咲太はまだ学校へ残るらしく、軽い挨拶を交わして別れた綾音は、何となしに下校を始めた。
そのことを、すぐさま後悔することとなる。
校門を出て、目の前に見えてきた踏切。ちょうど警報が鳴っている最中であり、そこで待つ幾人かの生徒の姿があった。
右手方向にある七里ヶ浜駅には、それよりも多くの生徒たちが待ち受けているに違いない。踏切にいる者と駅にいる者とを繋ぐ、おびただしい数の糸が、すでに綾音の視界には映っていたのだから。
「……やっちまいましたかね」
人込みを避けるため、おとなしく引き返す。これまでの綾音であれば、それが当然の選択だった。しかし今となっては、ほとんど意味を成さない。
どこにいようと、どこからともなく糸が現れてしまうのだから。
糸から逃れられる場所など、もうどこにも無くなってしまっているのだから。
「あっ……」
小さく、声がもれた。思わず目を伏せ、顔を背けたくなる。
認めてしまった。多くの糸の中に一つ、不穏な色が紛れ込んでいることを。
恭子の時にも見えた、『黒い糸』が存在していることを。
「また、ですか」
早々に出会うことがないはずの糸だった。かれこれこの思春期症候群とも一年近くの付き合いになるが、片手で事足りる程度の本数しかお目にかかったことがない。
それがどうしたわけか、今日はもう三度目だ。最初は登校時に鎌倉駅のホームで。次は直後の電車内で。そして三度目が、今。
偶然という言葉では到底済まされない。頻度が飛躍的に高まっている。あまり深く考えるまでもなく、可視範囲が伸びてしまったことに……思春期症候群の悪化に起因されるのだろう。
「……あんな糸」
――あんな糸、切れてしまえばいいのに
ちらりと、そんなことを思ってしまった……その瞬間。
「……えっ?」
綾音は大きく目を見開いた。目の前で起こった現象が信じられなかった。
ふっと消えてしまったのだ。視界に映っていた、『黒い糸』が。
「いえ、そんな……」
たまたまか、気のせいかと思った。できることなら、そう思いたかった。
それにしてはタイミングが絶妙過ぎたし、ピンポイントで『黒い糸』だけが消失してしまった。さらにはほんの一時間ほど前、学校の廊下でも似たような現象に遭遇したばかりでもあった。
――
綾音がそんなことを口走った直後、視界から全ての糸が消えた。すぐに元通り見えるようになったが、今にして思えば、その前後で本数が違っていた。少なくとも、二、三本は確実に減ってしまっていた。
「まさか、あの時も……?」
ともすれば、咲太と朋絵の間に見えていたはずの糸。
あれも、綾音が断ち切ってしまった、としたら。
だから……朋絵が
「……」
『まさか、そんなこと』と、否定しようとする思考。『いや、でも』と、それをまた否定しようとする思考。二つがせめぎ合い、無限のループを繰り返してしまう。
じれったくなり、確かめてみたい衝動に駆られるが、試してしまうわけにもいかないと、すんでのところで踏みとどまる。
たとえそれが『黒の糸』であろうと、人同士の関係を捻じ曲げてしまうなどと、そんなおこがましい真似をするわけにはいかない。
赤の他人が……自分ごときが。
「意図的に、断ち切れる……ですか? ……糸だけに」
馬鹿なことを口にしてみても、気休めにもならない。
全然笑えないし、笑いごとじゃない。
「これは、なかなか……由々しき事態ですね」
廊下で見えた糸。咲太と朋絵の間に見えた糸。今しがたの、誰のものかもわからない黒い糸。わかっている範囲でこれだけある。
本当に、糸を消してしまえるのだろうか。
だとしたら、いったいいつから、そうなっていたのだろうか。
綾音が把握できていないというだけで、無意識に消してしまった糸が、他にいくつあるのだろうか。
考えれば考えるほど、どつぼにはまり。
言いようのない不安だけが、ただただ
◇ ◇
「ただい……ま?」
普段と違う雰囲気に首を傾げた。
