幕間相当の話です。
ぱちりと目が覚めて、朝。秋の朝日が部屋に差し込んでいました。
「――……」
常ならば心地よい秋の涼しさが一日の始まりを祝福してくれているような気持ちを抱くのでしょうけれども、どうしてか違和感のような不快感のようなもやもやとした心地で胸の中がいっぱいになっていました。
「ぅん……?」
幸先が悪いなぁとどうしても思ってしまいます。
悪夢から目覚めたような焦燥感。寝ぼけた頭が訴える緊迫感。早鐘を打つような荒い鼓動。そういったモノに近しい感覚をわたしは深呼吸をして落ち着かせようとします。
「すぅーっ……はぁーっ……」
あえて口から音を出して深い深い呼吸をします。そして、それを幾度か繰り返していく内に気持ち自体は落ち着いてきます。けれども、感情の出どころがはっきりとしません。悪い夢を見た覚えはありませんし、何か切羽詰まった予定があるわけでもないのですが。
「……なんでしょうねぇ、まったく」
ため息をひとつついて、再びベッドに寝転がります。
頭をそっと動かすとイエイヌちゃんの額に頬がぺたりとくっつきました。どうやら彼女の体温はわたしよりも少し高いようで、頬からは彼女の熱が伝わってきて、その温度に愛おしさを感じてしまいます。それに、規則正しく漏れる寝息が、わたしへの信頼と愛情を示してくれているように思えて仕方ありません。……おほん、とにかく、そういった彼女の生命の動きがわたしの波立つような心を落ち着かせてくれるようにも思えました。
甘く感じさえしそうな彼女の熱を堪能しながら二度寝を――とも思いましたが、時間としてはジャパリまんを頂きに出る頃合いにほど近いのでしょう。外からどなたかの声が小さく聞こえて来ました。
「ふむん」
贅沢な二度寝か余裕を持ったのんびりごはん……どちらを取るべきか悩んでしまいます。
「……起きますかぁ」
二大欲求同士の戦いは、食欲の勝利でした。
わたしはイエイヌちゃんを起こさないようにそっとベッドから抜け出ます。
「んーっ……」
ベッドを抜け出たわたしは伸びをしながらイエイヌちゃんの寝姿を見つめます。
彼女の姿を眺めながら、二度寝はできずとも(上手く予定が済んだら)お昼寝は出来るかも……と考えていました。
わたしの身体のこわばりが解け、眠気が払われた頃合いに、彼女はもにゅもにゅと不明瞭な声を出しながら寝返りを打ちます。ちょうど日差しから顔を背けるようにして眠っていました。その安らかな顔を見ているとイエイヌちゃんを起こして一緒に家を出るのが躊躇われてしまうように思えて仕方ありません。いつもイエイヌちゃんがわたしを起こすときに申し訳無さそーな顔しているのは、多分そういうことなんでしょうかねぇ……。
「たまにはわたしだけで行きましょうか」
彼女を起こすのが躊躇われるのと同時に、嫌な気持ちを紛らわせたいという思いもありました。散歩がてら朝の空気を楽しむのが一番なのかもしれません。
窓から外を覗くと、空に雲が少しありますが柔らかさを感じる朝日に包まれています。歩いたら気持ちよさそうです。不安感に満ちていた心は裏腹に、今日もきっと良い日になるのだと考えていました。……もしかしたら、〝願っていた〟のかもしれません。
外に出たわたしを迎えるのは、思っていた通りの心地よい空模様。鋭さを感じる朝日に、俄に冷気を帯びた空気、そして白味を帯び始めたように思われる大気……自然の、四季の移り変わりを感じながらわたしは広場に向かいました。
少し早かったという予想はあたっていて、わたしが広場に到着すると、ちょうどロバさんがジャパリまんを配る支度をし始めている所でした。
ロバさんは乱雑に積まれたジャパリまんの山を少しずつ切り崩して幾つかの塊に並べ直していました。
「おはようございます、ロバさん」
彼女はわたしの声に耳を最初に向け、その後こちらを向いてぺこりとお辞儀をしました。
「おはようございます、ともえさん。今日はお早いですね、イエイヌさんはおうちですか?」
「えぇ、なんだか早く目が覚めちゃって――」
とまぁ、こんな具合にゆるゆるとした雑談を交わし、混乱と雑踏に巻き込まれるような事もなく、ロバさんからジャパリまんをもらえました。
ロバさんが朗らかに笑みを浮かべながら手を振ります。
「ではお気をつけてー」
わたしも手を振って、彼女に返事をしながら広場を後にします。
「ありがとうございましたー。ロバさんも頑張ってくださいねー!」
広場から出て、お家への道すがらに何人かのフレンズさんとすれ違ったり、挨拶をしながら帰る。……ここまでは普通の日常でした。
帰路を半分ほど進んでいた時のことです。。
「ふぇっ!」
足元にこつんという衝撃が伝わり、身体のバランスが失われ、視界が目まぐるしく動き、どしゃあという音と衝撃と痛みが身体に伝わりました。……ようするにわたしは地面に転んでしまったのです。
「……いったた」
立ち上がってから思わず足元や周囲を確認しますが、小石のひとつもありません。
「はぁ……」
身体に着いた土埃を払い、その後、地面に飛び散ったジャパリまんを拾います。
なにもないところで転んでしまったというのは、なんとも情けない話です。最近、車に乗ったりしてますし、徒歩での遠出もしていませんから身体が鈍ってしまったのでしょうか?
