ベビースパイダー嬢は青春ブタ野郎に夢を見る   作:紺野咲良

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第12話

「わたし、あなたの(そば)に居る資格、ないんです」

 

 言葉の意味を(とら)えられなかったのか、咲太は困惑の(にじ)んだ表情で首を捻っている。

「雇用条件をそこまで厳しくした覚えはないぞ」

 今度は綾音が困惑する番だった。

「いえ、そういうこっちゃなくてですね……」

「じゃあ、なんだっていうんだよ」

「言葉の通り、です」

「わからん。いっちょんわからん」

 この様子では、咲太には理解しようとする気概(きがい)さえなさそうだ。そう思うと苛立ちが一層(ふく)らみ、なかば自棄(やけ)になり、吐き捨てるように胸の内をこぼす。

「なんで、国見先輩と双葉先輩を結び付けたと思うんですか」

 体育館で二人の姿を拝んだ際。

 一目でお似合いだと思った。これまで見てきた中でも、間違いなく上位に食い込むほどの……下手をすれば、ベストカップルとさえ感じた。

 そのときの咲太の反応を見るに、二人には交際できない事情があるように思えた。しかし、事情の有無にかかわらず、結ばれてほしいと願ってしまった。そして、それが叶った際の咲太の喜ぶ顔が見たかった。

 だが、それ以上に、

「あの二人を、あなたから遠ざけたかったんですよ」

 あのあと咲太は、二人が良い雰囲気だからと、そこへ水を差すのも悪いと、気を利かせて声もかけずに立ち去った。仮に交際しているともあれば、なおさらそんな場面は増えることだろう。

 そうして、二人だけの世界へと入り込んでしまえばいい。

 そうすれば、二人が咲太に構う時間は必然的に減るはずだから。

「なんで、古賀さんや桜島先輩との糸を断ち切ったと思うんですか」

 こちらはもっと単純明快な話。

「嫉妬、しちゃったんですよ」

 以前目の当たりにした、朋絵や麻衣とのやりとり。

 咲太が意外にも多彩な表情を見せていたことに驚いた。それを拝めたことは喜ばしいことだったが、同時に綾音の心にもやもやしたものを植え付けた。

 当時はその不快感の正体に思い当たることはなかった。想像していた『病院送り』の先輩像と、あまりにかけ離れていたからだと思うことで、無理やり納得してみたりもした。

 今にして思えば、はっきりとわかる。

 あのとき、自分は確かに嫉妬をしていたのだと。

「そうやってあなたの周りの人たちを、全員残らず排除してしまいたかったんです」

 もとを正せば、咲太へ抱いてしまった勝手なイメージ。

 病院送りという異名から、他者を寄せ付けない孤高の存在であるとまで想像を膨らませてしまった。

 誰のものでもあってほしくない……咲太と接点を持つ前までならば、そんな幼稚でわがままな願望のみのはずだった。それだけならば、大事に至ることもなかっただろう。

 しかし、思いはそれだけに留まることがなく。いつしか芽生えたのは、ずるくて、醜い欲望。

「そうすれば……あなたを独り占めできるかな、って……思っちゃったんですよ……」

 神話に登場する伝説の英雄たちに抱くような、ただの憧れのままならば良かった。

 TV画面ごしのアイドルに対して抱くような、漠然(ばくぜん)とした好意であれば良かった。

 間近でふれあい、言葉を交わしてしまい、(おろ)かにも手の届く存在だと錯覚してしまったことが、此度(こたび)の騒動の発端(ほったん)

「最低です……わたしは」

 自らへの怒りのあまり、シーツをぎゅっと掴む。いたたまれなくて、顔を伏せる。

 無自覚で無意識だったとはいえ……いや、だからこそ余計にたちが悪い。

 両親や加西(かさい)先輩のことがなければ、咲太の周りで起こった異変の原因が綾音にあることに気づくこともなかっただろう。

 むしろ、チャンスとさえ思ったに違いない。

 咲太の不幸に、傷心につけこみ、嬉々としてアプローチを仕掛け、絶対に振り向かせてみせると意気込んだはずだ。

「どうしようもないです……本当に……」

 己の(いや)しさが、着実に浮き彫りになっていく。

 こんな自分では、咲太の傍にはいられない……いたくない。

 人を慕う資格なんて、ない。

 人と関わる資格なんて、ない。

 だから……独りで、最後を迎えよう。

 全ては、思春期症候群の導き出す結末のままに。

 それが、咲太の大切な人たちを一人残らず奪おうとした罪に対する、相応な罰だと思うから。

 

