒くて太い文字で何か書かれていました。
「えーっと? も、え……?」
わたしの背筋に不思議な感覚が走りました。寒気とも違う、感動とも違う、不思議な感覚……。多分、懐かしいという思いに近いのですが、それが正しいとは言えませんでした。
「……ということは、ともえちゃんの昔のモノが……?」
イエイヌちゃんの言葉にわたしはゆっくりと頷きます。
昔のわたしが使っていたものが、中にはいっているかもしれないのです。
「開けましょうか」
わたしの言葉に彼女が頷きました。
不思議と、わたしの胸は落ち着いていました。
記憶が無かった頃のわたしにとって、過去の残滓に触れる時は興奮や緊張の類を抱きました。けれども、今となってしまっては、過去というものは『その気になれば思い出せる。手元にあり続けていて、触れたければ触れられる』というような、不思議な距離感を持つものに変わりました。実際の所、全てを覚えている訳でも思い出せる訳でもありませんが。人の記憶とは、かくもうつろうものなのでしょうか? けれども、わたしが今を生きるに値するだけの過去があったと理解しているだけで十分なのだと……今は、そう思っています。
べりりと音が響き、ダンボールが開かれます。中には服が数着と、帽子。その下には何冊かの教科書がありました。教科書は小学校の高学年向けのものが中心でした。
わたしは本をひとしきり確認した後、一旦脇に退けた衣類に視線を移します。試しにひとつ服を開いてみると、真っ白なワンピースでした。ちょうど、今の時期にぴったりな気もします。ノースリーブで、スカートの丈は膝下程度と思われる、無地の服。小さく首元にはレースで縁取りがされています。腰の辺りには黒色のリボンが一周して、背中の部分でリボン結びになっています。襟から背中に掛けて、小さな白いボタンがみっつ結付けられています。
「綺麗……って――」
ぼんやり呟いて眺めていると、不思議なことに背中側の、尾てい骨の辺りに小さく穴が空いていました。
「――なんです、この穴……穴? はぁ……」
よく見て見ると、虫食いではなさそうです。しっかりと切り口は縫い付けられていて、意図的に開いた穴のようですから。とは言え、全体の作りや縫い付けにほつれが無いどころか、汚れもありません。お陰で、かなりしっかりとした服なのだと見てすぐにわかりました。それだけにこの珍妙な穴に憎しみすら抱きそうです。わたし、そんな『へんたいさん』な趣味ありませんし……。
お父さんのセンス(あるいは常識、と言っても良いかもしれません)を疑いつつ、服をベッドに置きます。
次は帽子――麦わら帽子です。
「ふんふん……」
こちらは何も穴はありません。つばが広く、白い帯が巻かれているシンプルな麦わら帽子。極めて簡素ながらも、どこか頑丈さを感じてしまいます。
「こっちは、使えますね、うん」
わたしがそう言って帽子をかぶって具合を確かめたりなどしていると、イエイヌちゃんはわたしを見ながらうずうずしています。
「どうかしました……?」
「わ、私も……箱、開いても良いですか?」
わたしは彼女に「どうぞどうぞ」と言いました。
すると、彼女は楽しげにクローゼットの下段に身体を入れて、中からダンボールをひとつ引っ張り出してきました。
「んふふー、こっちはなんでしょう……?」
楽しげに微笑むイエイヌちゃんにくすりとしながら、彼女の姿を見守ります。
「むぅ……文字……!」
やっぱりダンボールの奥側の面に文字が書かれていたようです。イエイヌちゃんはわたしの顔をちらりと伺いましたが、すぐに文字に顔を向けてうんうん唸り始めます。
「……!」
わたしは内心驚いてしまいました。そこに書かれた文字は、だって――
「い、え、い、ぬ……わっふ!」
彼女の名前でしたから。
彼女は驚きと誇らしさからか、わたわたしています。
「カタカナは完璧ですね」
わたしが褒めると俄に喜びの色を示したイエイヌちゃんですが、それよりももっと大きく感情を動かされてしまっているようです。
「わ、わ、ともえちゃん。これ、これって――」
わたしは頷いて、彼女に伝えます。
「はい、イエイヌちゃんのものですよ」
厳密に言うならば、彼女のずっとずっと前の『イエイヌちゃん』のモノ。それはイエイヌちゃんもわかっているはず。けれども、今の彼女のモノだとわたしは敢えて伝えます。パークには他に『イエイヌちゃん』はいません。聞いた話では似た子が居るらしいですが……それでも、わたしのかつての荷物と一緒に大切に保管された荷物の正当な所持者である『イエイヌ』は彼女を置いて、他に無いでしょうから。
彼女は余程興奮しているのか、尻尾をぱたぱたさせるばかりで、呆然と箱の文字を見つめていました。
「……開けないんですか?」
わたしが茶化すと、彼女ははっとしました。
「そ、そうでした! えへへ……」
