ベビースパイダー嬢は青春ブタ野郎に夢を見る   作:紺野咲良

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第2話

 綾音は幼い頃、後の人生を決定づける出会いを果たした。

 それは『運命の赤い糸』の伝説との出会いだ。

 きっかけは、当時放映されていたドラマだったような気がする。作品の内容はまったく覚えていない。十年以上も前のことだから仕方がない部分もあるが、最大の原因は『運命の赤い糸』のインパクトが強すぎたせいだ。他の全ての記憶が(かす)んでしまうほど、その糸に関して触れた場面だけが強烈に印象に残っている。

 生まれた時から、自身の小指と、いずれ出会う運命の相手の小指を繋いでいる赤い糸。決して切れることのない、揺るぎない絆の糸。ひとたび出会えば互いに()かれ合い、約束された幸せな未来を示唆(しさ)してくれる、この上なくロマンチックな伝説。

 ――赤い糸で結ばれた人との出会いって、どんな感じなんだろう

 ――わたしも、運命の相手と結ばれていたいなぁ

 そんな具合で恋すら知らない綾音は、まだ見ぬ運命の相手を求め、劇的な出会いに憧れ、恋に恋をした。以来ずっと、変わらぬ夢を見続けている。

 それを機に伝説や神話、噂話などといったものをこよなく愛するようになった綾音は、小学生にして早くも立派な中二病患者と化していた。そして程無(ほどな)くして、現実とファンタジーとを(へだ)てる、絶望的な境界線の存在にも気づいた。

 綾音が好むもの、求めるもの、望むもの。それらはファンタジーの世界でしか存在し得ない。妄想するだけ、渇仰(かつごう)するだけで我慢するしかない。そう諦めた。

 しかし、中学三年生になったある日、突如として発現したのだ。人同士の繋がりが『糸』として可視できるという、一種の共感覚(シナスタジア)に似た現象が。

 その時の心境は、今でもはっきり覚えている。

 戸惑いや恐怖など一切なかった。涙さえ流しかねないほど感激に震え、よくぞ我が身に訪れてくれたものだと手放しで喜んだものだ。ただ、過剰なまでに期待に胸を膨らませてしまっていた分、後になって自分自身の糸は見えないという事実が判明し、「思ってたのと違う!」と、酷く落胆もしたのだが。

 謎の『糸』の正体に関してネットで調べていく中で、とある現象の名を知ることとなる。

 その名も、『思春期症候群』。

 思春期特有の、不安定な精神状態から引き起こされるという不可思議な現象。誰からも存在を認識されなくなってしまった『透明人間』だとか、同じ日を繰り返してしまう『タイムリープ』に、自分とまったく同じ人間が顕現してしまう『ドッペルゲンガー』などなど、発生する現象は多岐(たき)にわたるらしい。

 それは誰もが信憑性皆無な都市伝説や創作話と思っている中、UFOやUMAの存在ですら信じている綾音は、世にも珍しい肯定派だった。なので、ある程度の予測を立てる。自分の身に起こっているこれは、思春期症候群なのではないか、と。

 断定まではすることができず、疑念が残ってしまった原因としては、「なぜ発症したのか」という点。

 引き金となった出来事に心当たりはあった。というより、一つしか思い当たらなかった。それほどまでに中学時代の綾音の日常は、なんとも平和で、なんとも味気ないものだった。

 けれど、それでもわからない。

 ネットの掲示板で見た事例は、どれも壮絶で凄惨(せいさん)なものばかりだった。発症の引き金となった事件も、時が経ち悪化した症状も。

 それと比べて自分はどうだろうか、と綾音は首を捻る。

 心当たりである唯一の出来事が、自分にとってそこまで衝撃的だったのだろうか、と。

 ただ「妙な糸が見えるだけ」という自分の症状が、どこをどうすれば恐ろしいものへと変貌(へんぼう)を遂げるのだろうか。同じくくりに入れては、散々に苦しんだ他の方々に失礼なのではないかとも思ってしまう。

 それゆえ思春期症候群かもしれないと思いながらも確信は持てず、危機感も芽生えていない。

 解消への糸口は一向に見つからず、そもそも解消しようという気構えすら、綾音には芽生えていない。

 

 

    ◇    ◇

 

 

 この日の授業は全てが滞りなく終了した。綾音は帰りの支度をしながら、今日一日を振り返る。

 珍しく眠気をもよおすこともなかったし、勉学とは関係のない思案や妄想にふけるようなこともなかった。教師の話もよく聞けたし、ノートもきちんととれた。総じて、自らに花丸をあげたいほどに。

 誰に向けるでもない得意げな表情を浮かべる。その成果が試験で現れてくれるかどうかは、また別の話である。

「あっ。綾音ちゃん、綾音ちゃん」

 自己満足の余韻に浸っていたら、誰かが呼ぶ声がした。きょろきょろと辺りを見渡してみると、ドア口で手招きをしている人物がいる。

 先日の依頼人、加西先輩だった。

 綾音は少し首を(かし)げながらも、席から立ち上がり、ぱたぱたと駆け寄る。

「どうしました?」

「あ、うん。あのね……」

 周りの視線を気にするかのように目を泳がせ、そわそわ、もじもじと落ち着かない様子だった。

 それを見た綾音は、ますます首を傾げる。けれど問い返すことも、急かすようなこともせず、加西先輩が自ら口を開くのを待った。決して気遣いなどではなく、ただ単に混乱してしまい、思考が停止していただけなのだが。

