ベビースパイダー嬢は青春ブタ野郎に夢を見る   作:紺野咲良

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第6話

「……あ」

 放課後を迎えたところで、綾音は大事なことを思い出した。

 ――先輩にも後で改めてお礼言わなきゃ

 恭子もそう言っていた通り、自分も挨拶に行くべきだった。恭子のことだから既に終えてるかもしれないが、もしまだならば一緒に行こうと思い、教室内を見渡してみる。

「んー、いませんね」

 恭子の行動は綾音には読み切れない。友人とどこかで話をしているか、もうすでに帰ってしまったか、はたまた先に咲太のところへ向かったか。

 いずれにせよ、今するべきことは定まった。あんまりのんびりしていたら、咲太の方がどこかへ行ってしまう。

 綾音は小走りで二年一組の教室へと向かった。

 

    ◇    ◇

 

「おっ」

 タイミング良く教室から出て来るところで、相変わらず素敵に跳ねた髪型が目に留まった。

 本音としては寝ぐせを疑っていたが、いつ見ても似たような感じであるため、これでもちゃんとセットされた髪型なのだという線がかなり有力視されてくる。

「あ、さくたろ先輩。どうもです」

「なんだ、秦野か」

 なぜか咲太が固まった。

「……?」

「……?」

 これまたなぜだか、互いに怪訝(けげん)な表情で見つめ合う。

 鼓動が早くなっていくのを感じる。なんとなく居心地が悪くなり、小首を傾げて愛想笑いをしてみる。苦笑いに近くなってしまったかもしれない。

「なあ、秦野」

「はい?」

「もう一度呼んでくれるか?」

「さくたろ先輩」

「『う』はどこに消えた」

 なんということだ。さらっと呼べばバレないと思ったのに。こんなにも眠たげな目をしておいて、鋭いところはちゃんと鋭いだなんて。

 こうなってしまえば、是非もなし。授業中に練りに練ってきた言い訳をぶつけるしかなさそうだ。

「クビです」

「は?」

「戦力外通告です。この先さらに激化する戦いに、やつがいては足手まといです」

「ポテンシャルを信じてやれ。劇的に成長するかもしれないだろ」

「そいつぁ無理な注文です。だって好かんのですよ。生理的に、先天的に」

「お前は『う』になんの恨みがあるんだよ」

 これまた鋭い指摘だった。確かに恨みがあるのだ。だがしかし、それを悟られてはいけない。なんとしても誤魔化さねばならない。

「あいつは……良いやつでした」

 ここはプランBに移行し、露骨に株を上げる作戦に賭けてみる。話を逸らせるだけでも良かったはずなのに、さすがになかなか手ごわい相手だ。

「『う』は自発的に離脱をされたのです、迷惑をかけまいとして……」

「ふーん」

「彼はわたしたちの心の中で生き続けます」

「そうか」

「はい、そうなのです」

 最悪、興味が失せてくれていい。事件が迷宮入りさえしてくれれば、その過程など些事(さじ)なのだ。すっかり見慣れてしまった死んだ魚のような目からは感情が読み取れないが、そろそろ呆れ返ってるに違いないのだ。

 後生だから、面倒くさくなって話題を切り替えてほしい。祈るような気持ちで咲太の顔色をうかがった。

「つまり、呼びにくかったってことだろ?」

「名探偵がここにいました」

 祈り届かず、あっさりと犯行動機を見抜かれてしまった。

「なんでそんなことを隠し通そうとしたんだよ」

「その、さくたろ先輩のご指摘を認めるのが悔しかったと言いますか……」

「『梓川』と字数が変わってない、ってやつか?」

「ええ。試行錯誤の結果、やはり四文字がベストだという結論に達しました」

 たった一文字お亡くなりになっていただいただけで劇的に呼びやすくなったのだ。字数の重要さを身にしみて感じた。童謡の『桃太郎』でも、『ももたろうさん』とは歌わずに『ももたろさん』と歌う。きっとそれと似たようなこと。

 さらに言えば三文字の方がもっと呼びやすい気もしたが、まさか『さくた先輩』と呼ぶわけにはいかない。そればっかりはおそれ多く、とてもじゃないが口にすることなどできない。