いそいそとイエイヌちゃんは手を動かし始めます。
ガムテープが剥がれ、蓋が開かれました。
中身はわたしのものと大差ないものでした。違いをあげるなら、洋服が一着だけしか入っていない事と、底に敷き詰められた本や教科書がより幼い子向けのものが中心だった事でしょうか。
「えーっと……服と、教科書ですね……わたしの方とあんまり変わり無い気も……」
わたしの言葉に相槌を打ちながら、イエイヌちゃんは服を開きます。
「あ! これ、ともえちゃんの方とおそろいですね! 帽子もありますし!」
広げた服をくるくると回して、確認をするイエイヌちゃん。
「みたいですね……っと、穴は……あれ? 無い……?」
イエイヌちゃんの箱に入っていた服は、尾てい骨の辺りに穴が開いていないようです。他に違いと言えばそれに加えて、ちょっと丈が違っているかな? と感じる程度です。リボンの色やレースの位置も同じ……もしかしたら、レースの柄が微妙に異なっていたりはしそうですが。
「あの、ともえちゃん」
彼女は眉間にシワを寄せながら、何か言いたそうな顔をしています。
「あー……もしかしたら同じこと考えてるかもですね……。なんです……?」
イエイヌちゃんは小さく苦笑いを浮かべて、言いました。
「おとーさん、間違えましたよね……?」
「あ、やっぱりそう思います? わたしもそんな気がするんですよねぇ……」
要するにそういうことでしょう……。同じデザインだから入れ間違えた、ただそれだけの事。
腰の穴は尻尾を通すための穴で、あちらがイエイヌちゃんのワンピース。わたしのワンピースにはそもそも穴が空いていない、ということでしょう。
お父さんがうっかりだったという事実に、安堵の思いを抱きました。尻尾の無い女の子にあのデザインを率先して着せたがるような変態ではないというのは、お父さんの信用問題に大きく関わる気がしますからね……。
「それに、イエイヌちゃんの箱の方の帽子はてっぺんに穴が開いてますしね……」
こちらは耳を通すための穴、ということでしょうか?
「あ、ホントです!」
彼女は楽しそうに言って、麦わら帽子を手に取ります。そして、しげしげと眺めた後、被りました。彼女が左右に帽子をガサゴソと動かし、位置を調整してから被り直し……そうして耳がぴょこんと麦わら帽子のてっぺんから飛び出します。
「あらぁ、可愛い……似合ってますよ、イエイヌちゃん」
イエイヌちゃんは耳の具合を確かめているのか、視線が上に向いていて、少しだけ可笑しな表情になりました。それに、耳は横を向いたりお辞儀をしたりピンと立ったりと普段と比べるとずっと忙しなく動いています。
その微笑ましさに、思わず微笑を浮かべてしまいました。
「えへへ……照れますね……ありがとうございます!」
そして彼女の視線はベッドの上のワンピースに移ります。
「あの、その……ワガママ、良いですか……?」
申し訳無さそうに彼女はわたしの顔を見つめます。
「なんでしょう? 内容次第ですけども……」
わたしは立ち上がって、ベッドの上のワンピースを手に取ります。
「これ、着てみてもいいですか……?」
「えぇ、もちろんです。そもそもイエイヌちゃんのお洋服ですもの。……手伝います?」
わたしは改めて、それが彼女のものであると強調しました。
イエイヌちゃんはわたしに「お願いします」と答えて、服を脱ぎ始めました。
ふと思い立ち、わたしは一旦その場を離れて洗面台へ行きます。そして濡らしたタオルを手にして戻る頃には、彼女は下着姿になってもじもじしていました。
彼女は俄に汗ばんだ様子ですが、汗の量は大したことがないのかキャミソールが汗に濡れた様子は殆どありません。
「イエイヌちゃん、キャミソールも脱いでください」
「へぁっ?」
驚きと困惑と……多分ほんの少しの恥ずかしさ。そんなものを感じさせる表情ですが、わたしは彼女を説き伏せようと言葉を続けます。
「身体、拭いますよ。汗もかいてますし、わたしがやるのは背中だけですし……綺麗な服ですから、綺麗に着ませんと、ね?」
いえ、本当にそう思ってるんですよ? 彼女の綺麗な肌を見たいというのも、まぁ……ありますが……。
もじもじとしながらも彼女は頷きました。そして、彼女はわたしに背を向け、その肌を曝け出します。
「お願いしま――ひゃうっ!」
手でぺたりと触ると、やっぱり少し汗ばんでいます。それに異様に体温も高いですし……少し心配です。
「……シャワー浴びます? そっちの方が身体冷やせそうですけど……」
イエイヌちゃんは首を振りました。
「い、いえ……髪乾かしたりとか、時間かかっちゃいますから……お願いします……」
「じゃあ、失礼しますねー」
そっと濡らしたタオルで彼女の背中を拭います。
動く度に彼女は「ひゃっ」とか「ひょうっ」とか「わふっ」とか声をあげますが……擽ったいのか冷たいのか……どっちなんでしょう? わたしは、声を聞く度に少し楽しくなってしまいましたから、後でやりすぎたと謝りませんとね。