 やがて意を決したように、加西先輩が耳打ちをしてきた。

「無事……成功、したの。……告白」

 蚊の鳴くような声でそう告げてくる。

 一瞬何を言われたのか、わからなかった。加西先輩がなぜ頰を染めているのかも、さっぱりわからない。

 思考回路の再起動を(うなが)すために、目を何度かぱちくりさせる。その(まばた)きが十回に及んだ頃、ようやくその意味を把握した綾音は、今度は両手を「ぽんっ」と叩いた。

「おぉっ、おめでとうございます」

 加西先輩がより一層赤くなる。気の毒にも耳まで真っ赤だ。

「あ、ありがと。岡崎くんもけっこー前から意識してくれてたみたいで……びっくりするほどすんなりでさ。もう、夢みたい」

「ほほう。『実は、俺もお前のこと……』って感じですか」

 聞いたことはないが、岡崎先輩の声をイメージして真似てみる。我ながらなかなかのイケボが出た。

「そうそう、まさにそんな……ってやだ、先輩をからかうんじゃないの」

 むっとしたように頰を膨らませ、上目遣いで軽く(にら)んできた。本人なりに怖い顔を作ったつもりなのだろう。加西先輩には悪いが、そんなのかわいいだけだ。

「……怒られてるのに、なんで笑うのよ?」

 どうも内心がばっちり表情に反映されてしまっていたらしい。なんたる失態。

「とんでもない。びびってます、めっちゃ」

「ほんとに?」

「ほんとーですってばぁ」

 嘘じゃない。正真正銘、綾音はびびっている。かわいすぎて。

 何が一番かわいいかって、自分の表情が相手にどんな印象を与え、どれほどの破壊力を持っているかを、加西先輩が一切自覚をしていないところだ。この人は本当に同じ生き物なのだろうかと疑ってしまう。ずるい。ずるすぎる。

「……なら、いいけどぉ」

 いまいち釈然(しゃくぜん)としない様子だったが、迫力皆無な怒りの表情を解いてくれる。

 すると今度は一転して、ぱっと花が咲くように笑った。

「話を戻すけどね、その時は特に思ったよ。綾音ちゃんにお願いしてよかったーって」

「お役に立てましたかね?」

「すっごく助かったよぉ。私一人じゃずーっとうじうじしてばっかで、絶対に踏ん切りつかなかったし」

「それは何よりです。占い師冥利(みょうり)に尽きます」

 心からそう思った。

 この占いを始めた当初の理念、『恋する乙女たちを応援したい』をまさに体現してくれている。加西先輩のような人の背中を押すことが叶ったのなら、万々歳だ。

「ほんと噂通り。すごいね、『美少女占い師』さん」

「……」

 綾音は返答に(きゅう)した。

 間違ってはいない。確かに自分はそう呼ばれている。間違っていないのだ、『音』は。

 しかし、大間違いなのだ。加西先輩の口調や表情から察するに、『漢字』を間違えてしまっているのだ。綾音ごときが『美少女』などと称されてしまうのは、あまりにもおそれ多い。

 正しくは、『微妙』と『美少女』を掛け合わせた、『微少女』なのだから……。

「どしたの?」

「い、いえ、その……」

 はっきりと訂正しておくべきだと、綾音の脳内の天使が訴えかけてくる。

 けれど、この加西先輩という御方は、本心から綾音のことを『美少女』だと思ってくれているのだ。こんな純粋な人物は貴重だ。この世に二人としていない絶滅危惧種だ。そう悪魔も(ささや)きかけてくる。

