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開戦から6日目、誰の目から見ても決着はついていた。
当事者の一方であるソ連を除いて。
――朝鮮戦線(D-Day+5)
樺太戦線に於ける樺太共和国軍の活躍を聞いた朝鮮共和国軍司令部は、彼らに出来て我らに出来ぬ筈なしと自衛隊側に強く上申する。
政治的な判断もあった。
義勇兵も集まる国民の戦意、民意を無下には出来ないという判断であった。
この要請に日本政府は最初は渋ったものの、元々が自衛隊による反撃行動自体は予定されていた為、最終的には朝鮮共和国軍の参加を受諾。
開戦6日目(D-Day+5)に反攻作戦が実施される事となった。
全域で圧力を掛けつつ、反攻部隊がソ連軍左翼からの突破と機動によって後方分断による補給線の破壊とソ連軍の士気低下、そして包囲を図る事が目的とされた。
先鋒は第12普通科連隊を基幹とする連隊戦闘団であった。
これに朝鮮共和国軍1個師団が追従し、戦果の拡大を図るものとされた。
作戦開始は6日目の夜明け前。
人の一番集中力に乏しい時間を狙っての攻勢であった。
日本側の反攻作戦にソ連は抵抗出来なかった。
4日に及んだ爆撃で燃料弾薬を焼き尽くされ、指揮系統も寸断され尽くしたソ連軍には抵抗する余力どころか意思すらも消滅していた。
これがソ連領内での、ソ連防衛戦であれば話も違ったであろうが、これは侵略戦争である。
その上で圧されてしまえば戦意を維持する事など不可能であった。
ソ連軍朝鮮戦線司令部は、部隊の壊乱を恐れてモスクワの了解を得る前に独断で撤退を決定(※1)。
だが、全てが遅かった。
疲弊し果てていた将兵は、接敵しても碌な抵抗も出来ぬままに打ち倒されていった。
余裕のあった部隊は投降を選択したが、それが出来たのは極々限られた部隊だけであった。
開戦6日目にして、朝鮮戦線は終息した。
――オホーツク海航空戦(D-Day+5)
報道の行われている地上戦や、派手な船団消滅のあった洋上戦に比べて航空戦は地味ではあった。
だがソ連に対する痛打と言う意味では一番に大きな影響を与えていた。
グアムに駐留していた米国インド太平洋軍の爆撃機による、ウラジオストクを筆頭とするソ連の全ての港湾に対する爆撃とシベリア鉄道の駅や橋、そして物資集積所への容赦の無い爆撃が実行されたのだ。
ソ連も抵抗しようとするも、高射砲も航空機も届かぬ高高度の爆撃機に対応する術など無かった。
ソ連の極東経済は枯死しつつあった。
冬が入る前に何とかして欲しい。
その声が強い調子で上に上げられていった。
――モスクワ(D-Day+6)
日本との戦争の趨勢は、このモスクワで政治的な問題を引き起こした。
戦争を主導したスターリンに対するトロツキー派の反抗である。
スターリン自身の戦争指導能力に対する深刻な疑問符が付く事になった為、ソ連の指導者としての適性が問われる形となったのだ。
こうなっては戦争どころでは無くなってくる。
スターリンは日本との講和の道を探る事となった。
――樺太戦線(D-Day+7)
ソ連軍を撃退し、国境線を回復した自衛隊と樺太共和国軍。
戦前からの予定として樺太北部への侵攻は行わない予定であったが、ここで樺太共和国軍の連隊長が暴走する。
撤退するソ連軍を追撃しながらソ連領内に意図的に進軍したのである。
自衛隊の支援を受けない自動車化されただけの歩兵連隊であったが、既に壊乱と壊走状態のソ連軍では抵抗しきれず、たった1日の戦闘で戦線を北部側40㎞から押し上げる事に成功したのだ。
色を塗っただけの民生用の車両を装備しただけの部隊であったが、その機械的信頼性の高さが、これを成功させたのだ。
戦功を誇って報告した樺太共和国軍連隊長は、その絶頂を噛みしめる前に連隊長の座を即座に解任され、自衛隊の警務隊によって拘束された。
軍律違反の罪である。
参謀団も、事情聴取を行って侵攻に寄与したと判明した者は、残らず捕縛していった(※2)。
