ベビースパイダー嬢は青春ブタ野郎に夢を見る   作:紺野咲良

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第3話

 咲太を味方に引き入れた綾音は、ようやく恭子の捜索を開始した。

 ぱたぱたと小走りで先導しつつ、時折(ときおり)思い出したかのように背後を見る。咲太の逃亡を警戒してのことだ。良い意味でも悪い意味でも、この先輩は何をしでかすかわからない。

 これまで誰かと遭遇することはなく、話し声も物音も一切しなかった。静かすぎて不気味な感じ。校舎内には人っ子一人いないのではないかと思ってしまう。

 それでも念のために先ほど一年二組の教室を再度確認してみたが、恭子が鞄を取りに来た様子はなく、まだ校内には残っているはずなのだ。

「いっちょん見つからんですね」

「いっちょんな」

 謎の単語の意味はちゃんと教えてもらった。『いっちょん』とは『全然』や『ちっとも』といった意味らしい。いっちょん知らなかった。

「そもそもなんで僕に助けを?」

「病院送りの先輩のお噂は、かねがね(うかが)っておりましたので。人助けという大義名分の下、合法的に暴れられるとなれば、喜んで協力してくれるかなと思った次第なのです」

「いったい人をなんだと思ってる」

「血に飢えた戦闘狂(バーサーカー)、もしくは暗い過去を背負った闇英雄(ダークヒーロー)のように思っておりました」

 そう語る綾音の目は生き生きとしていた。少女ではあるが、少年のような輝きをした目を咲太へと向けていた。

「……そうか」

 その代償として咲太の目が死んだ。これは絶対に呆れ返っている。

「なんですか、その目は!」

「きれいな目してるだろ?」

「死んだ魚のような目という表現が、これほどまでにしっくりくる目をした方を、わたしは生まれて初めてお目にかかりました」

「秦野の人生経験が浅いだけだ。そんなの毎日だってお目にかかれるぞ」

「またまたご冗談を。そんな目をした人間がごろごろいたら困ります。世紀末ですか、パンデミックですか」

 この世界に生きたまま死んでいるような、ゾンビのような生命体が溢れかえってしまっていることになる。想像しただけで楽しそうだ。

「嘘じゃない。顔を洗う時とか、歯を磨く時とかな」

 その行動は主に洗面所で行う。つまり咲太が言わんとするところは、鏡の前だということ。

「なんだ、さくたろう先輩がゾンビなんじゃないですか」

 咲太の目は四六時中死んでいるらしい。自分のせいじゃなくて良かったと、少しほっとする。

「秦野は怖くないのか?」

「常々お近づきになりたいと思っておりました」

「冗談だろ」

「美味しくいただかれたくはないですよ?」

「いや、ゾンビのことじゃなくて、僕のこと」

 少し話が食い違っていた。けど、どちらもお近づきにはなりたかったし、美味しくいただかれたくもない。微々たる違いだと思う。

「自分で言うのもなんだが、『病院送り』だろ? そんなあだ名のやつとは関わりたくないってのが普通の感覚だと思うが」

「おぉ、そういえば」

 ぽんっと手を叩く。

 確かに咲太の言う通りだ。現に咲太と積極的に関わろうとする同級生はいないし、姿を見かければ逃げる人も多い。それが世間一般的な反応であり、この学校における不文律(ふぶんりつ)なのだろう。

