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東アジアに比べて平和にまどろんでいた欧州であるが、戦争の足音は少しづつ響いていた。
――ポーランド
1920年代より行われたフランスの支援による重工業の育成は、軌道に乗りつつあった。
工場の設備などは、設備更新を行っていたブリテンからの輸入によって近代化が出来つつあった。
その成果が1932年に完成した国産戦車10TP(※1)であった。
無論、10TPの完成によって1足飛びに機械化戦力を保有出来る様になったという訳では無い。
依然としてポーランドは欧州に於いては中進国でしか無い為、歩兵が戦力の主力であり、輸送部隊は馬車が中心であった。
とは言え、それはポーランドのみならず、他のヨーロッパ諸国も一緒であった。
日本に感化される形で、自動車化を推し進められたのはブリテンとフランスだけであった。
政治的には、対ドイツを前提としたソ連との不可侵条約の締結に成功した。
在日波大使館からの情報で、隙を見せればソ連は攻めて来る相手であると認識はしていたが、先にフランスや周辺国と一緒にドイツを叩いてしまえば、全力で抵抗出来ると言う計算があった。
――ソ連
5ヵ年計画によって国力の涵養には成功しつつあった。
とは言え、5ヵ年計画の資金源として農作物の飢餓輸出を行った為、穀倉地帯であるウクライナは荒れ果てていた。
無茶な増税によってシベリアは人民が逃げ散り、又、日本とアメリカによる浸食を受ける有様であった。
それでも尚、ソ連は強大化した。
ドイツとイタリアの協力によって、重工業が長足の発展をする事となった。
日本が満州や沿海州などで使用している耕作機械や土木用重機などを参考にした機材を開発し、人口の減ったウクライナなどへ投入し、生産力を補った。
シベリアの開発も、日本やアメリカの利益にもなっていると思えば業腹ではあったが順調であった。
ポーランドとの不可侵条約の締結もあり、軍事に投じる予算を抑えられている事が、この好循環を生んでいた。
軍事費を抑えているとは言え、スターリンは屈辱を受けた日本ソ連戦争を忘れてはいなかった。
日本への報復を誓っていた。
10年後をめどに軍事力を高め、日本をソ連の大地から追放する積りであった。
そうすれば日本が開発し沿岸州が生んでいる利益は全てソ連のものとなる。
併せてアメリカを追放すれば、ソ連は黄金のシベリアを手にする事が出来るのだ。
その為の重工業の発展、科学技術の育成なのだ。
不可侵条約を締結したポーランドなどの小国は、シベリアを回収した後に滅ぼせば良いと判断していた。
だが上海事件で日本軍(自衛隊)の実戦力を把握したスターリンは顔色を変えた(※2)。
10倍以上の戦力比をひっくり返すだけの力を自衛隊が持っている事に戦慄した。
特に、大口径砲を愛するスターリンは、自国の戦車を遥かに凌駕する大口径砲を搭載した重戦車、31式戦車に嫉妬した。
同時に、自国の戦車が31式戦車に及ばない事に激怒した。
ここから31式戦車を超える重戦車の開発が命令された。
――ドイツ
南チャイナの凋落は、ドイツの商機拡大の好機であった。
上海市で壊滅した戦車の代替を売りつける好機であった。
ヘリコプターの脅威は航空機を売りつける好機であった。
戦車をもっと揃える為に重工業のプラントを売りつける好機であった。
大商いとなり、対価として植民地 ―― 青島が租借地としてドイツの手に戻ってきたのだ。
政権を取ったばかりのナチス党にとっては、望外のご褒美と言える事態であった。
ナチス党とアドルフ・ヒトラーの支持率は極端に跳ね上がる事となった。
だが気持ち良くしていられたのもそこまでであった。
31式戦車の登場と、それが波及させた事態に衝撃を受ける事となる。
ポーランドの10TP戦車は、現時点でドイツの持つ全ての戦車に優越しており、問題視された。
反ドイツ的言動と国家戦略を隠しもしないフランスが、31式戦車を200両導入する事を日本に持ちかけた事は国防への深刻な問題だと認識された。
フランスの影響を受けてイギリスも31式戦車100両の購入を検討し、同時に日本へと合同で30t級戦車の開発を持ちかけた事に至っては、極秘に進められていたドイツの再軍備計画に深刻な影響を与える事となった。
ドイツが将来の主力と定めていた戦車(※3)を凌駕している為、改めて陸軍の再軍備計画は検討し直される事となった。
――フランス