どうも人のいる気配がするし、リビングの方からはかすかに話し声も聞こえてくる。
話し声、ということは一人ではないということ。そして綾音は三人家族。それすなわち。
「ただいまもどりました、お父さま、お母さま」
思わずにやついてしまいそうになるが、かろうじて耐え切った。だらしない表情をしては二人が気分を害してしまう恐れがある。許されているのは、にこりと淑女らしく微笑むことだけ。
「あら、綾音。おかえりなさい」
表情を一切変えずに、母が応じる。笑顔など滅多に見たことがない。
「綾音か。ちょうどいい」
父からは『おかえり』の言葉さえなかったが、こういう人だ。
「なんでしょう?」
「どちらについていくか、選べ」
「……はい?」
いくら考えても答えにはたどり着けそうもない。両親を交互に見やり、目で問い掛ける。
「私たち、離婚することに決めたから」
相変わらずの無表情で、さらっと、何でもないことのように母が告げる。心臓がどくんと跳ね上がり、息が上手く吸えなくなる。
「……なんで、ですか?」
少し間が空いてしまったが、懸命に平静を
「なんで、か……」
「そう、ねえ……」
はっきりと思い当たる動因がなかったのか、両親は揃って視線をさまよわせ、考え込んでしまう。
「……」
今度こそ、綾音は言葉を失ってしまう。ありえない光景だった。
あの父が。あの母が。いつだって合理的で、要領がよくて、理路整然としていて、悩む素振りなど一度たりとも見せたことがない、あの両親が。
綾音は呆然と立ち尽くす。なおも、二人は悩み続ける。実際には一分にも満たなかったのだと思われるが、恐ろしく長く感じられた。
ようやく考えがまとまったのか、父が居住まいを正す。その口からおもむろに発せられた台詞は、さらに
「ふと思い立って、か」
「へっ?」
思わず変な声が出てしまった。
こんな失態、両親の前で見せて良いものじゃない。本来ならば、眉をひそめられる。下手をすればお叱りを受ける。
しかし今回はなぜだか、それに関して
「まぁ、何となくよね。それが偶然にも一致しちゃったのよ」
「
「ええ。綾音ももう高校生だし、いい頃合いかと思って」
一応は、理に
でも、違う。
こんなの、綾音が知る両親らしくない。
思い立って。何となく。そんな
いつものように、反論できる余地のない正論を、高圧的に一方的に厳命してくれた方がまだ良かった。まだ、諦めがついた。
「余計な
「……」
余計な柵。
「そうね。わざわざこの家に帰るのも、面倒だったし」
「……」
面倒。
どこか言い訳じみた、後付けの理由にしか聞こえない。いまいち釈然としていない自らへ向けて、
それにしたって、あんまりだと思った。
実家への……家族への表現として、それらの言葉は、いかがなものなのだろう……。
内心に募っていく不満を、
「それなら、わたしは一人暮らしがしてみたいです」
その台詞は予想していなかったのか、両親はわずかに
「大丈夫なの?」
「はい。今の高校にも、このまま通いたいので」
どちらかについていくにしても、この家を離れなければならなくなる。となれば、転校を余儀なくされてしまう。
それは、どうしても嫌だった。
両親と離れ離れになることよりも、ずっと、ずっと。
「わかった。住む場所を決めたら私に言え」
「ありがとうございます、お父さま」
契約などは父が済ませてくれるのだろう。そのことは素直にありがたいと思い、感謝の言葉を述べる。
能面のような、人形のような、とっておきの作り笑顔を添えて。
◇ ◇
思えば、二人の間に糸は見えなかった。
結ばれているはずがない、と。
何の繋がりも存在しない、と。
そう、決めつけていたから。
繋がりがあることを、認めずに。許さずに。
――いっそのこと、別れてしまえばいいのに
そう、願ってしまったから。
父と母の間に存在していたはずの糸を、断ち切ってしまったんだ。
だから。
両親の離婚は、わたしのせいだ――