 綾音は迷った。実に、迷った。

 その時間……およそ、コンマ一秒。

「なんでもありませんよ、先輩」

 天使はあえなく瞬殺された。悪魔の完全勝利だ。

 だがこれは必要な犠牲だったのだ。綾音だって一人にぐらい『美少女』だと思われていたい。

「……そう?」

 きょとんとする加西先輩に、有無を言わさぬキレイな微笑みを向ける。

 やはりどこまでも純粋な加西先輩は、それ以上は何も言及してこない。ちょろかった。

「あ、そうだ。これ、お礼にって焼いてきたの。よかったら食べて」

 そう言って手のひら大の小袋を差し出してくる。ご丁寧にもラッピングまでされていて、一見お店で買ってきた物かと見紛ってしまう出来だが、台詞的に手作りなのだろう。

 そういえば加西先輩はお菓子作りが趣味だと聞いていた。そしてその腕前は舌を巻くものがあるという噂も耳に届いている。

「おぉっ、やはりですか」

「やっぱりって?」

「先ほどから馥郁(ふくいく)たる香りが立ち込めておりましたので!」

 以上のことから、中身は間違いなくお菓子だ。包装ごしの感触から予想するに、たぶんクッキーが大本命。

「そ、そんなに匂いしてた?」

 加西先輩が狼狽(ろうばい)してしまう。周りへの配慮不足を危惧してのことだろう。納豆やニンニクのような臭いとは違っていたとしても、気にする人は気にするものだ。

「ふっふっふ。わたしは甘い物には目がないのですよ」

 しかしこれは単に綾音の鼻が(いや)しいだけだ。そう言わんばかりに胸を張る。

 こと空腹時における嗅覚は、犬にだって負ける気がしない。聞いたところによると、動物界ではアフリカゾウが最強クラスらしい。さすがにその域には達している自信は無い。

 綾音は無邪気な微笑みを浮かべ、受け取ったお菓子を大事そうに胸元に抱く。「これはもう自分の物だから、誰にも渡しません」のポーズである。

 それを見た加西先輩も、つられたように笑顔になった。

「心ばかりの品ですが、どうぞお納めくださいな」

「ありがたく頂戴いたします、先輩っ」

「本当にありがと、綾音ちゃん。じゃあね!」

 去り行く背中へ元気よく手を振りながら、

「おめでとうございました、どうかお幸せに~!」

 と、声をかけた途端、加西先輩がピタリと立ち止まる。

 ひょっとしなくてもボリュームの設定を間違えた気がする。ついでに言葉の選択もだ。

 放課後になったとはいえ、ここは廊下。もちろんまだ人はちらほらいるし、声もかなり響く。周囲の視線が声を発した綾音へ一斉に集まり、次いでその声が向けられた加西先輩へと、これまた示し合わせたように一斉に移っていく。

 加西先輩がゆっくりと振り返った。その顔は火が出そうなほど真っ赤で、口をぱくぱくさせている。綾音は「やっちまいました」と言わんばかりに頭をこつんと叩き、笑顔で誤魔化すことにした。

 加西先輩の心境は、表情を見たのでは判断が難しい。綾音の失言を加味すれば、きっと怒っているはずだ。でも怒っているようにどうしても見えない。どうあがいてもかわいい。

 そんな表情の加西先輩と、無言で見つめ合った。

 周りのひそひそ声が余計に際立つ。どうも好奇の眼差しが残らずこちらへ向いているらしい。この場に居合わせた人々の心を、完全に掌握(しょうあく)してしまったようだ。

 加西先輩はそのままたっぷりと五秒ほど悩んでいたが、不意に回れ右をして逃亡した。その様はまさに脱兎のごとく、疾風のごとく。

 綾音はその背中を茫然と見送りながら、

「……廊下は走っちゃだめですよ?」

 と、無意識に呟いた。

 場所的には正しくとも、状況的にはあまりにも場違いな綾音の台詞は、残念ながら加西先輩の耳には届かない。その姿はもうはるか彼方だ。おそらくだが、通常のスピードの三倍は出ているのではなかろうか。真っ赤だったし。

 きっと、色んな葛藤(かっとう)があったのだろう。理性が働き、怒鳴り散らしたい気持ちを(こら)えたのかもしれない。羞恥心が勝り、これ以上注目の的となるのは御免だと思ったのかもしれない。はたまた綾音の可憐な笑顔に、毒気を完全に抜かれてしまったのかもしれない。

 いずれにせよ、こればっかりは全面的に綾音が悪い。後で謝りに行こう。

「怒った顔がかわいい人って、反則ですよね」

 とてつもない中毒性がある。あんなものを見せつけられては、また怒らせてしまいたい。

 今後、加西先輩と顔を合わせる際には、どうにかして理性を保たねばならないようだ。これはかなり苦しい戦いになる。

 

 自分の席へと戻った綾音は、机の上で早速受け取った包装袋を開けてみる。

 予想は見事に的中し、中から姿を見せたのはクッキーだった。

「これは、これは……」

 一つを手に取り、色んな角度から眺める。

 食べやすさを考慮し、一口サイズで作ってくれたみたいだ。焼きにムラは無く、欠けた部分も見当たらない。大きさ、色、形、どれをとっても素晴らしい出来栄え。全てが完璧すぎる。

 そんな芸術作品のようなクッキーに感化されてか、綾音自身も美術品の鑑定を行う大御所のような貫禄を放てているような気分がする。それでもこのクッキーに値段など到底つけられない。加西先輩の手作り、プライスレス。

「いただきます」

 小さく口を開き、一口サイズのさらに半分ほどを、ひとかじり。

 サクッという小気味よい音がして、バターの風味がふわりと広がる。その後に訪れる、なんとも形容しがたい口どけ感。これがいつぞや聞いた、サクホロ食感というやつなのだろう。

「おぉっ」

 思わず感嘆の声がこぼれる。

 このクッキーと邂逅(かいこう)してからというもの、感動に次ぐ感動であったが、最も特筆すべきは味だった。綾音がこれまで食してきたクッキーの中でも極上の一品だ。文句なしのナンバーワンだ。

