僕はセルキー、あざらし妖精である。名前は特にない。
今日も今日とて波間に揺られてぷかぷか海に浮いているが、なにも暇なわけではない。僕は今真剣に考え事をしているのだ。真剣にね。
僕たちセルキーは皮を脱ぐと人間に変身できるのだけど、それに関して僕は特にメリットというものを感じない。だって僕は普通にあざらしの雌が好きだもの。僕たちは人間に変身すると美男美女というやつになるらしいけれど、そこになんの意味があるのだろう。
物好きな雄は自分から漁師の女房なんかを誘惑しに行くけれど、遊ぶにしたって趣味が悪い。そりゃあ僕だって時に僕らの魚を横取りして、時に僕らまで狩る奴らに一泡吹かせてやりたいさ。でもその方法が女房を寝取ることだってなら、美意識に欠けると言うほかないだろう。だってそれじゃあ奴らと一緒じゃないか。
人間は皮を脱いだ雌のセルキーから皮を奪って、隠して嫁にしてしまう。彼女たちに夫や子供がいることなんて関係ない! 奴らは雌セルキーの美しさに目がくらんで、強欲に傲慢に強いるのだ。まったく、なんて野蛮なんだ。
でも、まず彼女たちも人間の姿になりさえしなければそんな悲劇は避けられた。頭脳明晰な僕にも雌心というものは難解で、今僕が悩んでいることはまさにそれ。……なぜ雌たちは、人間に変身なんかしたんだ?
僕の母も人間にとられてしまったのだと父に聞いた。だから僕は絶対に、自分のお嫁さんになるアザラシは人間なんかにとられないぞ! と胸に誓っている。まあセルキーでない普通の可愛い雌アザラシをお嫁さんにすればいいんだけど、どうも僕の頭が良すぎるのかお嬢さん方とはなかなか話が合わないのが悩みどころさ。やれやれだね。雄の奴らは頭がいい僕に嫉妬するし、おかげでどこの群れにも近寄れないで今こうして波の上というわけだ。ああ、まったく生きるってのは難しい。
で、だ。そうなると必然的に僕も父に倣ってセルキーのお相手を探すことになる。
だけど出会えたとしても、人間なんかに掻っ攫われたらたまったものではない。だからこうして出会う前に、雌セルキーが人間に変身する理由を知っておきたいのだ。出会ったときに人間なんかになる必要はないって説得するためにね!
でも考えても考えてもわからない。だって僕は人間になんてならなくたって、この姿のままで過ごすことに満足している。
本当に、なんだって人間になんか変身するんだろう。
ああ、駄目だ。考えていたら眠くなってきたぞ。しょうがない、頭脳を使いすぎてお腹もすいたがここはひとつ休憩だ。ひと眠りしたらまた……考え……ぐぅ……。
次に目を覚ました時、僕の目の前にあったのはギラリと光る包丁だった。
「嫌だ食べないで!」
人間の使う道具を知ってる僕はやっぱり博識だ! そんなことを頭の隅で考えながらも、命の危機に思わず毛皮を投げ出した。
「え、は? ……え!? あ、アザラシが人間になった!?」
僕を見て驚いてるのは人間の雌。
その雌は構えていた包丁を下すと、まじまじと人間になった僕の体を見回す。ふふん、人間にとって僕たちは魅力的な姿らしいからな。おおかた見惚れているんだろう。寝ている僕をかどわかし、あげく捌こうとしていた事を後悔するがいい!
「……ぷぷっ、アザラシの時は立派なお肉が取れそうだったのに、人間の姿だと貧相ね!」
「なにをぅ!? 貴様、無礼な!」
「無礼! 無礼とか言うのあんた! しかもきさ、貴様とか! おっかしー! あはは!」
アザラシを指さして笑うなどと、なんて失礼な雌だ! その行為が人間の間でも良くないものだと僕は知っているぞ!
