「ぁ……あ、ぁ……」
少女の目には、人ではない『何か』が映っていた。とてつもなく大きく、毛むくじゃらで、鋭い爪が手に生えている、『何か』。それが、少女の目の前に居る。
その姿は見たところ熊のような姿をしているが、その大きさは三メートルを優に超え、もはや熊などではなく、『魔物』と表現するに相応しいものだった。手の先にある爪が一度振るわれれば最後、少女の頭はトマトのように簡単に潰されてしまうだろう。
グルル、とうなり声のような音が巨熊の口元から漏れ、少女はびくりと震え上がる。
少女は尻餅をついたまま立ち上がれず、後ずさりをしようにもレンガ造りの城壁に阻まれ、一ミリたりとも後退することができない。目の前から伝わる威圧感と恐怖感で、すくみ上がって立ち上がることもできないでいる。
その一方で魔物と呼ぶべき巨熊は、一歩、また一歩と少女に近づいていく。その目は赤く殺気立っていて、今にも襲いかからんとしているようにも見える。
少女の前で、それは足を止めた。
そして、その右手が振り上げられるのを見、少女は数秒後に訪れるであろう痛みから背けるように、目を瞑って――――
「《ファイアボルト》!」
周りに声が響いたのは、その時だった。
凜としたようで、それでいてどこか幼さが残るような声。その声が壁に反響したかと思った瞬間、ドンッと巨熊の後ろから爆発音が響いた。
少女を殺めようとした凶刃は振り下ろされることのないまま止まり、熊は不満げなうなり声を上げて振り返る。
少女の頭上には、いつの間にか影が落ちていた。
いつまでも痛みが来ないことを不審に思い、おそるおそる目を開くと――目の前に、人の姿があった。
最初に見えたのは、薄い朱色だった。服の裾が風でひらひらと揺れるのが見える。
次に見えたのは、深紅色の三角帽。被っていたものが途中で脱げたのか、頭の後ろに下がっていた。
そしてよく見ると、その人物が長いものを横向きに持っていることに気づく。向かって右側には水晶のような赤色の球状の物体が付いていて、逆側には装飾のような金属が付いている。
魔法の杖。そう表現するに相応しいものを携えた、三角帽を首から下げた、その人。
「よく頑張ったね。もう、大丈夫」
先ほど聞いた声よりも、幾分優しい声が頭の上から振ってくる。気がつけば、目の前に立っていたその人が、少女に振り返っていた。
銀色の髪の毛を風にはためかせ、髪の右側を赤色のリボンで結い、安心させるような優しい笑みを浮かべた、その少女は。
「私、カズハって言うの。あなたを、助けに来たよ」
そう言ってその女性は、カズハは、手に持った杖を握り直し、縦に持ち代える。
振りかぶったその瞬間、赤い水晶玉が発光し始めて――――
「みんなが来るまで私が時間を稼ぐ!」
再び呪文を唱えると、振り下ろした杖先から火球が現われ、すさまじい早さでまっすぐに巨熊の頭へと飛んでいく。
顔面に直撃した火球は、城下町に響き渡るほどの大きな音を響かせた。
◇◇◇
巨熊との戦闘を終えた直後で、その日のTRPGのセッションは終了した。
『――はい、ではここまでで今日のセッションは終了です。お疲れさまでしたー』
『おつかれさまー』『おつおつー』『おつかれー』
スカイプから流れるゲームマスター――TRPGにおけるゲームの進行役――の終了宣言に合わせ、セッションに参加したプレイヤーたちからもお互いを労う声が響く。
プレイヤーとして参加していた新目阿子は頭に装着していたヘッドセットを外し、ふぅ、と息を付いた。ちらりと時計を見ると、いつの間にか二四時を回っていた。
この通話を開始したのが大体二一時過ぎ。やはりセッション中は時間を忘れるなぁと、マグカップに入った冷めたコーヒーを飲みながら考える。
スカイプから流れる音声をヘッドホンからスピーカーに切り替え、プレイヤー間によるセッション中でのやりとりについての話を耳に入れつつ、阿子も今日のプレイヤーキャラクターたちの冒険についてイメージを膨らませる。
――自分の分身として
魔法攻撃を得意とする後衛職。薄い朱色のローブと深紅色の三角帽、サイドテールの銀髪が特徴の女の子。負けん気が強いからか無茶しがちで、プレイヤー自身、キャラクター、共に周りから助けられること多数――
『ところでさ、アコ。あの巨熊と戦う前のことなんだけどー』
