ベビースパイダー嬢は青春ブタ野郎に夢を見る   作:紺野咲良

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第9話

 この日、綾音はいつもより三十分ほど早く家を出た。

 理由としては二つ。

 一つは、早急に咲太と話がしたかったから。

 もう一つは……視界が、悪かったから。

 

 

    ◇    ◇

 

 

 なんとか無事に学校へ到着した綾音は、教室へ鞄を置くこともなく、まっすぐに二年一組の教室へと向かった。

 開いていた入口から、こっそり教室内を覗かせてもらう。さすがに早すぎたらしく、まだ五名ほどしかいない。残念ながらその中に咲太は含まれなかった。

「……まだ、きていませんかね」

 先に下駄箱を確認すべきだったなと、遅まきながら後悔する。気持ちに余裕が無く、冷静さを欠いている証拠だ。いったん出直そうと思い、来た道を引き返していく。

 ここは二階。廊下には結構な人数の、二年生とおぼしき生徒たちがいた。

 登校してきたばかりの、自分の教室へと向かっている人が多くを占めるが、朝一で駄弁(だべ)っている人もいる。ご苦労なことに、早速委員会だか日直だかの仕事に取り掛かっている人もいる。

 綾音が一方的に知っている人はちらほらいるが、直接関わりを持ったことのない人ばかりだ。誰々は何が得意だとか、誰々は何に悩んでいるらしいだとか、そういった情報や噂話を押さえているだけ。

 その中の一人と、はたと目が合った。それも数少ない、綾音が言葉を交わしたことのある人物。

「加西先輩?」

 占い師として直近のお客様であった、加西先輩だ。

「あ……綾音ちゃん」

 年上ながら、いつでも明るくかわいらしい印象の人だったはずが、ぱっと見で心配になるほど表情が暗い。

「んと、どうかしましたか?」

「うん……」

 浮かない生返事をされる。そして、なぜか気まずそうに目を逸らされた。

 かと思えば、今度は俯きがちに、ちらちらと綾音の顔色をうかがい始める。何かをためらっているようだった。

「……」

「……」

 あの加西先輩をこうまで暗くさせ、こんなにも長く躊躇(ちゅうちょ)させてしまうだなんて、ただならぬ出来事があったに違いない。たぐいまれな緊張感に、喉がからっからに渇いてしまう。

 こういった際における気の利いた一言など、綾音に浮かぶはずもなく。かといって、逃げることもできず。どんよりとした空気の中、だんまりを決め込むほかなかった。

「あの、ね」

 ようやく加西先輩が重い口を開いてくれた。固唾(かたず)をのんで次の言葉を待つ。

 

「別れちゃったんだ。岡崎くんと」

 