「あんた、セルキーね? びっくりした。妖精なんて本当にいたんだ!」
「呑み込みが早いのは結構だが、僕はそろそろ帰らせていただくぞ! 考えることがいっぱいあって忙しいんだ」
「平和そうで間抜けそうな顔でぷかぷか浮いて無防備に寝てたのに?」
「英気を養っていたのだ! いちいち無礼な雌め!」
これ以上付き合ってられないね! そう思って、自分の毛皮を手に取ろうとしたのだが……。
ひょい
人間の雌に毛皮を横取りされた。
「…………返したまえ!」
「い~や! あんたは私が捕まえたんだもの。だからあんたは私のもの! セルキーって、毛皮を持つ相手に逆らえないんでしょう?」
「それは雌の話だ! 僕は奪われたまま大人しくするような質ではないのでね。返さないというのなら、僕にも考えがある。妖精の
妖精にはそれぞれ約束事、決まりごとがある。それがあるから雌セルキーは毛皮を持つ相手に逆らえないが、僕は違うぞ!
…………しかし。
「ん? 何か言った?」
「ごめんなさいなんでもないです」
僕が
こうして、僕の屈辱的な陸生活は始まったのだ。
「セルキー、乳しぼりしてきて」
「セルキー、部屋の掃除お願いね」
「セルキー、買い物行ってちょうだい」
「セルキー、井戸から水をくんできて」
「セルキー、モモこのブラッシングとめーめーのエサやりよろしくね」
雌は僕をこれでもかとこき使った。どうやらこいつは牧場を一人でやりくりしているらしい。
……そういえばなんで牧場主のこいつが、海でアザラシ狩りなんてしてたんだ?
一年が過ぎた。
三年が過ぎた。
十年が過ぎた。
僕は相変わらず海に帰れない。これじゃ雌セルキーと出会うこともできやしない。あいつは何故かたまに僕を海に連れて行ってくれるが、帰してくれる気はないようで毛皮は相変わらずあいつの手の中だ。
乳臭いガキだったあいつも、そろそろいい歳だ。求婚も受けてるようだし、僕を開放してさっさと人間の雄と子作りでもすればいい。
だけどそれから更に三年経っても、あいつは一人のままだ。妖精の僕に時間はあまり関係ないが、こいつはそうじゃない。このままでいいのか?
……まったく、しょうがないな。
「おい、僕もそろそろ血のつながった仲間が欲しいんだ。お前もそうだろ。利害の一致だ子作りするぞ」
「は?」
利害の一致に同意したのか抵抗しなかったそいつと僕は、その日から夫婦になった。
そしてそれから何年十年も過ぎた、ある日のことだ。
最近はめっきり寝床から起きられなくなった妻は、窓から僕たちの孫が遊ぶ光景を見ながら静かにほほ笑んだ。昔の粗暴さが嘘のように、今のこいつは穏やかである。
妻は最期、僕に毛皮を手渡しながら秘密を教えてくれた。
「実はね、私はあの日死ぬつもりで海に出たの。家族を失って絶望してたわ。そしたらアザラシがのん気にぷかぷか浮いていて、そんな気分ふきとんじゃった。でものん気すぎて無性に腹が立ってねぇ、こいつを糧に生き抜いてやる! って思ったのよ。ふふっ、そしたらこんな素敵な旦那様になっちゃった」
「僕はいい迷惑だ」
「そうね、ごめんなさい。……海に帰っても、時々あの子たちを見ていてやってね」
少し寂しそうに笑った妻を抱きしめる。枯れ枝のようになった彼女の体に対して僕の姿は未だ、出会った時のままだ。なんたって僕は妖精だから。
「当然だろ。……まあ、その、なんだ。楽しかった」
そう言うと、妻は幸せそうに笑って目を閉じた。陽だまりは消え、懐かしい海の底のような冷たさが腕の中に広がってゆく。
僕の疑問は未だに解けていない。
得たものは答えではない。
だけど、思うのだ。
愚かで野蛮で強欲で傲慢。だけど寂しがりやな人間に寄り添ってやるのは、そう悪いものでもなかったと。
お粗末様でした!
3000文字縛りの難しさを思い知った次第……!