「普通だろ」

 不意に耳に届いた声に、綾音は目を丸くさせる。

 弾かれたように顔を上げると、心底呆れ果てた様子で肩をすくめている咲太がいた。

「どこもおかしくなんてない。誰だって焼きもちぐらい焼くだろ」

「でも……」

「僕も麻衣さんが他のやつにばっか構ってたら、すげえ嫌だと思うし。独占したいって思うときもあるしな」

 それも咲太の本心なのだろう。心にもないことを言ってまで、慰めてくれるような人ではない。平静時であったならば、そのぐらいすぐにわかり、笑って軽口さえ返せたはずだった。

 しかし、今この瞬間に限っては気遣われているとしか思えず、咲太のやさしさは胸を攻め立てるばかりで。

「わたしとさくたろ先輩とでは違いますよ。だって……」

 ――あなた方は、れっきとした恋人同士なのですから……

「……」

 喉元まで出かかったセリフをのみこんでしまう。

「だって?」

「いえ……」

 弱弱しく首を振り、言葉を濁す。

 そのセリフを口にすること自体に抵抗もあった。恋人同士であれば嫉妬したり、独占したりする権利があるというのも、おかしな話だとも思った。

 そして何より、もっとも重大な事実として、そもそもそういった立場の違いがなくとも、咲太は他者を排除したいと願ったりはしない。

 麻衣のことが、大切だから。

 麻衣のことを、信じているから。

「違うんですよ……ぜんっぜん……」

 咲太の耳には届かないほどの、小さな呟き。

 独りよがりな綾音とは決定的に違う。咲太には、相手のことを尊重できる心の余裕がある。

 たった一つしか離れていない歳。にもかかわらず、これまでの人生で(つちか)ってきたものからくる、大きな違い。綾音が選んだ生き方によりもたらされる、致命的な弊害(へいがい)

「それにな、秦野。お前はわかっていない」

「……なにをです?」

「何があっても、友達は友達だろ」

「……」

「ちょっと無視されたぐらいで、ちょっと冷たくされたぐらいで、僕はあいつらの友達をやめるつもりはない」

 また一つ、思い知らされる。

 自分が、どれほど愚かだったかを。

「そう……ですよね……」

 以前、咲太と友人との間に糸が見えなかったと告げた際。そのことを綾音が茶化したりしても、さほど意に(かい)する様子はなかった。

 咲太は最初から、目に見えない糸を……絆を、固く信じていた。

 それは綾音にはない、咲太が持つ強さ。

 綾音は誰のことも……もちろん両親のことも信じていない。無二の友人であるはずの恭子(きょうこ)のことすらも、心から信じたりしていない。どこかで線を引き、それ以上は踏み込まない境界を、踏み込ませない領域を設けていた。

 蜘蛛(くも)のように獲物を捕獲するためじゃなく、ただ自らを守るための巣を作った。

 それは綾音が臆病なゆえの自衛手段。そして、それが綾音自身から伸びる糸が見えなかった最大の要因。

 他者と深く関わり合うことを、ずっと避け続けてきた弊害だった。

「お前もだよ」

「……はい?」

 きょとんとして、咲太の顔を見つめる。

「何があっても、秦野も僕の友達だ」

 その言葉を額面(がくめん)通りに受け取ることができていたら、どれほど幸せだっただろう。

「……ありがたいお話ですね。涙が出てきちゃいますよ」

 咲太がそんなふうに思ってくれていた。そのこと自体は嬉しい。でも、それ以上に悲しみでいっぱいだった。

 友達以上の関係になるつもりはない……そうとも聞こえてしまった。

 何があっても、友達が友達であるように。何があっても、思い人は思い人のまま……未来永劫(みらいえいごう)、咲太が好きな人はただ一人なのだと伝わってきてしまった。

「さくたろ先輩こそ……」

 咲太の方こそ、わかっていない……そう言いかけて、口をつぐむ。

 咲太は決して鈍いわけじゃない。きっとわかっている。わかっていながら、平然と相手の神経を逆撫でするような人だ。

 もとより、今この瞬間にいたっては咲太に落ち度などまったくないのだ。素直に元気づけようとしてくれた咲太の言葉を、綾音が勝手にネガティブに受け取ってしまっただけなのだから、咲太を責めるのはお門違(かどちが)いというもの。