「……あ、はいはい、カズハちゃんが大立ち回りしたとこね」
ふと通話で自分の名前――ハンドルネームではカタカナ表記だが、響きは本名そのものなのでたまに混ざりそうになる――を呼ばれ、思考を現実に引き戻す。
思い当たるのは、ダイスによる判定で自分だけが成功した結果、一人だけが先んじてシナリオ中のNPCの元にたどり着いたシーンのことだろう。
マウスホイールを操作し、チャット形式で行われるセッションのログを見ながらそのシーン中での事を思いだす。
――もし誰もたどり着いていなかったら、この子はどうなっただろう。NPCに容赦が無いゲームマスターだから、もしかすると、そのまま……。とそこまで考え、シナリオの中のキャラクターを生存させられたことに阿子は安堵の息を吐いた。
『や、ね。後衛職のカズハが物理攻撃バカのグリズリーの前に出るとか、もしかしてカズハって後先考えないアホの子なのかなーって思って』
冗談半分といった声色がスピーカーから響いてくる。自分――とキャラクター――の事をちゃんと分かっているからこその話だと分かっているから、阿子も笑い声混じりに返す。
「カズハならあそこで出ないって選択肢なかったからね! 誰かを助けられるなら助けたいって子だから、あそこは体を張ってでも女の子の前に出たよ」
『うんうん、だよねぇ。たださー、演出だけで終わったけど、よく考えなくてもあれ私たちが来る前に戦闘入りしてたらやばかったよねーって』
ぴたり。コーヒーカップを持つ阿子の手が止まる。
カップを置いて、改めて先ほどセッションをしていたログを、流し見ではなくしっかりと読む。
カズハがNPCの少女の前に立ちはだかって、巨熊に攻撃魔法を撃ちこんで、少女の前にカッコよく登場したシーン。GMの裁量でMPの消費だけで済んだものの、確かに今考えてみれば、巨熊が襲いかかってきて即戦闘入りという可能性は大いに有った。
「……あー、あぁー、そうね。……そうだね。やばかったね。そこまで考えてなかった。もうあそこは、『女の子を助けなきゃ!』って気持ちになっちゃって」
セッション中には感じることの無かった寒気が、ふっと阿子の背中を通り過ぎる。『ま、何もなくて良かったよー』とフォローする言葉を聞き、阿子は知らないうちに吐息と共に胸をなで下ろしていた。
『まー、アコの子だししゃーないよね。そう動いちゃうの分かる分かる』
「私自身はともかくして、あんたはカズハを一体なんだと思ってるのよ」
『んー? 一生懸命すぎて時々周りが見えなくて、体がそんなに強くないくせにやけに献身的――というよりは自己犠牲が軽く入っていて、誰かを助けずには居られない甘い考えの持ち主で、意外と結構PCからは好かれてる子。……ってところかな。
――あ、これはアコそのものにも大体当てはまってるよ。最後の一つ以外は』
おどけた声の後に、先ほどよりも少しばかり真剣な、それでも聞いている分には柔らかく聞こえる声がスピーカーから聞こえてくる。自分の子のことを言われているだけなのに、やけに耳の部分が熱くなってくるような気がして――そして最後の言葉でどんな顔をすればいいか分からなくなった。
これは果たして褒められているのだろうか、はたまた調子がいい人だから、それも踏まえておちょくっているのか――。あ、でも最後の一つってことはやっぱり。
「…………ん、私やっぱり褒められてないよね、それ」
『あ、バレた?』
その人の声と共に、スカイプに参加しているセッション仲間全員の笑い声がスピーカーから聞こえてくる。
――やっぱりこの人は、もう。だけど、そのノリや考えは嫌いじゃないから、口を尖らせるだけに留めておく。
「全くもー……。……、んじゃ、こっちはそろそろ時間だから寝るね。おやすみなさい」
『あいあいおやすみ。また明日ー』『おつおつー』『おやすー』
スカイプ画面の向こうからは、セッションを共に過ごしたTRPG仲間の声が聞こえる。
阿子はTRPG――テーブルトークアールピージー――をプレイし始めて数ヶ月。その魅力にとりつかれた今、ほぼ毎日仲間内でのセッションを行っていた。
『プレイヤーキャラクターはプレイヤーの分身である。』阿子がプレイしているTRPGのルールブックの冒頭にはこのように書かれており、実際それを身に染みて感じていた。