「――これでおっけーです。後はイエイヌちゃんがお願いしますね」
「はふぅ……すっきりしましたけど……むぅ……」
わたしは不服そうな表情を浮かべるイエイヌちゃんにタオルを手渡します。
彼女はわたしに背を向けたまま身体を拭い始めます。首筋を拭い、左右の腕を拭い、腕を挙げて脇と脇腹を――彼女の身体が少しだけ横を向いて、胸の膨らみがうっすらと見えました――、胸を、お腹を、少しかがんで――彼女の胸が重力に引っ張られて、だらんとしているのが見えました――太ももを、脛を……。
彼女が身体を清め終わった頃、わたしは彼女に肌着とワンピースを手渡します。
「えへへ……じゃあ着ますねー……!」
そして彼女は駆け足気味にキャミソールを着て、ワンピースに頭を通します。彼女は袖に腕を通して――
「ん? あれ? あ、頭が……よ、いっしょ……!」
背中のボタンを外すこと無く彼女は頭を通しました。お洋服が壊れなかったのは幸いです。まぁ、首元の広いものですから、大丈夫でしょうけども……。
彼女は服を手で引っ張ったりして少し整えてから、自分の姿を伺います。
「んふー……どうでしょう!?」
わたしは素直に思ったことを伝えます。
「似合いますよ、ホント……びっくりしちゃったくらいです」
服の大きさに関してはちょうど良さそうです。こうして見ると、ワンピースは身体のシルエットを強調しすぎず、かと言って隠しきらない程よいサイズ感です。まるで彼女のために誂えたかのような気さえします。
……というか、そもそも彼女は普段からして厚着をし過ぎなのです。毛皮だから、というのは彼女の論ですが……。それの所為か『イエイヌちゃんが薄着をする』というだけではっとするような真新しさや不思議さを覚えるものです。それに加えて、彼女の地肌の白さとワンピースの白さが映えること映えること。普段隠されている腕が顕になって、所在無げに空を彷徨っていて、それもまた、なんともいじましい……。
「イエイヌちゃん、ちょっとくるんって回ってもらっても良いですか?」
彼女は不思議そうな表情を浮かべますけれども、わたしの言葉に頷いて、その場でくるんと回ります。膝下まで丈のあるスカートはふわりと綺麗な円を描いています。少し持ち上がったスカートからちらりと覗く太腿がまばゆく光を放つようです。
「ふおお……」
思わずわたしはあらぬ声を出してしまいますが、イエイヌちゃんはきょとんとした顔を崩しません。
「な、なんですか……? ともえちゃん?」
「い、いえ……失礼しました……イエイヌちゃんが可愛すぎてヘンな声が……」
「……? いいですけど……あっ、尻尾出すの手伝ってもらってもいいですか?」
彼女の言葉に頷きます。
「大丈夫ですよー、背中、向けてください?」
イエイヌちゃんはゆっくりと振り向いてわたしに背中を向けます。いくら彼女の身体の一部と言っても、見えない場所ではなかなか上手く行かない様子です。尾てい骨の辺りに開けてある穴がもぞもぞと動いていました。
「えーっと……くすぐったかったらごめんなさいね……?」
「わっふ! ちょ、ちょっと、ともえちゃ……ひゃぅっ!」
わたしはそっと穴に指を入れ、イエイヌちゃんの尻尾に引っ掛けます。そしてそのまま引っ張り出そうと考えているのですが……
「イ、イエイヌちゃん、う、動かさないで……!」
「あ、だ、ちょ、そこは違――」
余程擽ったいのか、それともソレ以上に何か感じるものでもあるのか、細かく動いて尻尾を逃がすイエイヌちゃんでした。
それからすったもんだしつつも、何とか尻尾は無事、外に出ます。
「うぅ……」
何故かイエイヌちゃんは恥ずかしそうに顔を覆い隠していました。
「失礼しました……でも、逃げるイエイヌちゃんもイエイヌちゃんですよぉ……」
まぁ、楽しかったんで良いですけど。
「そ、そうかもですけど……」
依然としてうつむき気味の彼女でしたが、少しすると何かを思いついたようにはっと真面目な表情で顔をあげます。
「んふー……! そうです、そうですよぉ!」
嫌な予感……というと少し言い過ぎですが、虫の知らせのようなものを覚えました。
「ともえちゃん! ともえちゃんも着るんですよ! わんぴーす!」
「良いですよ? わたしも興味ありますし……」
わたしは服を脱ぎ始めます。
いつものシャツに、ズボンを脱いで、畳んで……イエイヌちゃんの居たところを伺うと、彼女はいつの間にか居なくなっていました。
「あれ? イエイヌちゃん?」
きょろきょろと周囲を見回しても、彼女が隠れた様子は見当たりません。
少しすると、イエイヌちゃんは洗面所の方から戻ってきました。手にはタオルが握られていたので、おそらくは仕返し、あるいは意趣返しと言ったところでしょうか?
