「はいこれ、兄さんに」
春も中程を過ぎようというころだ。両儀家にふらりと立ち寄った黒桐鮮花は、兄である両儀幹也にそう言って一枚の手紙を手渡したのである。
「なんだい藪から棒に…」
妹の突然な行いにぶつくさ言いながら手紙を確認してみると、それはなんと結婚式の招待状であった。差出人は浅上藤乃、とある。
「驚いた。結婚するのか、あの子」
幹也が素直に驚きを口にすると、鮮花は詰まらなそうに頬を膨らませる。
「そうよ、あの子ったら。いつのまにか良い男を捕まえて幸せになろうって言うんだから。私たちの約束はどこへ行ったというのかしら」
何やら呪詛らしき物を吐き続ける自身の妹の姿にやや不安を覚えつつも、幹也はさてどうしたものかと考える。
浅上藤乃の結婚は間違いなくめでたい事であるが、その招待状が自分たちの所に来るとは少しも考えていなかったのである。
そもそも、彼女と幹也の連れ合いは一度、冗談抜きで殺し合いをしている。本来であれば憎しみこそはあれ、この様な場に招待される様な好印象を望めるはずもない。
「それと、」
よし、断ろうそうしようと、幹也が考えを固めていた時、鮮花はタイミングを見計らったかのようにコホンッと咳を一つした。
「藤乃からは伝言を預かっています。
『両儀幹也さんと式さんの両名については、どうぞ過去の遺恨を水に流した上でご参加頂けると嬉しいです。
私の大切な友人の兄と、その家族ですもの。大切な瞬間に立ち会って頂きたいです』
だそうですよ」
彼女の言葉に幹也は2・3度瞬きをしてから頷く。
「そうか、彼女はそんな事を言ってくれるんだね。うん、それなら、参加しない訳には行かないな」
彼女が鮮花に渡した伝言は、以前の藤乃からは考えられない程に前向きなものだ。何よりその気持ちの変化が、幹也には嬉しかった。
「ま、おかげで私はこの伝言の為に使いっ走りをさせられた訳ですけどね」
「鮮花もありがとう。未那に会っていくかい?あの子も喜ぶ」
「そうね、そうします。お邪魔しますね、兄さん」
そう言ってブーツを脱いで框に上がる鮮花を案内しながら、幹也はこの後待ち構えている難問にどう対処しようかと考えていた。
*
「絶対に、行かない」
「うん、そう言うと思ったけどね」
場所は変わり、幹也と式家族の居間である。
未那と鮮花が二人で外に散歩に行っている間に、幹也は式に事のあらましを説明した。すると、式の普段から吊り目気味な顔つきは話が進む程に更に不機嫌なそれへと変わり、ぴしゃりと一言で返事を叩きつけられたのだった。
「お前、本気で言ってるのか。俺とあいつは一度やりあってるんだぞ」
「うん。でも、それも水に流した上で見届けて欲しいって…」
「だとしても、だ。俺たちがその提案に乗らなきゃいけない理由は何処にもないだろう」
式の言葉に、幹也はうーんと唸りながら頬を掻く。些か分が悪い。
「そもそもだ。幹也もあの女とはあれっきり会っていないはずだろ。なんで今になって招待状が来たからって参加したいと思うんだ」
微妙に視線を外しながら、式は少し不自然な言い回しをする。
「あの女って。あんまり乱暴な言葉を使わないで欲しいな。未那の教育にも悪い」
「うるさい」
幹也のいつもの一般論も、今回ばかりは式の苛立ちを冗長させるだけだ。式は幹也の言葉を一蹴すると、いよいよ幹也からは視線を外して横を向いてしまった。
「そうだな…式は、僕達の結婚式の時の事を覚えてる?」
「…当たり前だ、そんなの」
幹也がいつもより柔らかなトーンで話し始めると、式も渋々といった体で幹也の言葉に応じる。
「うん、僕達の時も色々な人を呼んで、神社を借りて大々的におこなったよね。秋隆さんが張り切りすぎちゃってさ。
でもそれで色んな人達が集まって、僕達の事を祝福してくれて、それで思ったんだ」
「…思ったって、何を?」
「人の人生はずっと繋がっていくものなんだって。過去にどれだけ嫌な事があったとしても、一度出来た縁はそう簡単に途切れないんだ。
今までの楽しいことも、辛いことも、嫌なことも積み重なって今の僕達がある。結婚式って、その一種の分岐点なんじゃないかな」
滔々と幹也が語っていると、いつのまにか式も背けていた顔を戻し、真剣な顔で幹也を見ていた。
「これまでの積み重ねた人生があって、僕達は巡り合って一つの家族になった。その瞬間を、これまで関係した人達に見届けて貰えるなら、それはとても良いことなんだと僕は思う」
「だから、行こうって?」
「そう。何より浅上藤乃本人が、誰よりもそれを望んでいるんだ。それなら、僕は応えてあげたいと思う」
「それがかつては殺し合いをした相手でも?」
うん、と幹也は式の言葉に頷く。式は幹也のその真っ直ぐな視線に、益々渋面になったが、やがて諦める様にガシガシと頭を掻いた。