現在阿子がキャラメイクしたのは二人。魔法使いのカズハと、二刀流剣士のコハク。どちらも自分の内面そのもので動かしている子であり、自分の分身そのものだ、と思っている。
実際、素のままでロールプレイ――俗に言う台詞回し――もキャラとしての思考もできるのだから、ある意味で「なりきる」と言うよりも「そのもの」なのだ、と思う。
布団に入ってからも、考えることはTRPGについてのこと。「明日はどんな風にやろうかな」とか、「次にレベル上がったら、カズハは何を覚えようかな」とか、そんなことを思いつつ眠りに付くのが、阿子の楽しみの一つだった。
別の世界で冒険を繰り広げる
◇◇◇
阿子がやっているTRPGをプレイするのに、お金はさほどかからない。作ったキャラクターと、同じくTRPGをプレイする仲間と、進行役であるGMとダイスを振るツールがあれば事足りる。
――ただし、持っている情報を増やしたいなら、話はまったく別になる。
エネミーガイドにアイテムガイド、スキルガイドといった、所謂『追加情報』の類い。これらを本媒体で買おうものなら、それなりの出費が必要になる。
学生の身である阿子には、その金額を捻出するのは難しい。
だけど、プレイしているTRPGの情報は色々と知っておきたい。
ならば、と阿子は考える。
――本が集まっている所ならあるかもしれない、と。
まさか本といえどあるわけ、いや、もしかしたらあるかも、と自分の考えに半信半疑で自転車を走らせ、十五分後に図書館にたどり着いた阿子は。
『TRPGコーナー』とポップが張られた棚を、文字通り宝の山を、見つけたのだった。
それ以来、阿子は学校帰りには図書館へと通い、TRPG関係の冊子――何故か貸し出し禁止扱いとなっている――の内容をノートにメモし、イメージを膨らませつつご飯時になったら帰宅する、といった生活を送っていた。
そして阿子はセッションを行った次の日も図書館へと足を向ける。
――その日の図書館は、何かが違っていた。
◇◇◇
「……あれ、…………あれれ?」
電灯が備え付けられている学習机を利用して、『エネミーガイド』という敵キャラの情報が大量に掲載されている本を読みふけっていた阿子だったが、気がつけば机に突っ伏して眠ってしまっていた。
ノートにはしっかりとよだれの跡が残っており、ノートの文字部分は色が掠れている。――おそらく阿子の頬には、その文字がくっきりと転写されているだろう。
阿子は周りを見渡し、違和感を覚えた。
見渡す限り、どの机にも人が座っておらず、本棚で本を選りすぐる人もいない。それどころか、周りから人の気配が一切しなかった。
普段は小さな物音が流れる静かな図書館は、完全なる静寂に包まれていた。
「……んー、閉館時間過ぎちゃってる? いや、違うなぁ。午後五時五十五分、閉館は午後八時だし、外はまだ暗くはない、よねぇ」
腕時計を読み上げた後、大きなガラス戸の向こうの外を見る。夕焼けの光はもう見えない分、空気が薄い紺色をしていて、夜が近いことを示していた。
このとき、阿子は気がついていなかった。
時計の秒針が、一切動いていないことに。外の景色にも、人の姿が見えないことに。
「ま、いっか。また寝ちゃうのもアレだし、今日は帰ろう、うん」
エネミーガイドの『グリズリー』と巨きな熊のイラストが描かれたページを閉じ、ノートとシャープペンを鞄にしまう。消しゴムの滓を手に移し、数メートル離れた先にあるゴミ箱の中に入れる。
もしかして、と本棚の間から向こうを眺めるも、やはり人の姿はない。
今までに無いほどの図書館の閑散っぷりに首を傾げつつ、持ち出していた本をTRPGコーナーの上の方の棚に戻そうと手を伸ばして――
「げ、」
戻そうとした瞬間、大判のエネミーガイドが手からするりと落ち、ばさりと床に落ちる。その衝撃で、先ほど開いていたページが開かれた。
本棚の影のせいか、本のページが薄昏く見える。熊のイラストが、先ほど見たときよりも恐ろしく見えた。
「あちゃ。図書館の人ごめんなさい。……っと」
本を拾おうと、阿子は膝を曲げる。
ひゅんっ、と。
風を切る、音がした。
数秒をおいて、阿子の頭に、風がかかる。
ばさばさと、近くで紙束が落ちるのが見えた。
視界の隅で、紙が何枚もひらひらと落ちていくのが見えた。