「あー……なるほどぉ……?」
「むぅ……わかっちゃいましたか……」
そう呟いてイエイヌちゃんはわたしに近寄ります。
「ともえちゃん。裸になってください……!」
要するに、です。わたしに背中を拭われたのと同じように、わたしの背中を拭おうという事。そしてワンピースを着るように言うでしょう。
わたしを見つめる彼女の視線から、まるで獲物を仕留めるかのようなほのかな嗜虐の眼差しを感じましたけれど……
「キャミだけで良いですよね……?」
イエイヌちゃんは「あっ」と思いついた様に呟きます。
「えへへ……失礼しました……」
「まぁ裸でも良いですけど……イエイヌちゃんしかいませんし……」
なんだか少し荒い鼻息が聞こえてきましたが、無視です無視。
わたしはキャミソールを脱いで、彼女に背中を向けます。
「どうぞ……というかお願いします、イエイヌちゃん」
わたしだって彼女に裸体を晒したいという訳ではありませんが、綺麗に着たいという思いはわたしにだって当てはまります。要するに折角の立派な服ですから、汗で着てすぐに汚してしまうのは勿体ないのです。
「では、失礼しますね……!」
不思議に思うくらいわくわくした口ぶりでした。
「はい、お願いしま――ひゃっ、ふっ、ちょ……やはっ……!」
彼女はタオルでわたしに触れる前に指の先端で背中をくすぐって来ました。
「ちょっと、イエイヌちゃん……? さっきわたしもやりすぎちゃいましたから、そこは謝りますけど……」
「し、失礼しました……」
イエイヌちゃんは申し訳なさそうに呟きます。わたしも「そこまで言うつもりでは」と弁明しましたが……。その後はわたしの背中をそっとタオルで拭ってくれました。
何度か小さく声が出てしまいましたけれど、順調に背中は拭い終わったようです。
「終わりです……! 後はどうぞ!」
彼女はそう言ってわたしにタオルを手渡します。
「ありがとうございます、イエイヌちゃん」
わたしは感謝の言葉を伝えて、イエイヌちゃんがそうしたのと同じように身体を軽く拭いました。……何故かイエイヌちゃんの視線を感じましたけれど、それは気にしないことにします。
「こんなもんですかねぇ」
そう言って振り向くと、イエイヌちゃんは腕にかけていたワンピースをわたしに手渡しました。
わたしは小さくぺこりと頭を下げて、受け取ります。
背中のボタンを外して、頭を通し(イエイヌちゃんから「なるほどぉ」という声が聞こえました)、そして、袖を通して、ちょっと整えて……っと。
「あ、ボタンお願いしても良いですか……?」
わたしはイエイヌちゃんに背中を向けて、頼みます。彼女は快く引き受けてくれました。少しだけ苦労しながらですが、何とかボタンも留まり、これで大丈夫。
「ん……ありがとうございます、イエイヌちゃん。どうでしょう……?」
イエイヌちゃんは瞳をきらきらさせて言いました。
「似合ってます! かわいーです! はい!」
べた褒めでした。
「そ、そうですか……、照れちゃいますね……。ありがとうございます」
思わず微笑みながらそう伝えますが……ちょっと思う所も無い訳ではありません。
イエイヌちゃんはスタイルが良いですから、それと同じくシルエットも大人びて見えますし、だからこそ、一見すれば地味な意匠のワンピースでも映えるのでしょう。『普段と違う格好』という非日常感も強い印象を抱かせます。
かたやわたしはと言えば、体型が子供っぽいですから……このワンピースでは少し背伸びした子供という感覚が拭えませんし、髪の色も少し派手気味ですのでどうしても浮いてしまう気がします。
「んふふーいえいえー。髪の色綺麗ですから、ともえちゃんは似合いますねぇ……」
しげしげと感心する様につぶやくイエイヌちゃんでしたが、わたしからしてみれば別のことを考えていますので、思わず聞き返してしまいます。
「派手じゃないですか……? 前みたいに黒髪だったらもうちょっと違ったでしょうけど……」
わたしの言葉に彼女は首を傾げて考えて、ゆっくりと口を開きました。
「んー……黒い髪もステキでしょうけど……この色でもステキですよ? 草原と、お花みたいじゃないですか!」
彼女の解釈の仕方にあっけにとられてしまいました。彼女の見立てはなかなか詩的に思われますし、もしかしたら間違っていないのかもしれません。特別な服を着る時ぐらい、前向きにいきたいもの。
「も、もしかして失礼なこと言っちゃいました……?」
不安げに彼女がわたしに尋ねます。
わたしはそっと彼女の頭に手をあてて、微笑みます。
「いえ、ステキな褒め方してもらえて、嬉しくって……ありがとうございます。イエイヌちゃん」
彼女は微笑んで「どういたしまして」と嬉しそうに呟いたのでした。
「あ、そう言えば」
イエイヌちゃんはぼそりと呟いて、玄関の方へと行きます。
「どうしました? 何か思い出したことでも……」
ぱっかんと音がして、玄関脇に置かれた戸棚が開かれました。中を覗いたことはありましたが、その時は何も無いと判断していたような……?