「まあ、好きに呼んでくれって言ったしな」

「おぉぉ……!」

 どうやら認可が頂けるらしく、お(とが)めもないらしい。なんと寛容なのだろう。言葉を交わしてからというもの、初めて素直に尊敬をしたかもしれない。

「で、何か用だったか?」

「あ。昨日は本当にありがとうでした。恭子ちゃんとも話したんですけど、ぜんぜん平気みたいでした」

「ああ、高坂さんなら朝一番に来たよ」

「さすが早かったです」

「しっかりしてるよな、誰かさんと違って」

「ですね、わたしとは違って」

 やはり恭子の行動力は凄まじい。綾音と違って出来の良い子だというのも自覚しているので、素直に賛同しておく。

「じゃ、またな」

「あっ、はい。またです」

 反射的に頷いて、歩き出した咲太の後ろ姿へと手を振る。

「……」

 別に他の用があったわけでもないし、最低限伝えるべきことは伝えたと思う。

 けれど、なんだか()に落ちない。こうまでにべもなく去られるのは、なんか(しゃく)だ。というか、寂しい。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよっ、さくたろ先輩!」

 ぱたぱたと急ぎ追いかける。もし教師に見つかっても、お叱りを受けない程度の速度で。

 咲太が首だけでこちらを振り返った。向けられた眠たげな目に、色んな感情がまじっている。面倒くさいとか、鬱陶しいとか、明らかに歓迎されてないやつが満載だった。

「なんだよ、まだ何かあるのか?」

「かわいー後輩がこうして会いにきたんですよ、もうすこーしなんかあったっていいじゃないですかぁ」

「はいはい、秦野はかわいいなー」

「心が微塵たりともこもってませんね! これでもそこそこ噂の『びしょうじょ』なのですよ?」

「『微妙』な『少女』って書いて『微少女』か」

「やはり名探偵です」

「……当たってたのかよ」

 当てずっぽうの推理が的中してしまった名探偵の気持ちを味わわせてしまったようだ。

 周りの人々は解決さえすれば万々歳なのだろうが、きっと本人は肩透かしを食らったように物足りないはず。漫画や小説であれば、絶望的に尺が足りないに違いない。

「そんなんでよく胸を張れたな。あまり無いくせに」

「何を失礼な。わたしは身の丈に合ったサイズなだけです」

 綾音のように小柄で細身な体型では、あまりに大きいと不釣り合いだと思う。それは偽りない本音だ。

 ゆえに悔しくなどない、決して。

「もろもろ含めた上で『微少女』か。誰だか知らんが上手いこと言ったもんだな」

 最初に言いだしたのは誰だっただろうか。あまり深く考えるまでもなく、どうせ恭子だろうけど。

 それよりも咲太が口にした『もろもろ』の内訳が気になってしょうがない。でも気にしたら負けな気がする。詳しく聞いたら絶対に悲しくなるやつだ。好奇心は猫を殺すという名言もあるし、開けてはならないパンドラの箱という物もある。つまりは、知らぬが仏。

