クッキーを焼いたあの日から数日をかけて、わたしとイエイヌちゃんは遠出の支度をしてきました。その理由は、お話ばかりに出てきたフリーシアンさんへのお礼の為。彼女の居る場所はどうやら山の中腹あたりのようですので、一日やそこらで彼女にお礼をしてすぐに帰るというのも勿体ないですし、失礼ですから。
そして今日はその出立の日。空は綺麗に晴れていて、初夏の青い風が時折身体を撫ぜてくれるような心地の良い日でした。
「ともえちゃん、ともえちゃん」
イエイヌちゃんはお家の中から空の様子を眺めていたのですけれども、何かを思い出したようにわたしに尋ねます。
「どうかしました? 何か忘れ物とか、失くしちゃったとか――」
わたしは荷物の確認を中断し、彼女の方を見返します。
イエイヌちゃんはわたしの言葉に首を振りました。
「そういうのじゃないんですけど……あの、寝袋って、どうします?」
ん……? どういうことでしょう?
「寝袋がどうかしました……?」
「その、今まで使わせてもらってきた寝袋って、うみの方でお借りしたものですよね? 返さなくても――」
「あー……なるほど……お話するの忘れちゃってましたね、すみません、イエイヌちゃん」
わたしの言葉にきょとんと不思議そうにするイエイヌちゃん。
わたしは彼女に説明を始めます。
あれは本来お父さんとわたしのものなのです。あの施設に置かれていたのは処理に困ってのことでしょう。お父さんが忘れていったのはある意味で正解でしょうけれど、あそこに置いておこうと思ったお姉さんのこともありますから。何にしても返す必要なんて無いのです。今度また海へは行きたいところですけれど、それは今ではない……というところでしょうか?
わたしの説明を聞いてイエイヌちゃんはふんふんと納得のいくようないかないような、そんな不思議な表情を浮かべました。
「要するに、です。あれはお父さんの残したもので、あれを使う正当な権利がわたし達にはある、ということですよ」
ちょっとばかし小難しい事を言ってしまいましたが、要するにそういうこと。イエイヌちゃんはますます眉間にシワを寄せて考え込んでいましたが、唐突に耳をぴくりと動かして玄関の方に顔を向けました。
「――! ちょっと失礼しますね……!」
そしてそのままとてとてと外へと行き、様子を伺います。
「来たんですかぁー?」
既にお家の外に出てしまったイエイヌちゃんに聞こえるよう大きめの声で声をかけると、外から「そうですぅー!」と楽しげな声が響きます。
わたしは小さく微笑んで、イエイヌちゃんの後を追いました。
外に出ると、目がくらむような強い陽射しがわたしを迎えます。そして目が慣れるに従って、青々とした若い青色を湛えた木立と草原とが視界に入ってきました。そして、そんな景色の遠くからエンジンの駆動音が聞こえてきます。
「ん、今回はわたしにも聞こえますよぉー」
思わず興奮混じりに呟いてしまいますが、イエイヌちゃんもどうやら楽しみなのは変わらない様子です。
「ですですぅ! 久しぶりにともえちゃんとお出かけできるの、楽しみです!」
イエイヌちゃんは耳をぴんと張りながら、しっぽをぶんぶん……よほど楽しみなのでしょう。ふと考えを泳がせると、イエイヌちゃんをひとりにしてしまった期間のことに触れてしまいそうになりますが、今は向き合うべき時間ではない、そう思って胸にしまい込みます……考えるだけで、切なくなりますから。
「んふふぅー……」
彼女はわたしの腕をきゅっと抱え込み、そのまま二の腕に頬ずりをしました。擽ったいですし、暑いと言えば暑い。けれど心地よい。
「歩いて行くのも大変ですし、車、お願いしてよかったですね」