何かが頭の上に落ちてきて、ガツンと衝撃が後頭部に伝わった。
「…………」
阿子はしゃがんだまま、動かない。いや、固まったまま、動くことができない。
――何、今の……。風? いや、もっと重い、何か……違うものが。通り過ぎた、ような。
頭の中で、警鐘が鳴り響く。逃げて、と。ここは危ない、と。頭の中の誰かが言っている気がする。
前方に、何かが居るという気配だけがある。
それは少なくとも、図書館に居る司書のような、そんな優しいものではなくて――――
阿子はゆっくりと、顔を上げる。
それを、その姿を、見てしまった。
「………………え?」
黒くて、大きな、人では無い、何かが、そこに居るのを。
それは、辛うじて人の形を取ってはいたが、人ではなかった。
それは、全身が黒く、そして毛むくじゃらの姿をしていた。それはまるで、図鑑の中で見た熊のように。
だがそれは、二メートルを超える本棚よりも遙かに大きかった。腕と思われる器官の先には、鋭い爪のようなものが、五本。しかもその爪のそれぞれが日本刀のように反って光っている。
そしてその赤くぎらぎらとした目は、阿子をまっすぐに見据えていた。
――ぞくり、と阿子の背筋が凍る。
「え…………あ、……え?」
尻餅を付いて、ほんの数センチ後ずさりするだけ。阿子ができた抵抗は、それだけだった。
そしてその抵抗は、背中に当たる本棚の感触によって、あっけなく終わりを告げる。
床に付いた手に、さらさらとした紙の感触が伝わる。その紙は、途中で何かに切られたような形状をしていた。
目の前に居る熊のような、何か。阿子は頭の中で一つの名前を紡ぎ出していた。
――『グリズリー』、と。
それは、ほんの少し前まで数値と生態情報を見ていた相手で。
というよりも、戦ったじゃないか。昨日。カズハが。私の分身が。仲間のみんなと。
――いやそんなまさか。TRPGの作品に出てくる魔物が、図書館にいるわけ。
しかし手元にある引き裂かれた紙が、その一撃の凄まじさを物語っている。これがもし、自分の頭を襲ったならば――
グルルル、と、地響きを思わせる音が阿子の耳に入ってきて、思考は強制的に目の前へと戻される。
その音と同時、獣臭さというか、むわっとしたにおいが鼻に入ってきて、吐きそうになるのをすんでの所で抑える。
『アコ、ハ、コロス。サイショニ、コロス』
耳、ではない。頭の中に、うなり声とも違う、重く低い、恨みのこもったような声が、聞こえた気がした。
足が、動かなかった。
背中は本棚にぴったりと付いている。足がすくんで、横に動くこともできない。
目の前の相手が、手をゆっくりと上に伸ばしていく。遠くにいる相手に挨拶をするような、その仕草。
――けれど、その後に起こることを、阿子は知っている。グリズリーの攻撃パターンは、GMからやけにリアルに聞いていたし、ついさっき、本でも読んだ。
その仕草が見せるものの意味は、その鋭い爪による一撃――――
振り上げる腕の動きがぴたりと止んだ途端に、阿子の頭に『死』という言葉が過ぎる。
後はそれが振り下ろされるのを待つだけ。そうなったら最後、見るも無惨な姿になるに違いない。
周りには人なんて居ない。武器なんて持ってない。戦うことなんて、できやしない。
現実なのに、空想の世界の魔物が目の前に居て。自分が今、危機に瀕している。
やだ、なんで。こんなことって――。
グリズリーの手が、阿子めがけて振り下ろされるのが、スローモーションのように見えて――――
「《ファイアボルト》!」
遠くから、聞き慣れた、そして懐かしい声が聞こえた気がした。
爆発音が聞こえたと思うと、グリズリーが後ろを振り返る。その背中の中心部が、黒く焼け焦げていた。
阿子の耳に、何者かの走る足音が入ってくる。
かと思うと。ふわり、と。黒色に満ちていた目の前に、朱色が刺した。
服の裾、だろうか。薄い朱色は柔らかく広がって、そして落ち着く。頭上には、深紅色の三角錐が見えた。
阿子とグリズリーの間に、立ちはだかるようにして立ったその人物は、振り返って阿子に向けてにっこりと笑いかける。
「もう、大丈夫」
小さい子を安心させるときに見せるような、優しい笑顔を浮かべるその人物は。
銀色の髪をさらりと揺らして、阿子に向けて、呼びかけた。
「私、カズハって言うの。あなたを、助けに来たよ」