「どんなものであれ、二つ名がいただけるなんて光栄じゃないですか。それに字に表さなければ響きは良いですし」

「男だと『残念なイケメン』って感じだな」

「それでも、『ただの美形』とかより良くないです?」

「そうか?」

「そうですよ」

 咲太は首を横に倒し、対照的に綾音は縦に振る。

「やっぱお前の価値観がいっちょんわからん」

「普通なのはつまらんです、ユーモアってめっちゃ大事です」

「秦野が普通とかありえないから、安心しとけ」

「その言い方、なんか微妙な気分になりますね」

「微少女だけにってか」

「……急になに言い出してんですか? ドン引きですよ」

「……」

「上手すぎて思わず引いてしまいました。手元に座布団が無いのが悔やまれます、どーんと三十枚ぐらい差し上げたかったです」

 無言でデコピンの構えをとられたので、慌てて訂正しておく。

「そんな大量の座布団、どうしろって言うんだよ」

「もちろん、全部重ねて上に座っていただきます」

「もはや曲芸の域だな……」

「どうかご安心を。ちゃんと崩れないよう、わたしが支えておきますから。その後で『放すなよ? 絶対に放すなよ?』とでもおっしゃってくれればよいです」

「伝統芸の方だったか」

 某トリオ芸人による伝統芸は、日本でも五本の指に入るほど有名なもののはずだ。咲太にも無事に伝わってくれてよかった。

「ばっちり成し遂げてみせます」

 すっかり癖になりつつある、得意げに胸を張るポーズをとっていたら、何やら咲太の視線を感じる。

「それ、(むな)しくならないのか?」

 いちいち小さいことを……いや、つまらないことを気にする人だ。言い方を改めた点に他意など無い。

「わたしはこれっぽっちもコンプレックスと思ってませんし」

 これはこれで需要があるのだとか、希少価値があるのだとか、誰かがそんな風に言っていた気がする。

 だから虚しくなんてない。絶対に悲しくなんてない。

「……ぜんっぜん、思ってませんし」

 おかしい。視界がぼやけている気がする。

 その原因は涙などではない、断じて。

「女子の価値は胸で決まるわけでもないしな」

 意外にもやさしいフォローが飛んできた。視界が、ぱぁっと明るくなる。

「こんなわたしでも大丈夫でしょうか?」

「いいんじゃないか。人それぞれだし」

殿方(とのがた)はちゃんと欲情してくださいますかね?」

「相手によるだろうけどな」

「では、さくたろ先輩は?」

「勘弁してくれ。なんの拷問だよ」

「……」

 どすんっ、と鈍い音が脳内に響いた。ぐさっ、とかいう、かわいらしい擬音じゃない。全身をぺしゃんこにされるほど超絶怒涛の衝撃だった。

 希望を持たせておいて、絶望の深淵へと突き落とす。なんと極悪非道なのだろう。だが、この鬼畜さがあってこそ『病院送り』の先輩だとも思ってしまう。すごく複雑な気分。

「まあ、かわいさで言えば普通だと思うぞ」

「どういうこっちゃです?」

「秦野は普通にかわいいってこと」

「……ふ、ふぇっ!?」

 今度はいきなりのデレときた。まさに青天の霹靂(へきれき)。もしかすると鬼の霍乱(かくらん)

 ゲインロス効果、と言っただろうか。マイナスからプラスへ転じる幅が大きいほど、人の心に与える度合いが強くなると聞いた。咲太に対する綾音の心証は、これ以上は下がりようがないほど下がっていたので、そんな些細な一言でも効果が絶大だ。顔が熱い。

「でも今は、世界一かわいくて怖い人を待たせているんだよ」

 不慣れな感覚にわたわたとうろたえていたら、咲太がそんなことを言ってきた。

 綾音を冷たくあしらってまで、どこへ行こうとしているのかと気になってついてきてしまったが、どうやら下駄箱へ向かっていたようだ。まとめると、誰かと一緒に下校する約束をしていたということだろう。

 ――世界一かわいいくて怖い人を待たせているんだよ

 それは頭の回転が鈍い綾音でも、誰が待っているのかが即座に思い当たる、なんとも的確な言い回しだった。

「あ、それって、もしかして……」

 その人の名を口にしようとしたら、

「遅い」

 と、凛とした声が聞こえてきた。なぜだか尋常じゃないほど怒気を孕んでいるような声。

 

「ひっ……!?」

 その矛先は自分ではなかったというのに、恐怖からか変な声がもれた。未曾有(みぞう)のプレッシャーに肌がぴりつき、呼吸が上手くできない。

 以前に、こう思ったことがある。

 咲太がいてくれれば、大船どころか豪華客船に乗った気分になれるのだと。氷山にエンカウントさえしなければ無敵だと。

 間違いない。今、目の前に現れた彼女こそが、咲太にとっての氷山だ。

「……」

 咲太は黙り込んでいた。見たところ、その表情に変化はない。しかしこの状況、内心は穏やかではないはずだ。きっと断頭台へのぼるような心境に違いない。

 対峙する相手は、三年生の桜島麻衣。あの、桜島麻衣なのだ。

 こんなにも至近距離で姿を拝んだことなどなかったが、一目でわかるほど、何人たりとも寄せ付けないほど、過剰なまでに強烈な一流芸能人としてのオーラを放っている。

 麻衣には友人がいないという噂も耳にしたことがあるが、これでは仕方がない。仮に綾音のような小物が面と向かって会話しようものならば、数分と持たずに病院送りにされてしまう。心臓が潰れるか破裂するかしてしまいそうなので、下手したら黄泉(よみ)送り。

