ベビースパイダー嬢は青春ブタ野郎に夢を見る   作:紺野咲良

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第13話

「……おはよございまふ」

 いつになくぼんやりとした声での、誰に向けるでもない挨拶。

「うぐぅ……」

 両手で頭を抱え、(うめ)く。尋常じゃないほど重くて、痛い。

 昨日、病院から帰宅した直後、猛烈な空腹感に襲われた。しばらくろくに物が喉を通らなかったのだから、当然と言えば当然なのだけど。

 胃にやさしそうな物を軽く口にしていたら、嫌というほど泣いてきたはずなのに、再び涙が込み上げてきた。

 その後も発作的に、お風呂に入っていても、歯を(みが)いていても、自室へ向かう途中の階段でも、度々目が潤んでしまった。布団へ潜ってからもそれは同様で、眠れる気がまったくしなかったし、頭も胸もいっぱいいっぱいで、寝ようという意思すら湧かなかった。

 それでも目が覚めたということは、いつのまにやら眠りについていたということ。きっと涙も枯れ果て、泣き疲れたからだろう。

「どんだけ泣くんですか、わたし」

 そんな自分に(あき)れて、思わずぼやいた。

 警告音を鳴らしっぱなしの頭をさらに酷使し、昨日の出来事を思い返す。

 本当に色んなことがあった。あまりに怒涛(どとう)の一日だったために、すべては夢の中の出来事だったのではないかと疑いたくなるが、容赦なく襲い来る頭痛が紛れもない事実だったことを教えてくれる。

 痛む頭を片手でかばいながら、這うようにしてベッドから降りる。変な体勢で寝てしまったためか、体の節々までもが痛い。

 物憂(ものう)げにカーテンを開ける。目が(くら)むほどの陽の光を全身に浴びる。

 頭も、体も、未曾有(みぞう)なまでに重くて、痛い。

 けれど。

「良い朝、ですね」

 心も、視界も、この空のように晴れ渡っていた。

 