「これですこれです!」
彼女がそう言って取り出したのはビニール袋に収められたサンダルでした。
彼女から受け取ってしげしげと眺めると、パークに不釣り合いな位「おしゃれさ」を意識したサンダルです。どちらかと言えばアウトドアなきらいのあるこのパークでは、この靴では行動し辛いでしょう……そう思えてしまいます。薄い茶色を基調としたサンダルですが、編み込みの一部には白色が混じり、ぼんやりした雰囲気を引き締めているように思われました。
また、サンダルのヒールは三センチほどで、靴底もそこまで厚いものではありません。なので履きやすそうではありますが……甲の側は繊維質の編み込みがあるばかりで、爪や肌の殆どが露出してしまいます。
「まるで、この服にあわせたみたいですよね!」
よく考えてみれば、わたしもイエイヌちゃんも靴や靴下に関しては頓着していなかったのです。ですから、普段の靴で外に出ればおしゃれとは言い難いでしょう。
「もしかしたら、お父さんが一緒に買ってくれたんじゃないですかね……? 昔も今も、あんまり靴はこだわりがなかったので、わたし……」
パークだから、という事情もあるでしょうけれども……。
イエイヌちゃんはふんふんと納得するように声を出しました。
わたしは靴下を脱いで、試しにサンダルを履いてみます。
「サイズは……うん、大丈夫そうですね。ちょっと違和感あるかもですが……履いてみます?」
「はい!」
イエイヌちゃんはいそいそとサンダルに足を通します。白い肌に、桜の花弁のような爪があって、摘み取ってしまいたい位、綺麗。
少しバランスを崩しつつも、彼女はサンダルを履き終えました。
ヒールのお陰で彼女の目線が高くなったのも、どことなく新鮮です。イエイヌちゃんはわたしよりもほんの少し身長がありますが、目線の高さはさほど違わなかったのですが……今のイエイヌちゃんの眼を見つめるには少し視線をあげる必要が出てきました。その事実に……その、何というか……胸がきゅんとするような、しないような……?
「ほへぇ……ちょっと、歩きにくいかもですね……走ったりはできなさそうです……」
思わず実用重視な言葉をつぶやくイエイヌちゃんに、くすりとしてしまいます。
「走る靴じゃないですよ、これ。綺麗に、可愛く、その為の靴です」
まぁ彼女、既に十分可愛いですけどねぇ。
「おしゃれ、とか言うやつですか……なるほど……」
「例えば、そうですねぇ……ヒトがいっぱい居た頃のセントラルにお買い物に行く時とか、そういう特別なときに、特別にしようと思って使うものです。この服も、靴も」
自分でも考えながらそう言ったのですが、腑に落ちる様に思えました。
それはイエイヌちゃんも同じだったようで、細かく頷いています。納得してくれたのでしょうか?
「折角です。イエイヌちゃん。この後、この格好で、丘に行きませんか?」
特別な機会に、特別な場所へ行く。その言葉の響きはなんとも素敵に思われました。けれども、考えてみれば『他所行き』の機会などそうそう無く、また、今のパークでは何処かへ行くとなると少なからず旅の様相を呈します。となると……なかなかこういった服を着ることは無いことで……。
「! いいですね! えへへ、楽しみです! すぐ行きますか!?」
イエイヌちゃんは尻尾を勢いよく振って、わたしに尋ねました。
「んーと、少し支度をして……あとわたしは髪を整えますかね。なのでもう少しだけ待ってもらっても平気ですか?」
イエイヌちゃんは「はい!」と大きく頷き、台所へと足早に向かいます。きっと水筒を用意するのでしょう。
それから少しして、支度が終わり出発の時間になりました。
気づけば蝉の鳴き声は変化していて、騒がしさを感じる音から切なげな音に変わっていました。
イエイヌちゃんは待ちきれないと言わんばかりに尻尾を振って、被った帽子をもぞもぞと整えています。わたしはそんな彼女を尻目に鞄を肩から書かけ、帽子を被ります。
「よっし、行きましょうか」
「はい!」
わたし達は扉を開きます。
昼下がりの沸騰させるかのような強い日差しが弱まって、ふんわりとした優しい風が吹き始めている……そんな自然が、わたし達を出迎えます。
家を出てふと振り返ると、ラッキービーストさん達がお家の壁に向かって何らかの作業をしているのが見えました。おひとりは腕がひとつ付けられた大きな機械の脇に立っていて、その機械の作業を近くで監視するラッキービーストさんがもうおひとり居ます。
わたしは彼らに近づいて、声をかけます。
「お疲れ様です、ラッキービーストさん」
おふたりともわたしの方を向いて小さくお辞儀をしてくれました。
「サギョウナラ、ニチボツニハ、オワルヨ」
「なるほど……」
何をしているのかはわかりませんが、ちらりと機械の手元を覗くと開かれたお家の外壁の中に、細かな配線が目に入ります。
「いつもありがとうございます。えっと……わたし達は出かけさせていただきますね」
わたしがそう伝えると、機械の監視をしている方のラッキービーストさんがちらりとイエイヌちゃんの方を見てから、わたしに小さな声で囁きます。