「不満があるなら言ってみろ」

 何かを言いたげな綾音の様子を見かねてか、しれっと咲太が言う。

「お前はたぶん抱え込み過ぎなんだよ。たまには思いっきり叫んでみろ、僕みたいに」

 思い出されるのは、グラウンドの中心で愛を叫んだ珍事件。

 咲太はあれを、思春期症候群を解消するための行為だと言っていた。ならば、綾音にも効果的な手段となってくれるかもしれない。

「けど……わたしが望んでしまえば……」

 できる限り、頭に思い描かないようにしていた。言葉にして発してしまえば、願望がより明瞭(めいりょう)にかたどられてしまう。その願望が力を発揮してしまえば、咲太の感情さえ捻じ曲げてしまいかねないのだ。

 沙希という彼女がいながら、理央と交際を始めてしまった、佑真のように。

「望みがあるなら、叶えてみせろ」

 血迷ったとしか思えない咲太の発言に、目を大きく見開く。

「……なにを、言ってるんです?」

 綾音の心は、今にも擦り切れてしまいそうなほど危うい。それをぎりぎりのところで繋ぎとめてくれているのは、咲太の存在だった。

「どういうことになるか……わかってて、言ってるんですか……?」

「なんとなくはな」

「だ、だから……それじゃ、さくたろ先輩まで……!」

「僕のことなら気にするな」

「そういうわけにはいきませんって!」

 咲太の感情まで(ゆが)めてしまったら、もう……。

 心が、保てなくなる。

 そんな綾音の心中を知ってか知らずか、涼しい顔で咲太は続けた。

「秦野自身の言葉で結んでみせろ。糸とかいう、妙な力に頼ったりせずに」

「……」

「言うだけならタダだぞ」

 とんでもない話だった。

「そんなわけ……ないじゃ、ないですか……」

 タダで済むはずがない。綾音の糸の力は……思春期症候群は、その人にとって、絶対にあり得ないような感情を植え付けてしまう。それまでの自分にとって、大切だった人のことさえ(ないがし)ろにさせてしまう。