「……はい?」

 意外にもあっさりとした口調ではあった。けれども内容はつゆも理解できず、放心してしまう。

「え、あっ……なん、で……? どうして、ですか……?」

 数テンポ遅れて愕然(がくぜん)とし、喘ぐように言葉を絞り出す。

 前代未聞の事態だった。『赤い糸』で結ばれていたはずの関係が破局を迎えてしまうことなど。

「ん、その、なんていうか……」

 視線を泳がせ、首を傾け、唇に指を当てて、苦悩している。

 今、この場で、初めてその理由を考え、整理しているかのように。

 まるで……自分でも、自分の行動に納得がいってないかのように。

「なんか……急に、思ったんだよ、ね。別れた方が良い……ううん、別れなきゃ、って……」

「……」

「……ごめんね、こんなんじゃわけわかんないよね。なに言ってるんだろ、私……」

 言葉を発せずにいる綾音を気遣ってか、「あはは」と、力なく笑いかけてくる。

 その姿は、なんとも痛ましくて。

 ――何か、言ってあげなきゃ

 そう思っても、頭が真っ白で。

 まるで幼児退行でもしてしまったかのように、「あ」とか、「う」とか、意味を持たない声を、小さく、小さく喘ぐばかりだった。

「ごめん、ね……せっかく、綾音ちゃんの、おかげでっ……」

 それ以上は言葉にならなかった。

 加西先輩は咄嗟に口元を手で隠し、顔を背け、わずかに肩を震わせている。嗚咽(おえつ)を、噛み殺している。

 なぜ、こんなことになってしまったのか。

 ほとんど無意識に、視線を(せわ)しくさまよわせる。加西先輩の体からは、いくつかの糸が伸びていた。その色は、青、緑、そして黄。

 その中に、岡崎先輩と結ばれていたはずの色の糸は無かった。『赤い糸』は、無かった。

「……まさか」

 以前、廊下を歩いていた時。

 ――煩わしい、ですね

 そう呟いた瞬間、目に映る全ての糸が消えてしまった。すぐに再び見えるようにはなったが、明らかに何本か減っていた。何本か、消してしまっていた。

 その前後の光景を間違い探しのように照らし合わせてみると、一つだけ、はっきりと覚えている糸がある。

 あの時、綾音の眼前に現れた糸。咄嗟(とっさ)に身をよじり、避けようとしてしまった糸。

 その『赤い糸』は、確かに無くなってしまっていた。

「まさか、あれは……加西先輩と、岡崎先輩の……?」

 糸を断ち切られたら、どうなるのか。

 その結末を、目の前の加西先輩が明瞭(めいりょう)に物語っていた。

 強迫観念に(さいな)まれ、関係を矯正される。

 想いを捻じ曲げられ、踏みにじられる。

 それはいわば洗脳か、心の改ざんか、はたまた運命の操作か。

「そんなの……そんなの、って……」

 いくらなんでも、むごすぎる。そんなの誰にだって……たとえ神だろうと許されていい行為じゃない。

 両親も、咲太とその知人たちも、同様に。

 おそらくは、綾音のせいで……。

「……そろそろ、平気かな~って、思ってたんだけどなぁ。まだ、ダメだったかぁ」

 加西先輩が、照れ隠しをするように笑いかけてくる。かすかに涙まじりの声ではあったが、以前に聞いたような明るい響きをすっかり取り戻していた。

「ほらほら、もうチャイムが鳴っちゃうよ? 早く教室に戻ろうね」

 この期に及んでも、先輩らしくあろうと気丈に振る舞ってくれる。

「ほんと、綾音ちゃんは気に病まないでね。悪いのは、私なんだから」

 包み込むようなハグをされ、背中をやさしく叩いてくれる。

 辛いのは、加西先輩の方で。

 悪いのは、綾音の方だというのに。

「……違うん、です」

 立ち去る加西先輩の背中へ、必死に声を振り絞る。

「わたしが、あなたたちを断ち切ってしまったから……!」

 その声は、あまりにも小さくて、ひどく(かす)れていて。

 加西先輩の耳には、届いてくれなかった。

 

 

    ◇    ◇

 

 

 この日の授業は、何一つとして頭に入ってこなかった。幸い教師も綾音の異変に気付かず、指名されたり注意されたりすることもなかった。

 何も考えず、ただただ無心で過ごす。昼休みになっても、昼食をとることすら忘れて、ふらふらと校内を放浪する。

 その様は、壊れた玩具か、魂なき人形か、さまよえる亡霊か。見る人が見れば、心配して声をかけられたり、奇異の眼差しを向けられたりしてしまう。

 周囲の視線を気にする心の余裕は、もうなかった。

 周囲の人間をまともに視認できるだけの視界を、もう持ち合わせてはいなかった。

 

 

「あ、綾音」

 帰りのショートホームルームを終え、教室を出ようとした矢先に、恭子(きょうこ)に呼び止められた。

「なんでしょう?」

「占って欲しいって人がいるんだけど……なんか忙しそう? ってか、どうかした?」

 さすがに恭子には一目で異変に気づかれてしまい、心配そうに顔を覗き込まれそうになる。

 それを拒絶するよう、微笑んでみせた。

「ええ、すみません。このあとは、ちょと」

 自分でもわかるほど、ぎこちない苦笑いにしかならなかったけれど、この場においてはそう不自然じゃないと思うので良しとする。

「ん、そっか。また今度、手が空いてたらよろしくね」

 余計な詮索はしてこない。朗らかな笑みを浮かべ、手を振りあっさりと去っていく。恭子のこういうところは、心からありがたいと思った。

 現在の精神状態でこれ以上一緒にいては、自分が何を口走ってしまうか、自分でもわからなかったから。

「……行きます、か」

 この時の綾音の胸中を占めていたのは、いま最も会わなければならない人のこと。

 避けては通れないし、先延ばしにしてもしょうがない。

 たとえそれが、その人の逆鱗に触れることになろうとも。

 