そう言って、彼女の顔を見つめると、彼女もわたしの瞳をじっと見つめていました。そして、目が合うと同時に、彼女は瞳を閉じます。ついでに、こころなしかつんと唇が尖っているようでしたけれども、わたしは意地悪の気持ちとすぐに車が来るぞという両方の思いを込めて、そっとささやきます。
「口で言わないと、わかりませんよ?」
すると、イエイヌちゃんは返事をするよりも先に頬をぷっくりと膨らませて抗議めいた表情を浮かべます。わたしは彼女の可愛らしい表情にくすりと微笑んで、さっと口づけをします。一秒にも満たない、浅い浅い口吻。
ともすれば不満にさえなりそうな短い時間。けれどもイエイヌちゃんは口からふすーっと息を漏らして満足気な笑みになりました。まったく、表情がころころ変わるったらありません。そういうところが……じゃなくって。
「ほら、車来ましたよ?」
そう言ってわたしが開いた方の手で道の先を示すと、車がはっきりと見え始めました。距離にすると百メートルもないでしょう。
「むっ……」
イエイヌちゃんは手で屋根を作ってわたしの指の先をじっと見つめます。
そうこうしている内に、車がわたし達の目の前へとやってきました。
最初にセントラルへ行った時と同じ、ピックアップバン(とラッキービーストさんは言っていました)がわたし達の目の前でゆっくりと止まります。
そして、運転席が開いてラッキービーストさんがぴょこりと飛び降りました。
「オマタセ」
わたしもイエイヌちゃんもぺこりとお辞儀をして、答えます。
「キョウハ、ともえがウンテンスルンダヨネ?」
「ほ、ほんとうですかぁっ!?」
イエイヌちゃんが伺うようにわたしの顔を見つめます。
「えへへ……そう、です……ちょっぴり心配ですけど……初めてですし」
自信がない訳ではありません。ですが、緊張はしますし、動かなかったらどうしようとも思います。
「ダイジョウブダヨ。レンシュウはシタシ、ゴウカクダヨ」
そう言ってから、ラッキービーストさんは荷物を積むように促すのでした。
荷物、といいましてもそれほど多いということもありません。普段の肩掛けと寝袋、水筒、それとクッキーの包みくらいのものです。
確認しつつも荷台に鞄と寝袋を置き、包みと水筒をイエイヌちゃんに持ってもらいます。
「うん、おっけーですね……じゃあ行きましょうか、イエイヌちゃん」
「はい!」
イエイヌちゃんはさっと荷台の方へと飛び乗りましたが、わたしはそれを静止します。
「折角ですから、こっちに乗ってくださいよぉ……」
わたしは助手席のドアを開いて促すと、彼女は「なるほどぉ」と呟いて助手席へ……何がなるほどなんでしょう、とは聞きませんが……ちょっと気になります。
それはそれとして、という思いを込めてわたしは自分の頬をぺちぺちと軽く叩きます。
「……よっし、運転……!」
運転席の扉を開いて、乗り込もうとするとラッキービーストさんがぴょこんと跳ねるのが視界の端にちらりと見えます。
「ワスレナイデ……」
「し、失礼しました……」
ラッキービーストさんを抱えて、助手席と運転席の間にそっと置きます。……流石に不憫に思ったのか、それとも不安定と感じたのか、イエイヌちゃんが彼を抱え込みます。
「ありがとうございます、イエイヌちゃん」
彼女は「いえいえ」と微笑み、それに心を落ち着かせながら、わたしは車に乗り込みました。
ハンドルの隣にあるスイッチを押すとぶるんとエンジンの震える音が響き始めます。そして、ブレーキペダルを踏んでからクラッチを同じように踏み込みます。
「ふ、ふおぉ……」
イエイヌちゃんがわたしの一挙手一投足を興味深そうに見つめていましたが、そこに意識を向けるよりも、エンストしないことに集中集中……!