「むぅ……幸先の悪い……」
思わず呟いて、歩き始めます。
歩いている内、不意に合点が行きました。寝起きに感じた不安感は要するに悪いことが起こる虫の知らせとでも呼べるものだったのでしょう。
「これだけで終わるなら、まぁ……」
はぁとため息をもうひとつ。
ジャパリまんが潰れなかっただけ運が良かったと思いましょう。怪我もしなかったですし。
「ただいま戻りましたぁ」
イエイヌちゃんを起こさないように小声で呟いて、おうちに入ります。彼女はまだぐっすりと眠っていました。無防備で無垢な彼女の寝顔を見ていると、なんとも気持ちが癒やされます。やはり起こすのが躊躇われますね……。
手を洗ってベッドの前に戻ると、唐突に声が聞こえました。
「にゅにゅにゅにゅ」
彼女はそう呟いてから寝返りを打ちます。
「にゅ……にゅ?」
わたしは反射的に聞き返します。いくら寝言といっても「にゅ」は無いでしょう。連呼する必要も……いえ、寝言にツッコミを入れるのは無粋というか無駄というか、まぁ、意味がない事ですけれども。
「にゅ」
彼女は断定するように呟きました。こころなしか頷いていたような気もします。
「そ、そうですか……にゅですかぁ……」
前にもありましたねぇ……不思議な寝言……なんでしたっけ?
「っと、それはそれとして……」
彼女を起こすか起こさないか、です。少しだけ考えましょう。
昨晩の寝る時間は特段遅い時間ではなかった筈ですから、もうしばらくすれば彼女も起きるでしょう。でしたら――
「――無理に起こさなくてもいいですかね」
わたしはそっと小さく呟いてベッドの脇にしゃがみ込みます。そして、そっと彼女の枕元で、彼女の顔を眺めながら、彼女の髪を撫でていました。
さらさらとした髪の毛に、朝日に煌めく睫毛、無防備に開かれた彼女の口から漏れる柔らかな吐息、肌寒くなってきたからこそずっと触れていたいと感じさせる彼女の体温……そのどれもが愛おしく感じられ、そして、わたしを幸せな気持ちを抱かせます。
彼女の耳を撫でて倒すと小さな反発を感じ、通り過ぎると押し倒された耳は三角にぴょこんと立ち……しばらくそんな繰り返しを楽しんでいると、彼女が目を覚ましました。
「――ふぁ……ん、ぅ」
どうやらイエイヌちゃんが眼を覚ましたようです。彼女ははうっすらと瞼を開け、わたしの姿を視認しました。すると、彼女はわたしの手――まだイエイヌちゃんの頭を撫でていました――に頭をこすりつけるように小さく動きます。
彼女は何も言わず、満足げに口角を上げていましたが、このままではイエイヌちゃんはまた眠ってしまうと考えたわたしは、彼女に声をかけます。
「おはようございます、イエイヌちゃん」
今日の予定では遅くとも正午前にはおうちから出発します。ですので、もう少し長く眠っても問題は無いでしょうけれど、遅れてしまうようなことは避けたいところです。
イエイヌちゃんは「んぅ」と呟いてから、眼を擦りました。
「ふぁい……おはよ、ございます……」
彼女はゆっくりと身体を起こして伸びをして、あくびをひとつ。わたしはそんな彼女の姿を見て思わず頬をほころばせてしまいます。
「ジャパリまんもらってきましたよ」
「……ありがとうございます。ふあぁ……かお、洗ってきますね」
「いえいえ。待ってますね」
彼女はわたしの言葉に小さく頷いて、顔を洗いに洗面台へと向かうのでした。
さて、イエイヌちゃんが朝の支度をしている内にわたしはご飯の支度を進めてしまいましょう。と言っても、水をグラスに注ぐだけですけれどもね。
わたしは台所に行き、グラスをふたつ手にとって蛇口をひねります。短い時間ながらも、ふと考えてしまうのは食事の事。多分お腹が空いているからでしょう。
ここで暮らす上で食事の心配が無いというのは幸いですけれど、工夫のしがいが無いというのは寂しいところです。ですが、工夫をすると言っても何かしようと思い始めるとパン然りクッキー然り、蜂蜜酒然り……殆どイチから自分の手で作るということになります。流石にそれを毎日するというのは難し――