 この美味しさを全力で表現したい衝動に駆られる。それこそ漫画のように叫び上がりたくなってしまうが、かろうじてぐっと堪えた。絶対にヤバいやつだと思われてしまう。噂は好きだが、自分が噂されるような事態はなるべく避けたい。

「加西先輩こそ、お噂に(たが)わぬ腕前ですねぇ」

 残りの半分を口へ放り込み、うっとりと目を細めながら咀嚼(そしゃく)する。なんたる至福なのだろう。

 落っこちてしまいそうな頰を両手でおさえる。心の方は完全に落ちた。このクッキーに骨抜きにされてしまった。

「そだ。恭子ちゃんにも分けてあげなきゃ」

 先ほど「誰にも渡さない」と胸に誓ったばかりではあったが、こんな至宝を一人で賞味しようなど、おこがましいにもほどがある。というより勿体ない。この感動を誰かと分かち合いたい。

 教室内をぐるりと見渡す。が、恭子の姿が見当たらない。もう帰宅してしまったのだろうか。

「……んぃ?」

 そう思ったけれど、恭子の席に鞄がある。まだ校内には残ってるようだ。

 ドア口に立ち、きょろきょろと廊下を捜してみる。恭子らしき人影はない。

「んんー、どうしましょ」

 無闇に捜しに行き、すれ違ったりしては本末転倒だ。鞄が残っているのなら、いつになるのかは不明でも、教室へ戻ってくることは間違いない。素直に待つのも手だろうか。

「む?」

 ふと、階段脇のスペースで立ち話をしている人がいることに気づく。その姿はちらりとしか見えないため、女子生徒であるということしかわからない。

 けれど、あれは恭子だと思った。なんとなく、直感的に。もしかしたら、動物的な本能。ご主人様を探し当てる犬のような嗅覚を発揮してしまったのかもしれない。

 人違いだったら困るからと、念のためこそこそと近寄った。壁で体を隠しつつ、ひょっこりと覗いてみる。

「あっ、恭子ちゃ……」

 綾音が言葉を失う。

 それは確かに恭子であった。でもひとりではない。よくよく考えてみれば、立ち話をしていたのだから当たり前なことなのだが。

 一緒にいたのは、見知らぬ男子生徒。

「高坂の友達?」

 恭子よりも先に、その男子が綾音の存在に気づいた。

 高坂。一瞬誰のことだかわからなかったが、それは恭子の苗字だ。

 男子であるならば、同学年以下の女子を苗字で呼び捨てにするというのは珍しくもない。しかし、すっかり恭子のことを呼び慣れた様子の声音は、綾音の心に良くないものを植え付けてしまう。

 はっきり言って……不快でしかなかった。

「あ、綾音」

 今度は、息を呑んだ。

 振り向いた恭子の表情が、綾音にも滅多に見せないような笑顔だったから……。

 ――どちらさま?

 そんな心の声が駄々漏(だだも)れだったのだろう。恭子は笑いながら答えた。

「紹介するね。この人は守谷(もりや)先輩。で、先輩、この子はクラスメイトの……」

 恭子が目配せしてくる。「名乗ってあげて」ということだろう。

 反射的に、慌てて口を開く……が、ぱくぱくと無様に動くだけで、声が出ていなかった。

「秦野綾音、っていう子です」

 見かねた恭子が、代わりに答えてくれた。

「よろしく、秦野さん」

 ぺこり、と機械的に会釈(えしゃく)をする。声はしばらく出せそうもない。

「ごめんね、先輩。この子、ちょーっと人見知りするから」

 フォローまで入れてくれた。ありがたいけれど、今は素直に喜べない。

 ――どういったご関係で?

 これまた無言で首を傾げていると、その疑問にはあろうことか守谷先輩が答えた。

「付き合ってるんだ。俺たち」

 綾音は大きく目を見張った。

 予想ならできた。できてしまっていた。

 だけど……信じたくなかった。

「……あれ? あたし、綾音に言ってなかったっけ?」

 ――初耳でした

 そう言わんばかりに、弱弱しく首を振る。

「ねえ、どうしたの綾音?」

 さすがの恭子も(いぶか)しんで、顔を覗き込んでくる。綾音にも自覚はあるが、これはもう人見知りというレベルでは済まされない。心配されて当然だ。

「いきなりすぎてビックリさせちゃったかな」

「そ、それは悪かったと思うけど……」

「まあ、行こうか。秦野さんにも悪いから」

「あ、うん……そだね」

 守谷先輩が綾音を気遣った素振りを見せる。意外と紳士的らしい。

「ほんとごめん。後でちゃんと話すから」

 恭子がそう囁いてくる。申し訳なさそうに笑いかけながら、両の手のひらを合わせ、謝罪の意を示すジェスチャーも添えて。

「また明日ね、綾音」

 恭子と守谷先輩は、並んで階段をのぼっていく。

 その足並みは揃っていて。顔を見合わせての談笑をしていて。どんなに認めたくなくても、どう見ても仲の良いカップルの姿でしかなくて。

 やがて二人は踊り場へと到達し、折り返しによりその姿も見えなくなる。

 足音も、声も、遠ざかり、消えていく。

 訪れた深閑(しんかん)