「イエイヌちゃん、揺れる、か、も……」
ギアを入れ替え、クラッチに込めた力を緩めます。そして、ブレーキから足を離しすと車体が少し揺れます。そしてアクセルをゆっくりと踏むとエンジンの音が変化していき――クラッチを離します。
「おぉ……う、動いてますよ! ともえちゃん!」
「ジョウズジョウズ。ボクもイルカラ、アンシンシテ。アンナイハマカセテ」
イエイヌちゃんは両手をぱちぱちと小さく叩いてくれましたが、それに返事をする余裕もありません。なんと言ってもわたしが今動かしているものは極めて危険で、事故だってありえるものですから。
「い、いきますね……!」
ぶおぉんと音をたてて、ゆっくりと道を進み始めました。
わたしが運転している最中、窓を全開にしてイエイヌちゃんが風を楽しんでいます。きっとぱたぱたと髪がなびき、それをくすぐるように書き上げているのでしょう。それを見る余裕もありませんが、けれどもそれを楽しんでいてくれることがわかる。車って不思議です。
「あ! ともえちゃん!」
イエイヌちゃんが楽しげに声をあげます。
「な、なんです……!?」
わたしは運転に必死で彼女の方を見ることができません。
「あそこに――さんがいますよ! こんにちわーっ!」
「へぇっ!?」
まともに返事もできません。
……自分が如何に緊張しているのかわかるというもの。ハンドルを握る手も汗で濡れています。イエイヌちゃんもわたしの状態を察したのか「しつれいしました……」と呟きました。
その言葉を聞いて、わたしはアクセルから足を離し、ゆっくりとクラッチを踏み、ギアを落とします。少しばかり緊張が解けるような心地を味わいながら、車の速度を落ち着かせて……わたしはイエイヌちゃんに謝罪しました。
「い、いえ、イエイヌちゃんが悪い訳では……わたしが不慣れなのがいけないんですし……」
「わ、私も集中しすぎちゃってて……すみません……」
しゅんとしつつある空気を割るのはラッキービーストさんでした。
「ともえ、ツギはミギにマガッテネ」
「は、はい……!」
ラッキービーストさんの指示の通りに道を曲がります。気付けばいつもの分かれ道に来ていたようです。
「あれ? こっちの道ってお山の方に行く道でしたっけ……?」
イエイヌちゃんがわたしに尋ねます。
「た、確かに……山に行くなら左かと思ってましたけど……」
この道は山から離れる訳では無いですが、島の外周部へと続く道だった筈です。わたしもそこまで詳しい訳では無いですが、すぐに道を曲がるようなことは無かった気がします。
わたし達の疑問に答えるように、ラッキービーストさんが言います。
「トチュウでマガルヨ。チョット、トオマワリダケド、ヒロイミチをススムヨ」
「な、なるほど……ありがとうございます、ラッキービーストさん」
そう言って一瞬だけ視線をラッキービーストさんの方へと向けると、彼はお礼を言うように胴体のレンズをぴかりと一度だけ光らせました。再び視線を前に向けて、進みます。
いつもの分かれ道を右に曲がり、そのまま十分ほど経過して今。多少気持ちに余裕ができてきたのか、時折イエイヌちゃんの顔をちらちらと伺います。
彼女は先程までと変わらず窓から吹き込む風を浴びながら、遠くの景色を見つめています。わたしも、イエイヌちゃんも、広々とした草原を見つめているというのがなんとも不思議な気持ちです。歩けば結構な時間を必要とする距離も、車ならあっという間。時間を掛けない移動というのがどことなく寂しいと感じる心もありますが、今回の目的は移動そのものではありません。
「……イエイヌちゃん、楽しいですか?」
視線だけを彼女の方に向けて、尋ねます。
「はい!」
彼女は笑みを浮かべて、わたしの方に顔を向けました。
わたしが「それなら良かったです」と返事をすると、彼女はそのまま言葉を続けます。
「前乗せてもらった時もそうでしたけど、ぎゅんって景色が流れるの好きですし……それに、えへへ」
「……それに?」
彼女はわたしの太腿に手をあてます。少しだけくすぐったいのですけれど、心地よいですし、温かいですし、何より運転に支障はありませんから、止める必要もありません。
「それに、ですね……えへへ、ともえちゃんの真面目な顔、見れてうれしいなって」