気付けばグラスから溢れた水がじゃばじゃばとシンクを叩いていました。
「とっとと。考え事はいけませんね」
もうひとつのコップにも水を注ぎ終えたわたしは、居間へと戻ります。
と、その最中――
「ひゃっ!」
足が何かに引っかかり、よろめいてしまいます。
「ともえちゃん、大丈夫ですかぁ!?」
洗面所からイエイヌちゃんの心配そうな声が聞こえてきます。
「は、はい! お騒がせしました!」
転びこそしなかったのですが……コップ二杯ぶんの水が服にかかってしまいました。
「……はぁ……冷たい……」
思わず愚痴を漏らしてしまいます。「今日一日、ツイてないかも」なんていう嫌な予感が頭をよぎってしまいそうでしたが、わたしは頬をぺちりと一度叩いて、気を取り直します。
「……コップ置いたら、着替えませんと」
ため息がもうひとつ、こぼれました。
服を着替えてから、水をコップに注いで居間に戻ると、既にイエイヌちゃんは席に着いていました。彼女はわたしの姿を見て、尋ねます。
「えっと、水こぼしちゃったんですか?」
わたしは思わず苦笑いを浮かべてしまいました。
「えぇ、まぁ……」
躓いたきっかけはわたしが先日床に置きっぱなしにしてしまった鞄の紐でした。なのですべて自分の所為なのです。苦笑するしかありません。
わたしは言葉を続けます。
「怪我とか、コップ割ったりとか……そういうのなかっただけ良かったです」
イエイヌちゃんは頷いたらいいのか迷っている風でした。
「とりあえず、朝ごはん食べましょ?」
「そう、ですね。はい!」
わたしの言葉にイエイヌちゃんは笑顔を浮かべて頷いてくれました。
食事の最中、イエイヌちゃんがわたしに尋ねます。
「ともえちゃん」
「ふぁい、なんれひょう?」
口の中に食べ物を入れながらしゃべるというのはお行儀が悪いですけれども、とっさのことですから仕方無いのです。
「えぇっと……今日の予定なんですけども」
わたしはこくりと含んだジャパリまんを嚥下します。
「雑貨屋さんの探索のことですか?」
イエイヌちゃんは「はい」と小さく頷きます。
「もう少ししたら車が来るはずですが……どうかしました?」
予定、と言っても「朝ごはんが終わった頃合いを見計らって」と言っていたので大雑把にすぎると思ったのは否定できませんが、もしかしたらラッキービーストさん同士の通信でタイミングを図っているのかもしれません。ともあれ、それは今は知りようのないことです。
「いえ、歩いて行かないのかな? と思いまして」
わたしは彼女の言葉に「うーん」と声を漏らします。
食事の時間を彩るお話となれば、少し位長くなっても大丈夫でしょう。
「絵の具や色鉛筆、あとはスケッチブックとか、そういうのを探してるというのは、お話しましたよね?」
「はい。ざいこ? をかくほって予定でしたよね」
わたしはイエイヌちゃんの言葉に頷きます。
「まだ余裕はありますけど――」
脳裏に一瞬よぎるのは、今使っている色鉛筆の丈の長さでした。三分の一程度しか減っておらず、まだまだ使えるのですが……使えば減っていくのは自然の摂理です。いずれ使えなくなるのは避けられません。なので、在庫を手元に置いておいたり、新しいものの在り処を見つけておくというのは今後絵を描く上で必然とも言えます。
「――絵を描こうと思ったら必要なものですからね。それを探そうかな、と言うのが元々なんです」
それに絵の具が……特に油絵の具があれば、わたしの描きたいものを描けるかもしれません。以前、イエイヌちゃんのワンピース姿をスケッチしたときの、清書です。あれを、あの人達のように描けたら……どれほどの達成感を得られるでしょうか? わたしはそれを考える度に、身体が震えてしまうほどの高揚と興奮を覚えていました。むろん、巧拙という大きな問題が目の前に横たわることにも気付いていますが、挑戦する機会が得られるかもというのは大きな一歩でしょう。
