ベビースパイダー嬢は青春ブタ野郎に夢を見る   作:紺野咲良

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第10話

 一刻も早く、咲太の下へ行かねばならない。そんな焦燥(しょうそう)も当然あったが、朝一で乗り込むような真似はせず、放課後まで待った。心を落ち着かせるために、今日一日を費やした。

 念のためトイレへ寄り、鏡を見る。

 その表情にぎこちなさは一切感じられない。これならば、たとえ恭子(きょうこ)にだって心境を見透かされるようなことはない。

 大丈夫。

 いつも通り、笑えてる。

「行きます、か」

 今一度、鏡に映る自分へ向け、微笑んでみせる。

 こうして自分の顔が拝めるのも、これが最後になるかもしれない。ならばせめて、最上級にきれいな微笑みを目に焼き付けておこう。

 そんな思いで作った表情は、力ない嘲笑(ちょうしょう)にしかならなかった。

 

 先日の失敗に(かんが)みて、二年一組の教室へは向かわない。真っ直ぐに下駄箱へと行き、咲太の靴があることを確認した。

「よっし」

 小さくガッツポーズ。これでもうすれ違ったりすることもなく、会えることが確約されたも同然だ。ここで待ち伏せしていれば、いつかは必ずきてくれる。

 どんな長期戦になろうとも耐え忍ぶ心づもりでいたが、幸い程無くして待ち人は現れた。

「これはこれは。奇遇ですね、さくたろ先輩」

「待ち伏せしておいて奇遇はないだろ」

 心なしか疲れたような声の咲太。きっと綾音(あやね)の気のせいではないはずだ。

 咲太が現在置かれている状況というのはわかっている。そしてその原因が、綾音にあるということも。

「まーまー、細かいことはお気になさらずに」

 心の中で頷き、その手応えを噛みしめる。

 大丈夫。

 いつも通り、話せてる。

「まあいい、丁度良かった」

「はい?」

 これも普段の綾音らしく、きょとんとした顔で首を傾けてみせる。

 けれど、続く言葉は予想できている。

秦野(はだの)に話がある」

 裁かれる覚悟は、とっくにできている。

 

 

    ◇    ◇

 

 

 どこで話をすべきか。そう悩んだとき、まず思い当たったのが海だった。

 なるべく人気のない場所を選びたかった。咲太がどんな反応をするかわからなかったし、視界を(ふさ)ぐ『糸』の量も、多少はマシになってくれると思ったから。

 校門を出て、すぐに見えてくる踏切。先ほどから、かすかな警報音が耳に届いていたが、もう電車は通ったあとらしく、降りていた遮断機が持ち上がってくるのが見える。すんなりと踏切を通過し、緩やかな坂を下り、突き当たりにある国道を渡る。

 そうしてたどり着いた、七里ヶ浜の海。

「……ダメ、ですか」

 綾音の思惑は外れ、ここでも糸の量に大した差はなかった。海の方角は比較的まばらではあったが、それも気休め程度。もうじき視界は完全に糸に覆われ、この海の姿すら拝めなくなるのだろう。

「大丈夫か?」

 咲太に声をかけられ、自分の表情が曇ってしまっていたことに気づかされる。慌てて笑顔で誤魔化そうとしたら、

「顔色が悪いぞ。ダイエットか?」

 という、デリカシーの欠片もない心配の仕方をされた。それがなんとも咲太らしくて、自然と笑みがこぼれる。

「ばれてしまいましたか、お恥ずかしい」

 そういえば、近頃まともに食事をとっていなかったことに気づかされる。まさか咲太がそこに勘付くとは思いもよらなかった。こんなところで目ざといなんて、ずるい。

「古賀はともかく、秦野でも体重が気になるのか?」

「衣服を(まと)っているからまだマシですけど、脱いだらなかなかあかんやつなのですよ」

「女子は大変なんだな」

「体重計とのにらめっこが日課です」

 たぶん、朋絵もそのお仲間。

「そいで、お話とはなんでしょう?」

 本当はこのまま軽口を続けていたかった。

 沈んだ表情が、(すさ)んだ心が、ゆっくりと解きほぐされていく感覚が、どうしようもなく心地よかった。久方ぶりに、飾らない自分でいられた気がした。

 それは、じわりじわりと綾音の心によからぬ思いを植え付ける……甘い、甘い、毒で。このまま(ゆだ)ねてしまえば、揺らいでしまいそうで、折れてしまいそうで。

 振り払わなければならなかった。この先に迎える結末を、真正面から受け入れるために。

「……?」

 待てども、咲太は一向に言葉を発さない。

 少し距離が遠くて……かなり視界が悪くて、表情が確認しづらい。一歩、二歩と咲太へ近づき、顔を覗き込む。すると咲太は、なんとも言えない(しぶ)い顔をしていた。

「……さくたろ先輩?」

 綾音がそう(うなが)したことでようやく腹が決まったのか、ため息をつき、頭をぼりぼりと掻きながら口を開いた。

 

「国見と双葉が、付き合い始めた」

 