わたしは視線を前に戻します。決して、照れから来る訳ではないのです。イエイヌちゃん、さっきキスしたからかテンション高いんですかね……? なんて少しだけ思ってしまいます。
「ありがとうございます。……でも褒めても何もありませんよ?」
「そんなつもりで言ってるんじゃないですってばぁ」
イエイヌちゃんは微笑んでわたしに言い返します。
「あ、でも……そうですねぇ――」
わたしは窓を下げて運転席からも風が入るようにしました。風の吹きすさぶ音で耳がいっぱいになります。まとめた後ろ髪や横髪が風に弄ばれる感覚がどこか心地よい。
「――大好きなイエイヌちゃんの笑顔が見られて嬉しいですよ、わたしも」
いくら耳の良いイエイヌちゃんと言えども、びゅうびゅうという風の音で溢れた今の車内ではわたしの言葉は伝わらないはず……そう思いながら言い切ったわたしは窓を上げ、閉じます。なんとも恥ずかしいので一瞬だけ彼女の顔を伺うと、真っ赤になってそっぽを向いていました。
「……聞こえてました?」
わたしが尋ねると、彼女は小さく頷いたのでした。
わたしはわたしで前を見つめ、イエイヌちゃんはイエイヌちゃんで窓の上げ下げをしてなんとなしに黙り込んでしまっていましたが、それを破るのはやっぱりラッキービーストさんでした。
「ともえ、ソコデトマッテ」
「ひゃ、ひゃい!」
少し噛みながらもそう言って止まります。少し乱暴になってしまったようで、かくんと小さく車が揺れました。
「チョットマッテテネ」
彼がそう言っている間、周囲を見回すと左手側には金網で封鎖された道路がありました。道路……これまで通った道と異なり、アスファルトで舗装されていて街頭も幾つか点在している様子です。勿論、手入れが行き届いていないのは言うまでもありません。金網越しに見える限りでもひび割れや雑草などが生えています。
不意にちかちかとラッキービーストさんの胸元のレンズが幾度か光りました。それに眼を引かれ、わたしとイエイヌちゃんは彼を見つめていたのですけれど……それ以降、動くことも光ることも、何もありません。どうしたのだろう? と疑問の視線を送っていると、唐突に金網が左右に開きます。
「ハイッテ、ミチナリダヨ」
「ありがとうございます!」
少しだけ驚いてしまいましたが、わたしは道を曲がり、車道を走り始めました。車道に入ると、両脇には林が広がっていて、進むにつれて段々と木々の密度が増していきます。
暫くまっすぐ進んだ後、左にカーブ。ちょうどその辺りから道には傾斜が入り始めて、アクセルに込める力が俄に増していきます。カーブを曲がるとすぐに右にカーブ。すぐに左に……つづら折りの山道が始まりました。
何度目かのつづら折りを曲がりながら、ラッキービーストさんの話を聞きます。
曰く、この道は山間部の施設への物資搬入用の通路だったようです。そのため、基本的には立入禁止。今回の目的地までの道は開けてあるが、他の施設へは入れないようになっている、とのこと。
「……なるほどぉ」
わたしはしっかりとラッキービーストさんの話を聞いていたのですが、イエイヌちゃんはそれよりも外の光景に首ったけの様子です。窓に前のめり気味になっていて、彼女の髪の毛が過ぎゆく梢の影と陽射しとで明滅するかのようです。それに、座ったままなのでそこまで大きい動きでは無いですけれど、尻尾だって振られるように動いています。
「イエイヌちゃん、何か面白いものでもありました?」
わたしが尋ねると、彼女は姿勢を戻してわたしの顔を見つめます。
「これってものがある訳じゃないんですけど、でもお家の周りじゃ見られないものばっかりですから!」
くすりとわたしは微笑みます。
「確かに……あっちだと林はあっても森って感じじゃ無いですからねぇ」
窓から吹き込む風が段々と冷えてきていて、初夏とは思えないような心地にさえなります。
イエイヌちゃんは小さく伸びをして、車の天井越しに空を見上げて噛みしめるように言いました。
「あと、空がすっごい近くなってて、綺麗だなぁって……えへへ」
わたしは少しだけ姿勢を下げて、フロントガラスから窓を覗います。
真っ青な空が近い、という彼女の言葉もなんだかわかりますが……けれど運転中の身ですから、いまいち景色を楽しむことができません。
「なる、ほどぉ……? 確かに綺麗な空ですけど……降りたらちゃんと見たいところ……」
