この日、綾音はいつもより三十分ほど早く家を出た。
理由としては二つ。
一つは、早急に咲太と話がしたかったから。
もう一つは……視界が、悪かったから。
◇ ◇
なんとか無事に学校へ到着した綾音は、教室へ鞄を置くこともなく、まっすぐに二年一組の教室へと向かった。
開いていた入口から、こっそり教室内を覗かせてもらう。さすがに早すぎたらしく、まだ五名ほどしかいない。残念ながらその中に咲太は含まれなかった。
「……まだ、きていませんかね」
先に下駄箱を確認すべきだったなと、遅まきながら後悔する。気持ちに余裕が無く、冷静さを欠いている証拠だ。いったん出直そうと思い、来た道を引き返していく。
ここは二階。廊下には結構な人数の、二年生とおぼしき生徒たちがいた。
登校してきたばかりの、自分の教室へと向かっている人が多くを占めるが、朝一で
綾音が一方的に知っている人はちらほらいるが、直接関わりを持ったことのない人ばかりだ。誰々は何が得意だとか、誰々は何に悩んでいるらしいだとか、そういった情報や噂話を押さえているだけ。
その中の一人と、はたと目が合った。それも数少ない、綾音が言葉を交わしたことのある人物。
「加西先輩?」
占い師として直近のお客様であった、加西先輩だ。
「あ……綾音ちゃん」
年上ながら、いつでも明るくかわいらしい印象の人だったはずが、ぱっと見で心配になるほど表情が暗い。
「んと、どうかしましたか?」
「うん……」
浮かない生返事をされる。そして、なぜか気まずそうに目を逸らされた。
かと思えば、今度は俯きがちに、ちらちらと綾音の顔色をうかがい始める。何かをためらっているようだった。
「……」
「……」
あの加西先輩をこうまで暗くさせ、こんなにも長く
こういった際における気の利いた一言など、綾音に浮かぶはずもなく。かといって、逃げることもできず。どんよりとした空気の中、だんまりを決め込むほかなかった。
「あの、ね」
ようやく加西先輩が重い口を開いてくれた。
「別れちゃったんだ。岡崎くんと」
「……はい?」
意外にもあっさりとした口調ではあった。けれども内容はつゆも理解できず、放心してしまう。
「え、あっ……なん、で……? どうして、ですか……?」
数テンポ遅れて
前代未聞の事態だった。『赤い糸』で結ばれていたはずの関係が破局を迎えてしまうことなど。
「ん、その、なんていうか……」
視線を泳がせ、首を傾け、唇に指を当てて、苦悩している。
今、この場で、初めてその理由を考え、整理しているかのように。
まるで……自分でも、自分の行動に納得がいってないかのように。
「なんか……急に、思ったんだよ、ね。別れた方が良い……ううん、別れなきゃ、って……」
「……」
「……ごめんね、こんなんじゃわけわかんないよね。なに言ってるんだろ、私……」
言葉を発せずにいる綾音を気遣ってか、「あはは」と、力なく笑いかけてくる。
その姿は、なんとも痛ましくて。
――何か、言ってあげなきゃ
そう思っても、頭が真っ白で。
まるで幼児退行でもしてしまったかのように、「あ」とか、「う」とか、意味を持たない声を、小さく、小さく喘ぐばかりだった。
「ごめん、ね……せっかく、綾音ちゃんの、おかげでっ……」
それ以上は言葉にならなかった。
加西先輩は咄嗟に口元を手で隠し、顔を背け、わずかに肩を震わせている。
なぜ、こんなことになってしまったのか。
ほとんど無意識に、視線を
その中に、岡崎先輩と結ばれていたはずの色の糸は無かった。『赤い糸』は、無かった。
「……まさか」
以前、廊下を歩いていた時。
――煩わしい、ですね
そう呟いた瞬間、目に映る全ての糸が消えてしまった。すぐに再び見えるようにはなったが、明らかに何本か減っていた。何本か、消してしまっていた。
その前後の光景を間違い探しのように照らし合わせてみると、一つだけ、はっきりと覚えている糸がある。
あの時、綾音の眼前に現れた糸。
その『赤い糸』は、確かに無くなってしまっていた。
「まさか、あれは……加西先輩と、岡崎先輩の……?」
糸を断ち切られたら、どうなるのか。
その結末を、目の前の加西先輩が
強迫観念に
想いを捻じ曲げられ、踏みにじられる。
それはいわば洗脳か、心の改ざんか、はたまた運命の操作か。
「そんなの……そんなの、って……」
いくらなんでも、むごすぎる。そんなの誰にだって……たとえ神だろうと許されていい行為じゃない。
両親も、咲太とその知人たちも、同様に。
おそらくは、綾音のせいで……。
「……そろそろ、平気かな~って、思ってたんだけどなぁ。まだ、ダメだったかぁ」
加西先輩が、照れ隠しをするように笑いかけてくる。かすかに涙まじりの声ではあったが、以前に聞いたような明るい響きをすっかり取り戻していた。
「ほらほら、もうチャイムが鳴っちゃうよ? 早く教室に戻ろうね」
この期に及んでも、先輩らしくあろうと気丈に振る舞ってくれる。
