緒川さんと奏さんの絡みは本編で一切なかったので、どういう会話をしていたかは完全に妄想ですが、それなりの信頼関係はあったんじゃないかと思っています。
別れは必然ですが、それでも彼女が残したものは確かに、彼の中にもあるはず。
出会って間もない頃の印象は、「掴みどころのない人」だった。
『本当』が見えない、仮面を被ったような人。ああ、別に無愛想とか無表情とか、そういうわけじゃない。誰かが冗談を言えば微笑み、誰かが悲しんでいれば共に胸を痛めることができる。皆に好かれるような、そういう人だと思う。
でも、あたしにはそれが、本音なのか建前なのか、まるで区別がつかなかった。どうして、緒川さんにだけそう感じたのかはわからない。翼はそんな風には認識してはいないようだったし、弦十郎のダンナや他の人達も、また然り。
だから、この違和感はあたしの勘違いで、表に出すべきではないのだろうと、そう思っていた。けれど、どうしてもそのことが気になって、でもストレートに聞くのも憚られて、結局、
――緒川さんはさ、何でマネージャーなんかやってるの?
なんて、要領を得ない質問をした覚えがある。
その時の緒川さんは、少し驚いたような顔をした後、
――そう命じられたからですよ
と答えた。
案外はっきりと言うんだな、と思って、その場はそれで満足した。
でも、その『はっきりした』答えはあたしがどこか望んでいたもので、それを緒川さんが汲み取ったにすぎないんじゃないか、なんて、今になって考えてしまう。
とはいえ、いくら考えたところでそれが本心だったかどうかなんてわかるはずもなく。
結局のところ、あたしは緒川さんの『本当』なんて、これっぽっちも理解できちゃいないのだ。
――――!
ぼんやりと、誰かに呼ばれている気がする。
――この声は……緒川さん?
彼のことを考えていたから、幻聴まで聞こえてきた、とかそういうことだろうか。
いや、逆か。緒川さんの声が聞こえたから、こんなこと考えて始めたんだったか。
――あれ、そもそもあたし、今まで何してたんだっけ。ていうかここはどこだ?
そうして、これまで何をしてきたかを思い出そうとした瞬間、
――さんッ!
先程よりもはっきりとした声で呼ばれ、夢から覚めたような感覚を覚える。
けれど、その瞬間に感じたのはベッドの柔らかさではない。固く、冷たい感触が、右半身を覆っていた。
次第に、他の感覚も戻ってくる。とりわけ違和感があったのは、口の中。不快感があって、でもどこか慣れ親しんだような味がした。
――何だろうこれ。
戻りつつある視覚で、その正体を確かめようとする。
未だぼやけたままの視界は半分以上、赤で占められていた。場所はどこかの部屋のようだが、その風景は90度横倒しになって――いや、横になっているのはあたしの方か。
この色と、この味。そして、回転した視界。
ああ、なるほど。こいつは、あたしの――
『赤い何か』の正体を理解したと同時に、突如、冷たい感触もなくなった。代わりに感じたのは、人のぬくもり。上半身の浮遊感から察するに、誰かに身体を起こされたのだろう。
視界もぐるりと変化し、その『誰か』の顔が映り込む。
「奏さんッ!大丈夫ですか!?奏さんッ!」
『誰か』は言うまでもなく、さっきから声が聞こえていた、緒川さんだ。
その顔を見て、はっきりとを思い出す。
今日は、ツヴァイウイングのライブ当日。そして同時に、あるプロジェクトの決行日でもある。
その開演前。気分が悪くなって一人で楽屋に戻った直後、強烈な嘔吐感に襲われたことまでは覚えているが、そこからの記憶がない。多分、血を吐いたあと、そのまま倒れて気を失っていたのだろう。
「……緒川さん。そっか、もう時間なのか……?」
緒川さんが来た、ということは開演時刻が迫っているのかもしれない。であれば、こんなところで寝落ちしている場合ではない。
「悪いね。今、起きるからさ……ちょっと……肩貸してくれない?」
そう言って、あたしは緒川さんの肩に右手を伸ばそうとする。けれど、途端に手首を掴まれ、それは叶わなかった。
「無理しないで下さい!今、了子さんに連絡を――」
胸ポケットから携帯を取り出そうとした緒川さんの手を、今度はあたしが掴んで止める。
「奏さん……?」