この素早い行動と、その詳細を包み隠さずに公開する姿勢に、観戦武官たちは日本の国家が民主主義であり法治国家であるという事への強い意志を実感した旨、本国へと報告していた。
その後、全部隊は国境線まで後退する事となる(※3)。
――終戦(D-Day+25)
樺太の陥落とモスクワの政治的混乱から、流石のスターリンも停戦を決断した。
中立国であり、ソ連に対して友好的であり同時に日本とも関係のあったフランスを頼っての事だった。
この講和要請に日本は乗り、戦争は終結する事となる。
講和会談の場所は、パリにて行われた。
日本は講和の条件として戦争首謀者の処分、戦費賠償、戦場となった国土の原状回復賠償、樺太北部の割譲(※4)、オホーツク海での日本の優先権の承認を求めた。
この屈辱的内容をソ連は受け入れた。
1つは、樺太北部で発生した事がシベリアに広がる事を危惧したのだ。
又、早期に日本との講和を行う事で、国内の政治闘争に全力を投じられるだけの環境をスターリンが欲したのだ。
いみじくも、世界大戦時にレーニンがドイツ/独国との講和を纏めたのと同じ状況であった。
これにより、日本ソ連戦争は終結する。
その戦闘期間から別名、1週間戦争と呼ばれた。
(※1)
情報の伝達が困難というのも大きかった。
補給路としても利用できる陸路は破砕され、通信に電波を出せばミサイルが叩き込まれ、物資の集積所は真っ先に燃やされた。
天幕や人の集団が見かけられれば爆弾が降って来る。
炊事に火を焚けば爆弾が降って来る。
何もなくても、何処かには爆弾が降って来る。
食料は無く、睡眠も満足に取れない。
この様な状況で即時、適切な連絡など出来る筈も無いというのが実情であった。
司令部ですら既に満足な食事を得られなくなっていては、将兵に献身を求めるなど出来る筈も無かった。
ただ1つ、モスクワを除いて。
(※2)
この行為に参謀団では日本は戦争に勝つ気があるのかと気勢を上げ、それどころか余勢をかって樺太全土の掌握を訴えたが、日本側はこれを一顧だにしなかった。
現地部隊の暴走による戦争計画の崩壊、そして望まぬ永続的な戦争こそを恐れたのだ。
部隊の士気低下が生み出す問題よりも、それを日本政府は恐れた。
この果断な行動と、嘗ての関東処分によって、尚武の気風こそ残ったが日本帝国陸軍の持っていた独断専行を是とする空気 ―― 将校は絶滅した。
(※3)
部隊の国境線への後退は、クレムリンに「日本は平和主義を標榜するので、これ以上の戦争は出来ぬ軟弱な国家である」という誤った認識を与える事になった。
日本は単純に、樺太北部への進軍と統治のコストが割に合わぬと言う判断であり、同時に、包囲し補給路を断つ事で干上がらせれば良いと言う判断をしていただけであった。
この判断の誤りが2週間に及ぶ戦争状態の継続 ―― 即ち、樺太へ物資や人員の補給を行い、戦争状態を継続する事で日本からの譲歩、講和の話を持ち出させようと努力する事となった。
その結果は、樺太へと物資を運び込もうとした極東のソ連船舶の消滅、樺太住民が飢餓状態となりソ連への忠誠心の消滅に繋がった。
事前に備蓄していた樺太内の食料燃料その他は、尽くが在日米軍爆撃機に焼かれていたのだ。
飢えを前に抵抗出来る筈も無かった。
開戦から20日目、樺太北部はソ連軍指揮官と共に、日本への降伏を決断する事となった。
(※4)
樺太北部は、本来、ソ連への返還予定であったが(これをスターリンの政治的得点とさせる事で、講和の成立を狙っていた)、樺太の住人とソ連軍俘虜がこれに反対。
日本、千島共和国への参加を訴えて来たのだ。
スターリンへの恐怖と共に、占領下に入って以降の日本から齎された食料と物資に心を奪われた事が原因であった。
更には、千島共和国と言うロシア系国家の存在も心強かった為でもある。
これには日本側も想定外であった為、慌てる事となった。
2019.05.01 誤字修正
2022.10.18 構成修正