ベビースパイダー嬢は青春ブタ野郎に夢を見る   作:紺野咲良

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第8話

 咲太はまだ学校へ残るらしく、軽い挨拶を交わして別れた綾音は、何となしに下校を始めた。

 そのことを、すぐさま後悔することとなる。

 校門を出て、目の前に見えてきた踏切。ちょうど警報が鳴っている最中であり、そこで待つ幾人かの生徒の姿があった。

 右手方向にある七里ヶ浜駅には、それよりも多くの生徒たちが待ち受けているに違いない。踏切にいる者と駅にいる者とを繋ぐ、おびただしい数の糸が、すでに綾音の視界には映っていたのだから。

「……やっちまいましたかね」

 人込みを避けるため、おとなしく引き返す。これまでの綾音であれば、それが当然の選択だった。しかし今となっては、ほとんど意味を成さない。

 どこにいようと、どこからともなく糸が現れてしまうのだから。

 糸から逃れられる場所など、もうどこにも無くなってしまっているのだから。

「あっ……」

 小さく、声がもれた。思わず目を伏せ、顔を背けたくなる。

 認めてしまった。多くの糸の中に一つ、不穏な色が紛れ込んでいることを。

 恭子の時にも見えた、『黒い糸』が存在していることを。

「また、ですか」

 早々に出会うことがないはずの糸だった。かれこれこの思春期症候群とも一年近くの付き合いになるが、片手で事足りる程度の本数しかお目にかかったことがない。

 それがどうしたわけか、今日はもう三度目だ。最初は登校時に鎌倉駅のホームで。次は直後の電車内で。そして三度目が、今。

 偶然という言葉では到底済まされない。頻度が飛躍的に高まっている。あまり深く考えるまでもなく、可視範囲が伸びてしまったことに……思春期症候群の悪化に起因されるのだろう。

「……あんな糸」

 ――あんな糸、切れてしまえばいいのに

 ちらりと、そんなことを思ってしまった……その瞬間。

「……えっ?」

 綾音は大きく目を見開いた。目の前で起こった現象が信じられなかった。

 ふっと消えてしまったのだ。視界に映っていた、『黒い糸』が。

「いえ、そんな……」

 たまたまか、気のせいかと思った。できることなら、そう思いたかった。

 それにしてはタイミングが絶妙過ぎたし、ピンポイントで『黒い糸』だけが消失してしまった。さらにはほんの一時間ほど前、学校の廊下でも似たような現象に遭遇したばかりでもあった。

 ――(わずら)わしい、ですね

 綾音がそんなことを口走った直後、視界から全ての糸が消えた。すぐに元通り見えるようになったが、今にして思えば、その前後で本数が違っていた。少なくとも、二、三本は確実に減ってしまっていた。

「まさか、あの時も……?」

 ともすれば、咲太と朋絵の間に見えていたはずの糸。

 あれも、綾音が断ち切ってしまった、としたら。

 だから……朋絵が豹変(ひょうへん)してしまった、としたら。

「……」

『まさか、そんなこと』と、否定しようとする思考。『いや、でも』と、それをまた否定しようとする思考。二つがせめぎ合い、無限のループを繰り返してしまう。

 じれったくなり、確かめてみたい衝動に駆られるが、試してしまうわけにもいかないと、すんでのところで踏みとどまる。

 たとえそれが『黒の糸』であろうと、人同士の関係を捻じ曲げてしまうなどと、そんなおこがましい真似をするわけにはいかない。

 赤の他人が……自分ごときが。

「意図的に、断ち切れる……ですか? ……糸だけに」

 馬鹿なことを口にしてみても、気休めにもならない。

 全然笑えないし、笑いごとじゃない。

「これは、なかなか……由々しき事態ですね」

 廊下で見えた糸。咲太と朋絵の間に見えた糸。今しがたの、誰のものかもわからない黒い糸。わかっている範囲でこれだけある。

 本当に、糸を消してしまえるのだろうか。

 だとしたら、いったいいつから、そうなっていたのだろうか。

 綾音が把握できていないというだけで、無意識に消してしまった糸が、他にいくつあるのだろうか。

 考えれば考えるほど、どつぼにはまり。

 言いようのない不安だけが、ただただ(つの)っていく。

 

 

    ◇    ◇

 

 

「ただい……ま?」

 普段と違う雰囲気に首を傾げた。

 どうも人のいる気配がするし、リビングの方からはかすかに話し声も聞こえてくる。

 話し声、ということは一人ではないということ。そして綾音は三人家族。それすなわち。

「ただいまもどりました、お父さま、お母さま」

 思わずにやついてしまいそうになるが、かろうじて耐え切った。だらしない表情をしては二人が気分を害してしまう恐れがある。許されているのは、にこりと淑女らしく微笑むことだけ。