「サムイトコニハ、イカナイヨウニネ。イエイヌ、コゴエルヨ」
一瞬だけぽかんとしてしまいましたが、なるほどとすぐに納得します。
つまり、普段と違う格好をしているから寒さに弱くなっているぞ、ということなのでしょう。
「大丈夫です。あっちの丘の方までです。靴も歩きにくいですから、気をつけます」
「リョウカイ。キヲツケテネ、イッテラッシャイ」
わたしは彼らの言葉に小さく会釈を返して、再びイエイヌちゃんの元へと戻りました。
イエイヌちゃんの元へと戻ると、わたし達は歩調を合わせてゆっくりと歩き始めました。
「何話してたんですか?」
彼女は不思議そうに尋ねます。
「んーと、作業について、ですかね。夜には終わるそうですよ? それと、気をつけてって」
くすりと小さく彼女は微笑んで、振り返ります。
「いってきますねぇー!」
イエイヌちゃんは楽しげに「ほふん」と息を付いて、前に向き直りました。
「珍しいですね、あんなに大きな声出すなんて……」
「えへへ、見守ってくれてるんだなって思ったら、嬉しくって……」
なるほど、と内心で呟いてしまいました。
「優しいですね、イエイヌちゃんは……」
わたしはそう返事をして、彼女の手をそっと取ります。
夏の暑さの中で、一際熱く感じる彼女の手は、けれど、柔らかで愛おしく思われました。
「ともえちゃんの手、少しひんやりしてますね」
そう言って彼女はわたしの手を撫でます。
「そうですか? イエイヌちゃんが温かいんですよ、きっと」
汗をかきにくい体質――というかイヌってそういう身体でしたっけ――だからか、体温が籠もってしまうのでしょう。ですが、温かさの理由はそれだけでは無いと、思ってしまいます。
「んふふー」
会話も程々に、ゆっくりとわたし達は歩みを進めます。
暫く前から、わたし達の散歩は変わりました。少し前までは、何があったとかあれはどうなったとか、そういう何かの話題を中心に散歩の最中はやや賑やかな雰囲気を帯びていたと思っています。
けれども、気づけばわたし達の間で会話は減りました。それは、単に話題が減ってしまったからという事もあると思います。わたしが眠っていた間の話や、イエイヌちゃんのお友達の話、わたしの思い出の話、そんなものを散歩に限らずお話しているのですもの。それは当然です。ただ、それだけが理由ではありません。
特に散歩の間はそうなのですが、意識して会話をしないようにしているような気がします。イエイヌちゃんがそう思っているのかはわかりませんが、少なくともわたしはそうです。
お互いに手を繋いで、黙って歩く。字面にするとなんとも味気ないものですが、不思議なことにわたし達の間に流れる空気は穏やかで、のんびりとしていて、愛しくて、何よりもかけがえのないものです。それは誓って言えるでしょう。
何故こうなったのか? という問への答えはわかりません。ですが、欠片ばかりの考えをわたしは抱いていました。それは、別段喋らずとも散歩を楽しめる、ということに気づいたから……なのだと考えています。精神が大人になった、とも言えるかもしれません。
同じ景色を見て、同じ道を一緒に歩いて、けれど感じることも、思うことも、全部違う。それがわたしとイエイヌちゃん――いいえ、わたしに限らず、誰もがそうでしょう――なのだと思います。そうであるのならば、今日の散歩で感じたことをわたしだけの秘密として大事にしてもいいでしょうし、今すぐ彼女と共有してもいいでしょうし、じっくりと心のなかで寝かせておいて晩ごはんのときに会話の種にしてもいいでしょう。
今を生きるからこそ、敢えて伝えない。今を生きるからこそ、敢えて後で伝える。それらを選べるだけ、わたしが成長したのかもしれません。それらを選べるだけ、イエイヌちゃんが成長したのかもしれません……ちょっとだけ、誇らしく思います。
ふと、イエイヌちゃんがわたしに言いました。
「ともえちゃん」
考え事をしていた所為で返事が少し遅れてしまいます。
「……なんですか?」
隣に視線を向けると、彼女はわたしの顔を見てから、髪の毛に視線を動かしました。
「その髪型もなんかおとなっぽくて、良いですねぇ……」
うふふ、とわたしは思わず声を漏らしてしまいます。
「ありがとうございます、イエイヌちゃん。……これ、結ぶ位置をズラしただけなんですよ?」
「ふーむ……それだけで結構変わるんですねぇ……」
今のわたしの髪型は、髪を結ぶリボンの位置を変えただけです。
麦わら帽子のつばが広いので、あんまり高いところで結ってしまうと帽子に干渉してしまうのです。ですから、それを低くしただけ。普段が耳と同じくらいの高さだとしたら、今はうなじくらいでしょうか。
「そうですねぇ……そしたら今度はイエイヌちゃんの髪を結んだりしてみましょうか? リボンやヘアゴムがあればですけど……紐は、うーん、絡まっちゃいそうですし……」
考え事を始めたわたしを見て、イエイヌちゃんが面白そうに小さく笑います。
「ど、どうかしました……?」
「いえ……やっぱり、考え込んじゃうところが好きだなぁって、思いまして……えへへ……」