わたしはイエイヌちゃんの反応を伺いながら、言葉を続けます。
「それで、この辺りに雑貨屋さんがあるとのことで、試しにそこへお邪魔するということにしました」
ほんの少し前にわたしがゴリラさんに画材にまつわる相談をした際に思い出したのか、教えてくれました。
イエイヌちゃんは「そこまではわかっている」と言わんばかりに頷きました。
「ざっかやさんって、山の方でお邪魔した……せんもんてん? と違っていろんなものがあるんですよね」
わたしは彼女の言葉を肯定します。
「はい、そうですよ。……ただ、何があるのかは行ってみないとわからないんです。なので使えそうなものが大きかったり重かったりなんてこともありえるんです」
流石に雑貨屋さんにイーゼルやキャンパスがあるとは考えていませんが、もしかしたら来客用の椅子だったり、畑の収穫に役立ちそうなカゴ等があるかもしれません。何にせよ、手で持つには大きいモノがありえる以上、備えはしておきたいものです。
そんな風な説明を付け加えると、イエイヌちゃんは「ふむふむ」と呟きました。
「……実のところ、運転の練習をしたいというのもありますけどね」
わたしの言葉に彼女は楽しげにほほえみます。
「どうかしました?」
イエイヌちゃんは少しだけ照れた様子を見せます。
「運転してるともえちゃん見るの、すきなので……えへへ。それに、景色びゅーんってなるのも楽しいですし」
「ありがとうございます、でも、褒め――」
わたしは彼女のこぼした言葉に照れてしまい、大きく手を振ってしまいます。普段ならしそうにないオーバーな身振りになってしまったのは、多分、朝の出来事で落ち込んだ心をイエイヌちゃんが知らず励ましてくれたから。それが、嬉しかったから……だと思います。
「――あっ」
大きく振られた手にぶつかったコップが床へと落ち、ぱりんと言う音が部屋に響きました。
「ひゃうっ!」
「……はーっ、はぁ……」
わたしは自分の行動にあきれてしまい、慌てることすら忘れてしまいました。けれどもイエイヌちゃんはぱっと立ち上がってあわあわし始めます。
「わ、わ……と、ともえちゃ、だ、だいじょ――」
わたしはゆっくりと立ち上がって、足でグラスの破片を寄せ集めながら返事をします。
「大丈夫ですよ、ご心配おかけします……度々すみません……」
自己嫌悪の思いで胸の中はいっぱいです。
「で、でも、と、とが、尖って……!」
「スリッパ越しですから、へーきです。箒……どこでしたっけね……」
箒とちりとりを探すのはひとまず後回しにして、大きい欠片だけでも外に持っていきましょう。そうした方が片付ける時に楽でしょうし――そう思ってしゃがみ、欠片に手を伸ばします。その瞬間、ちくりと刺すような痛みが指先から走りました。
「っ、たぁっ……!」
「だ、だいじょ――ひぅっ……!」
さっと手を床から話して指先を見ると、赤い玉のような雫がこぼれんばかりに漏れ出ていました。
「あっちゃぁ……とりあえず拭かないと……はぁ……」
わたしは血を零さないように気をつけながら立ち上がります。「もうやだ、今日」なんて思いますが、全て自分のが原因の出来事です。反省するしか、ありません。
「と、ともえちゃ、あ、ぅ、ゆ、ゆび、ゆび……!」
イエイヌちゃんは先程よりもあわあわとした具合です。彼女のしっぽはぴんと貼っていて、けれど大きく振り回されていて……自分よりもパニック状態に陥っている方がいると、案外冷静で居られるんですねぇ。
「イエイヌちゃん、大丈夫です」
「ひぇ、うぅ、ふ、ふく、ふくもの、ち、ち――」
漫画でしたら、眼にぐるぐると模様が描かれていそうなくらいです。
「イエイヌちゃん!」
わたしが大きな声でイエイヌちゃんを呼ぶと、彼女ははっとした表情に変わります。
「は、はいっ!」