「んー。でも同じことですよ、ゾンビと」

「へ?」

「たとえ危険であっても……いいえ、危険だからこそ、病院送りの先輩には密かに憧れておりましたから」

「正気かお前」

「ええ、この上なく。本気と書いてマジってやつです」

「マジだったか」

「なのであとでサインください」

「怪しげな契約書にか」

「いえ、悪徳商法とかではなくてですね」

 そんな行為に手を染めるつもりなどさらさら無いが、万が一そうなったとしても相手ぐらい選びたい。こんなあからさまにひねた人は嫌だ。もっと純粋な人がいい。

「まっ、お近づきにはなりたい、けど噛みつかれたくはない。さながら動物園のライオンのような感じでしょうか」

「どうせならパンダにしといてくれ」

「好きなんですか?」

「妹がな」

「ほう、妹さん」

 妹がいたとは初耳だ。心のノートへ、しっかりと赤字でメモっておく。

「つまり妹さんに好かれたいがために、パンダキャラを目指してるのですか」

 そして『シスコンの疑いあり』ともついでに記す。

「……それは、困るな」

「はい?」

 咲太が真剣に眉をひそめている。まさか今の発言は図星な上に、地雷だったのだろうか。

「妹の半分は、僕への想いで出来てるらしいからな。これ以上浸食したらシャレにならないだろ」

「何やら頭痛によく効きそうな妹さんですね」

「そのせいで僕は逆に頭痛をもよおしている」

 どうやら妹さんが重度のブラコンだったようだ。さっそく修正しておこう。

「まあ、単純に温厚そうだろ。パンダって」

「パンダって、襲ったりしてこないんですかね?」

 パンダは漢字で『熊猫』と書くはずだ。熊としての遺伝子を残していたら危険なのではなかろうか。そもそも猫だって十分に凶暴な気がする。

「たぶんな」

 眠たげな目と気だるげな声のおかげで説得力が皆無だった。なんとも無責任な人だ、余計に不安になってしまうではないか。パンダのそばには金輪際(こんりんざい)近寄らないと心に決めた。

「でもこうして間近で見ても、確かにさくたろう先輩はライオンとかみたいな雰囲気がないんですよねぇ。人様を病院に送れるような豪傑(ごうけつ)にはまったくもって見えないです」

「秦野には人を見る目があって嬉しいよ」

「むしろ弱そうです。わたしでも勝てそうです」

「なら、試してみるか?」

「えっ」

 (くすぶ)っていた闘志に火をつけてしまったようだ。さすがに失言だったらしい。

 こうなれば致し方あるまい、(いさぎよ)く腹をくくろう。

「ちょっと待っててくださいね、聖剣とってきますんで」

 どこかに何か良い武器はあっただろうか。傘では少々心もとない。せめてバールのような物ぐらい装備せねば。

「物騒なもん持ってるな。何と戦う気だ」

「もちろん」

 じーっと咲太を見つめる。「あなたとです」と視線で訴えかける。

「人は見かけによらないと言いますからね。用心するに越したことはないです」

 実在する人間の中では最強のラスボスのように思っていた、病院送りの先輩なのだから。

「用心って段階を越えてないか?」

「わたしの世界の常識ではまだまだ不十分です」

「お前、どこの世界の住人だよ」

「れっきとしたこの世界の住人ですってば。まぁ、いつか異世界へ転生してみたいなーという憧れは抱いておりますが」

 咲太がわざとらしく盛大なため息を吐いた。

「……なら、憧れの異世界に行けるまで聖剣とやらは置いとけ。僕ごときに使うな」

 きっと心の中で(さじ)を全力で投げ捨てていたに違いない。不法投棄とはなんたることだ。許すまじ。

「では、素手で戦えと? いたいけな女子高生になんてことさせる気ですか」

「安心しろ。武器なんてなくても僕が負ける」

「……女子供には手を出せないっていう、紳士的なあれですか?」

「見くびるな。単純に秦野に勝てる気がまったくしないだけだ」

 いったい何の冗談だろう。

 どこまで本気で言っているのかと咲太の表情を確かめてみるも、その目の色に変化はない。相変わらず死んでいる。

「わたし、頼る相手を間違えましたかね?」

 すっかり忘れかけていたが、咲太には助けを求めたのだ。綾音のようにかよわい女子では、守谷先輩のような年上の男子に何もできないと思い、応援を要請したのだ。

 それがなんたることだ。『病院送り』は偽りの称号だったとでもいうのか。

「って、あぁっ!」

「なんだよ、急に大声出して」

「恭子ちゃんがピンチなんでした」

「まさか忘れてたのか?」

「忘れてなどいません。忘れかけていただけです」

 些細な違いに聞こえるかもしれないが、そこには大きな差がある。きっぱりと否定しておかねばならない。

「僕は関わる相手を間違えた気がしてきたな」

「そんな悲しいことおっしゃらず、どうかお願いします」

「ちゃんと捜してるだろ、こうして」

「あれからけっこー経っちゃってます、もっと急がないとマズいかもしれません」

 思い出したらまた気持ちが急いてきてしまった。いや、忘れてなどいないのだが。

「いいか、秦野」

「はい?」

「廊下は走っちゃいけないんだぞ」

「……」

 おっしゃる通りだ。ぐうの音もでない。これ以上は急ぎようがない。

「じ、じゃあせめて、当たりをつけて捜すとか……」

「当たり?」

「ええ。闇雲に捜してても、(らち)があかないですから」

「一理あるな」

「ってことで、さくたろう先輩。どっか知りませんか? 人気スポットとか、穴場とか」

 綾音の希望的観測だが、咲太は一匹狼のような性分のはずなのだ。たぶん独りになりたい時があるはずなのだ。その時のための隠れ家候補だって、きっと幾つもあるに決まっている。