そう言うなり、彼女はさっと前を向いて、腕を大きく振り始めます。
「とっとと……転んじゃいますよ……?」
「へーきですっ!」
照れ隠しなのか、少し意地を張ったように彼女は言いましたが……案の定、バランスを崩してしまいます。
「ほわっ……!」
わたしは彼女の腕を引っ張って、支えます。
「ぉっと……靴も普段と違うんですから、気をつけましょ?」
イエイヌちゃんはきまり悪そうに「ぅう」とつぶやきます。
わたしは気にしてないよ、と主張するようにちょっとだけ大きく腕を振り、足を進めます。
「ほら、日が暮れちゃいますよ」
イエイヌちゃんは小さく頷いて、歩き出しました。
「じゃねーイエイヌちゃーん、ともえちゃーん。また今度あそぼーねー!」
イエネコさんがわたし達に手を振ります。イエイヌちゃんもわたしも、空いた方の手を振り彼女に返事をしました。それから暫く、彼女の背中を見つめ、再び道を進み始めました。
丘へと続く坂道、その最中で、偶然イエネコさんとすれ違ったのです。
「今日はなんだか珍しいですね……イエネコさんとあんまり会えない印象ありましたけど……」
イエイヌちゃんは困ったように笑います。
「イエネコちゃんは結構歩き回るタイプですけど……夜の方が元気な子ですからね」
「あぁ、なるほどぉ……」
今は夕方と言って差し支えない程度の時間。風が冷えてきたお陰もありますが、陽射しは弱まり、涼しくなりましたし、空も茜色に染まりつつあります。
「けっこーのんびり来ましたからねぇ……」
イエイヌちゃんの言葉に、わたしは同意します。
「ですねぇ……嫌です?」
普段の格好なら、もっと早くここまで到着していたのでしょうけれども……わたし達は一歩一歩をのんびりとゆっくり進んだために、普段よりもずっと時間がかかっています。それを嫌う方も、もしかしたらいるでしょう。
イエイヌちゃんは少しだけ考えて、言いました
「んー……毎回となると、ちょっと考えちゃいますけど、でも……」
彼女は空を仰いでから、わたしの顔を見ます。
「きょうくらい、とくべつ、ですから!」
わたしはくすりと笑います。
「毎日が特別、だと思いますよ? お陰様で」
イエイヌちゃんはわたしの言葉が擽ったかったのか、肩をすくめる様にしながら笑って、駆け出します。
「危ないですよー?」
駆け出した彼女の背中に声をかけましたが、それに返事をしてくれるよりも先に、彼女は坂道のてっぺんに到着しました。そして、振り向いて言いました。
「へーきです! えへへ、一番乗り! です!」
まったく、と思いながらわたしは息を漏らし、彼女に追いつこうと一歩踏み出します。すると――
「きゃっ!」
びゅうとひとつの風が吹きました。今日で一番強い風と言っても差し支えないかもしれません。風はわたしとイエイヌちゃんの身体を撫で、そして海の方へと駆け抜けていきます。
思わずわたしは帽子を押さえて姿勢を低くしました。それはどうやらイエイヌちゃんも同じだったようです。
「びっくりぃー……」
小声でつぶやいてから視線を上げると、わたしは息を飲みました。
この辺りは風の通り道があるのか、まだ弱い風が吹いています。その風に彼女の身体はぱたぱたと煽られ続けていました。その姿に、わたしは見惚れてしまいます。
煽られて空を撫でる白いワンピースを夕焼けが照らし、彼女の太腿の辺りを透かせています。逆光ではありましたが、ちょうどイエイヌちゃんの背後に太陽があるからか、薄暗さこそあれども彼女の姿をはっきりと見つめることが出来ました。彼女はまるで後光を湛えるかの様に、輝いていました。
あぁ、夕暮の、薄暮の光に透けて浮かぶ彼女の身体のシルエットの美しさと言ったら……! わたしは既に彼女の裸体を見た事があります。けれど、その時に見たそれよりもずっと、ずっと……神秘的にさえ思えました。それと同時に、どうしてか切なさのような、郷愁のような、不思議な思いも抱きます。
イエイヌちゃんは帽子を押さえた手をそのままに、風の行く方向を見つめていました。その手も、その瞳も、帽子の影になった耳元も、風に靡く髪も、全てが完成されたひとつの絵画のようで、淡く、けれど確かにわたしに訴えかけます。夏の夕暮れとはこのようなものだ、と。燃え盛る炎の鎮火の寸前。その切なさ。明日も来るであろう陽光との暫しの別れは切なくも愛おしいものだと。
わたしが油絵を描けるのなら、きっとそうしたでしょう。この色濃くも切ない光景を切り取るには、あれが一番ですから……。色鉛筆では、淡すぎます。水彩絵では、切なさの方が強く出てしまいます。繰り返し訪れる夏の夕暮れの繰り返し覚える切なさを、思いを込めて描くには……わたしは自身の不遇と力不足に嘆きそうになります。けれど、描きたくて、仕方が無い。
わたしはしばし彼女の姿に見惚れ、風が弱まってなおも、身動きが取れません。
「……ともえちゃん……?」
わたしは思わずイエイヌちゃんに言ってしまいます。
「動かないで! あっち見てて! 手は帽子! 身体は、そう、そっち!」