 ぱたぱたと階段を降りる。が、その途中、その足取りがピタリと止まった。

「……?」

 誰かがいる気配がする。耳をすませてみれば、物音がするのはキッチンの方からのようだ。

 多忙な両親がまだいるとも考えにくい。普段ならば、最低でも三十分ほど前には家を出ているはずだ。

 となると、まさか。

「……まさか、ポルターガイストさんですか?」

 ポルターガイストとは、もはや説明無用なほど有名な心霊現象。誰も触れていないのに物が動いたり、音が鳴りだしたりするという奇奇怪怪な現象だ。

「えぇぇっ……ど、どど、どうしましょ……!」

 想到(そうとう)した綾音はうろたえる。

 ごく一般的な女性としての反応よろしく、綾音もさぞ恐怖に震えているかと思いきや、

「動画……は、さすがに気分を害されてしまうでしょうか……。で、でも、写真の一枚ぐらいはお許しいただけますかね……? あぁっ、どうしましょどうしましょ」

 その目に恐怖の色はなく、きれいに輝いていた。スマホをぎゅっと握り締め、わくわく、そわそわと、今にも踊り出しかねない。

 そんな素敵な賓客(ひんきゃく)がいらしているなら、邪魔をしてはいけない。しかし、是非ともその雄姿を拝ませてほしい。かような二つの思いがせめぎ合った結果、

「一目だけ……一目だけ、失礼いたします!」

 という結論に至り、断腸(だんちょう)の思いでスマホをパジャマのポケットにしまい込んだ。

 抜き足、差し足で、キッチンへと向かう。壁に体を隠しつつ、ひょこっと顔だけを覗かせ、中を確認してみる。

 しかし、そこにあったのは、期待していたような物がひとりでに宙を舞っている光景ではなかった。代わりに、ちゃんと生身の人間の姿が見える。

「あれ? お母さま?」

 綾音の声に振り向いた母が、わずかに目を見張った。

「あら。おはよう、綾音」

「お、おはようございます」

 下手をすれば、心霊現象よりも珍しいかもしれない光景に反応が遅れたが、慌ててぺこりと頭を下げる。

「……?」

 普段ならば、間髪入れずに次の言葉が飛んでくるか、忙しそうにどこぞへ去って行ってしまう場面だった。

 しかし、なぜか母は固まり、綾音の顔をじっと見つめている。

「ねえ、綾音」

「はい?」

「どうかした? 目が赤いようだけれど」

「えっ……!」

 反射的に顔を両手で覆い隠す。

「あ、こ、これは……その……す、少しばかり、夜更かしを……してしまいまして……」

 直後、心臓が凍る。

 昨日あったすべてのことを話すなど言語道断だが、両親を相手に嘘をついたり、誤魔化したりした経験など皆無だった。そのため目が泳いでしまい、どもったあげく、ひねり出した言い訳も『夜更かし』だなんて。自己採点0点の返答だった。

 びくびくと縮こまり、母からの断罪の言葉を待つ。

「そ。睡眠はしっかりとりなさいね」

「は……、はい! 以後、気を付けます」

 なぜ夜更かしをしていたかの言及も、大したお(とが)めもない。よほど信頼されているのか、さほど興味がないのか定かではないが、ひとまずこの場では、ほっと胸を撫で下ろす。

「あの……お母さまこそ、どうしたんですか? まだ外出されてないだなんて。時間、大丈夫なんですか?」

「駄目ね。だからもう出ないと」

 母は肩をすくめて苦笑し、きびきびとした動きで身支度を整え始めた。しかし、やはり長居しすぎたようで、その動作にやや焦りが見えている。いったいこんな時間になるまで、何をしていたのだろう。

「ああ、綾音」

「はい?」

「ご飯、よそってあるから」

「へ?」

 何を言われたのかわからず、間の抜けた返事をしてしまう。

 ほうけて母の顔を見つめていると、無言で(あご)で視線を(うなが)される。意図せずその先を追ってみたら、ダイニングテーブルの上に用意されている朝食が目に飛び込んできた。

「……あっ。は、はいっ!」

 先ほどの言葉をようやく理解することができた。晒してしまった無様な醜態(しゅうたい)をなんとか()(つくろ)おうと、咄嗟(とっさ)に背筋をぴんと伸ばし、元気よく返事をする。

「あと、よかったらそれ、学校に持って行って」

 再び母の視線を追ってみる。するとテーブルの隅っこの方に、お皿の上に鎮座(ちんざ)している、二つの白い物体の存在に気づいた。海苔(のり)の巻かれていない、シンプルな真ん丸の(かたまり)

「おにぎり……ですか?」

「ご飯、それでちょうど終わりだったから」

「は、はぁ……」

「慣れないことはするものじゃないわね」

 母はバツが悪そうに肩をすくめる。

 なぜ遅くまでいたのか。その理由は要するに、綾音への朝食と昼食を用意してくれていたということ。わかってみれば、至極単純な話。ごくありふれた一般家庭であれば珍しくもない、日常的な朝の一コマなのだろう。

 しかし、秦野(はだの)家にとっては……綾音にとっては、そう簡単な話ではない。様々な異常事態が連続的に襲い掛かり、過剰な負荷にさらされた綾音の思考回路は、もうショート寸前だった。