 まったく予想していなかった内容に、ぽかんとしてしまう。

「それは……よかったです、ね……?」

 半ば混乱しつつ、素直な感想を述べた。

「それが、よくないんだよ」

「なにゆえです?」

 あの二人が結ばれること。それは咲太も望んでいた未来だと思っていた。

 咲太の顔を、じっと見つめる。浮かない表情の奥で、いったい何を考えているのだろう。どこに、どんな不都合があるというのだろう。

「秦野が、二人をくっつけたんだよな?」

 またしても予想外の質問。どこか確信めいた、咲太の口調。

 けれど咲太には悪いが、あまりにも的外れな指摘だと拍子抜けしてしまう。自分の心が、すっと冷たくなるのを感じる。

「正直、さくたろ先輩が孤立してしまっているのは……わたしのせいかな、って。そう、思ってます」

 加西(かさい)先輩の破局。そして、両親の離婚。

 それらが綾音の仕業(しわざ)であるなら、咲太の現状もおそらくは綾音の仕業だ。麻衣や朋絵との糸を断ち切ってしまうだけの心当たりは、十分すぎるほどにあった。それを認めてしまうのは、少々どころかかなり(しゃく)だったのだが。

「僕もそう思う。麻衣さんや古賀がおかしくなったのも、秦野がその場にいた時だし。秦野が会ったことがない妹とか、他の学校の友達とかは、普通に接してくれてるからな」

「なら、間違いないですね」

「ああ、だから……」

「でも」

 声に力を込め、咲太の言葉を(さえぎ)る。

「国見先輩と双葉先輩がお付き合いされていることは、わたしは無関係だと思うんです」

 けっして言い逃れをしたいわけじゃない。

 だって、そんなの、おかしいんだ。

「わたしにそのような力、あるわけがないんですよ」

 誰かと、誰かを、くっつける。

 綾音の思春期症候群に、そんな力が(そな)わっているはずがない。

 発症した当初、真っ先に願った。ずっとずっと願い続けた。綾音と両親との……そして、両親同士の『糸』を。ごくごくありふれた家族らしいことをできるような家庭になって欲しいと、性懲(しょうこ)りもなく渇望(かつぼう)し続けた。

 それがどうだ。結局一年もの間、家族が一堂(いちどう)(かい)したこともなく、ようやく三人が揃ったかと思えば、あまりにも唐突な離婚の話だった。

 綾音の思春期症候群は、他者同士の関係が見えるだけの症状だった。そこへ、新たに断ち切る力が備わっただけ。そのことは綾音自身が痛いほどにわかっている。

 そして、咲太の方こそ……咲太の方が、わかっているはずだ。

「さくたろ先輩だって、わかってるでしょう? あんなにも仲睦(なかむつ)まじくいらしてたのですから。国見先輩と双葉先輩がお付き合いされるというのは、自然な成り行きだと思うんです」

 それどころか、交際していなかったことが不思議なほどですらある。そしてできることなら、そうなって欲しいと願っていた。

 あの二人が結ばれることは、誰にとっても喜ばしいことだと思っていたから。もちろん、綾音にとっても。

 むしろ、綾音が最も強く望んでいたぐらいかもしれない……。

「……」

 胸に、どろっとした嫌な感覚が湧きあがる。

 密かに(ずる)く、汚く醜い。そんな自分の胸の内が、このような状況を引き起こしてしまったのだと痛感させられる。

 綾音の本質は受け身だ。両親からは命令を待ち、クラスメイトからやさしく声を掛けられるのを待つ。

 神や伝説、運命といった不確かなものも信じて頼った。思春期症候群という不可思議な能力を頼り、恭子の助けを借り、交友関係を広げていった。

 これまでの人生を振り返り、改めて思う。

 綾音自身は労してなどいない。自分からは決定的な行動を起こそうとせず、(こいねが)うだけ。

 造網性(ぞうもうせい)蜘蛛(くも)のように、張り巡らせた糸に獲物がかかるのを、ただひたすらに待つだけ。

 この思春期症候群の結末を悟ってからも、それは変わらない。

 (いだ)いてしまった願望や、胸に秘めたる想いに対する報いなのだと、罪を認め罰を受け入れ、(あらが)うことなく最期の時を待ち続けるだけ。

 変化を恐れ、成長を(こば)んだ、愚かで哀れな子蜘蛛だ。

 

「上里って女子、知ってるか?」

 