 指一本触れることなくそれを成し遂げられるあたり、咲太とは別次元の危険人物な気がする。お近づきになりたいと到底思えそうもない。真の恐怖とはここにあったのだ。

「ちょっと変なのに捕まってまして」

 そう言って咲太は(あご)で綾音のことを示そうとするが、

「言い訳する気?」

 と、麻衣の鋭い視線は咲太から離れる様子がない。かなりお冠のようだ。

 不運にも鉢合わせてしまった修羅場に、綾音は生きた心地がしない。むしろできることなら殺したい。息と気配を。

 正直今すぐこの場から逃げ出したかったが、凄まじいプレッシャーのせいで足が動いてくれないのだ。ならばせめてこのまま、蚊帳の外でやり過ごすことが叶えば万々歳である。

 そんな綾音の切なる懇願をよそに、咲太は観念したように神妙な面持ちで麻衣へと向き直る。

「廊下を走るという最大の禁忌を犯せなかった僕が悪いです」

「他に言うことは?」

「麻衣さんに踏んでもらえて今日も幸せです」

 綾音は耳を疑った。次いで、目を疑った。

 二人の足元へと視線をずらすと、麻衣が(かかと)で咲太の足を踏み、ぐりぐりしていたのだ。あれは割と本気で痛いやつではなかろうか。

 そんなことをされておきながら、咲太は嬉しそうににやけている。目の前の光景が信じられない。こんなのが綾音が憧れた、病院送り先輩の本性だったなんて。

「あの、麻衣さん」

「なによ」

「一応後輩の前だから、そのぐらいで勘弁して欲しいなあ」

 咲太がそう言ったことでようやく気づいた……いや、気づいてしまったらしく、麻衣の目が綾音へと向けられる。

 背景と化す作戦はあえなく頓挫(とんざ)してしまった。そういえば咲太は平気で人を巻き込む性分だったなと、いまさらながら思い出す。

「……早く言いなさいよ」

 麻衣がさりげなく咲太の足を踏むのをやめた。その頰が心なしか赤い。

「最初に言ったと思うんだけど」

「『変なの』じゃわからない」

 ちゃんと聞いてはいたらしい。

「想いは通じ合ってると思ったのに」

「咲太と通じ合うとか不快でしかないし」

「え~」

 なんとも冷たいお言葉。人を『変なの』呼ばわりしたから罰があたったのだ。いい気味だと内心ほくそ笑む。

「一年生の子?」

 いきなり氷の眼差しで射抜かれ、びくっと背筋を伸ばす。完全に咲太のとばっちりを食らった感じ。三日三晩恨んでやる。

「……あっ、し、失礼しました。お楽しみの邪魔をしてしまって」

「楽しんでなんかいないわよ」

 むっとした様子の麻衣。なんだか照れ隠しのように見えた。

「お初にお目にかかります、桜島先輩。わたしは一年の秦野綾音と申します」

 麻衣が女王様さながらの貫禄を放っていたので、淑女らしいカーテシーまで行いたくなる。さすがに大げさだと思い直し、普通にぺこりと頭を下げた。

「さくたろ……」

 慌てて口をつぐんだ。まさか『さくたろ先輩』と呼ぶわけにもいかない。初対面の相手への挨拶ならば、『苗字プラス先輩』の形で呼ぶべきだという常識が働いてしまった。

 しかし困ったことに、やはり思い出せない。咲太の苗字はなぜこうも覚えにくいのだ。無限に、永遠に忘れ続ける自信がある。

「……せ、先輩には、先日、ただならぬほどお世話になりまして……」

 結局そんな形になる。

「お世話?」

 じろりと不信感に満ちた眼差しが咲太を貫く。

 肩をすくめた咲太は、抵抗しない方が賢明だと思ったのか、あっさりと言い放った。