「じゃ、行ってくるから」

「あっ、あの、お母さま!」

「なに?」

 呼び止めたはいいが、いまだに頭はまともに動いてくれない。

「えと……」

 首だけでこちらを振り向く母が、「早くおっしゃい」と言葉なしに目だけで命じてくる。

 聞きたいことも、言いたいこともたくさんあった。

 けれど一向に考えがまとまる気配はないし、何より急いでる母をこれ以上引き留めるわけにもいかないという理性が働く。

「ありがとう、ございます」

 口から出せた言葉は、結局それだけ。

 たったそれだけなのに、なぜだか目の奥がツンとして、泣き笑いのような表情になってしまっている気がする。

「変な子ね」

 そう言った母の目尻は下がり、口角は上がっている。

 それは紛れもない、笑顔だった。

 物心がついてから、初めて目にしたかもしれない、母のやさしい笑顔。

「行ってきます」

 母が颯爽(さっそう)と身を(ひるがえ)す。

「あっ……」

 その表情に見蕩(みと)れてしまっていたために、またしても反応が遅れてしまった。

 急ぎ後を追いかけるも、すでに玄関は閉ざされ、母の姿はない。

「……行ってらっしゃいませ、お母さま」

 何ヵ月か、何年かぶりに家族らしいやり取りができたことを嬉しく思う反面、最後の最後で一番大事な言葉を告げられなかったことを悔やんだ。よくよく振り返ってみれば、ところどころ言葉足らずでもあったし、どこまでも愚鈍(ぐどん)な自分のことを恨んでしまう。

 ぽてぽてと引き返し、改めてテーブルの前へと向き直る。

「……」

 日々の食事は、綾音が自分で作り、自分で食べる日が多い。けれど週に数回、時間に余裕があれば両親のどちらかが作ってくれることもある。

 母はもっぱらの洋食派であり、対する父は和食派だ。それが秦野家における、暗黙の了解。用意されている料理により、誰が作ったのかが一目瞭然だったりする。

 今日のメニューは、焼き鮭に、ほうれん草のごまあえ、きゅうりとかぶの漬物、玉子と水菜のお吸い物。

 完璧主義な父らしい、お手本のような一汁三菜。

「わたし……ばか、ですね」

 秦野家では、家事の分担が特に定められていない。言わずもがな両親は多忙であり、活動時間帯すらも不定期であるため、分担などしたところで意味を成さないからだ。

 かと言って、家のことは全て綾音に任せっきり、ということもない。

 今現在綾音の眼前に用意されている朝食のように、忙しい中に暇を見つけ、時間を作り、いつの間にやら各々ができる家事を済ませている。

 本当に綾音に興味がなかったのなら、このようなしっかりとした朝食を用意してくれることもないだろう。目が赤いなどという、細かな異変に気づくこともないだろう。

 寂しさに視野を(せば)めてしまっただけで、両親のやさしさを感じられる事柄は、何気ない日々の中にいくつも転がっていたのだ。

「こんなことも、わかってなかったんですねぇ……」

 ぽたり、ぽたりと、テーブルへ雫がこぼれ落ちる。

 涙はもう、枯れ果てたと思っていたのに……。

「ほんと……ばかです……」

 結局、二人の間の『糸』を見ることもなく終わってしまった。

 でも、今ならわかる。

 必要以上に言葉を交わさずとも、阿吽(あうん)の呼吸で万事をそつなくこなす両親たち。おそらくは互いを高め合い、支え合うような『黄色の糸』で結ばれていたはずだ。

 そんな関係もまた、素敵だと思った。

「……んっ!」

 涙に濡れた目を、片手でぐいっと(ぬぐ)う。

 両親が離婚すると言い出したのは、綾音の思春期症候群に起因(きいん)されるだと思う。それが治った今、別れるなどとはもう言わないのかもしれない。

 けれど、どちらにせよ、

「させませんよ、離婚なんて」

 いつぞや話した一人暮らしの件だって、もちろん撤回だ。

 この家に意地でも居座り続ける。この家で、何日だろうと、何ヶ月だろうと待ち続ける。

 家族が(つど)う日を、ずっと、ずっと。

「ぜったい(のが)してなるものですか。あなた方が帰る場所は、この家なんですからね! お父さま、お母さま!」

 

 

『子はかすがい』、と言うけれど。

 わたしは二人を繋ぐ、『糸』になろう。

 わたし自身の言葉で繋いでみせる。

 家族としての絆を、結んでみせる。

 

 ――そう、ですよね?

 

 さくたろ先輩……。

 

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