「つれねぇこと言うなよ……緒川さん」
驚きと困惑が混ざったような表情を浮かべた緒川さんに対し、あたしは抗議するかのように告げる。
「あたしが分かってやってんだ。それに、了子さんも弦十郎のダンナも、あたしの身体のことは承知の上さ」
そう、承知の上だ。LiNKERの副作用で吐血することも、意識を失うことも、薬効が切れかけの状態では珍しいことではない。実際、この症状は発作的なもので、いつもであれば少し休めば身体は動く。
「しかし……」
だからといって、緒川さんが納得できないのも道理だ。そういう場面を、今まで翼や緒川さんには意図的に見せないようにしてきたのだから。動揺するのも、無理はないだろう。
それでも、あたしの身体の問題以上に、止められない理由がある。
「この計画にどれだけの人と時間と金が費やされたか、緒川さんだって知ってるだろ?」
【Project N】
計画が成功すれば、『完全聖遺物』とやらが起動するらしい。理論だなんだはよく知らないが、ノイズに対抗する強大な力になるの間違いない。
それでノイズ共を屠り――いや、より多くの人の命が守れるのなら、たとえ血反吐をはこうともやる価値がある。
そして、もう一つ。
「それにさ、そんなの関係なしに、今日のライブを楽しみにしてる観客が大勢いるんだ」
既に会場に集っている多くの人間にとって、そんな計画など知ったことではない。ただ、ツヴァイウイングの歌唱を、パフォーマンスを、観に来ているだけだ。
ライブはこれまで何回もやっているし、デビュー当時から毎回来てくれているような熱心なファンも多い。
けれど、今回のためにわざわざ遠方から来てくれたファンもいれば、よく知らずに友達に連れてこられて初めて見に来たような人だっている。
その全ての観客の心を震わせ、笑顔になってもらうために、あたしたちは準備を重ねてきた。決して、Projectのためだけではない。
だから、たとえ誰に説得されようとも、あたしの身体の問題を理由に中止するつもりはない。緒川さんだって、あたしがそういう人間だとわかっているはずだ。
――それとも、
「その全部を擲ってでも、あたしを止められる?」
仮にあたしが暴れたとしても、緒川さんならあたしを気絶させて運び出すことは容易だろう。弦十郎のダンナも流石に意識のないあたしを無理やり起こしてステージに上げることはしないだろうし、翼だけでも計画を実行することは不可能ではない。
ただ、それを緒川さん自身が容認できるのか。その、覚悟があるのか。
――でも、どうしてだろう。
止めてほしいと望んでいるわけではないのに、そんなことを聞いてしまったのは。
「……」
緒川さんは眉をひそめたまま、何も言わない。その表情と沈黙は、迷いから生じたものか、それともあたしの無茶を諌めるものか。
意図は、はっきりしない。
思えば、初めて会ったときからそうだった。
表面上は割と感情豊かに見えるが、その実、それが本意なのかどうかがまるで読めない人。
――ああ、そうか。聞いてしまった理由は、これか。
あたしを心配する姿。それすらも、本心からの行動かわからなくて、不安になって、イライラして。それでも、普段ならまず口にしなかったはずだけれど、多分、さっき見た夢のせいもあるのだろう。
結局今も、彼の腹の内はまるで読めていない。
「……悪い、意地悪なこと聞いちゃったね」
十秒にも満たない沈黙だったが、そのわずかな時間が耐えられず、自分からそれを破った。
この問答を続けても意味はないし、なによりあたしの精神衛生上良くない。
とはいえ、あたしの右手は相変わらず緒川さんに掴まれたままだ。
――さて、どうやってこの手を離してもらおうかね
何とか説得する算段をつけようと考えようとするが、血を吐いたせいか頭が上手くまわらない。
壁に掛かった時計を見やる。やはり、開演時間までもう余裕はあまりない。
焦りから、ダメ元で振りほどいてみようかと考えそうになったとき――
「奏さん、僕は何のためにマネージャーをやっていると思いますか?」
「えっ……?」
緒川さんが、口を開いた。そして、その表情はいつのまにか、哀しげを含んだような笑みになっている。
――その問いは、2年前の意趣返しか。でも、どうして今……?