 その名を聞いた瞬間、どうしてだか心臓が跳ね上がった。

「かみ、さと……?」

「ああ。僕と同じクラスの、上里沙希」

「上里、沙希……先輩……」

 うわ言のように(つぶや)く。

 かすかにではあるが、その名には記憶がある。

「僕は上里にはめちゃくちゃ嫌われててな」

 そう、確か全校生徒を通じても特にかわいいと評判であり、当然一年の男子の間でも人気な先輩だ。

「あいつとは顔を合わせる度に、『バカ』だの『死ね』だの暴言を吐かれたりでさ」

 そんなキツい性格がまた良いだとか、自分も叱られてみたいだとか、同じクラスの男子が話していたのを耳にしたことがある。

「決まって言ってくるんだよな。『佑真としゃべんないで』とかって。僕なんかと一緒にいたら、国見の株が下がるんだと」

 ――でも相手が国見先輩じゃ、分が悪いよなぁ

 沙希のことが好みのタイプだと熱心に語っていた誰かが、そんな風に肩を落としていた覚えもある。

「……あっ……」

 たどり着いてしまった。

 佑真と理央が、交際に至れなかった事情に。

 咲太が、喜べるはずもない不都合に。

 そして、自分の失態に。

「上里は国見の彼女だ。……いや、彼女だった」

 朋絵が、咲太に片想いをしていたと気づいた時のことを思い出す。

 朋絵は咲太への恋心を諦めた。それは決して卑屈になったわけでなく、相手の立場や気持ちを尊重した上で、前向きに別の関係を選んだのだと感じた。

 咲太には、麻衣がいたように。

 佑真にも、沙希がいた。

 だからこそ朋絵も、理央も……。

「上里がさ、泣きついてきたんだよ」

 表情を取り(つくろ)うことも忘れて、ただただ絶句する。

「『佑真がおかしくなっちゃった』って。『佑真のことが全然わからなくなっちゃった』って。『助けてよ』って。よりにもよって、大嫌いなはずの、この僕に」

「……」

「屈辱だったろうな。でも、他にどうしていいか、わからなかったんだろうな」

「……」

 記憶の片隅にある、沙希の表情、雰囲気。あの先輩が誰かに泣きつくような姿も、なりふり構わず他人を頼るような姿も、想像がつかない。

 けれど、咲太の悲哀に満ちた口調が、その光景をまざまざと伝えてくれた。

「国見が、上里を泣かせるような真似をするはずがないんだ」

 打って変わった強い口調に、肩をびくっと震わせる。

「双葉が、国見にそんなことを望むはずがないんだ」

 (うつむ)いたまま、唇をぎゅっと噛みしめる。

 咲太はとっくに勘付いていたはずだ。近頃自分を襲っている異常事態。その原因が思春期症候群によるものだと……おそらく、綾音のせいだということを。

 今日この場にきて切り出されるのも、咲太がもっとも(ごう)を煮やしている事柄も、麻衣に関してのことだと思っていた。しかし、咲太にとっては違った。

 沙希のことをないがしろにして、佑真と理央が恋人同士となることの方が、信じがたいことで。

 友人たちの想いを踏みにじられたことの方が、許しがたいことで。

「……そう、ですか」

 咲太らしからぬ真摯(しんし)な声や雰囲気に呑まれる。咲太の中には、確固たる芯が通っている。説得力も、根拠も、十二分だ。

 認めなければならない。綾音には、他者の心を捻じ曲げ、断ち切り……そして、結び合わせる力があると。

「そっか」

 咲太を取り巻く人間関係を、滅茶苦茶にしてしまった。

 なんとなく、そうなってくれたら良い。そうなれば、もしかしたら、自分にもチャンスが訪れてくれる。小さな、小さな……けれど確実に胸の内に(くすぶ)っていた(よこしま)な感情が、この事態を(まね)いた。本当に心から、慚愧(ざんき)の念に堪えない。

 だけど……悪いことばかりでもない。

「そう、だったんですね」

 光明を、見出せた。

 自然と口元が緩む。作り物ではない、長らく見せることの叶わなかった、心からの微笑み。

 断ち切る力しか無い。そう思い込んでいた。

 結ぶこともできるのなら、よかった。

「そうとなれば、早急になんとかします」

 繋ぎ直せばいい。本来の、正しい関係に戻せばいい。

 咲太の周りの、全ての人間を。できることなら、加西先輩も。

 そして、それが終わったら……。

 終わったら。

「なんとかって、お前な……」

「さくたろ先輩、連れてってくれませんか。皆さんがいそうなところへ」

 あれからそう時間は経っていない。特に部活動のある佑真や理央は、まだ校内に残っている可能性が高い。

「ほら、のんびりしてたら帰っちゃいますよ」

 咲太の返答も待たずに、学校へ向けて早足で歩き出す。

「待てって、秦野」

 呼び止める声が、ずいぶんと遠かった。

 ついてきてくれないどころか、あらぬ方角へと逃亡を(はか)ったのだろうか。そんな馬鹿な話があるかと思うが、この先輩は何をしでかすかわからない人だ。

「もうっ、ちゃんと……」

 ――ちゃんと、ついてきてくださいよ

 そう言おうとして、振り向いた。

「……秦野?」

 咲太は、すぐ後ろにいた。

 なのに、その声は、先ほどよりも一層遠くに聞こえた。

 何気なく首を傾けた……と思いきや、同時に妙な感覚に襲われる。景色が(ゆが)み、地面が回る。

 傾いていたのは、綾音の体そのものだった。

 砂浜へと倒れ込む。音も、衝撃も、痛みも……感覚の全てが無い。

「秦野!」

 駆け寄ってきた咲太は、叫んでいるようだった。

 見たこともないほど、必死な形相(ぎょうそう)で。何度も、何度も。

 それなのに……その声は、もう耳に届いてくれない。その顔が、徐々に闇へと包まれる。

 

 世界が、閉ざされていく。

 絶望の色へと、染め上げられていく……。

 


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