「穴場、ねえ……」

「はい、穴場です」

「……」

 咲太が黙り込んでしまう。そして表情がすごいことになっている。嫌悪感に満ち溢れてたオーラを発している。これはいったい何事だ。

「ど……どうかしました?」

「あんまり、いてほしくないんだがなあ」

「おぉ、お心当たりが?」

 咲太がなんとも憂鬱そうな足取りで階段をのぼり始めた。その後をいそいそとついていく。

 向かった先は三階だった。綾音はこの辺りにまだ来たことがなく、何に使っている教室なのかわからなかったが、どうも何にも使っていない教室らしい。つまり、空き教室。

「わっ、とと」

 前を行く咲太が、不意にぴたりと立ち止まり、危うく激突しそうになる。

 その背中に文句をぶつけてやろうとしたら、

「……まじか」

 と、ため息まじりに咲太がぼやいた。

「え? ……あっ」

 空き教室な上に放課後。本来ならば誰もいないはずの室内から、かすかな話し声が聞こえてきた。

 ここでもまた動物的本能を発揮する。中にいるのはおそらく、恭子だ。

 咄嗟(とっさ)に中へ飛び込もうとするが、咲太に行く手を(さえぎ)られた。

「しっ」

 咲太が「静かにしろ」と手振りで伝えてくる。

「さくたろう先輩、なんで!」

「人違いかもしれないだろ」

「う……な、なるほど」

 もっともだ。あくまで直感的に感じ取っただけであり、まだ恭子と決まったわけじゃない。

「それに危ない目に遭うとかいうのも、秦野の勘違いって線もある」

「なっ、いまさら疑うんですか?」

「そうじゃない。近いうちに何か不吉なことが起きるとは言っても、今すぐかどうかはわかってないんじゃないか?」

「あっ……」

 あんな態度でいても、話はちゃんと聞いてくれていたらしい。

 咲太の指摘は正しいのだ。これはそもそも恭子と守谷先輩の間に不穏な糸が見え、その後とった不可解な行動から、不吉な予感がした。つまるところ綾音の想像でしかなく、もっと乱暴な言い方をしてしまえば、現状ただの綾音の暴走に近い。

