お手柔らかに
成人男性の一人暮らしは荒れる。
何がといえば部屋が、生活習慣が、体調管理がとかまぁ様々に荒れる。
今の仕事に就いてちょうど三年、なんのことはない普通のサラリーマンよりは多少働きすぎているだけで後はいたって変わらないごくごく普通の実に平均的な働く大人だと、そんな風に自負している。
そして、現在もただただ働くだけ
眼前に積まれた書類を事務的にこなしていくだけの誰でもできる単純作業。
こんな風に言ってしまうと楽な仕事だと思われてしまうが、これが中々に根気と集中力を必要とする作業だから参ってしまう。
明日までに済ませなければいけない書類はまだ沢山あったりするので本日は終電まで帰れそうになかった。
「伊西(いさい)君」
帰りの電車の中で爆睡しようとか考えていると、後ろから名前を呼ばれた
しっとりとした大人の女性の声だ、不覚にも肩がビクリと上下してしまった。
「ごめんね、驚かせて」と申し訳なさそうに舌を出しながら謝られた、そんな仕草すらもどこか色気を感じてしまうほどにその女性には隠しきれないほどの魅力を感じる。
恋愛は惚れたほうが負けとか言うけどこの人の前ではどんな男性でも白旗をあげてしまうのではなかろうか
そう思う位には俺は声をかけられた女性に惚れている。
「いえ、なんでしょうか柚木(ゆずき)先輩」
俺が惚れた相手は俺より二歳年上の先輩だ
仕事はテキパキこなして部下の面倒見もいい上にその美貌で男上司のウケもいいらしい
この間も飲みに誘われているのを目撃したばかりだ。
当の先輩はその誘いを丁重にお断りしていた
「どう、進んでる?」
「まぁぼちぼちです。先輩はもうあがりですか」
「うんまぁね、手伝ってあげたいけどこの後用事あるからお先ね。」
用事とは、どんな用事だろうか気になる。
誰だって好きな人の用事は気になるものだろうけど、どこに行くんですか?とかもしかしてデートですか?なんて聞く勇気は俺にはない。「そうですか、お疲れ様です。」言ってもせいぜいそれくらいだ。
「じゃあね」なんて言って手を振って帰っていく先輩を見送った。
先輩には悪いけど正直あの体型とか声とか仕草を間近で感じていると仕事よりも妄想の方が捗ってしまう。
悩みの種の一つだ。告白する勇気を持たないものが下手に惚れると苦しいだけなのは知っていた
けれどそんなものどうしようもないし止められるものでもないからこのストレスを仕事にぶつけるのだ。
ただひたすらに目の前のPCにかぶり付くように仕事をこなしていった。
◇
案の定、書類が片付いたのは日付が変わる二時間前、無事に終電コースだった。
思った以上に厄介な書類も多かった上に突然社内が停電になるというトラブルにも見回られ軽いパニックにもなったりした。
俺のPCはこまめにバックアップをとっていたので軽傷で済んだものの参考資料保存用の共有PCに不具合が生じてそれの修復作業に時間をとられてしまった。
予想以上に体力と精神を費やしてしまったのか眠気がしてきた、椅子に腰かけているだけでうとうとしてしまう
俺と共に残って残業していた社員も既に帰宅済み最後は俺が戸締まりをして帰るだけとなった。
ふと、頭上の明かりが消えたり点いたりを繰り返していることに気づいた
作業中は集中していてわからなかったけれどどうやら電灯が切れているようだ
このまま帰ってしまおうと思いもしたがどうせこの時間まで残ったのだから最後まできっちりやってしまおう、自分の変な所で几帳面な性格は一度気になってしまうと夜も眠れないほどに神経を逆撫でしてくる
我ながら面倒な性格だと思う。
ここから物品庫まではそんなに離れていないというかすぐ隣が物品庫だ。
確かそこに新しいLEDの電灯があったはず
椅子から立ち上がると物音が響いた
夜も遅い静かな室内にやけに鮮明に聞こえた
おかしい、社内に残された人間は俺だけのはず
他に残業している社員はいないはずだし、清掃員や作業員などの社員以外の人間も夕方にはいなくなっている。
猫などの小動物かとも思ったけれどここはビル10階の建物の8階に位置する、窓から入ろうにも空を飛ばない限り無理だ。
ぞくりと背筋が凍った
まさか…と嫌な方向へと思考が働いてしまう
考えないように考えないようになんて頭の中で繰り返し呪文のように唱え続けるもその物音が止むことはない、
これは、もう確かめるしかない
なぜこう思ったかよくは覚えていないけど
こんな時でも俺の元来の性格は曲がらないらしい
一度気になってしまうと確認せずにはいられない。
ゆっくりと物品庫の鍵を開けて扉を開いて電気をつける。
なにもない、気のせいだったのだろうか