 

 恭子と別れた綾音は、すぐに目的地へと向かい始めた。

 はやる気持ちを抑え、壁に手をつきながら、階段の手すりにしがみつくようにしながら、周囲の人とぶつからないよう注意しながら、一歩一歩をしっかりと踏み出す。

 やっとの思いでたどり着いた、二年一組の教室。

「さくたろ、先輩……」

 意図せずその名を呟き、祈るような思いで中を覗き見た。

 到着に時間を要したためか、教室内の生徒の数はもう半分以下にまで減っていた。そんな少人数にもかかわらず、視界に映る糸が邪魔して、一人一人の姿をきちんと確認していくことは困難を極める。

 それでも綾音が見紛うはずがなかった。幾度となく拝んできた、憧れの先輩の姿を。

「……いませんか」

 この時も咲太の姿はなかった。肩を落とし、大きなため息をつく。

「でも……結果、オーライ……なんでしょうかね」

 同時に、いなくて良かったとも思った。肩には明らかに力が入りすぎていたし、こぼれたため息にも、どこかほっとしたような心情が含まれていた。

 こんな気持ちのまま、会いたくない。こんな顔、見せられない。

 おとなしく日を改めることにして、(きびす)を返す。

 明日になっても状況は改善しないどころか、悪化すらしているかもしれない。

 だけど、明るい表情ぐらい、作れるようになっているだろうから。

 

 

    ◇    ◇

 

 

 慣れ親しんだ通学路。目を瞑っても歩けるというのは大げさかもしれないが、多少視界が悪かったところで、登下校にそこまでの支障はない。

 自宅や学校でも同様だ。生活を続けていくことに、さして苦労などない。

 だから、大丈夫。

「絶景、ですね」

 乾いた笑いがこぼれた。

「想像をはるかに超えて、愉快です」

 徐々に、着実に、張り巡らされていく糸。すでに視界の半分はゆうに超えて浸食されてしまった。

 縦横無尽に伸びる糸は、触れられる距離にあるはずなのに触れることが叶わず、もはや目を閉じていた方が距離感や平衡(へいこう)感覚を維持できる。過剰なまでにカラフルな原色は目に毒で、あまり直視しすぎると吐き気をもよおしてくる。色彩感覚も狂ってしまいそうだ。

「これは……『あれ』、でしょうかねぇ……」

 自嘲(じちょう)気味に呟いた綾音の脳裏に、とある存在がちらつく。

 その名は『アトラク=ナクア』。

 しばしば蜘蛛(くも)のような姿で描かれる、神話に登場する架空の生物。日夜延々と糸を張り続けており、やがて巣が完成した暁には世界を終焉(しゅうえん)に導くという恐ろしい逸話(いつわ)がある。

 とはいえ、そこまで大それた存在だとは思わない。綾音の目に映る糸は、いくら張り巡らせたところで巣として相成るものではなく、断ち切りさえしなければ無害であるはずなのだ。

 だからこれ以上、何一つとして断ち切らなければいい。

 その為に、成すべきこと。何も感じず、何も願わず。全てを諦め、全てから目を背け。そして……視界を、心を、全てを閉ざす。

 そうして断ち切られるのが綾音の未来だと言うならば……破滅を迎えるのが綾音自身だというならば、甘んじて受け入れよう。

 それが、与えられた運命。

 それが、この思春期症候群の末路。

 

 ――愚鈍で、未熟なわたしは……さしずめ、『子蜘蛛(ベビースパイダー)』といったところでしょうか――

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