 はっきりしてるのは、二人の間に『何かしら』の事件が『いつかは』起きる、ということだけなのだから。

「だから、ちょっと待て。様子を見る」

 客観的に、冷静な判断をしてくれるだけで大分頼もしい。やはり助力をお願いして良かったと思う反面、少しだけ気になる点がある。

「一応、お聞きしますけど」

「ん?」

「ヘタレたわけじゃないですよね?」

 先ほどまでのやり取りから、一気に頼りない印象が植え付けられてしまったので、そんな疑いを持ってしまう。

「平和主義者なんだよ」

「避けられる争いは避けたいということですか」

「ま、そんなとこ」

 意外と穏健派らしい。良いことなのだろうけど、綾音としては少し複雑な心境だ。想像していた『病院送り』の先輩像と、着実にずれていく。

「あと、何より、面倒くさい」

 単なる面倒くさがり屋さんだった。察するに、そっちが一番の本音だろう。どう考えても。

「やっぱり頼る相手を間違えました……」

「そう言うな。いざとなったら、ちゃんとなんとかしてやるから」

「ほんとにですか?」

「本当だ。僕の目を見てみろ」

「すっごく眠そうです」

「やばそうだったら起こしてくれ」

 そう言ってしゃがみ込む咲太。まさかここで眠る気だとでもいうのか。

「ちょ、ちょと、さくたろう先輩……?」

「だから、静かにしろって」

 どうやら教室内を覗き込もうと(かが)んだだけらしい。早とちりしたのは悪かったと思うけど、誤解を招くような言い方をする方が悪いと思う。

 綾音が文句の一つでも垂れてやろうかと思ったとき、

「なにするんですかっ!?」

 と、唐突に中から女子の怒声がした。

「……恭子ちゃんの声、です」

「良い雰囲気……じゃ、ないな」

「……」

「……」

 綾音は無言でじっと咲太の横顔を見つめる。咲太の表情は真剣そのものだ。きっとこの場を打開する策を練ってくれているのだろう。

 それにしてもものすごい集中力だ。先ほどから微動だにせず、瞬きすらしてない気がする。

「……さくたろう先輩?」

 呼び掛けても反応がない。

「……」

 これ、目を開けたまま寝ているのではなかろうか。

「あのっ、さくたろう先輩!?」

 しびれを切らし、一向に動き出そうとしない咲太の肩を揺さぶった。揺すられるがままに頭をぐらぐらさせている。どこからどう見ても、意識が無いようにしか見えない。

「お気を確かに! 寝たら死にますよ!」

「それは困るな。あと百年は生きたいのに」

 意外にもあっさりと返事があった。声も目もいつものごとく眠そうに感じられるので、寝起きか否かの判断は困難を極める。

 しかしあと百年と申したか。ギネスブックに掲載されることでも目指しているのだろうか。

「起きてるなら起きてると言ってくださいよ、まったく」

「寝てるから寝てるって言っとくな」

「ちょっとー!?」

 再び肩を揺さぶる。が、今度は先ほどのように揺られてはくれなかった。

 びくともしないというほどではなくとも、綾音程度の力であれば余裕で支え、受け止めてくれるだけの強さを感じる。性格や見た目がこんなでも、ちゃんと年上の男性なのだという意識を否応なくさせられる。

「なあ、秦野」

「は、はい?」

 少しどきまぎとしてしまい、声が上擦(うわず)ってしまった。

「なんていったっけ。友達の名前」

「高坂、恭子……ですけど」

「高坂さんね」

 なんとも億劫(おっくう)そうではあったが、咲太がゆっくりと立ち上がる。

「まあ、任せとけ」

 

    ◇    ◇

 

「なにするんですか!?」

 恭子は反射的に守谷の体を押し退ける。何の前触れもなく、守谷が迫ってきたのだ。気づいた時には息の触れそうな距離にまで顔が接近しており、あと少し遅ければ、奪われていた。

 無理やりに、唇を。

「なに、って……決まってるでしょ?」

「は、はあ?」

「『はあ?』はこっちだよ」

 守谷が片手で顔を覆い、大きなため息をついた。

「見た目も派手だし、色々と緩そうだったから、声かけたんだけどなあ。いまだにキスもNGとか、期待ハズレもいいところだよ」

「な、なに……言って……」

「高坂ってそういう感じだったわけ? 白ける、ほんと」

「それって、つまり……あたしが『簡単にヤれそう』って思ってたってこと?」

「身も(ふた)もない言い方をすればね。おかしい?」

「おかしい、って……」

「高坂ぐらいの子ってみんな興味津々じゃん。付き合うのオッケー出した時点で、その先のことまで見越してるに決まってるでしょ、普通」

「……」

 恭子は何も言い返せない。あまりにも滅茶苦茶な理屈に、完全に絶句してしまっていた。

「興味がまったくないわけでもないでしょ? 悪いようにはしないからさ」

 守谷が恭子の腕を掴み、壁際へと追い込む。

「い……、嫌っ、離してよ!」

 (あらが)おうにも守谷は男子であり、引退したとは言え運動部に所属していた。力の差は歴然としている。もしかすると、暴れる相手のあしらい方すらも慣れていたのかもしれない。

 このままでは()(すべ)もなく、いいようにされてしまう。恭子はそんなの御免だと必死に頭を回転させるが、猶予(ゆうよ)は与えられず突破口も見当たりそうもない。突きつけられた現実に絶望し、半ば諦めかけていたら、