「たぶん、秦野も思春期症候群なんです」

「……そう」

 詳しい説明を省いた、簡潔すぎる一言。それだけで険しい雰囲気がすっかり霧散した。

「解決はしたの?」

「いえ、まだ」

「どんな症状?」

「人と人を繋ぐ、妙な糸が見えるらしいです」

「妙な糸?」

「本人いわく、運命の赤い糸的なやつだそうで」

「へえ……」

 つらつらと説明を続ける咲太。真剣に耳を傾ける麻衣。

 この状況は絶対におかしい。さすがに黙っていることなどできず、口を挟んだ。

「あの……どうして思春期症候群って聞いて、平然としているんですか?」

 咲太が思春期症候群を信じているというだけでも驚愕ものだったというのに、麻衣までもがこんな奇天烈な噂を信じているなんて一大事だ。世間を震撼させてしまうほどの大事件だと思う。

「いいですよね?」

 咲太が麻衣へ何かを問いかける。

「ええ」

 承諾の意を示すよう、麻衣が小さく頷いてみせた。

 それを受けて、咲太が綾音へと向き直り、柄にもなく真摯な態度で切り出した。

「麻衣さんも、経験者だから」

 これまた簡潔すぎる咲太の一言。しかし綾音に与える衝撃は計り知れないものだった。

「……経験者、って……思春期症候群の、ですか?」

 首をたっぷりと横へ傾けながら、呆けたように問い返す。

「そう、思春期症候群の」

 やさしく、言い聞かせるような麻衣の声。おかげで恐怖こそ感じなかったが、今度はなんだか恐縮してしまう。

「ま、まじですか。別の意味でも先輩でしたか」

「不本意なことにね」

 そういえばと、以前に咲太が言っていたことを思い出す。

 ――色々あってな

 あの時は濁されてしまったが、きっと麻衣のことだったのだろう。

 そして、咲太の台詞が過去形であることから、経験済み……解決済みということなのだろう。

 おそらくは、咲太が関わり、手助けをしたことにより……。

「……あれ?」

「どうした?」

「ってことは、例のグラウンドのあれって、もしかして……?」

 伝説となった咲太の奇行。

 咲太がなぜあのような行動に走ったのか、麻衣もなぜあんな酔狂な真似に付き合ったのか、ずっと疑問だったが、ここにきてようやく合点がいった気がする。

「思春期症候群の解消のため……とか、でしたか?」

「無駄に察しがいいな」

 正解をいただけたことは素直に嬉しく思う。ただ、いったいどこをどうしたら、あんな恥ずかしいことをしなければならない状況に(おちい)るのだろう。純粋な好奇心からも、解消する際の参考までにも、事の顛末(てんまつ)をぜひとも知りたい。

 しかし綾音にだって最低限の分別はついている。不調法に、無思慮に踏みこんだりしてはいけない。思春期症候群という病には、思春期特有の繊細な背景があるはずなのだから。

「ほえ~……。となると、わたしも治そうと思ったら、ああいったことをしなきゃならんのですかね……」

 想像するだけで憂鬱だ。余計に治したい気持ちが薄れてしまう。

「ところで、どうなんだ?」

「んい?」

「当然見えてるよな? 僕と麻衣さんの間に、赤い糸」

「あっ……そういえば」

 言われるまで、すっかり忘れていた。

 昨日、知り合いとの糸を見るという契約を交わし、助けてもらったのだ。言うまでもなく、咲太にとって麻衣が一番気になる相手に違いないのだ。それを今の今まで忘れていたなんて。忸怩(じくじ)たる思いに駆られてしまう。