答えは、覚えている。彼自身が言った、真実かどうかもわからない、その答えを。
「……そう命じられたから、だろ」
「そうです。それは昔も今も、変わりません」
正解だった。少し、拍子抜けする。あの時とは違う答えが、緒川さんの本音が聞けるんじゃないかと、期待してしまった。
だが、そう思った直後、緒川さんが二の句を告げる。
「ですが、マネージャーとして貴方達の側にいるとき、僕は『緒川家の次男』でもなく、『政府直属のエージェント』でもなく――」
その言葉には、今まで漂っていたモヤのような掴みどころの無さは存在せず、
「少しだけ、『ただの緒川慎次』として居られるんです」
紛れもない、本心のように感じられた。
「だから今、奏さんを止めようとしているのは僕のエゴです。そんなもののために、そして奏さん自身が望んでいないことのために、全てを擲つことはできません」
まるで自分に言い聞かせるようにそう言い切ると、緒川さんは掴んでいたあたしの手を、ゆっくりと離した。
驚いた。
緒川さんの言葉もそうだが、あっさりと手を離してくれたことに。
そのとき、ようやく気づいた。緒川さんはこれまでも、本音を言ってこなかったわけじゃない。マネージャーとしての彼が、ふと見せる人間性。素の仕草、言葉、表情を、あたしは確かに見ていたはずなのに。ただそれを、あたしが勝手に疑ってしまっていただけ。
普段は仮面を被って、その状況に相応しい会話をしているというのは間違いないだろう。その一面だけしか見えていないのであれば、あたしのように違和感を感じることはなかったはずだ。
一方で、翼やダンナは、元々素の彼を知っているから、建前と本音を見分けることができたのだと思う。まあ、翼に関しては無意識に感じ取っていただけかもしれないけど。
でも、あたしは――あたしだけが、何が緒川さんの本心か分からないまま、こんなに近くで彼の二面性を見てきた。それがあたしの心を惑わせ、曇らせてきた。
気づいてみれば、なんてことはない。あたしがただ、気にしすぎていただけ。
そして緒川さんはそれを感じ取って、敢えてはっきりと、本音だとわかるように話してくれた。
たとえそれが、自分の見られたくない部分をさらけ出すことになるのだとしても。
――なんだよ、それ。あたしが面倒くさい女みたいじゃないか
いや、吐血しながらステージに立とうとしているあたり、既に面倒な人間であることに変わりはないが。
それにしても、緒川さんも緒川さんで、面倒な人ではある。“そんな”ことをエゴだと言って、否定的になっているなんて。
「……いいんじゃない、エゴだってさ」
「えっ……?」
だから、それだけは、あたしも本音で正してあげる。
『自分の安らげる場所を守る』。それがエゴだと言うのなら、あたしが無理矢理ステージに立ちたがっているのだってエゴだ。こんなボロボロの状態でのパフォーマンスなんて見たくないというファンだっているかもしれない。
それに、何よりも、
「エゴだろうがなんだろうが、緒川さんはあたし達を大切に想ってくれてるってことだろ?」
一番大切なのは、その一点だ。それだけで、あたしも翼も安心して、この人にマネージャーを任せることができる。
「……はい。ツヴァイウイングは、僕の自慢のアーティストですから」
そして、それは既に保証されているのだ。あたし達の、これまでの道程の中で。
心なしか、緒川さんの表情が少し柔らかくなった気がする。
「じゃあ、そろそろ起こしてくれる?『ただのマネージャーの緒川さん』?」
「ええ、不承不承ながら、了承しましょう」
そう言って、緒川さんはあたしの膝裏にも腕を入れ、そのまま持ち上げた。そして、肩に添えた手を支えに、膝裏の腕が抜かれる。気がついたときには、自然に立たされていた。一瞬、『お姫様だっこ』になった気もするが、照れくさいのでそれ以上考えないようにする。
立ち上がれはしたが、一応心配なので、簡易的なストレッチとライブでの動作の確認をする。ついでに、衣装に血がついていないかどうかも。
――うん、特に問題なさそうだ。
身体が動くことを確かめた後、楽屋の洗面台で顔についた血を洗い流し、口を濯ぐ。
「意外と、大丈夫そうですね」
「だから言ったろ?ちょっと血ぃ吐いて気絶しただけだって」
「でも、このライブが終わったら絶対安静ですよ」
「わかってるって、あたしもそこまでバカじゃないさ」
それはダンナや了子さんとも約束していたことだ。どのみち、『完全聖遺物』が起動すれば、あたし達の仕事も減ってくるだろうし、その間に少し休ませてもらうとしよう。
「さてと、そんじゃ翼の様子でも見に――っとその前にこれも片さなきゃな……」
床に広がった吐血の跡。知らない人が見たら、事件現場かと見間違えてもおかしくはない。
「それは僕がやっておきますよ。奏さんは先に向かってください。もう開演時間も迫っていますから」
「悪い、任せた。そんじゃ、ちょっくら行ってくる!」
翼のように掃除を押し付けるのは不本意だけれど、仕方あるまい。急ぎ足で、楽屋の出口へ向かう。そして、ドアノブに手をかけたとき、「奏さん」と緒川さんに呼び止められ、反射的に振り向いた。
「何?」
「先程は『全てを擲つことはできない』といいましたが――」
相変わらずの、掴みどころのない表情。それでも、いまなら分かる。
「もしお二人が望むのなら、僕は全てを擲ってでも、あなた達を守りましょう」
それが嘘偽りのない、心からの言葉であると。
『緒川慎次』は、こういうキザったらしいセリフを、恥ずかしげもなく言える人なんだと。
返す言葉は、必要ない。自然と溢れた笑みを緒川さんに向け、あたしはドアを開ける。
さあ、行こう。恐らくは緊張してうずくまっているであろう、もう一翼の下へ。
そして、教えてあげるんだ。
あたし達には――ツヴァイウイングには、こんなに頼もしいマネージャーがついているんだってことを。