と、そんな話をしている内に、目的地らしき場所が見えてきました。そこは金網では無く、しっかりとした金属のゲートがあり、そこから伸びるのはわたしの腰ほどの高さがある木製の柵。その手前側には森が広がっていました。まだ道は続いていましたけれど、ラッキービーストさんのお話では一番最初の門とのことでしたから、ここが目的地……。
「アソコのゲートダヨ」
わたしはラッキービーストさんの言葉に返事をし、ゲートを潜りました。
ゲートの先に入って暫くの間は建物と建物の間という具合で、景色も何もありません。左手側には木造の小屋のようなものが点在し、その内の幾つかからは機械のパイプや電線が伸びています。倉庫だったり、もしかしたらフレンズさん達が寝起きする場所なのかもしれません。右手側には真っ白なコンクリート造の建物。こちらはおそらくは何らかの研究所なのでしょう。
「ははぁ……流石に裏口って感じですねぇ」
思わずぼそりと呟きましたが、イエイヌちゃんもラッキービーストさんも返事をしません。
そのまま暫く進むと、急に視界が開けます。
「――! わぁっ! そーげんですよぉ! そーげん! っふぅ!」
イエイヌちゃんの興奮混じりの楽しげな声に、わたしも思わず頬をほころばせます。
右手側の施設はログハウスめいた建物に変わっており、視界が防がれているという点ではあまり変わりません。けれども左手側では背の低い草が一面に広がっています。
遠くの方ではラッキービーストさんが整備でもしているのか、ちょこちょこと動いている様子まで……。一面に広がる牧草は途中から下っており、あたかも地平線のように見えました。地平線とはまるで異なるのは、その上に広がる景色でしょう。空ではなく、海でもない。見えるのはわたし達が暮らし、或いは過ごし、そして旅をしてきた光景が一面に広がっているのです。視界の殆どを草原が締めていますけれど、お家の近くの林や、セントラルへの道、海辺への道、そして海……そんなものが視界いっぱいに広がって、どうしてだか胸が高鳴るような、苦しいような、こみ上げるような、不思議な感覚を覚えます。もしかしたら『感慨』というひとことで済む感情かもしれませんけれど……ひとことで済ませてしまいたくない不思議な感覚……。
車を施設に寄せ、停めると、イエイヌちゃんは勢いよくドアを開き、駆け出しました。
「――ぅわふーっ!」
あちゃぁと思わず頭に手をやりましたけれど、なんとなく海に初めて言った時の事を思い出して、自然と口角が上がってしまいます。
「まったく、広い所となるといつもはしゃいじゃって……待ってくださぁーい」
イエイヌちゃんの後を追いかけるのですが、彼女はもう遠くに居て追いつくのも一苦労、という具合です。
ある程度進むと、草原……というよりも牧草地の全容が理解できてきます。
基本的にはやや勾配がかかっているのは先の通り。ですが、一箇所だけ少しだけ背の高い場所がありました。そこは石造りの土台と木の屋根があって、ベンチもあるようです。要するに休憩所なのでしょう、彼女はそこに腰掛けてわたしが来るのを待っている様子です。また、牧草地の縁は森に囲まれていて、手つかずの自然と管理された自然とを明確に切り分けているような感覚を覚えます。森の手前には先ほどのゲート周辺と同じような柵が巡らされていますが……そちらは雰囲気の為だという印象です。というのもあまりにもボロボロで何らの意図も役割も見いだせないのです。仮に綺麗な状態であったとしても、背も低すぎますし……。それに何より……本当に空が近い……! 手を伸ばせば雲さえ掴めると思われるような、指の先に、手のひらに、空が触れているようなそんな感覚です。
と、よしなし事を考えながら、休憩所に近づいていきます。
休憩所の屋根の下で、イエイヌちゃんは周囲を警戒するかのようにきょろきょろと見回しています。
「あ! ともえちゃん!」
わたしの姿に気づいた彼女はこちらへと近づいて来ました。彼女は楽しそうな雰囲気を纏ってこそいるのですが、どうもなにかが気になるのか尻尾はぴんと張っています。
「どうかしました? 何かあったとか、セルリアン……とか……?」
「うーん……そういうワケじゃ……」
そう言って彼女は再び周囲を見回します。わたしも釣られて辺りを伺いましたが、茫漠と広がる牧草があるばかり。
わたしの様子を見て、イエイヌちゃんは口を開きます。