「お盛んですね」

 と、割り込んだ声があった。この場にそぐわない、なんとものんびりとした声。

 動きの固まった守谷の隙を盗み、恭子が腕を振りほどき、ばっと離れた。

「なに、君?」

 ゆらりと振り返った守谷が、不機嫌も(あら)わに問い掛ける。

「人間ですが」

「は?」

「そっちはさかりのついたサルですか?」

 端正だった守谷の顔つきが怒りに(ゆが)む。

「ずいぶんと失礼な物言いだね。俺たちは付き合ってるんだよ。当然の成り行きじゃないか」

「嫌がる相手を無理やり、ってのが、あんたにとっての当然なのか」

 (あお)るように咲太が鼻で笑った。さすがにあからさますぎたのか、守谷は乗ってこない。まだまだ冷静さを残しているらしい。

「まあいいや。とりあえず、ケータイ貸してくれ」

「……なんだって?」

「先に呼んでおいてやろうと思って。救急車」

 守谷が真顔になる。咲太の突拍子もない台詞に唖然としてしまい、全ての感情を忘れてしまったかのように。

「君、頭は大丈夫?」

「あいにく、大真面目だから」

 言葉通り、咲太の目は笑っていない。

「三年の先輩だったよな」

「そういう君は、高坂の同級生……って感じじゃないね。二年生かな」

「ああ、知らないんだ? 僕のこと」

 小馬鹿にするように笑った。咲太のあまりにも下級生らしくない態度に、守谷も怪訝(けげん)な顔になる。

「大変な時期だもんな。受験なんかのストレスから、妙な行動に走る気持ちはよくわかるよ」

「……何を、言っているんだ?」

「あんたを取り巻く全ての悩みから解放してやるから。安心してゆっくりしてきてくれ」

「だから、さっきっから何の話をしているんだ!」

「明日っからしばらく、あんたの住まいは病院になるって言ってるんだよ」

 守谷の表情が引きつる。

 出し抜けにたどり着いてしまった。考えうる限り最悪の人物が、目の前にいるかもしれないという可能性に。

 恐れ、(おのの)き、反射的に後ずさりする。震えた唇から、かすれた声で問いただした。

「君は……まさか、『病院送り』の……!?」

 咲太は言葉を発さず、ただ不敵に笑う。

「な、なんで……君が……」

 なぜこの場に、何のために。ただただ、信じられない。動揺しきった守谷からは、そんな焦燥(しょうそう)がありありと伝わってくる。

「ここ」

 おもむろに咲太は床を指差した。

「……は?」

「ここ。どこだか知ってる?」

 唇を端を吊り上げ、そんな質問を投げ掛ける。

「空き教室……じゃ、ないのか……?」

「それが、ただの空き教室じゃないんだよなあ」

 咲太がもったいぶった足取りで歩き出す。教室の中央へと立つと、ぐるりと辺りを見渡しながら語り出した。

「僕が贔屓(ひいき)にしてるんだよ、ここは。要するに、お気に入りの場所ってやつ」

「……あ」

「たとえばさ。自分の部屋を、他人に土足で踏み(にじ)られるのって、いったいどんな気分なんだろうな?」

「っ!」

 目に見えて守谷の顔色が悪くなった。

 ここは決して咲太の部屋ではない。今の例えが横暴な言い草であることぐらい守谷にもわかっている。ただ『病院送り』という名が、そんな理不尽を押し通せるだけの力を有してしまっていた。

