あるポケモントレーナーと、その相棒のピカチュウの最期の日の話。
※その類のものが苦手な方・不快な方は閲覧をご遠慮ください。
その日、彼がフィールドに姿を見せたその瞬間から、その試合が彼にとって特別な意味を持つことに気づかない者はなかっただろう。
ちょうど、トレードマーク、というよりもはや象徴というべきそれを欠かした彼を見た者が、未だかつてなかったように。
スタジアムを吹き抜ける風に揺れる黒髪に、敵地アウェイでありながら過半数を占める観客席の赤い帽子がどよめいた。
しかし、それは負の象徴などではなく、むしろその逆だった。
試合終了後、一様に脱帽した彼らは、興奮冷めやらぬままに口々にまくしたてる。
対戦相手の地元のチャンピオンを、一度の見せ場も与えずに圧倒した、いつにない気迫と勢い。
それはまさに、生ける伝説であった、と。
◇
上着の右ポケットに忍ばせていたギアが震えたのは、試合終了後、フィールドから控え室へと戻る通路の途中だった。
等間隔で発せられるその低い唸りを数回聞き送った後、彼は意を決して通話のボタンを押し、それを耳に当てた。
「レッド。おつかれさま。」
耳に届いた母の声が、心臓を鷲掴みにした。
ギアを耳に当てる手が小刻みに震え出す。
「・・・・・」
返事がないことで彼の心中を察した母が、鼻を啜りつつ湿りきった声で続けた。
「あなたの思い、きっと、ピカちゃんにも届いたと思うわ。」
その一言で、彼は全てを悟った。
来るべき時が、来たのだと。
◇
十時間近い夜間飛行を経て着いたマサラタウンの実家は、近隣の家々の中で唯一明かりがついていた為に、上空からでもすぐに分かった。
「おかえりなさい。」
玄関で出迎えてくれた母は、深夜にも関わらずまだ寝間着ではなかった。その足元には、彼女の可愛がっているニャースが悲しげな表情で寄り添っていた。
「ただいま。ニャースも、ただいま。」
レッドはしゃがんで母の足元のニャースの喉を撫でた。そしてそのまま顔を上げると、言葉の代わりに目で母に訊ねた。
その意図を汲んだ彼女は、小さく二度頷き、彼をリビングに連れて行った。
こっちにいるわ、と。
掃除の行き届いたキッチンに、見慣れた食卓。
そして数時間前にレッドの試合を映していたであろうテレビの前に置かれたバスケットの中に、彼はいた。
明るく暖かな光の下で見るその顔は本当に安らかで、まるでただ眠っているだけのように見えた。
「今朝早く、
そうして彼女は、息子の立ち会えなかった彼の相棒の最期を話して聞かせた。
ニャースはピカチュウのいるレッドの部屋へ自分を連れて行くと、肩で呼吸をし始めていた彼に寄り添うように座り、そこから離れようとしなかったこと。
ピカチュウをバスケットから膝の上に抱いてやると、嬉しそうに尾をわずかに揺らせたこと。
その十五分ほどの後に、眠るように息を引き取ったこと。
そしてその最期の瞬間まで、レッドが置いていった帽子を離そうとしなかったこと。
「・・・・そう。」
うん、うんと母の話を聴く内にこぼれ始めた涙は、すぐに溢れかえって、手に抱えた小さな黄色い身体に滲みていった。
その身体に彼の知る温もりは既になく、代わりに驚くほどの冷たさが、命あるものの宿命を突きつけていた。
分かってはいた。
覚悟もしていた。
長く苦しまずに逝けてよかった。
だれがなんと言おうと、間違いなく幸せな生涯だった。
悲しみを和らげるために用意していたそれらの拠り所は
むしろ、気持ちをごまかさず心のままに涙を流しつくしたかったし、自分はそうしなければならないと思った。
自分は彼の死を世界で一番悲しまなければならない。
「もう、寝るよ。」
涙が少し落ち着いたところで、彼はわずかに笑顔を作って母に向けた。
「母さんももう休んで。看取ってくれて、本当にありがとう。ニャースもありがとうな。最期がひとりぼっちじゃなくて、こいつもきっと嬉しかったと思う。」
そう礼を言われても、ニャースは悲しげに喉を鳴らすばかりだった。そんな彼を抱き上げ、母はレッドとピカチュウを階段の下まで見送った。
「おやすみなさい。ピカちゃんも、ゆっくり休んでね。」
自分の部屋に入ると、レッドはピカチュウを自分のベッドに横たえ、自分は床に腰を下ろした。
そうして、その安らかな顔を同じ高さで見つめながら、彼と共に生きた歳月に想いを馳せた。
◇ ◇
「こら!どうしておまえはそうボールを嫌がるんだ!」
まったく、とんだでんきねずみだった。
生意気でいたずら好きで、怖いもの知らずの負けず嫌い。
その上、モンスターボールに入らなければ進化も許さない。