 加西先輩や麻衣が、そのことをすでに体現してしまっている。

「だめ、です……」

 首を左右に振る。

「だめ……だめ、なんですっ……!」

 頭を抱え、髪を振り乱し、必死に払いのける。

 これまでも、散々振り払ってきた。言ってはいけないこと。思ってはいけないこと。その度に思考を殺し、自分を殺し、良い子になろうとしてきた。

 だから、慣れている。

 そのはずだったのに……今なお、しつこくまとわりついてくる。

 ()むべき願望が。

 唾棄(だき)すべき感情が。

「なんでっ……どう、して……!」

 もう、はっきりと頭に思い浮かべてしまっている。今にも胸を食い破ってしまいかねないほどに膨らんでしまっている。

 綾音が叶えたい願いが。

 咲太へ伝えたい想いが。

「ずっと、そうやって押し殺してきたんだな」

「……っ」

 表情が歪む。咲太の指摘を肯定したも同然だった。

「だめなんかじゃない」

「だめに決まってるじゃないですか!」

「いいんだよ。お前の心を抑え込む必要なんてないんだ」

「あるんですよ、だって!」

「無理に良い子でいようとするのは、もうやめろ」

 その口ぶりからもわかる。

 やはり咲太は、もうすべて気づいてしまっているのだろう。気づいた上で、ずけずけと踏み込んでくる。これまで誰にも侵させなかった、綾音の巣に。

「無理して、なんか……」

「してるな」

 クラスメイトとは、付かず離れずの楽な距離感を守り続けてきた。両親とは、手間のかからない娘でいることを演じ続けてきた。

 誰にも悟られることなく、今日までを生きてきた。

「あなたは……いったい、なんなんですか……」

 咲太とは初めて言葉を交わしてから、たった数日の付き合いでしかない。だというのに、なぜここまで綾音の心を見透かしてくるのだろう。

「わたしの、こと……どこまで、わかっちゃうんですか……」

 心を丸裸にされているようで、恐ろしい。

 自分のことを理解してくれているという嬉しさも、もちろんあった。けれどその感情は、また別の恐怖心も生み出してしまうもので。

 このままでは、これまで以上に咲太に頼ってしまう。甘えてしまう。

 

 咲太のことが……欲しくなってしまう。

 

「……」

 そこで、唐突に腹が決まった。

 このあと何を言われようとも、どこ吹く風といなし、なんとしてもお帰り願おう。

 咲太には、帰るべき場所がある。咲太のことを、待っている人がいる。

 全力で咲太を拒絶してみせる。

 皆、綾音の身勝手な欲の犠牲になっていい人たちじゃないと思うから。

 最後まで、自分は良い子でいられたと思いたいから。

 何より……咲太のことが、大切だから。

「……ね、さくたろ先輩」

 あらゆる感情を隠して、笑う。

 しかし、咲太のことだ。おそらく一筋縄(ひとすじなわ)ではいかない。

 どうしても居座られたら、恩を(あだ)で返すようで悪いが、強硬手段に出てしまおう。医者や看護師を呼び、この人は本当は兄などではなく、赤の他人であると……いっそストーカーなのだと(わめ)いてしまおう。そんな物騒なことを考え始めたとき、

「知るか」

 そう、咲太がばっさりと言い放った。

「……はい?」

 目がまん丸になる。せっかく作り上げた笑顔が、きれいさっぱり消え去ってしまう。

「お前が抱えてる諸々(もろもろ)のことなんか知らん。何一つとしてさっぱりわからん。けどな」

 ひどく面倒くさそうな様子で、ため息混じりに言う。

「僕の知るお前は、いつだって急に変なこと言い出す、なんとも傍迷惑な後輩だよ」

 あまりに簡単すぎる答え合わせに、苦笑いがこぼれる。

 わかってみれば、至極単純なこと。なぜこちらの心を見透かすかだなんて、愚問中の愚問だった。

「……ひどい、言われようですね」

「けど、それが秦野だろ」

「そう……でした、ね……」

 思えば咲太の前では、気を張ることもなく、飾ることもなく。良い子でいようとしたことも、仮面を被ろうとしたこともなかった。

 敬意も、駆け引きも、遠慮もなく。ただ思うがまま、冗談を言っては笑って、突拍子(とっぴょうし)も無いことを言っては困らせて。それがどうしようもなく心地よくて、楽しくて。

 咲太の前ではいつも、綾音は綾音らしくいられた。

「さくたろ、先輩……」

 咲太が、綾音の言葉を待っている。『良い子』としての言葉じゃなく、本当の綾音の言葉を待っている。

 微動だにせず、静かに、真剣な目で……どこかやさしい目で見守ってくれている。

 綾音の想いを、受け止める覚悟をもって。

 綾音の思春期症候群に、向き合ってくれる覚悟をもって。

 だったら、応えなければならない……そう思った。

「……後悔、しないでくださいね?」

「ああ」

 小さく頷いた咲太に、こちらも頷きを返す。

 伝えるべきセリフを頭に浮かべ、いざ口を開こうとしたら、早鐘(はやがね)を打つ心臓が邪魔をする。声が出そうもなく、息もうまく吸えない。ぱくぱくと無様に(あえ)ぐばかりだった。