「ほんと、綾音ちゃんは気に病まないでね。悪いのは、私なんだから」
包み込むようなハグをされ、背中をやさしく叩いてくれる。
辛いのは、加西先輩の方で。
悪いのは、綾音の方だというのに。
「……違うん、です」
立ち去る加西先輩の背中へ、必死に声を振り絞る。
「わたしが、あなたたちを断ち切ってしまったから……!」
その声は、あまりにも小さくて、ひどく
加西先輩の耳には、届いてくれなかった。
◇ ◇
この日の授業は、何一つとして頭に入ってこなかった。幸い教師も綾音の異変に気付かず、指名されたり注意されたりすることもなかった。
何も考えず、ただただ無心で過ごす。昼休みになっても、昼食をとることすら忘れて、ふらふらと校内を放浪する。
その様は、壊れた玩具か、魂なき人形か、さまよえる亡霊か。見る人が見れば、心配して声をかけられたり、奇異の眼差しを向けられたりしてしまう。
周囲の視線を気にする心の余裕は、もうなかった。
周囲の人間をまともに視認できるだけの視界を、もう持ち合わせてはいなかった。
「あ、綾音」
帰りのショートホームルームを終え、教室を出ようとした矢先に、
「なんでしょう?」
「占って欲しいって人がいるんだけど……なんか忙しそう? ってか、どうかした?」
さすがに恭子には一目で異変に気づかれてしまい、心配そうに顔を覗き込まれそうになる。
それを拒絶するよう、微笑んでみせた。
「ええ、すみません。このあとは、ちょと」
自分でもわかるほど、ぎこちない苦笑いにしかならなかったけれど、この場においてはそう不自然じゃないと思うので良しとする。
「ん、そっか。また今度、手が空いてたらよろしくね」
余計な詮索はしてこない。朗らかな笑みを浮かべ、手を振りあっさりと去っていく。恭子のこういうところは、心からありがたいと思った。
現在の精神状態でこれ以上一緒にいては、自分が何を口走ってしまうか、自分でもわからなかったから。
「……行きます、か」
この時の綾音の胸中を占めていたのは、いま最も会わなければならない人のこと。
避けては通れないし、先延ばしにしてもしょうがない。
たとえそれが、その人の逆鱗に触れることになろうとも。
恭子と別れた綾音は、すぐに目的地へと向かい始めた。
はやる気持ちを抑え、壁に手をつきながら、階段の手すりにしがみつくようにしながら、周囲の人とぶつからないよう注意しながら、一歩一歩をしっかりと踏み出す。
やっとの思いでたどり着いた、二年一組の教室。
「さくたろ、先輩……」
意図せずその名を呟き、祈るような思いで中を覗き見た。
到着に時間を要したためか、教室内の生徒の数はもう半分以下にまで減っていた。そんな少人数にもかかわらず、視界に映る糸が邪魔して、一人一人の姿をきちんと確認していくことは困難を極める。
それでも綾音が見紛うはずがなかった。幾度となく拝んできた、憧れの先輩の姿を。
「……いませんか」
この時も咲太の姿はなかった。肩を落とし、大きなため息をつく。
「でも……結果、オーライ……なんでしょうかね」
同時に、いなくて良かったとも思った。肩には明らかに力が入りすぎていたし、こぼれたため息にも、どこかほっとしたような心情が含まれていた。
こんな気持ちのまま、会いたくない。こんな顔、見せられない。
おとなしく日を改めることにして、
明日になっても状況は改善しないどころか、悪化すらしているかもしれない。
だけど、明るい表情ぐらい、作れるようになっているだろうから。
◇ ◇
慣れ親しんだ通学路。目を瞑っても歩けるというのは大げさかもしれないが、多少視界が悪かったところで、登下校にそこまでの支障はない。
自宅や学校でも同様だ。生活を続けていくことに、さして苦労などない。
だから、大丈夫。
「絶景、ですね」
乾いた笑いがこぼれた。
「想像をはるかに超えて、愉快です」
徐々に、着実に、張り巡らされていく糸。すでに視界の半分はゆうに超えて浸食されてしまった。
縦横無尽に伸びる糸は、触れられる距離にあるはずなのに触れることが叶わず、もはや目を閉じていた方が距離感や
「これは……『あれ』、でしょうかねぇ……」
その名は『アトラク=ナクア』。
しばしば
とはいえ、そこまで大それた存在だとは思わない。綾音の目に映る糸は、いくら張り巡らせたところで巣として相成るものではなく、断ち切りさえしなければ無害であるはずなのだ。
だからこれ以上、何一つとして断ち切らなければいい。
その為に、成すべきこと。何も感じず、何も願わず。全てを諦め、全てから目を背け。そして……視界を、心を、全てを閉ざす。
そうして断ち切られるのが綾音の未来だと言うならば……破滅を迎えるのが綾音自身だというならば、甘んじて受け入れよう。
それが、与えられた運命。
それが、この思春期症候群の末路。
――愚鈍で、未熟なわたしは……さしずめ、『