出会った頃は頭と胃の痛まない日はなく、他のトレーナーが連れている普通のピカチュウを目にする度に、なぜよりによってこんなくせ者が自分に当たったのかと恨めしく思うほどだった。
しかし、やがて彼は気づく。
彼が、自分と対等な関係を
また、彼のために苦労して手に入れたかみなりのいしを使おうとした時は、素っ気なく尾で叩き返された。幸い石は無事だったが、代わりにレッドの額が割れた。
「進化をすれば、今よりもっと強くなれるのに。何がそんなに嫌なんだ?」
そう訊ねても答えてはくれず、それどころかその日は彼に近寄ろうともなかった。
しかし翌日、何事もなかったかのように彼が肩へと乗ってきた時、一昼夜ぶりのその心地よい重みに、はっとした。
「・・・もしかして、これが理由なのか?」
やっと分かったか、と言わんばかりに鼻を鳴らした彼とは対照的に、自分は込み上げるものに鼻をすすらなくてはならなかった。
いかなる強敵にも臆さず先陣を切る、あの小さな黄色い背中。
そんな彼に追いつきたくて、置いていかれたくなくて、夢中でポケモントレーナーの階段をかけ上がった。
そうして気が付いた時には、チャンピオンもレジェンドも、とうに通り過ぎていた。
◇ ◇ ◇
「寿命だよ。」
原因不明の緩やかな不調に対するその診断に、レッドは耳を疑った。
確かに、彼とはもう自分の人生の半分以上もの月日を共にしている。が、それでもまだ種としての平均寿命には折り返しにも達していないし、毛づやや瞳にも老いの気配はない。
にわかには受け入れがたいその結果を、しかし医師は当然だと言った。
「ボールで休むこともなく、その上進化もせずにこれだけの年月、世界の頂点に立ち続けてきたんだ。むしろ、この小さな身体でその負担にここまで耐えてきたことが奇跡なぐらいだよ。」
頭と目の前が真っ白のまま立ち尽くすレッドに、でもまあ、と医師は小さな黄色い頭を撫でながら続けた。
「こいつにとってはきっと、これが天から与えられた寿命だったんだ。悔いなんかあるはずがねえよ。だから、おまえは責任を感じるな。」
◇ ◇ ◇
身体の衰えが進み、マサラの家でレッドの母と余生を送るようになってからも、彼が主人の試合の映像を見ない日はなかった。
調子の良い日にはまるで自分がその場で彼とコンビを組んでいるかのように『でんこうせっか』でリビングを跳ね回り、それでも満足しなければ同居のニャースにちょっかいを出して喧嘩を始め、家の中をひっくり返しては母を困らせた。
そうして、バトルフィールドを去ってなお、彼は戦えなくなった自身の身体と闘い続けていた。
◇
「もういい!もどれ、ピカチュウ!」
そんな彼の最後のバトルを思うと、今も胸が締め付けられる。
一週間前の天気の良い日に、彼の故郷のトキワの森へと連れていってやった時の事だった。
戦闘はすでにドクターストップがかかっていたが、彼はいうことをきかなかった。
相手はごくふつうの、野生のポッポ。しかし、既に電気を溜めることも放つこともできず、足の筋力も衰えて駆け出したそばから転んでしまう彼にとって、もはや戦える相手ではなかった。
「分かったから。もう、分かったから──」
彼が何度転んでも起き上がって立ち向かおうとするその理由を、レッドは知っていた。
トキワの森のポッポ。それは、かつて彼らが初めて捕獲に挑んだ相手であり、そして失敗した相手だ。
「
抱き締めた。
もはやレッドの腕をすり抜ける力さえない彼の現状を思えば、それは当然のであった。それでもなお、彼を勝たせてやれない自分がポケモントレーナーとして情けなかった。
レッドは決意をした。
一週間後に異郷で行われる、各地方の頂点同士のトーナメント。
世界同時中継のその場で、彼に教えられたポケモントレーナーとしての全てを出そうと決めた。
そうして、最高の試合を彼に贈ろうと。
そこまで思いを巡らせたレッドは、目を閉じ、胸の中で語りかけた。
ねえ、ピカチュウ。
ぼくがきみのためにやろうとしたことの大概は、ただきみの機嫌を損ねてしまうだけだったから。
だから、あんな戦いじゃダメだって、やっぱり自分がいなきゃって、きみはそう思ったかもしれないけど。
でも、それならまた、きみに納得してもらえるまでぼくは何度でも挑戦し続けるから。
「だから、きみはもう眠らなくちゃ。」
モンスターボールに入りたがらなかったきみがくれた、モンスターボールに入りきらない夢の続きをまた一緒に見られるように。
レッドは立ち上がった。
そしてその小さな身体を抱いて床に入ると、溜まっていた涙を瞬きで落としてから目を閉じた。
「おやすみ、ピカチュウ。」
ありがとう。
ありがとう。