 不安げな眼差しで、咲太の顔を見つめる。

 (ふさ)がれかけた視界に映る、一筋の光明。

 温かくて、心安らぐ、憧れの先輩の顔。

 憧れだけでは、もう足りなかった。

 どんなに認めたくなくとも、気持ちを偽ることは、もうできない。

 目を閉じ、胸に手を当てる。落ち着いて……と、自らに言い聞かせながら、大きく深呼吸。

 今一度息を吸い込んでから、意を決し、思いの(たけ)を告げる。

「好き、なんです……さくたろ先輩の、ことが……」

 叫ぶほどの声量のつもりだったが、声にすらなっていないほど弱弱しい。

「……だい、すき……です」

 言い直してみても、そう大差のない、か細くて、震えた声。

 こんな大事なときに、なんとも締まらない。情けなくて目の奥がツンとしてしまう。気を緩めたら涙があふれてきてしまいそうだった。

 だが、今は泣いてる場合じゃないと懸命に気力を奮い立たせ、最後の一言を絞り出す。

「だから……わたしと、お付き合い……して、いただけませんか……?」

 なんとか言えた。とうとう言ってしまった。二つの感情が入り混じるも、後者である後悔の念が圧倒的に(まさ)っている。

 すでに交際している相手がいる人に、こんな(よこしま)な想いを告げるなんて、正気の沙汰ではない。自己嫌悪のあまり、潰されそうになる。

 それでも、認めなければならない。これが、本当の自分の姿なのだと。

 クラスメイトを前にしても、両親を前にしても、ひた隠しにしてきた。

 それまで築いてきた関係が壊れてしまうことも怖かった。迷惑をかけてしまうことも、心配をさせてしまうことも、怖かった。

 ただ、嘘偽りない本音を話すこと。そのことが、他の何よりも怖かった。

 良い子などとは程遠い。この上なく臆病で、ずるくて、幼い。

 それが、秦野綾音という人間だった。

「そうか」

 咲太が発したのは、たったの一言。それっきり、口を閉ざしてしまう。

「……」

「……」

 永遠とも思えるほど、長い長い沈黙。

 二人っきりの病室。完全なる無音。聞こえるのは、綾音自身の心臓の音ぐらいなもの。

 おそらく実際はほんの数秒なのだろうが、地獄のような静寂(せいじゃく)だった。

「……あの、なんか言ってくれません?」

 さすがに耐えかねて、先に口を開いてしまう。

「声が小さいな。叫べって言ったろ」

「えと……ここ、病院ですし」

「僕なんて全校生徒の前で叫んだぞ」

「いやいや、病院で叫ぶ方がはるかに難易度高いですて」

「あと、声が上擦(うわず)っていた」

「そ、そりゃ……初めてですもん、こんなこと……」

「へえ」

 興味なさげな空返事(からへんじ)を最後に、再び咲太は黙り込んでしまった。

「……それだけ、ですか?」

 身を乗り出し、むくれてみせる。

「そういうダメ出しじゃなくってですね……もっと、こう……!」

 求めてる返答は、頭にある。

 けれど、一例としてでもそれを教えるのは絶対に嫌だし、それをそのまま咲太の口から言わせるのも何か違う。でも、もう少し何かしらは言ってもらわないと困る。

 そんな葛藤(かっとう)がもどかしくて、うまく言葉にできなくて、どうすれば良いかと苦悶(くもん)していると、