 綾音はただ独り、その場へ(たたず)んでいた。

 

 

 再び綾音の時を動かしてくれたのは、校舎内にいても聞こえてくる、運動部の元気な掛け声。

 つい先日に野球部を間近で拝見した際にも感じたが、彼らはいったいどこから声を出しているのか不思議だ。綾音には逆立ちをしても出せる気がしない。「腹から声を出せ」というフレーズをよく耳にするし、まさか本当に彼らの声の発生源はお腹なのだろうか。残念なことに綾音の腹部に声帯は搭載されていないので、きっと体の構造が根本的に違うのだと思って諦めることにしておく。

 そういえばと、以前に聞いたある一言が不意に頭を過った。

 ――ごめん、このあと待ち合わせしてたんだ

 加西先輩からの依頼を終え、その後ばったり出くわした恭子が放った一言。今にして思えば、あれは守谷先輩との待ち合わせだったのだろう。

 いつから。いつの間に。あんなにも一緒にいたはずなのに、馴れ初めの一切を知らなかった。それはそれでショックではあるが、そこはまだ些末(さまつ)なことだ。

 今の綾音は、そんなものとは比較にならないほど震撼(しんかん)させる事実に心をとらわれてしまっている。

「……なんで」

 こぼれ落ちた、絶望に満ちた呟き。

 見えてしまったのだ。恭子と守谷先輩の間に、見えてはいけないものが。

「なんで……恭子ちゃんに、あんな『糸』が……?」

 常々、綾音が目にしたくないと忌み嫌っていた色。仮にその他のものが『正の糸』だとすれば、『負の糸』と呼ぶべき不穏な糸。よりにもよってその内の二種類の糸が、あの二人を繋いでしまっていた。

 一つは、一見して赤に見えてしまいそうな、桃と深紅のマーブルがかった『薔薇色』の糸。この色の糸で結ばれた関係は、『遊び目的』……要するに、『体目的』であることを示している。

 そしてもう一つが、最も厄介な『黒』の糸。その色から受ける印象のまま、不吉な意味合いを持つ糸であり、結ばれた二人を不幸な結末へと導いてしまう『悪因縁』の関係を示す糸だ。イメージとしては『赤い糸』とほぼ真逆に近い。

 守谷といったあの先輩は、どのような人物なのだろう。人畜無害とまでは言わないが、傍目(はため)にはそう危ない人物に見えなかった。それでも本性はまったくの別物なのかもしれないので、安心なんてできない。

「守谷、先輩……。もりや……?」

 綾音は脳内データベースに検索をかける。この峰ヶ原高校における守谷という苗字の生徒は、一人しか心当たりがない。仮にその人であるならば三年生の生徒であり、すでに引退はしたがバスケ部に所属をしていたはず。

「……バスケットボール部、ですか」

 綾音は顔をしかめる。

 バスケ部の三年生には、前々からよからぬ噂があった。とあるグループの男子たちが、手当たり次第に女子を食い物にしているという、きわめて不快な噂が。

 高校生にしてそのような真似をするなど誠に懐疑(かいぎ)的である。けれど、火のないところに煙は立たないとも言う。元バスケ部の三年生が、何かしらの怪しい行動をしているのは確かなのだろう。

 そして先ほど見えた『糸』の色からしても、その噂の信憑性が増してしまっているのだ。

「放ってはおけない、ですね」

 余計なお世話かもしれない。人間関係に……特に恋愛事情に首を突っ込まれるなんて、恭子が嫌がりそうなことの代表格だ。

 でも……大切な友達が傷つくかもしれないとわかったら、おとなしく黙っていることなど、できるはずもない。

「ひとまず、家に帰ったら電話しますかね」

 守谷先輩やバスケ部の噂をそれとなく話し、控えめに忠告するだけでもいい。あの恭子ならば十分に自衛できるだろうし、自力で解決もしてくれそうだ。そんな想像なら、いくらでも容易にできてしまう。失礼だとは思いつつも、恭子が泣いたり傷ついたりしてる様を想像するのは非常に難儀だ。

 そう思えたことでようやく安堵(あんど)し、おとなしく下校しようと教室へと引き返す。

「あ」

 一歩を踏み出そうとした途端、突然ある事柄に気づいて、ピタリと動きが止まった。

「家に、帰ったら……?」

 今しがたの自らの台詞を反芻(はんすう)する。戦慄(せんりつ)が走り、嫌な汗が吹き出る。そして次の瞬間には走り出していた。

 急ぎ二人の後を追い、階段を一気に駆け上がる。

 三階までたどり着くと、廊下を切羽詰まった形相で睨みつけ、念のために屋上へ続く階段も同様に見やる。

「……いません」

 時すでに遅く、恭子と守谷先輩の姿は見えない。

 守谷先輩は部活動を引退しており、恭子も帰宅部である。だからてっきり、これから一緒に下校するものと思い込んでいた。けれど思い返してみれば、教室には恭子の鞄が残っていたのだ。