「それと、その子」

 咲太が恭子のことを指差す。

「……な、なんだ?」

「知り合いなんだよ、僕の」

 守谷が恐ろしい形相で恭子へと向き直った。「本当なのか!?」と、血走った目で問い掛ける。

 依然(いぜん)としてこの状況にさっぱりついていけず、戸惑う恭子であったが、

「な、高坂?」

 咲太に自分の苗字を呼ばれ、同時に向けられた目配せにも気づき、ゆっくりと頷いてみせる。それを認めた守谷が、ごくりと生唾を飲み込んだ。

「あんたが置かれてる状況、理解してくれた?」

 守谷の頬に一筋の汗が伝う。

「わかんないか」

 口を動かすことも、首を振ることもできない。

「いいさ、時間ならこれからたっぷりある。ゆっくり考えてくれ。病院の白いベッドの上でな」

 咲太が気だるげに首を捻る。これから成そうとしていることの、準備運動だと言わんばかりに。

「受験には間に合わないだろうし、下手したら出席日数も足りなくなるか? 留年って可能性も十分あるよな」

 守谷を正面から見据え、悠然とした一歩を踏み出す。

「そしたら同級生か。なら、同じクラスになれるといいな」

 二歩、三歩と進むにつれ、着実に二人の距離がゼロへと近づいていく。それは守谷からすれば、死へのカウントダウンに等しいものだった。

「その方が、楽しそうだろ?」

 咲太の口元が邪悪に歪む。

 守谷の目に映る咲太の姿は、まるで悪魔のようで。

 見る者全てを畏怖(いふ)させ、逆鱗(げきりん)に触れた者全てへと(しか)るべき制裁を()り行う。『病院送り』としての風格を存分に漂わせていた。

「来年もよろしくな、先輩」

 また一つ、歩を進める。もう間もなく、咲太のリーチ内に収まろうとしていた。

 それを悟った守谷は慌てて飛び退くやいなや、両手を上げ敵意がない事を示し、(あえ)ぐように絞り出す。

「も、もう、近づかない……この教室にも……高坂……さん、にも……だ、だから……!」

「だから?」

 厳粛(げんしゅく)な声に先を促された守谷が、肩を震わせ、徐々に項垂(うなだ)れていく。

 込み上げてくる様々な感情を堪えようとしてか、ぐっと唇を噛みしめた。

「……ゆ、許して……くれないか」

 喉に何か絡んだような、ひどくかすれた声だった。

 わざとらしくため息を吐いた咲太が、恭子へと顔を向ける。

「高坂、どうする?」

 まさか急に自分へ振られるとは夢にも思わず、恭子がびくっとした。

「許してやるか?」

 恭子は一度、守谷の方を見てから、咲太へと視線を移動させた。

 錯綜(さくそう)とした状況の全てが把握できたわけではない。それでも咲太がどんな答えを要求しているかを瞬時に察し、深く頷きながら口を開いた。

「……もう、関わらないって、約束するなら」

「そうか」

 咲太が満足げに頷きを返す。恭子の聡明さを称賛し、感謝もしながら。

「今回は高坂に免じて見逃してやるけど」

 つかつかと守谷へ近づき、その正面で立ち止まった。

「二度と、こんな真似しないでくれ。僕だって暇じゃないんだ」

 わずかに屈んで守谷の顔を覗き込み、しっかりと釘を刺す。トラウマという名の、そう容易く抜けることのない釘を、念入りに。

「も、もちろん……」

 守谷は必死になって、千切れんばかりに首を上下させる。そしてその直後、脱兎のごとく全速力で駆け出していった。

 逃げ足の速さに呆れ半分、感心半分でその背中を見送った咲太と恭子は、ほぼ同じタイミングでほっと胸を撫で下ろす。

「あ、あの……ありがとうございました。その……」

「礼なら友達に言ってあげて」

 咲太が顎で視線を誘導する。その先には、ドアの陰で顔だけを覗かせている綾音がいた。

「あ、綾音……?」

「よかったぁ、恭子ちゃん……!」

 勢いよく抱き付く綾音、なおも戸惑う恭子。

 役割はもう果たした。この先は水入らず、異物はさっさと去るに限る。

 咲太はそう思い、静かにその場を後にした。

 

 

「たまには役に立つもんだな」

 咲太に与えられた、『病院送り』という不名誉な二つ名。

 これまで何一つとして良いことなどなかった。ようやくほとぼりが冷めて、あとは時間の流れと共に忘れ去られていくばかりと思っていた。

 それが、こんな形で利用価値があった。なかなか感慨(かんがい)深いものがある。馬鹿と鋏は使いよう、ということなのだろう。

「ふう」

 しかし、演じるというのは思いのほかしんどかった。慣れないことはするもんじゃない。もう二度とやりたくない。

「こんなこと、いつもやってるのか」

 その感想は、とある人物に向けられていた。

「すげえな、役者って」

 今日は学校を休んでいる、三年生の先輩。

 地方でドラマの撮影があるのだと言っていた。誰もが知っている国民的女優でありながら、咲太の大好きな彼女でもある人、桜島麻衣。

 真っ先に頭に浮かんだのは、初めて出会った時に見たバニーガール姿。

「今、何してるんだろうなあ」

 咲太は空を見上げる。

 今この瞬間にも、どこかの空の下で演技に励んでいるのだろうか。

 いや、麻衣のことだ。NGなど滅多に出さない麻衣と、その彼女が太鼓判を押す共演者とスタッフならば、とっくに撮影は終えているのかもしれない。

「いつ帰ってくるかな」

 なんだか無性に、麻衣に会いたくなった。

 