「よくがんばったな」

 という、咲太の声。いつになく、やさしい声。

 意図せず、背筋をぴんと伸ばす。

 全身が火傷するほどに熱く感じる。鼓動が先ほどまでよりも激しく暴れ出す。あまりの緊迫感に、意識が持っていかれてしまいそうだった。

 咲太が、次の言葉を発そうとしている。その口の動きが、走馬灯かと思えるほどスローに見える。

 耳に、全神経を集中させた。

「これからも、よろしくな。友達として」

 それが、咲太からの答え。

 綾音の願いに……綾音の思春期症候群の力に、微塵(みじん)たりとも影響されていない、紛れもない咲太自身の言葉。

 咲太は、変わらない。咲太との関係も、変わることはない。

 この先、ずっと。

「……振られちゃいましたね」

 肩をすくめ、ため息をつく。

 全身から力が抜け、それと一緒に溜まりに溜まった嫌なものが、すーっと抜けていく感覚。

「まぁ、負け戦なのはわかりきっていたことですから」

 自分でも驚くほど、思いのほかあっさりとした感想がこぼれた。

 拍子(ひょうし)抜けしてしまうほど、本当に何もない。込み上げてくるのは、苦笑いぐらいなもの。

「当然だろ。秦野ごときが麻衣さんと張り合おうってのがおこがましい」

「これはまた、ひっどい言い草ですね……」

 この空気を読まない人でなしは、傷口に塩どころかハバネロを情け容赦なく擦り込んでくれる。いっそ清々しい。

「いやそりゃ、桜島先輩と渡り合える女性など、日本中探しても存在するかどうか怪しいですけど」

「世界中を探したっていないな。なんてったって、僕の麻衣さんだ」

「つい先刻(せんこく)振った相手の前で、堂々と惚気(のろけ)ないでくださいよ」

 ため息だって、そろそろ打ち止めになってしまいそうだ。

「あーあ、私の初めてでしたのに。(けが)されちゃいました」

「エロい言い方をするなよ」

「振り方も妙にこなれてませんでした? いったい何人の女性を無残に斬り捨ててきたんですかって感じですよ」

「僕がそんな人間に見えるか? 国見じゃあるまいし」

 確かにモテるのかもしれないが、佑真は絶対にそんなことはしないと断言できる。

 それよりも、この場で引き合いに出されるのが友人の名なのはどうかと思った。ある意味、とても咲太らしくはあるのだが。

「でも、きっと幸せでしょうね。さくたろ先輩に振られる人は」

「その心は?」

「こんなろくでなしのこと、一時でも好きだとか思ったのが馬鹿馬鹿しくなります。瞬時に目が覚めちゃいます」

「気づかせてやるのも、やさしさだからな」

「えぇ。なので」

 一呼吸を置き、顔を上げ、まっすぐに咲太を見つめる。

後腐(あとぐさ)れなく、友達としていられます」

 そんなセリフが自然にこぼれ、自然に微笑んでいた。

「これからも、良きお友達でいてくださいね」

「ああ。ずっとな」

 綾音が自らの意思で、言葉で、初めて結んだ関係。

 電車を待つ駅で会えたら。ばったり校内で顔を合わせたら。なんとなく、暇だったら。

 他愛ない話をして、困らせて、笑いあって。そうやって、この先もきっとうまくやっていける。

 友達として、ずっと傍に居られる。この人とならば。

 心から、そう思った。

 