「…わかったよ、行こう。俺が顰めっ面をして式を台無しにしても、文句言うなよ」
*
浅上藤乃の結婚式は、名家のお嬢様とは思えないほどに質素な教会で行われたこじんまりとしたものであった。その中で式、幹也、未那の3人は、チェアに座り新郎新婦の入場を待っていた。
幹也が周囲を見渡すと、少人数ながらもチラホラと知った顔もいる。席に座っている者たちはそれぞれ不安そうな顔だったり嬉しそうな顔だったり既に泣いていたり様々だったが、皆確かな期待を匂わせる顔持ちであった。
次いで、式と幹也の間に挟まる様にして座る未那の方に視線を向ける。
彼女は好奇心旺盛な性格ではあるが、同時に人の空気に聡くもある。この様な場においてはしゃぐといった心配は、幹也は最初からしていなかった。
だが、それでも普段和風建築ばかりを目にする彼女には教会という建物は目新しかったらしく、その好奇心を抑えきれずにいるようだ。未那は目をキラキラと輝かせながら、しきりに周囲をキョロキョロと見渡していた。
そんな彼女の挙動が愛おしくて、幹也はなんとはなしに彼女の頭を撫でる。
すると未那は幹也の方に顔を向け「お父様、お父様」と小声で呼びかけ、顔を近づける様にと幹也に手振りをする。
幹也が未那に片耳を寄せると、未那は嬉しそうにヒソヒソ話をする。
「教会って素敵ですね。日本の建築とはまた違った趣があると言うか。
最初は寂れてるな、と思ったのだけれどとっても素敵だわ。
ここでお父様とお母様のご友人が結婚されるんですよね」
つい言わなくてもいい事まで言ってしまう未那に苦笑いしながら、幹也も小声でそうだよと言葉を返す。
「しばらく会ってなかったんだけどね。友人として呼んでもらえたんだ」
幹也がそう言うと、未那はもう一度「素敵だわ」と繰り返して、ニッコリと微笑む。
「でもね、お父様。お母様がその割にはなんだか機嫌が悪いみたいよ」
再び未那は顔を寄せると、チラととなりにいる式に視線を向けて、そう言った。
幹也も顔を上げて式の方を見ると、式は未那の言う通り眦を吊り上げたまま睨む様にして壇上をまっすぐと見ていた。
「式、やっぱり嫌かい?」
幹也は恐る恐る式に声を掛ける。すると、式は真っ直ぐ壇上を見続けながら視線を動かさずに応える。
「別に、嫌かどうかなら、最初からなんとも思ってないよ。元々俺は浅上藤乃を憎んでなんかないんだ」
「なら…」
「だからといって、祝福する気にもならない。やっぱり俺は、浅上藤乃に対して憎悪も好感もないんだ。ただ…」
そこで一度式は言葉を切る。そして、渋面を少しだけ崩して悩む様な素振りを見せると、ポツリとこう呟いた。
「ただ、生きていて良かったなって思うだけだ」
式が言い切るのと同時に、教会の扉がガコンと重い音を立てて開かれる。
新郎新婦が入場してきたのだ。
静かだった空間が、扉から入ってくる光と共に一気に色めき立つ。
浅上藤乃は純白の豪奢なドレスに身を包まれて教会に入ってくる。
杖は持っていない、新郎が彼女の手を引きながら一緒に歩いているのだ。この為にふつうの結婚式とは段取りを変えている。
彼女が静々と教会のロードを歩くと、そのあまりの静謐な美しさに、周囲の人たちがほうと息を漏らす。
彼女の繊細な肢体は、その華奢さを表すように繊細に作り込まれた純白のドレスに包まれている。
いつもの淡い笑みを浮かべた表情は化粧によって更に美しさが磨かれており、まるで人形の様に現実味がなく、同時に確かな生の美しさをも内包していた。
彼女の手を引く新郎は、落ち着いた様子で彼女が転ばない様に気をつけながら歩みを進める。一目見ただけでその人よさを感じさせる様な、優しい眼差しをした男性だった。
ゆっくりと歩みを進める浅上藤乃が、両儀家達が座っていた席を通り過ぎる。
幹也は彼女のその落ち着いた横顔を見た時、彼女に関する様々な思い出を掘り起こしていた。
青崎橙子から説明された殺人衝動と余命宣告。
啓太少年が自白した彼女に対する行い。
深夜の公園、シトシトと降る雨に打たれながら項垂れていた一人の少女。
あの声をかけた時の、怯えと恐怖を孕んでいるのにどこか生気がなく、まるで自分のこと全てが他人事の様に感じている様な彼女の顔を思い出す。
今目の前を通り過ぎって言った彼女は、同じ顔でありながらまるで別人の様に生気に満ちた顔つきだった。
『ただ、生きていて良かったなって思うだけだ』
式が呟いた言葉が脳裏に響く。チラと隣を見てみると、先ほどまで険しかった彼女の顔が、今はけんのとれた穏やかな顔つきで浅上藤乃を眺めていた。
新郎と新婦が、神父が待つ壇上まで上がる。
神父の厳格で重みのある言葉と共に、彼女達は誓いを交わす。
ステンドグラスにキラキラと彩られた光に照らされた彼女は、確かにこれからの未来に祝福されていた。