「ともえちゃん、女の子見ました? 青い髪で、ともえちゃんよりもちっちゃい感じの……急に居なくなっちゃって」
「いえ、全然……ここに住んでるフレンズさんですか?」
事実、これまでの景色の中に青い髪の女の子の姿なんて――
「!」
視線を巡らせた先、そこに〝彼女〟は居ました。
わたしにぶんぶんと大きく手を振って……。表情や服装なんかはぼんやりとしか見えませんけれど、それでも目立つのは空色の長髪。違和感さえ覚える瑠璃色はどこかで見覚えがある気もしましたが……それに思い至る余裕もありません。そして、彼女はそのまま森の中へと消えていきました。
「……あっ……行っちゃいました……」
「へっ!? い、居たんですかぁ!?」
わたしは指差しながら言います。
「あっちの方に……空色の髪の毛の……森に入っちゃいましたけど……」
イエイヌちゃんは考え込むように「うーん」と唸ります。
「なんだかともえちゃんの事知ってるみたいな事言ってたんですよねぇ……名前は聞けなかったんですけど……」
「ど、どういうことですか……知らない方ですよ……?」
「い、いえ……ともえちゃんによろしくーって言ってましたし、うーん……あっ!」
イエイヌちゃんは何かを思い出したように手をぱちんと叩きます。
「るり! るりさんです!」
「るり、さん……? んー……」
わたしは思わず首をかしげます。
昔々の、まだ記憶を失う前に……そういう子は居ました。何度かお話もしたことはあると思います。けれど、今ここに居る筈がありませんし、何より朧気な記憶の中のその子とは面影も遠目の印象も、何もかもが違う――。
ふたりして考え込んでいたわたし達ですが、そんなわたし達は急に声をかけられました。
「こんにちわ。……珍しいですね、どちらから来たんですか?」
身体をぴくりと震わせながらも、わたし達は声の方向に振り向きました。わたし達が振り向くと、ちりんという鈴の音がひとつ響きます。
「ど、どうもこんにちは……」
「し、失礼しました……わたしはともえです。こちらはイエイヌちゃん。よろしくおねがいします」
わたし達は小さく会釈をし、彼女の姿を見つめました。彼女はおっとりとした表情でこちらを伺っています。真っ黒な瞳は、淑やかに光を湛えています。
また、垂れた耳が頭から外向きに垂れていて、耳の間は白い髪の毛が帯のように伸び、それ以外の箇所は真っ黒の髪がボブカットのように整えられていました。よく見ると、高い位置で白い髪の毛がちょんまげのように後頭部で結われています。白と黒の斑のノースリーブのシャツに白いフリルが着いた黒い短めのスカート。ロンググローブやニーソックスには服と同じような斑があり、背中から覗くのは先端に鈴が着いた、細い尻尾。何より目立つのは胸の大きさでしょう。おそらく、今までに出会ってきたフレンズさんの中でも有数の〝サイズ〟……。いえ、別に? 悔しくなんて……というかむしろ困惑の思いの方がつよ――じゃなくって!
わたし達の挨拶を聞いて、彼女は申し訳無さそうに眉尻を下げていました。
「いえ、す、すごい顔してたんで、びっくりしちゃいました……。こちらこそごめんなさい」
彼女はぺこりとお辞儀をしました。顔をあげた彼女は、わたしとイエイヌちゃんの顔を交互に見つめてからにっこりと微笑みます。
「ゴリラさんからお話は聞いてます。ともえさんとイエイヌさんですね。わたしはホルスタイン・フリーシアンと言います。フリーシアンで良いですよ、長いので」
「!」
わたしは会うべき人に会えたことに身体を思わず跳ねさせます。
「! ともえちゃん!」
どうやらイエイヌちゃんも同じだったようで、彼女はわたしの顔を見つめました。
「ど、どうかしました……?」
一歩前に踏み出して、わたしは彼女の手を取ります。
「お会いできて良かったです……! お陰でクッキーが作れました!」
わたしはイエイヌちゃんに目配せをします。彼女は意図を汲んでくれたのか、ポケットの中から小袋をひとつ、フリーシアンさんに手渡します。
「これ、ともえちゃんと私で作ったんです。おすそわけ、です!」
きょとんとしながらもフリーシアンさんはわたしから手を離し、クッキーを受け取ります。
「えっと、くっきー……ですかぁ」
わたし達はクッキーの説明をしながら、休憩所へと移動します。爽やかでひんやりとした風がわたし達の背中を押すようにそっと吹くのを感じました。