    ◇    ◇

 

「あっ、さくたろう先輩!」

 ぱたぱたと小走りで追いかける。咲太は立ち止まることも、振り返ることもしてくれない。すこぶる薄情だ。

「さっきのめっちゃカッコよかったです。完全に誰彼構わず病院送りにするやべーやつでした」

「名演技だったろ」

「感動しました。あれこそがまさにわたしの思い描いていた先輩像です」

「秦野の脳内もかなりやべーな」

「手元にビデオカメラが無かったことが悔やまれます。ぜひとも文化祭で上映したかったです」

「やめろ、それはまじで洒落(シャレ)にならない」

「仕方がないので心のメモリーに永久保存しときました」

「厳重に保管して二度と取り出さないでくれ」

 要するに口外厳禁、墓場まで持っていけということらしい。もったいないが、個人的に楽しむだけにしておこう。

「そういや友達は?」

「帰りました」

「一人にして大丈夫なのか?」

「いえ、その……なんと言いますか」

「ん?」

「なんか、すっごく怒ってまして」

「は?」

「今は自分に腹が立ってダメだから、後で話して欲しいと……」

 きっと感情の整理が必要なのだろう。仮にも恋人だった相手の豹変(ひょうへん)っぷりに、怯えるでもなく、落ち込むでもなく。「見る目がなかった」と憤慨(ふんがい)し、自身の慧眼(けいがん)を恨む様は、なんとも恭子らしくて。

 綾音のよく知る、いつも通りの恭子だった。

「そういう子なのか?」

「そういう子なのですよ」

「強い子だな」

「えへ~」

 照れくさそうに笑う。

「褒めたのは秦野のことじゃないぞ」

 そんなことはわかっている。

 けれど、やっぱり嬉しいのだ。

「恭子ちゃんは、自慢の友達ですから」

 咲太がわかりやすく瞠目(どうもく)する。

「……どしました?」

「いや、なんでも」

 今度は口元を(ほころ)ばせていた。

 穏やかで、優しさに満ちた、初めて見る表情。こんな顔もできたのかと、思わず見蕩(みと)れてしまう。

「ほら、行くぞ」

「ふぇ?」

 呆けていたら、急に咲太が歩き出した。半ば無意識にその後に付いていく。

「約束だったろ? 次は僕の用事に付き合え」

「あっ、はい、了解で……」

 言葉が途切れ、足が止まった。

 突如として、綾音と咲太の間に、まばゆい神秘的な光が生じたのだ。

 目をぱちくりさせ、ごしごしと擦る。その時にはもう、光は消えてしまっていた。

「……なんで?」

 その光の中に、見えたのだ。一瞬だった上に目がくらんでしまい、残念ながら色までは判別できなかったものの、確かに見えたのだ。

 これまで、一度たりとも目にしたことがなかったのに。

 綾音と他者との間を結んだ『糸』が、初めて顕現(けんげん)した。

「まさか……さくたろう先輩、が……?」

 ようやく、出会えた。

 幼い頃から恋焦がれてきた、運命の相手……。

「……なんですかね?」

 胸にそっと手で触れてみる。心に問いかけてみる。

「うん」

 やはり、ちっともときめかない。ついでに言うと、さっぱり嬉しくない。むしろ(しゃく)だ。

 こんなのが恋であるはずもなく、あんなのが運命の相手であるはずもない。

「気のせい、でしょうね。たぶん」

 そう自らに言い聞かせるように、強く頷いた。

 けれど同時に、こうも思う。

 まだ何一つとしてはっきりしていない。これはなんとしても真偽を確かめる必要がある。

 本当に見間違いだったのか、それとも……。

 今一度頷き、ぱたぱたと小走りで咲太の後を追いかける。

「待ってください、さくたろう先輩!」

 

 

    ◇    ◇

 

 

 思えば、この時から。

 月並みな表現かもしれないけれど。

 止まっていた歯車が動き出したような。

 砂時計をひっくり返したような。

 そんな感覚。

 

 何かが、変わりそうで。

 何かが、変わってしまいそうで。

 それが、この時、この瞬間。

 

 終わりへの、始まりだったんだ――

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