「恭子ちゃん、どこに……」

 鞄も持たずに、いったいどこへ行く。階段をのぼる必要性が、いったいどこにある。

 一縷(いちる)の望みを託し、二階へと引き返す。そこでも廊下を確認するも、人影は一切見当たらない。

 放課後。人気がなくなりつつある校内。

 いまだに校内に残っている生徒がどれほどいるのか、どこにいるのか、さっぱり不明だ。これだけ広いと鉢合わせる心配もほぼないだろうし、かくれんぼなんて始めてしまった(あかつき)には鬼役が過労死してしまいそうだ。そう考えると、逢引(あいびき)にはかなり適しているのかもしれない。

 全てが綾音の杞憂(きゆう)であるならば、純粋に健全に逢引だけが目的であるならば、それに越したことはない。けれど、言いようのない胸騒ぎがする。

 本来であれば神聖な校内で妙な行為に及ぶなど考えられないが、逆にそういったシチュエーションに興味を持ち、興奮を覚える者がいることも知っている。恭子がそれに該当しなくとも、『無理やり』であれば十二分にあり得る。

 あまり考えたくはないが、そんな未来すらを示唆(しさ)する『糸』が見えてしまっていたのだ。

「……どうしたものですかね」

 もし想像したような事件が起こってしまうならば、綾音がひとりで駆けつけたところで無力だ。あらかじめ誰かに助けを求めておく必要がある。

 しかし綾音は恭子とは違い、人見知りが激しく、おまけに口下手だ。必死になって話したところで理解など得られない。むしろ相手にもされないだろう。

 ましてやそれが、『糸』を……『思春期症候群』かもしれないものを根拠としてしまうならば、なおさらに。

 

「……?」

 ちょうどそのとき、二年一組の教室から出てくる人影があった。

 素敵に跳ねた髪型。気だるそうな歩き方。ちらりと見えた横顔、安定して眠そうな目。

「あれは……」

 以前は名前を思い出せなかったが、ちゃんと名前を調べ直しておいた。

 病院送りの先輩、梓川(あずさがわ)咲太(さくた)

 こっそりと後をつけたい場面ではあるが、残念ながら今はそんなことをしている状況じゃない。咲太ほどではないにせよ、危険としか思えない人物が、恭子を毒牙にかけようとしているかもしれないのだから。

「……あっ!」

 その時、綾音に天啓(てんけい)が舞い降りた。ほぼ同時に、この場におあつらえ向きな格言が浮かぶ。

「『毒をもって、毒を制す』、ですね」

 守谷先輩が危険人物であるというのなら、より強い『毒』によって駆逐(くちく)をするしかない。人命、正義、未来……そういったもののためには、時に小さな悪に目をつぶらないといけないともよく言ったものだ。