物音ももうしなかった
ホッと胸を撫で下ろす、信じてはいないけれど幽霊の類いの仕業である可能性も十分にある。それを考慮した上で相応の覚悟で扉を開けたのでなにもなかったというのは肩透かしの気分だ
いや、正直に言うと安心した、安心して肩の力も抜けていた。
だから物品庫のテーブルの下に隠れていた人影に気づかなかったのは俺の落ち度ではない。
「やっと開いたー‼️」
「うぇーい‼️」
びっくりした、びっくりしすぎて変な叫び声をあげてしまった。
それは、少女だった髪は鮮やかなピンク色で後ろで一本の三つ編みに束ねている、元気な女の子らしい声色と華奢な体躯が目に眩しい、おまけに顔は今まで見たことない位の美少女だ。
「どうしたの?」
おかしな奇声をあげながら尻餅をついて倒れた俺にその少女は話しかける
「だ、誰だあんた」
「ボクかい?ボクの名前はアストルフォ!シャルルマーニュ十二勇士の一人自称最弱のサーヴァントとはこのアストルフォのことさ!」
だめだ脳ミソがパニックを起こしてこの子の言っていることの半分も理解できない
「君がボクのマスターだよね?初めまして、そしてこれからよろしくね♪」
なんて言いながら元気よく俺の手を握ってきた。
うわ、なんてやわらかい手だろうか
思わず今の状況を忘れてその感触を楽しんでしまう
そりゃ今まで生きてきて女性とのお付き合いがゼロだったとはいわないさ、こんな俺にだって恋愛の経験があるし、付き合いがあれば必然と手を繋いだりそれ以上の触れ合いも経験している。
けれどこんな美少女にしかも初対面の美少女に急に手を握られるなんて経験はさすがになかった。
彼女から漂ういい香りも手伝って俺はその感触をじっくりと堪能してしまった。
「よ、よろしくお願いします。」
だから、後先考えずこんな返事をしてしまったのだと思う。魅力ある女性は男をここまで腑抜けにしてしまうのだろうか、全く似ていないけどこの子には柚木先輩にも通ずる何かを感じてしまう。
「うん、よろしくね♪」
「いや、待て待て待て!」
「なんだい?」
小首を傾げる仕草が可愛らしい
彼女の一挙手一投足にいちいち反応してしまう自分が情けない、話が全く進まないからもうなるべく彼女を直視するのは控えることにした。
「君…じゃなかったアストルフォさんはなぜこんなところにいるんだ」
彼女はその場で立ち上がりあたりを見回す
「ここってどこ?」などとそんな質問をぶつけてきた
どこかも分からず迷い込んで来たのかとも思ったけれどそれはあり得ないことだ、この会社はオートロックのセキュリティが入り口に施されているから部外者がしかもこんな未成年の少女が入れる訳がないのだ、
仮に入ってこれたとしても社員の誰かが同行しているか社員証を持っていない限りは立ち入ることは不可能に近いのだ。
とりあえずここは俺が勤めている会社だと彼女に説明してやったら「ここがマスターの職場なんだ、へぇーマスターは何をしていたの?」質問を返されてしまった
なんだかまた話を逸らされそうなのですかさずこちらの聞きたいことだけを聞く
「その前に君の身の上の話をしたいんだけれどいいかな?」
「ボクのこと?さっき説明したとおりボクはアストルフォだよ。マスターが呼んだんだからマスターが一番知ってるでしょ」
「いや…分からないな」
「ひどーい!呼び出すだけ呼び出しといて知らないふりなんてあんまりだよ!」
「待ってくれ、俺は君を呼んだ覚えなんてないぞ!そもそも君とは初対面じゃないか、こっちは今の状況さえハッキリしてないんだ。君がなぜ俺のことをマスターと呼ぶのかもてんで分からないんだ」
「え!?じゃあマスターって無意識にボクを召喚したのかい?すごいや!マスターはきっと魔術師の才能があるんだよ!」
「ええーい!次から次へとわからん単語をぶつけてくるな!お前は異世界から来た住人か!」
「ご名答!」なんて言うとこの少女は本日一番の笑顔を向けてきやがった…可愛いなちくしょう。
「マスターボクはね異世界からマスターに会うために来たんだよ!」
「わかった、お兄さんが今から病院に連れていってやるからそこでゆっくり話そう。大丈夫きっと軽い脳震盪で脳ミソがシェイクされただけだ、打ち所が良ければ明日には退院できるから、さぁ行こう。」
「マスター!」
と、そこまで言った所で彼女が大きな声をあげた。
「病院なんて絶対いかない!」
先程までの笑顔とは一変して若干怒っているような表情だった。「いじわるなこと言うマスターなんて嫌いだ!ボクはマスターのサーヴァントなんだからこれからマスターの家に帰るんだよ!」