彼女はまるでわたしの動きを確かめているかのように、わたしの顔をじっと見つめていました。
わたしは彼女に背を向けます。
「イエイヌちゃん、慌てさせちゃってごめんなさい」
わたしは背中越しに彼女に謝ります。謝りながら、なにかがこみ上げてきそうになりました。ため息に込めきれない感情が、どこかから漏れ出てしまいそうでした。
「い、いえ……で、でも……」
彼女の表情は伺えませんが、声の調子が低い為にわたしの身を案じてくれているのが察せられます。
「箒とちりとり、お願いしてもいいですか? わたしは……指の手当をしませんと」
イエイヌちゃんは「は、はいっ!」と大仰に返事をしてくれました。
「……ありがとうございます」
すんとひとつ鼻を鳴らして、洗面台へ。ひとまずは指の手当。傷口を洗って、綺麗な布で抑えて……救急箱、ありましたっけ……? なんだか、今日はなんだかため息が多いですね……はぁ……。
刺激を我慢しながら傷口を流水で流し、患部を見ます。見てみれば、指の怪我はさほど深いものではなく、傷跡にガラス片が残っているようなこともありませんでした。
怪我が浅いというのは、ただそれだけで幸いなことです。それに洗面台のタンスの中を少し探せば救急箱があったというのも幸いなことでしょう。それに、自分の体質を思えばそこまで完治には時間がかからないというのも、幸いなこと……。けれど――
「――そもそも……はぁ」
患部にガーゼをあて、テープで固定……そんな事をしながらも、胸の中ではどうしても後悔のような、自己嫌悪のような、やり場の無い感情を抱いてしまいます。
そもそも怪我なんてしなければそんな幸いなどいらなかったのです。そもそもグラスを割らなければ怪我なんてしなかったのです。そもそも朝転んで落ち込んだりなんかしなければよかったのです。
「……はぁ」
今のわたしには、ため息を漏らすくらいしかできることはありません。この様子では、この後の探索も芳しい結果は訪れないでしょう、などとさえ思っていました。
手当を追えて居間に戻ると、イエイヌちゃんがどこからか箒とちりとりでグラスの破片を掃き集めてくれていました。もうグラスの破片の全てはちりとりの中にまとめられています。見えないくらい小さいものは残っているかもしれませんが、床に散らばっていた鋭利なきらめきは姿を消していました。
「ありがとうございます、イエイヌちゃん」
彼女はわたしの言葉に、首を振って応えます。
「いえいえ、これくらい……! それよりも、指は大丈夫ですか?」
わたしは手を前に出して彼女に示します。
「そこまで深くなかったので、すぐ治ると思います。……本当に、ご心配をおかけしました」
わたしが頭を下げると、イエイヌちゃんはわたしをぎゅっと抱きしめてくれました。
「いえ、そんなこと――土のニオイ……?」
イエイヌちゃんが唐突につぶやきました。
彼女の言葉を聞くやいなや、わたしは彼女から身体を離します。身体のニオイをしっかり嗅がれているようで恥ずかしくって仕方ありません。
「ちょ、ちょっと、イエイヌちゃん?」
わたしの言葉に返事をせず、彼女はわたしの身体をじいっと眺めています。時折顔を近づかせてニオイも確認しているようでした。
「な、なんですかぁ……!」
わたしの身体を上から下まで――かどうかは彼女の仕草を見ただけなのでわかりませんけれど――確認し終えたのか、イエイヌちゃんはわたしの顔を見て、わたしの具合を伺っているかのように心配そうな表情になります。
恥ずかしさと決まりの悪さを抱いたわたしは言葉に困ってしまいましたが、イエイヌちゃんはそんなわたしを再びそっと抱きしめます。
「転んじゃったんですか?」
「え、ええ……でも、怪我はなかったですし、ジャパリまんも――」
イエイヌちゃんの腕にきゅっと強く力が加わります。
「朝から、えっと……さいなん、でしたね、ともえちゃん」