 なりふりなど構っていられない。今こそ『病院送り』の先輩の本領を発揮していただくべき時がきたのだ。

「助けてくれませんか、先輩!」

 その声に反応し、咲太が振り向く。そして綾音と目が合った……かと思えば、なぜか辺りを見回し始める。

 どうも人違いを疑ったらしい。しかし咲太の他に人の姿が一切見受けられないことから、怪訝(けげん)な表情で問い返してきた。

「先輩って、僕のことか?」

「はい。『病院送り』の先輩ですよね?」

「……一年の間ではその呼び名で通ってるのか」

「たぶんそですね。でもなんでです?」

「前にも他の一年の子にそう呼ばれたことがあるんだ」

「なるほど、なるほど」

 思えば『梓川先輩』と呼ぶ一年生はほとんどいない。無論、綾音もその例に漏れない。そのせいもあり、度々、咲太の名前を忘れてしまう。

「で。助けてくれ、って言ったか?」

「はいっ、その、緊急事態で……」

「断る」

 咲太は断固とした口調ではっきりと告げる。

「えとえと、上手く説明できないけど危ない先輩がいて、友達が酷い目にあいそうで……」

 けれど、必死な綾音の耳には届いてなかった。

「……そうか、なら教師か警察でも頼ってくれ」

 面倒くさいという内心を隠そうともせず、咲太が正論で応じた。

 それで話は終わりだと言わんばかりに、綾音の横をすたすたと通り過ぎていく。

「ちゃんと話を聞いてください!」

 その後を慌てて追いかけ引きとめようとするも、咲太は立ち止まる気配がなかった。めげずに小走りで食らいつく。

「ごめんな。このあと用事があるんだ」

「あのあのっ、わたし……」

「お前こそ人の話を聞けよ」

 今度は聞こえてはいたけど、聞き入れる気は毛頭ない。

「わたし、見えるんです!」

「壺なら買わないぞ」

 主語が抜けていたためか、盛大に勘違いをされてしまったらしい。

「いえ、霊感商法とかではなくてですね……あぁでも、似たようなものが見えてしまうと言いますか……」

「はあ?」

 訂正をしなければと思いつつ、あながちそう遠いものでもないなとも感じ、口ごもってしまう。

 綾音の置かれている境遇を隠しながら、回りくどく説明をしようとしてもダメだ。頭も良くない上に口下手なのだから、こうなれば破れかぶれ、ド直球で攻めるしかない。

「き、奇妙な『糸』が見えるんです!」

 そう口にした途端、なぜか咲太の歩みが止まった。

「……糸?」

 理由は定かではないが、これでようやく落ち着いて話ができそうだと、ほっと胸を撫で下ろす。

「はい。『運命の赤い糸』、って知ってますよね?」

「そりゃもちろん知ってるが」

「なぜだかわたしだけに、それと酷似(こくじ)した変な糸が見えるんです」

「……」

 咲太が沈黙してしまう。なんだか困惑した様子で。

 本来ならば相手の応答を待つべきなのかもしれないが、綾音としては一刻を争う場面なので、話を続行した。

「で、あれって赤のほかにも色々な種類があるんですよね。色だけに」

「座布団没収だな」

「手厳しいです……」

「笑いの道は甘くないぞ」

 深い悲しみに包まれた。そこそこ上手いことを言えた自信があったのに。

「まぁ、その、結ばれていた糸の色によって、その二人の関係性がわかっちゃうわけですよ」

「へえ」

「それを利用して、占い師の真似事を生業(なりわい)としておりまして」

「ふーん」

「それでちょと、友達にあまり良くない色の糸が見えてしまっていたと言いますか……」

「はあ……」

 面白くなそうに生返事ばかりしてきた咲太が、とうとうため息まで吐いてしまった。ちゃんと聞いてくれているかも心配になる。

「こんなの誰に言っても信用されないし、時間がないかもです。危ないのは今すぐかもなんです!」

 言葉にしてしまうと余計に焦りが生じてくる。咲太の協力を(あお)げないとなると、非常にまずい。

 咲太ならば綾音には思いもよらぬような破天荒なことをしでかしてくれそうだし、最も適任かもしれないと感じていた。何より常識的な一般人の方々と比べ、頭のネジが一つ二つ外れてそうだし、こんな突拍子も無い話にですら乗ってくれそうだと思っていた。

 裏を返すなら、咲太ですら説得できないようであれば、綾音には他の当てが無くなってしまう。

「占い師、ねえ」

 ぼやく咲太の表情をじっと見つめる。

 心底面倒臭そうで、どこか諦めたような。そんな表情に思えた。

「どうも僕は、こういう星の下に生まれているらしいな……」

「……なんですと?」

「なんでもない」

 言葉を濁されてしまった。気にはなるが、追及している暇はない。

「そりゃ嘘みたいでしょうけど、にわかには信じられないでしょうけど」

「信じるよ」

「ですよね、でもでも本当に本当でして!」

 反射的にムキになって詰め寄った。

「いや、だから、信じるって」

「……えっ?」

 予想と反した咲太の言葉に、ぽかんとしてしまう。

「いま、なんて……?」

「何度も言わせるな、信じるっての。友達に不吉な糸とやらが見えて、もうすぐ危ない目に遭うかもしれないんだろ?」

「あっ、は、はい」

 てっきり、もっと詳しく『糸』のことを聞かれるかと思った。あまりにも物わかりが良すぎて完全に拍子抜けだ。

「代わりに、そのことが無事に済んだら、付き合ってくれ」

「……ふぇ?」

 綾音が固まる。

 瞬きすらせずに、たっぷりと、五秒ほど。

「ええぇぇぇぇっ!?」

 突如、絶叫が木霊(こだま)した。綾音本人としては峰ヶ原高校敷地内すべてに響き渡るような声を発したつもりだったが、悲しいかな、そんな声量は持ち合わせていない。きっと届いたのは、目の前にいる咲太にだけだろう。

「おい、急にどうした?」

「そのような対価を要求するなど、想像以上の鬼畜でした」

 どうりで話が早すぎると思った。

 きっと内心では「何言ってるかわかんねーし面倒くせーけど、適当に相手してやれば付き合えるってんなら儲けもんだな」などと思っているに違いない。下手をすれば欲情さえしたのかもしれない。汚らわしい。今時そんな(やから)が三次元に存在するなど信じたくなかった。