「おい今ウチに来るとか言ったか?家出なら友達の家に行けばいいだろ、なぜわざわざ一人暮らしの男の家に転がり込んでくる」
「こっちの世界に友達なんていないよ、マスターはボクを寒空の下公園で夜を明かせって、そう言うのかい?そんなのあんまりにあんまりだよこんな可愛いボクが襲われたりしたらマスターは責任を取れるの?」
いや、ふざけるな。
責任なんてもの今の俺にあるわけないだろと反論したくなるがしかし、どうだろうか第三者からの目線から見ればこの状況は可憐な美少女が大人に捨てられるような絵にも見えなくはないかもしれない。
俺とこの少女に接点なんてない。だから責任はないというのは俺の一方的な意見であって彼女からすれば唯一の頼りだった存在から見放されたに等しい。
別に彼女から頼られた覚えも彼女が一人だという根拠もないけどあまりに懸命なその眼差しと懇願するような声色にはどうにも逆らえそうになかった。
なにより、このまま会社に置き去りにするなんて論外中の論外、愚策もいいところ休み明けに事件として取り上げられニュース番組に流されること間違いなし
[未成年の少女誘拐後勤務先の会社に閉じ込めそのまま帰宅]なんて見出しで新聞に載ることは明白。
そして、俺は社会的地位も財産も全て奪われて途方に暮れるであろうそんな未来が容易に想像できる。
もちろん俺は誘拐なんてしていない
しかし、この少女が少しでも発言してしまえばそれが決定的証拠になるのだ。世の中というのは常に女性よりも男性が損をするようにできているのは十二分に理解している、なにが男女平等だと文句を言いたくなるのも仕方ない程に。
「仮にお前を俺の家に招き入れたとしてお前はそれでいいのか?」
「どういうこと?」
こいつ本気で分からないみたいな表情をしていやがる
「…つまりだな…女が男の家に泊まるっていうのはもしかしたら間違いが起きるかもしれないということで、いやもちろん俺にそんなつもりは一ミリもありはしない、そこは間違いないんだ…だが、万が一の可能性で俺が一夜の過ちを犯してしまう可能性も考慮した方がいいというかだな…」
なんだ?俺はなぜ語るごとにボリュームが下がっているのだろう、自信がないからか、それはなんの自信だ?過ちを犯さない自信か?異性に我が家を見られるのが恥ずかしい故の羞恥心か?段々と混乱してきた、自分で自分の精神状態がわからないらしい。
「大丈夫だよボクはマスターのサーヴァントなんだからマスターがボクに何をしたって咎めたりしないさ♪」
いや♪を付けながらするような発言ではない
何をしてもいいってことはあれだぞ、ナニをしてもいいということにもとられかねない発言なんだぞ、決してお前みたいな可愛い美少女がしていい発言ではないんだ、美少女だからこそ萌えるとかいう意見もあるかもしれないが実際に言われると生々しさが凄すぎてもはや危うさしかない。
「お前自分でとんでもないこと言ってるの理解してるのか?一歩間違えたらそういう趣味の人だと思われるくらいの発言だぞ」
「マスターがなんの心配してるのか全く分からないけどきっと大丈夫だよ!」
「分からないくせに軽々しく大丈夫なんて口にするな!根拠のない大丈夫ほど大丈夫じゃない案件はないんだぞ!」
「大丈夫だよ絶対!」
「いやいい、お前と押し問答するつもりは毛ほどもないんだよ、疲れるから」
「ひどっ!マスターって結構毒舌なんだね」
毒舌で結構。
元々人付き合い自体そこまで好きじゃないから困るもんでもないし
「聞いてマスター今大丈夫だって証明するから」
言いながら俺の手をとる、再びやわらかい感触。そのまま彼女は俺の手を自分の胸に押し当てた。
控えめどころかまっ平らな胸の感触がした、その感触が手から脳へと伝わった瞬間にとんでもないほどの絶望感とえもいわれぬ幸福感を同時に味わうようななんかよくわからない感情が俺のなけなしの理性を揺さぶる。
すぐに胸から手を離すべきだった、それは頭で理解しているのに彼女の甘美な誘惑は俺の判断力を鈍らせる、
「ほらね。」
「アストルフォさんがなにをしたいのかわからないんですけど。」
気づけば敬語になっていた。
向こうから触らせてきたとはいえ罪悪感みたいなものは一応感じているので言葉遣いだけでも下手にでようという浅はかな思案ゆえの敬語なんだと思う。
「平らでしょ」
どや顔で言われてもなぁ、そうですねなんて言えない
「いや、ですからなにが言いたいのかよくわからないんですけど…」
「だーかーらー」スゥっと一呼吸置いて彼女は口にしたのだ、予想外なことだらけだった一日だったけれどある意味今日一番の衝撃を受けた発言を俺はこの後耳にする。
「ボク男だから♪」
頼む夢なら覚めてくれ