 ……でも。

「あの……非常に、申し上げにくいのですが……」

「ん?」

「無い……んです、よね。赤い糸どころか、糸自体がきれいさっぱり」

「……は?」

 そう……言われるまで、忘れていた。

 いくら綾音でも、見えていたならすぐさま思い出し、伝えていたはずだった。

 だが現実には、咲太と麻衣の間に……交際している二人の間に、何の糸も存在していない。

 ()頓狂(とんきょう)な声を発して目を丸くさせている咲太には誠に申し訳なく思うが、それは綾音にとっても前代未聞の事態だった。

「いや、あるだろ? 丸太のような赤い糸が」

「それ、糸って言うんですか?」

 糸とは、一般的にそこまで太くない気がする。でも咲太の神経は、絶対に丸太よりも図太い。

「ん~……でも、見えないものは見えないんですよ」

 念のために、咲太の周りをぐるぐるしてみる。しゃがみ込んで、下から上まで眺めてみる。ぴょんぴょんと跳ねて、頭頂部まで確認してみる。

 やはり糸らしきものは、さっぱり見当たらない。

「お前、このタイミングで急に治ったりしてないよな?」

「いやいや、ありえませんて。今日一日……というか、つい先ほどここに来る道中でも、他の方々の糸はばりっばり見えてましたもん」

「なんだよ……なんの嫌がらせだよ」

「そんなつもりは毛頭ないのですが」

 仮に赤い糸が見えていたならば、どんなに癪だろうと、どんなに気に食わなくても、正直に伝えていた。糸に関しては嘘偽りなく、誠実に向き合う。それは綾音の中にある、占い師としての矜持(きょうじ)

「せっかく麻衣さんへ言う台詞のシミュレーションしてたのに」

 内容をほんの少し想像しただけでも胸糞悪くなる。すごくウザいことを口走りそうな予感がひしひしする。

「そういう邪念とかが、なんかこう、悪い方向へ作用しちゃったとかじゃないですかね」

「もしそうだとしたら、赤い糸なんて存在しなくないか? 下心がない人間なんていないだろ」

「健全に恋人同士やってる皆様に謝ってくださいよ」

 確かに真理かもしれないが、身も(ふた)も無いことを言うのはやめてほしい。これ以上残酷な現実を教えないでほしい。まだまだ夢見る少女で居続けたいのに。

「案外、さくたろ先輩がそんなだから、実は愛想をつかされてるんじゃないですか?」

「僕の一方的な片想いだってのか? 悲しいなぁ」

「誠に心苦しいですが、どうか現実を受け止めてくださいませ」

 緊張感など微塵も感じられない、冗談めかした、しょうもないやり取り。

 綾音は、咲太とのそんな会話に夢中だった。

 この場には、他にももう一人の人物がいたことを、すっかり忘れてしまうほどに。

 

「秦野さんの言ってること、間違ってないわよ」

 

 突然、絶対零度を思わせるほど、恐ろしく冷たい言葉が二人を襲った。

 その顔からは感情が読み取れず、無表情そのもので。

 その瞳からは光が消え失せ、何も映してなさそうで。

 出会い頭の、あからさまに激怒していた様子が、かわいく思えるほどで。

 それほどまでの剣幕に、咲太と綾音は呼吸をすることすら忘れ、完全なる氷像と化してしまった。

「私、咲太のこと、なんとも思ってないもの」

 麻衣がそんな捨て台詞を残し、すたすたと足早に去って行ってしまう。

 その後ろ姿がすっかり見えなくなってから、

「え、ちょっと……麻衣さん!?」

 と、一足先に解凍に成功した咲太が、慌てて追いかけ始める。

 ひとり取り残された綾音は呆然としたまま、ひとりごちた。

「やっぱ、人間関係ってむずかしーですね……」

 今しがたのやり取りの、何かが麻衣の忌諱(きい)に触れたのだろうか。

 それとも、咲太が遅刻したことに対する怒りが収まってなかったのだろうか。

「いっちょん、わからんです」

 途中から麻衣は黙り込んでしまい、咲太と綾音の二人でばかり話してしまった。それが(かん)にさわったか、疎外感を受けてしまったか。

「……焼きもち、でしょうか?」

 仮にそうだとしたら、悪いことをしてしまった。ただし、償えるかどうかはまた別の話。

 こういうことは他人がしゃしゃり出ることでもないだろうし、そもそも力になれる気がしない。無責任なようかもしれないが、こればっかりは当事者の力で解決するしかないと思う。咲太と麻衣、二人の度量が問われるべき場面なはずだ。

「早く仲直りできるといいですね、さくたろ先輩」

 それは偽りない本心からの台詞だった。

 少なくともこの時は、そう思っていた。

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