目に入ってくる白い光に辟易した感情が湧き上がる。
溜息を吐く。どうやら眠ってしまっていたようだ。
ずっと夢の世界ならどれだけ楽なことか……、悪夢でさえ刺激になってくれるのだから。
眠っている時だけ、私は暗闇を手に入れる、夢を手に入れる。光以外のものを手に入れることができた。
けれども残念ながら、ここが私の現実だ。
どこまでも続く白い世界。
……ただそれだけ。
ここは光以外のものが存在しない、気の狂いそうになるくらい何もない場所であった。
いや、気などとうに狂っている。
ただのあざらしが、こんな狂った世界で、自我を保っていられることがおかしくなくてなんなのだ。
記憶はとうに擦り切れ、ここに来る前のことは何も思い出せず、
同じような日々の繰り返しで昨日のことすらも覚えていない。
『私』という概念すら既に危うく、
こうやって無為に思考をめぐらせていなければ、すぐにでも消えてしまうだろう。
身体は老いることなく存在しているが、如何せん何にも触れることはできない。
一切の刺激から遮断され、真っ白で広大な宇宙空間に漂っているようなものなのだ。
できることはただ、思考することだけなのだ。
だから意地になって、必死になって思考を積み重ねる。
私は生きなければならない。生き続けなければならない。
――どうして?
疑問は尽きることがないけれど、これだけは譲れない絶対だった。
それがあるから私は思考を重ねて、己を保ち続けることができたのだ。
だから、きっと「生きる」というのは過去の私が決めたルールのようなものなのだろう。
いつから其処に居たかなど、あざらしたる私には理解できない。
理解の範疇を超えるだけの歳月を重ねたことは漠然と理解できる。
どうして其処に居るかなど、とうの昔に忘れてしまった。
ただ、誰かの機嫌を損ねて其処に幽閉されてしまっているような気がする。漠然と。
誰に、どうして、なんて考えても見るけれど、ただのあざらしにここまでの封印を施すのだ。
たいそう酷いことをしてしまったに違いない。
後悔の念は既に消え、ただひたすらに時を積み重ねていた。
恨みや絶望も、とうに捨て去った。
自我さえ失われ、漫然と満ちた光に意識が溶けようかという頃、変化が起こった。
ただの海獣であったあざらしに霊力が宿ったのだ。
いつか誰かから聞いたことがある。
千年を生きた動物は、霊力を帯び神獣として生まれ変わるのだとか。
――あぁ、それを教えてくれたのは誰だったか。
ズキリと胸が痛む。大切だったはずの記憶も、既に亡い。
古来より、妖力や霊力を得た動物は人の姿を取ることが多かったのだという。
彼らは時に人を騙し、時に人を助け、また娶られたりと、人々との交わりを語り継がれている。
人の姿か……。
暇を潰すにはちょうどいい。
念じる――己の霊力に命じ、身体を再構成していく。
霊力と魔力はそう大差ないものであった。
なれば、私にそれを扱えぬ道理はない。
思い描いた姿は、記憶のずっと奥深く、
気が違って、それでも残されていた憧憬のままに。
白いローブを着流し、緑色の髪をした女。
胸の痛みに涙が出てくる。彼女は誰だった? 私は誰になろうとしている?
ここに鏡はない。
けれど、その姿をもう一度眺めたくて……
霊力を張り、己を映す鏡を作る。
――あぁ、そんな泣き顔は彼女には似合わない
もっと、こう、不敵に笑みを浮かべて。
そうだ。左手はいつだって何かを叩くようにペシペシと……
記憶が走馬灯のように蘇ってくる。
* * * * *
「バカやろう!!」
怒号が館に響き渡る。
けれど、私は引き下がらない。
激高した顔は紅に染まり、緑色をした長髪は逆立っている。
彼女は、私の大切な人だった。
館を取り囲む人間は、およそ三百。
誰しもが武器を携えて、話し合いという雰囲気ではない。
誰しもが緑の女の最期の時だと考えていただろうし、彼女自身もまた、そう考えていた。
彼女は人間に危害を加えることの一切を封じられている。
故に、今この場では無力だったのだ。
だから、私が……。
「お前に何ができる」
館の入り口に仁王立ちした(つもりの)私に魔女が手を伸ばす。
「お前はただのあざらしなんだぞ」
いいや、違う。私はただのあざらしではない。
うめき声をあげながら身を捩り、彼女の束縛から脱する。
「お前が居なくなってしまったら、私はまた一人に……」
寂しそうに女がつぶやく。
こんな因果や館やあざらしに縛られる必要なんて、彼女にはない。
だから、もういいんだ。彼女が人として生きていったっていいんだ。
あなたは十分に孤独を味わった。
キュウ。
そう声をかけて、再び扉の前に陣取る。
せめて、あなたが逃げる時間だけでも稼げるように。
「本当にバカだよ。お前は……
私はもう十分すぎるほどに生きて、そしてお前にたくさん救われた」
女の身体が光始める。
魔術の詠唱だろう。それは人を害することができないのだから、その対象は……。
「許さんよ。許してなどやるものか」
女の手が再び私を抱き上げる。
愛おし気に私の名前を呼ぶと幾重にも祝福を重ねた。
「だから今度は、私がお前を救う番だ。
けれども私の力は、そんな優しいものではない。お前を助けるような代物ではないんだ」
涙が彼女の頬を伝う。
ぽたぽたと、私の頭に降り注ぐ。
「これは呪いだ。千年の呪い……」
女はぽんぽんと、優しく私の頭を叩く。
ダメだ。私は彼女を守らなければ……。
抗議の鳴き声を上げたものの、彼女の詠唱は止まらない。
「私を恨め。そして、末永く生きて生きて生き抜いて、いつか私を超える魔法使いになっておくれ」
それは純然たる孤独の彼女にしか扱えぬ魔術であった。
私は彼女の織りなした牢獄に捕われたのである。
緑の女は魔女であった。
そして私は、魔法使いの弟子であった。
涙が止まらない。
こんなあざらしを、弟子にしてくれた彼女もまた、孤独に狂っていたのだろう。
* * * * *
全部思い出した。
改めて霊力の鏡を見つめる。
私はこれからどうすればいいのだろう……。
師に問いかけるも答えは返ってこない。
左手で虚空を叩く。
……そこに私はもう居ない。
この世界に彼女はもう居ない。
涙が零れた。
一体どれだけの時が流れてしまったのだろう。
きっと世界は、彼女を忘れ去ってしまっているに違いない。
けれど、忘れたのなら思い出させてやればいい。
思わず笑みが漏れる。
あぁ、一切違わぬ彼女の笑みだ。
少しだけ嬉しくなり、歩を進める。
結界など、もはや造作もない。
彼女の魔術理論は頭に叩き込まれてある。
それを為す力もある。
私はただ手を出して、扉を開くだけ。
この檻から……外へ……。
「本当にお前は、どうしようもなくバカな弟子だね」
そんな優しい声が聞こえたような気がした。
ぽんぽんと、頭を叩く柔らかい手の感触とともに。