彼女はきょとんとしながらも、指示に従ってくれました。わたしは衝動的に鞄からスケッチブックと色鉛筆を取り出し、彼女の姿をスケッチします。ちらり、ちらりと進捗に応じて彼女の方に視線を送りますが……彼女は困った顔をしていた気がしました。
それからスケッチが終わって、わたしは駆け足に彼女の元へ。
「失礼しました……ごめんなさい、無理言っちゃって……」
彼女はお腹の底から漏れ出すように、笑います。
「いえ、大丈夫です。うふふ、ともえちゃん、すっごい真剣な顔してましたよ? ちょっと困っちゃいましたけど……えへへ」
「本当にごめんなさい……なんか、がーってなっちゃって……」
「いえいえ、気にしないでください。あ、でも絵は後で見せてくださいね!」
わたしは「もちろんです」と答えると、イエイヌちゃんは湛える微笑をそのままに、広場の方に視線を動かしました。わたしも彼女に倣って、広場を見つめます。自然、わたしの手は彼女の手元へと引かれるように動いていました。
ふたりして、じっと広場を見つめます。
「やっぱり、良い所ですね……ここは……」
わたしが口を開いた頃には、わたしと彼女の手は強くつなぎ合っていて、確かな熱を孕んでいました。
「……はい……!」
ぼんやりと彼女が相槌を打ちました。
気づけば下草の生えた場所にふたりで腰を下ろして、やっぱり景色を見つめていました。
菫色に染まり始めた空の下、ふたり、手を繋いで……その特別な感覚にしばし酔いしれます。そして、それを彼女と一緒に堪能できることの幸せを、感じていました。
きっとイエイヌちゃんも同じことを思っていたのでしょう。しばらくすると、わたしと彼女の視線が交差し始め、近づいて、くっついて、離れて――そして、再び広場へと視線を戻したのでした。
菫色に染まった空が、新たに黒墨色へと塗り替えられ、そして月が空に漂う群雲を淡墨色に照らす頃、わたし達はお家に戻りました。出発前に告げていた様にラッキービーストさん達はもう作業を終えて、姿を消していました。
「ふぅ、今日はお疲れさまでした、イエイヌちゃん」
彼女はベッドに身体を預けて、天井を仰いでいました。
イエイヌちゃんは満足げに呟きます。
「今日はすてきでしたぁ……」
わたしは彼女の隣に腰掛けて、頬に触れながら尋ねます。
「えぇ、本当に……イエイヌちゃんのお陰です」
「いえいえ、ともえちゃんの……えへへ、終わらなくなっちゃいますね」
小さく笑みを零して、彼女は身体を起こします。
「ともえちゃんとお揃いで出掛けるのって、凄い幸せな気持ちになれますねぇ……」
しみじみと零す言葉に、わたしは少しだけ考えてから返事をします。
「んー……普通、一緒の服って着ないから……ですかね? 後は――」
他にも、仲間意識が殊更強く感じられる、とかありそうですけど……これは話をややこしくしてしまいそうに思われますので、黙っておきましょう。
「それはさておき、また夏の間に一回くらいはお出かけしましょう? 今度は丘じゃなくて……そうですね、どこか行ったことの無い場所とか」
わたしのお出かけの提案に彼女は楽しげに頷きます。
「はい! じゃあ、明日とか――」
あまりにも気の早い彼女の言葉にわたしは肩をすくめてしまいます。
「うふふっ、それだとトクベツじゃなくなっちゃいますよ?」
イエイヌちゃんは「ふむぅ」と考え込みながら、呟きます。
「確かに……でも、お出かけは……んー……お散歩くらいなら……?」
「お散歩なら……どうしましょう? どこか行きたいところとかあります?」
イエイヌちゃんは少しだけ間を置いてから答えてくれました。
「でしたら……そうですね、暑い日ばっかりでしたから、川の方で涼んだりとか……?」
思いがけない言葉に、わたしは頷きました。
「いいですね、でしたら――」
そうして一緒の時間が過ぎていきます。
翌朝、わたしは描いたスケッチを改めて見返しました。その日の夜に、色を着けようと思ったのです。そして、気づいたことがありました。描いたスケッチが、どことなく、何かに似ているのです。白いワンピースを着ていて、風に吹かれた女性の絵……。
数秒ほど眺める内に「何に似ているのか?」という問いへの答えが見つかりました。画集の絵、そして、お父さんの描いた絵、わたしが憧れていた絵……。
きっと、わたしはあの絵が好きなのでしょう。きっと、わたしが絵を描きたいと思った源泉があの絵なのでしょう。どちらが? ではなく、どちらとも、その役割を担ってくれているのだと思います。
それに気づけたことが、それに少しだけ近づけたことが、それを意図せず描こうと思えたことが、誇らしく思えました。けれど同時に、自分の無力さにも気づいてしまう。悔しくて、悲しくて、不条理にすら思えました。……けれど、追い付きたい。お父さんに、あの絵の人に。無理かもしれないけれど、時間も気持ちもいっぱいあります。だから、絵が、好きなんです。だから、絵を、描くんです。
それに彼女と一緒なら、何だって出来るくらいの気持ちになれます。だから、きっと――
そう思えた、夏の一日でした。