彼女はそう言ってわたしの頭をそっと撫でてくれました。わたしが黙りこくっていると、彼女は「大変でしたね」と付け加えて、わたしの頭をぽんぽんと小さく叩きました。
「……いえ、これくらい……でも……」
彼女の言葉も仕草も、それだけで何かが良くなるものではありません。怪我がすぐに癒えることもなければ、この後の探索で目当てのものが見つかることとなるわけでもないのです。
ですが、ですが、嬉しくって、優しくしてくれて、励ましてくれて――
「――ありがとうございます、イエイヌちゃん」
わたしは彼女の頬に自分の頬をくっつけました。彼女の灰色の毛先がわたしの鼻先をくすぐって、視界いっぱいに広がります。陽射しのような優しい香りがして、触れ合った頬から伝わる彼女の熱が温かくて、触れ合った胸から伝わる脈動が愛おしくて、たまらなくって……わたしはぎゅっと彼女を抱きしめ返しました。
「っひゅぐぅ」
わたしが腕に力を入れすぎた為か、イエイヌちゃんの口から今まで聞いたことのないような音が聞こえてきます。
腕に込めた力を緩めて、ほんの少し身体を動かします。彼女と見つめあえるように、ほんの少しだけ。
「ご、ごめんなさい。……と、ともかくです、気遣ってくれてありがとうございます……!」
イエイヌちゃんはわたしの背中に回した手を離して、優しくわたしの目元を拭ってくれました。
「いいえ、これくらい!」
わたしは彼女の言葉に笑顔で応えました。そして数秒ほど黙って見つめ合った後、ゆっくりと顔が近づいて、くっつこうとした瞬間――
「ひゃっ!」
「はぅっ!」
ふたりして身体を跳ねさせてしまいました。……といいますのも、外からクラクションの音が響いて来たのです。つまり、車の到着です。
「むぅ……時間ですかぁ……」
イエイヌちゃんは不服そうに頬を膨らませます。
「ですねぇ」
わたしはそんな彼女の頬を突っつきます。すると彼女は「ふすー」と口から息を漏らし、くすりとほほえみました。
「んふふー……なにか見つかるといいですね、ともえちゃん!」
「ありますよ、きっと」
正直な所、朝から幸先が悪いということもあって、何も見つからないのでは無いかとさえ思っていましたが……イエイヌちゃんのお陰もあってか、少しだけ前向きになれている。そんな気がしました。
――――――
――――
――
それから時間が経って、昼過ぎ。探索を終えたわたし達はおうちに戻っていました。帰ってきたのは正午を過ぎた頃でしたので、今は探索の余韻に浸りながらハーブティーを頂いているところです。
お茶をひと口飲んで、カップを置くと、それを見計らったかのように、イエイヌちゃんが不満そうにつぶやきます。
「何も見つからなかったですねぇ……残念ですぅ……」
わたしはイエイヌちゃんに視線を向け、小さく頷きました。
事実、目的地であった雑貨屋さんの中には殆ど何も残っていませんでした。天井の電灯やレジスターのような機材や扱っていたであろうアクセサリーや小物などの商品はもちろん、鉛筆やボールペンのような備品も含めて、何も。島からの撤去の際に片付けられたのでしょう。残っていたのは埃と汚れ、それとかつての商品を示す商品タグだけ……。
「……やっぱりちゃんと画材を置いている場所にお邪魔した方が良いんでしょうね」
イエイヌちゃんは「うーむ」と考えるように声を漏らしました。
「となると、今度は……セントラルの方ですか?」
「そうなりますかね……。もしかしたらお父さんの残した道具とかもあるかもしれませんから、研究所の方も手かもしれませんね……」
「むずかしいですねぇー……」
イエイヌちゃんは困ってしまったといわんばかりにぐでぇっとテーブルに突っ伏します。わたしはそんな彼女の様子を見て、思わずくすりと微笑んでしまいます。そして、彼女の頭をそっと撫でて、感触を楽しみます。
「まぁ、なるようになりますよ、いざとなったら自分で作れば良いんですもの」