「……本気で『そういう意味』で受け取るやつ、いまだにいるんだな」

「こっちの台詞です」

「いいか、占い師」

「よくないです」

「いいから聞けって」

「おとなしく言うことを聞けと? そんなのだめです、わたしには幼い頃から心に決めた、まだ見ぬ運命の相手がいるんです」

「それ、実在してないやつだろ」

「ぐぬっ……!」

 鬼畜な輩はいるというのに。運命の相手はいない。この世はなんて理不尽なのだろう。

「お前、糸とやらが見えるって言ったよな?」

「言いましたけど」

「ちょっと知り合いのを見て欲しいんだよ。面白そうだから」

 急に何か言い出した。

 綾音が渋ってるのを見て要求を切り替えてきたのだろうか。だが、いくらなんでもハードルが格段に下がりすぎだと思う。

「あ。そういう話になりました?」

 綾音としては願ったり叶ったりなので、自然と明るい表情になる。

「最初っからそのつもりで言ってる」

 はて。これはどういうことだ。

 幸か不幸か、すぐに一つの可能性に思い当たった。

 綾音の盛大な勘違いという、赤っ恥な可能性に。

「……『付き合う』って、そういう?」

 咲太が無言で大きく頷く。

「こ、これは失礼いたしました。たいへんお見苦しいところを……」

 慌てて、ぺこぺこと頭を下げた。

 日本語って本当に難しい。つくづく、そう思った。

「気にするな。第一印象から何も変わってないから」

「ほんとですか?」

「本当だ」

 片や弾んだ声、安堵したため息。片や呆れたような声、疲れたようなため息。

 なんだかまた噛み合ってないような。気のせいだろうか。

「で、どうなんだ?」

 返答を促された。いまいち腑に落ちないけど、話が進まないので素直に応じる。

「なるほどなるほど、そういうことならお安い御用です」

 占い師としての依頼に応じるぐらいならば訳ない。「お任せください」と胸に手を当てる。めでたく交渉成立だ。

 そしてこれにて勝利が確定したも同然だ。『病院送り』の先輩を味方につけることが叶った今、大船どころか豪華客船に乗った気分になれるのだ。氷山にエンカウントさえしなければ無敵だ。

「こほん。自己紹介が遅れました、一年の秦野(はだの)綾音(あやね)と申します。よろしくです、病院送り先輩」

 礼儀正しく、深々と頭を下げる。

「梓川咲太だ。梓川サービスエリアの『梓川』に、花咲く太郎の『咲太』で、梓川咲太」

 長ったらしく妙な文面を付け足してくる。漢字まで思い浮かべられるようにした、咲太なりの粋な配慮だろうか。

「何やら風変わりな自己紹介の仕方ですね」

「パクるなよ」

「パクりませんて。そもそも『秦野』はサービスエリアが無かった気がします」

 秦野は神奈川県にある市の名前だ。藤沢市や茅ヶ崎市と同じく湘南地域に含まれるが、その二つとは正反対の最西部にある。さらに内陸に位置しており、山に囲まれ海に隣接していないためか、一般的に湘南地域として扱われることがないと聞いた。同じ秦野の名を冠しているがゆえに感情移入してしまい、その際は大変不憫(ふびん)に思ったものだ。

「僕の記憶が確かなら、開設予定じゃなかったか?」

 なんということだろう。その情報はまだ仕入れていない。

「まじですか」

「まじだ」

「秦野もとうとう全国デビューですか」

 不遇な扱いを受けた秦野が、日の目を見る時がきたのだ。これほど喜ばしいこともない。

「全国へ名を轟かせるのは無理があるな」

 無慈悲にも冷静な一撃を食らう。道のりは高く険しいことぐらい理解しているが、少しぐらい夢を見させて欲しい。

「いえ、秦野は必ずや全国の舞台へ羽ばたいてくれるはずです、梓川先輩なぞ目じゃないです」

「ふーん」

「さては(あなど)ってますね。秦野など眼中にないのですか、そーなのですか」

「正直、どうでもいい」

「がーん」

 大げさに頭を抱えてみる。しかしそんなポーズに相応しいほどのショックを受けていないことに気づいた。どうも秦野への愛が足りなかったようだ。そういえば行ったこともないし。

 それよりも一つ、先ほどのやり取りの中に引っかかる点があった。

「あの、梓川先輩」

「なんだ?」

「なーんか『梓川先輩』って、呼びづらい気がします」

 改めて口にしてみても言いにくい。あと、覚えづらい。こんなのまたすぐ忘れる自信がある。

「『病院送り先輩』よりマシだと思うぞ」

「そちらはあまり深く考えませんでしたけど、さすがに長すぎますもんね。長い名前ってなんか偉そうで腹が立ちます」

「勝手に呼んでおいて、なんだよその言い草は」

「そっかなるほど、『あずさがわ』が五文字なのが悪いんですね。多くの方の苗字は三文字か四文字ですもん。そりゃあ呼びづらいわけです」

「はいはい、悪かったよ。なら好きに呼んでくれ」

 咲太がちっとも悪びれることなく、投げやりに応じてくる。

 当然か。自分の苗字は自分では選べないのだから、咲太に非がある訳でもないし。

「んん~、あずさがわ……さくた……。あずさ……はなさく、たろう……?」

 首を捻りながら、ぶつぶつ呟く。鈍い頭を必死に回転させる。

 綾音にしては珍しく、そう経たずして脳内でぴこーんと電球が輝いてくれた。

「おっ。『さくたろう先輩』でいいですか」

 ぽんっと手を叩く。我ながらナイスなネーミングだと思った。

「字数が変わってないんだが」

 しかし咲太はどうもご不満らしい。細かいことを気にする人だ。

「でも『さくた先輩』と呼ぶのもあれですし。いきなり下のお名前でお呼びするなど恐れ多いですし」

「『さくたろう』なら平気なのか」

「愛称ならば別です」

「お前の価値観がわからん。いっちょんわからん」

「いっちょんわかってください」

「……」

「……」

 二人して黙り込む。綾音は何やら首を傾げて。咲太は綾音から発せられるであろう言葉を待つように。

 ほどなくして、その静寂は破られた。

「……『いっちょん』って、なんですか?」

「だろうな」

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