上海事件の戦訓を得たフランスは、日本に対して31式戦車200両の購入を打診する(※4)。
4個大隊と予備車両として2個師団を編制。
来る対ドイツ戦争に於いては、決戦部隊として活躍させる積りであった。
だが同時に、購入交渉が長引く事を想定し、31式戦車の影響を受けた20t級戦車の開発に着手する。
これは在日仏大使館からフランスへ帰化した従軍経験者からのアドバイスでもあった。
第2次世界大戦の記録を元に説明した。
40t級の重量がある戦車は運用に注意が必要である為、20t級のバランスの良い戦車が主力であった方が良いのだと。
この為、20t級戦車の開発がスタートした。
――イギリス
31式戦車の戦闘力は上海で把握してはいたが、当座、日本と事を構えるべき状況も発生しないであろう事から、購入を検討するほどでは無かった。
フランスが購入希望を出すまでは。
日本がタイムスリップして来て以降、フランスとも良好な外交関係を維持しては居たが、海を隔てているとはいえ隣国が31式戦車という強力無比な戦車を配備しようとする事を座視する訳にはいかなかった。
その為、とりあえず100両の発注を行う事を決意する。
同時に、日本に対して共同での戦車開発を持ちかける事となる。
フランスに比べて、陸戦への緊迫感が低い為(※5)、イギリスの戦車開発能力の向上を図る余裕があったのだ。
但し、日本からの貿易対価としてインフラ更新が行われ、重工業の劇的な近代化が図られていた為、新戦車はヨーロッパ諸国の保有する戦車を一気に陳腐化させる重戦車 ―― 30t級戦車として開発する事を計画した。
(※1)
10TPとはポーランド軍10t戦車の意味であった。
日本ソ連戦争に派遣した観戦武官が報告した日本の10式戦車の概念を研究し、走攻防のバランスの取れた戦車として開発された。
重量は14.2t、主砲は32口径47㎜砲が採用されている。
車体はボルトを使用せず、溶接が採用されている。
1930年代前半の戦車としては極めて先進的な戦車として完成したが、先進的過ぎるが為にポーランドの国力では大量生産が困難となってしまった。
この為、より使いやすい戦車が求められ、7TPが開発される事となった。
所が7TP戦車の設計途中で31式戦車shockが発生した。
上海事件で31式戦車の傍で闘ったフランス軍が纏めたレポートが手に入ったのだ。
概念だけでは無く、実戦で示した100年先の戦車の能力は、一夜にして10TPも7TPも陳腐化させてしまった。
この為7TPの開発は中止され、戦闘重量25tの25TP開発が指示された。
併せて、25TPが量産できる様な国力増強計画が立てられた。
尚、10TPに関しては、現時点で本戦車に対抗出来る戦車が存在し無い為、生産性を高める改良を施した上で量産が指示された。
(※2)
日本ソ連戦争の際には一方的に軍が壊滅した事と、壊滅後にソ連へと帰還した将兵が極々限られていた為に殆ど戦訓は得る事は出来ずにいた。
この為、列強のマスコミが様々な情報を収集し発信した上海事件が、ソ連が自衛隊の戦闘力の詳細に触れる機会となった。
それ以前にスパイを通して日本ソ連戦争の情報を収集してはいたが、余りにも荒唐無稽な戦闘力を自衛隊が発揮して居た為に信じ切れなかったのだ。
シベリアの経済を破壊した航空戦力だけでは無く、陸上戦力も規格外であるとソ連は初めて理解したのだ。
(※3)
ドイツ陸軍は、ヨーロッパのインフラ事情から戦車を運用する上では15tが適切に運用する上限であろうと判断した。
その上で諸外国の戦車に優越するものとして20t級の戦車開発を検討していた。
その判断は、工業力に劣るポーランドが開発した戦車が10t級(実際には15t級であるが、この事は公表されてなかった)を開発した事で裏打ちされた。
イギリスの30t級戦車開発計画で、この目論見は完全に破綻するが。
(※4)
日本にとって31式戦車は邦国軍向けの、整備性が良く、高度過ぎる技術は使っていない第2.5世代戦車であった。
輸出など最初から検討していなかった。
この為、フランスからの熱烈な売却要請に困惑する事となる。
その後に入って来たイギリスからの売却要請にも頭を抱える事となった。
(※5)
フランスでは、ドイツでナチス政権の発足と共に早晩に再軍備を宣言するだろうと判断していた。
この為、対ドイツ戦争の勃発は5年以内となるであろうと、準備活動に拍車を掛ける事となる。
2019.05.15 誤字修正
2022.10.18 構成修正