イエイヌちゃんは心地よさそうに眼を細めていましたが、わたしの言葉を聞いて不思議そうに視線を向けてきました。
「つ、作れるんですか……?」
「た、たぶん……」
作り方は知りませんが、調べるなりラッキービーストさんに伺うなり……色々方法はある筈です。流石に科学的に色々混ぜたり分離したりとなると独力では無理そうですけれどね……。
「確か炭を使うって方法も聞いたことがありますね……黒色だけでも絵は描けますし……。紙だって作れる筈です。……色々調べないとですねぇ、本当に」
時間がいくらあっても足りません。したいことや欲しいものがあって、それを手に入れようと思って、あれこれ手段を探って、時には借りて、時には作って……大変ですし、失敗もありますし……。
「と、ともえちゃん、くすぐったいですよぉ」
イエイヌちゃんの言葉にはっとわたしは彼女の頭から手を離します。わたしはどうやら動物のお耳の裏の方をずっとかりかりと引っ掻いていたようです。
「し、失礼しました……痛かったりとか、してません……?」
彼女は身体を起こして、小さく首を振ります。
「へーきです! それよりも……ともえちゃん、元気になったみたいで良かったです!」
ん? と声を漏らしてしまいました。
「朝のこともそうでしたけど、おうちから出発してすぐに車止まっちゃったりしましたし、それにざっかやさんには何もなかったですし……」
わたしは手をぱちんと叩きました。
「確かに……! 今日は本当に運が悪い日でしたねぇ……」
まだお昼過ぎくらいですから、まだまだ悪いことが起こるかも……とも思いましたが、そんなのは無視です無視。
イエイヌちゃんは困ったように苦笑いを浮かべています。わたしはテーブルの上に置かれた彼女の手を撫でながら言います。
「朝は落ち込んでました。本当です」
ひと息置いて言葉を続けます。
「でも、励ましてくれたことが一番嬉しかったんですもの……。それだけでだいたいなんとかなります」
ダメ押しに「うんむ」とひとつ大きく頷きます。
イエイヌちゃんは照れているのか、困ったような笑顔は変わっていません。
「えへへ……お役に立てたなら良かったです……!」
「お役に立ちまくりですよー、だいさんげんです」
イエイヌちゃんはわたしの言葉に「?」と言いたげに首をかしげます。
「それ、どういう意味なんです……?」
「お父さんが昔わたしにそんなことを言っていたような……? わたしじゃなかったかも……?」
ふたりして変な空気を漂わせて、黙ってしまいます。なんでしたっけ、よくわからなかったのはわたしも一緒ですし、意味を聞いた気もします。というか聞いている筈です。
どちらからともなく、ふわぁとあくびの音がしました。もしかしたら、ふたり同時だったかもしれません。わたしもイエイヌちゃんも「すみません」とひと言。そう言うやいなや、わたしがもう一度あくび。
「お昼寝、しましょうかね……早かったから、眠くなっちゃいました」
「あ、では私も……」
イエイヌちゃんはそう言って、椅子から立ち上がります。そしてわたしよりも先にベッドの上にごろんと寝転びました。
わたしも彼女の隣に寝転んで、ふたり見つめ合います。
「夜になる前に起きましょうね、先に起きたら起こしてください?」
「わかりました! あ、でもともえちゃんも私を起こしてくださいね?」
「えぇ、お任せください。……では、おやすみなさい、イエイヌちゃん」
「おやすみなさい、ともえちゃん!」
小さく頭を動かし合って、唇が小さくくっつくと、イエイヌちゃんは満足そうな微笑を浮かべました。きっと、わたしも同じような表情だったでしょう。
そうして目を閉じて、仰向けになります。
結局、今日はなんとも運の悪い日でした。何をやっても上手くいかない日、というやつ……なんでしょうね。けれど、彼女の唇がひとつ得られました。珍しいものではないですし、しょっちゅうしてる気もしますけどね。
でも、案外、それで良いのかもしれません。