「あら、綾音。おかえりなさい」

 表情を一切変えずに、母が応じる。笑顔など滅多に見たことがない。

「綾音か。ちょうどいい」

 父からは『おかえり』の言葉さえなかったが、こういう人だ。

「なんでしょう?」

「どちらについていくか、選べ」

「……はい?」

 唐突(とうとつ)過ぎて話がさっぱり読めない。『ついていく』ということは、長期間どこか遠くへ行くつもりなのだろうか。仮に出張だとしても、そんなことを言われた経験もない。綾音がついていくことに意味など何もなく、ただひたすらに邪魔なだけなのだから。

 いくら考えても答えにはたどり着けそうもない。両親を交互に見やり、目で問い掛ける。

「私たち、離婚することに決めたから」

 相変わらずの無表情で、さらっと、何でもないことのように母が告げる。心臓がどくんと跳ね上がり、息が上手く吸えなくなる。

「……なんで、ですか?」

 少し間が空いてしまったが、懸命に平静を(よそお)って問い返す。

「なんで、か……」

「そう、ねえ……」

 はっきりと思い当たる動因がなかったのか、両親は揃って視線をさまよわせ、考え込んでしまう。

「……」

 今度こそ、綾音は言葉を失ってしまう。ありえない光景だった。

 あの父が。あの母が。いつだって合理的で、要領がよくて、理路整然としていて、悩む素振りなど一度たりとも見せたことがない、あの両親が。

 綾音は呆然と立ち尽くす。なおも、二人は悩み続ける。実際には一分にも満たなかったのだと思われるが、恐ろしく長く感じられた。

 ようやく考えがまとまったのか、父が居住まいを正す。その口からおもむろに発せられた台詞は、さらに驚愕(きょうがく)してしまうものだった。

「ふと思い立って、か」

「へっ?」

 思わず変な声が出てしまった。

 こんな失態、両親の前で見せて良いものじゃない。本来ならば、眉をひそめられる。下手をすればお叱りを受ける。

 しかし今回はなぜだか、それに関して(とが)めることもなく、いまだに首を捻っている。両親らしからぬ様相に、綾音の動揺は留まるところを知らない。

「まぁ、何となくよね。それが偶然にも一致しちゃったのよ」

時宜(じぎ)だった、ということだな」

「ええ。綾音ももう高校生だし、いい頃合いかと思って」

 一応は、理に(かな)っている。

 でも、違う。

 こんなの、綾音が知る両親らしくない。

 思い立って。何となく。そんな不明瞭(ふめいりょう)な動機から決断を下すような人たちじゃない。

 いつものように、反論できる余地のない正論を、高圧的に一方的に厳命してくれた方がまだ良かった。まだ、諦めがついた。

「余計な(しがらみ)無しに身軽でいた方が、お互いやりやすいだろうしな」

「……」

 余計な柵。

「そうね。わざわざこの家に帰るのも、面倒だったし」

「……」

 面倒。

 どこか言い訳じみた、後付けの理由にしか聞こえない。いまいち釈然としていない自らへ向けて、躍起(やっき)になって弁明を図っているようにしか感じられない。

 それにしたって、あんまりだと思った。

 実家への……家族への表現として、それらの言葉は、いかがなものなのだろう……。

 内心に募っていく不満を、筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたい激情をぐっと堪え、笑顔で取り(つくろ)う。

「それなら、わたしは一人暮らしがしてみたいです」

 その台詞は予想していなかったのか、両親はわずかに瞠目(どうもく)していた。

「大丈夫なの?」

「はい。今の高校にも、このまま通いたいので」

 どちらかについていくにしても、この家を離れなければならなくなる。となれば、転校を余儀なくされてしまう。

 それは、どうしても嫌だった。

 両親と離れ離れになることよりも、ずっと、ずっと。

「わかった。住む場所を決めたら私に言え」

「ありがとうございます、お父さま」

 契約などは父が済ませてくれるのだろう。そのことは素直にありがたいと思い、感謝の言葉を述べる。

 能面のような、人形のような、とっておきの作り笑顔を添えて。

 

    ◇    ◇

 

 思えば、二人の間に糸は見えなかった。

 結ばれているはずがない、と。

 何の繋がりも存在しない、と。

 そう、決めつけていたから。

 繋がりがあることを、認めずに。許さずに。

 ――いっそのこと、別れてしまえばいいのに

 そう、願ってしまったから。

 父と母の間に存在していたはずの糸を、断ち切ってしまったんだ。

 

 だから。

 両親の離婚は、わたしのせいだ――

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