「はぁ~……慣れないことしたら、変な汁が出ました」

 自分の顔を、ぱたぱたと手であおぐ。

「仮にも女子が汁とか言うなよ」

「仮にとは失礼な。正真正銘の微少女ですってば」

「微少女な」

 おもむろに(うなず)いているあたり、使われる漢字が『美少女』でないことは、しっかりと覚えてくれているようだ。誠に遺憾(いかん)ながら。

「まー、なのでそろそろお帰り願います」

「なんだよ冷たいな。振られた腹いせか?」

「そうじゃありません。流れから察してくださいよ、もうっ。体ぐらいゆっくり拭かせてほしいのです」

「僕は気にしないぞ」

「お兄さまであったり、恋人であったりすれば手伝っていただきましたけどぉ」

「友達に甘えてもいいんだぞ、病人なんだから」

「……む」

 少しだけ悩む。不覚にもほんの一瞬、一理あると思ってしまった。

「いやいや、とっととお帰り下さいませ。桜島先輩にあることないこと吹き込みますよ?」

後生(ごしょう)だからやめてくれ」

「……なんでニヤついてんですか?」

「元々こういう顔なんだよ」

「ほんっと、救いようのないブタ野郎さんです」

 何気なく言ってしまったが、ふと既視感(きしかん)が脳裏をかすめる。以前にも似たような流れを経験した気がした。

 そのときは確か、デコピンを華麗に頂戴してしまったはず。今回もそろそろ飛んできそうな予感がして、必ず防いでみせると身構えていたら、

「秦野」

 咲太の声のトーンが不意に変わる。

「いいんだな?」

 あまりに簡潔すぎる投げ掛け。けれど幸か不幸か、それだけで十分に通じてしまった。

「……えぇ。もう、大丈夫です」

 覇気(はき)のない笑顔で応じる。

「そうか」

 感情の読めない真顔で頷く咲太。

「はい。本当に、ありがとうございました」

「また学校でな」

「はい。また、です」

 咲太がのそりと立ち上がる。

 背筋の曲がった、不格好な後ろ姿。だらしない足どり。

 億劫(おっくう)そうに片手で病室のドアを開け、こちらをちらりとも見ることなく廊下へ出る。

 医者のものとは大分違う、ひどく脱力感ただよう足音が、徐々に遠ざかっていく。

「ったく、とんでもない人です」

 その足音がすっかり聞こえなくなった頃、ぶつくさと文句を垂れ始めた。

「デリカシーなんて欠片(かけら)もないし、面倒くさがりだし」

 でも。

「めっちゃ弱そうだし、いっつも眠そうだし、髪型なんて寝癖みたいだし、まったくもってカッコよくなんてないし」

 ……でも。

 

 初めて、好きになった人だった。

 

「っ……」

 初めて味わう、失恋の痛み。

「うっ……ぁ、ぅ……」

 こんなにも辛いだなんて、思ってもいなかった。

「……ふっ、く……うっ、うぅぅ……」

 抑えきれない嗚咽(おえつ)。とめどなくあふれる涙。

 いつ以来だろう。下手をすれば、物心ついてから一度たりとて流していなかったかもしれない。

「あうっ、ぁ……うあぁっ……うわああああ……」

 幼子のように泣きじゃくる。涙を流した分だけ、悲しみが降り積もる。その中へ埋もれ、呑み込まれていってしまう。

 この寂寥感(せきりょうかん)を、この虚無感(きょむかん)を、知らない。それゆえあまりに堪えがたく、どこまでも深く沈み、冷たく(くら)(よど)みへと堕ちてしまいそうになる。

「せん、ぱい……」

 救いを求めるようにその名を呼ぶ。おのずとその顔が浮かんでくる。

 いつも眠たげな目をした、代わり映えしない顔。そのせいか時折(ときおり)見せる違った表情は、一段と魅力的に思えて。

 そのほとんどは、綾音ではない他の誰かを想っての表情だった。

 いつか、自分のためだけに、もっと色んな表情を見せてほしかった。

「さくた、先輩……」

 呼び慣れた愛称から、たった一文字削っただけなのに、言いようのない愛しさが込み上げてくる。

「さくた……さん……」

 より一層、胸が締め付けられる。

 いつか、そう呼べるほどの仲になりたかった。

 改めて知る。綾音が思うより、ずっと、ずっと。

「好き、だったんだなぁ……っ」

 気づいていたのだろう。綾音が今にも泣きだしそうな顔をしていたことぐらい。

 知っていたのだろう。涙を流すとき、誰かが(そば)にいてくれる安心感を。

 無神経で、空気を読まない人。

 でも、ここぞというときは、誰よりもやさしくなれる人。

「っ……あぁっ、あぁぁぁぁ…………!」

 そう思った瞬間、余計に涙があふれてくる。

 あのやさしい先輩に、もっとやさしくされたかった。

「さくた、さん……っ……あぅっ……あ、あっ……」

 肺が上手く空気を吸えない。胸に爪を突き立てる。

 今この場に咲太がいてくれたら、どれほど救われたことだろう。

 けれど、ここで甘えるわけにはいかなかった。

 この想いと決別するために。

 新たに結びたい糸のために。

 

 良薬は口に苦し、という。

 思春期症候群という心の病に対する薬は、胸に痛いものなのかもしれない。

 痛くて、苦しくて、張り裂けそうで。一向に(やわ)らぐ気配もなく、永遠に続く責め苦かと思うほどで。

 しかしながら、同時に感じる。

 自らの意思で、望む関係を……友達を作れたことに対する(よろこ)びを。

 

 いつしか表情は、泣き笑いへと変わる。

 負ったのが、一生癒えない傷だとしても。

 新たに得た、一生消えない絆があるから。

 明日からはきっと顔を上げ、歩いていける。

 大好きな、友達と共に。

 

 だから、今はこのまま、もう少しだけ……。


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