025 シベリアの冷たい夏
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5ヵ年計画によってその国力を増しつつあったソ連は、シベリア ―― 沿海州周辺に於けるイニシアティブを日本やアメリカから回収する事を考える様になった。
日本ソ連戦争の終戦協定で定められた賠償金相当額の採掘期間が終った訳では無かったが、ドイツの支援によって拡大しつつあるソ連の重工業が鉱物資源を自前で消費出来る様になってきたのが理由として大きかった。
日本に対しソ連は、沿海州での特別採掘権と企業活動に於ける特別待遇の廃止、そして日本とアメリカとが採掘等の経済活動を円満に行う為に整備した設備や周辺インフラの所有権をソ連に無償供与する事を要請した。
無法と言ってよいソ連の要請に対して、当然ながらも日本は拒否する。
――ソ連
沿海州権益の回収交渉に於いてソ連が日本に対して強気で交渉に出られた理由は、日本の軍事力の混乱があった。
連続した戦争によって日本は国力を消費し過ぎてしまったのではないかと、ソ連上層部は認識し判断したのだ。
この判断には、上海事件以降に自衛隊や連邦軍の全てが再編成に入っており、演習などが不活性化している事も影響していた。
そして、この数年で竣工予定の日本の35,000t級戦艦の存在が大きかった。
現時点でもオホーツク海どころか日本海すらもソ連の海上優位性は失われつつあり、その状況下で新戦艦が登場されては日本へ抵抗する事は不可能となるとソ連海軍が報告を上げていた。
ドイツより購入した通商破壊艦バローン・エヴァルトは前年に竣工し大きな戦力になる事が期待されては居たが、いまはソ連に回航されてきたばかりで錬成途上にあり、地球を半周してウラジオストクへ展開させるなど困難であった。
だからこそ、ソ連は今と言う時を選んで日本との交渉に出たのだ。
ソ連とて沿海州の権益の全てが日本から返ってくると想定している訳では無かった。
それどころか、スターリンは日本が返還してくるのは極僅かであろうと思っていた。
それ程に日本とソ連には国力の差があると認識していた。
だからこそ、僅かでもソ連の失われた権益を回復すれば得点となるのだ。
5ヵ年計画の躍進に、日本ソ連戦争敗戦の傷を少しでも癒す事で華を添える積りであった。
――日本
ソ連からの突然の権益返還要求に日本の世論は激高した。
日本ソ連戦争から5年以上が経過し、沿海州開発は日本とソ連が共に利益を得られており友好的な関係が築けていたと思っていた所であったのが大きかった。
経済界でも、沿海州で安価に産出される資源が突然に途絶える事は許されざる暴挙であるとの認識が広がった。
そして日本政府は、ソ連の行為を日本に対する挑戦と理解した。
日本ソ連戦争から5年が経過し、国力を増してきたソ連が、拡張主義に走ったという認識である。
史実のソ連の情報と行動とが日本の目を曇らせた。
現在、上海事件の影響で自衛隊と連邦軍の再編成を行っている為、その隙を狙われたのだろうと言う分析もあった(※1)。
故に、国家安全保障会議では、ソ連に対して力を誇示する事で戦争を抑止する事が採決される事となる。
第1の対応として日本は、フロンティア共和国 ―― アメリカに対して満州にある大規模演習場を借りる事とした。
今の陸上自衛隊の中で将兵の練度充足度共に極めて高い、日本国の切り札的存在である第7機甲師団と第2機械化師団の全てを満州の大地へ送り込み、ソ連の鼻先で大演習を行う事を決意したのだ。
これを満州大演習として大々的に宣伝し、ソ連を含めた諸外国のマスコミに公開する事としたのだ。
更には海上自衛隊においても就役したばかりの大型護衛艦(戦艦)やまとを含めた任務部隊を編成し、各連邦の海軍との合同演習を日本海(ウラジオストク沖)で実施する事とした。
その演習の項目には、水陸機動団による着上陸作戦も含まれて居た。
力には力を。
これがソ連の恫喝(※2)に対する日本の回答であった。
この他、沿海州で活動中の日本企業に対する警備も行う事とした。
ソ連との協定にて自衛隊や警察の展開は禁止されている為、内閣府の外郭団体として国外情報局を設置し、その配下に武力行使組織 ―― 特機隊を創設したのだ。
官営のPMSCであった。
人員は外征専門部隊として新編された第101海兵旅団から抽出されるものとされた。
第101海兵旅団と特機隊には、これまで企業が独自に用意していた自警組織を整理統合する役割を負う事となった為、外国籍(※3)の自衛官が生まれる事となる。
この為、第101海兵旅団の隷下には、第101外人連隊が編制される事となった。
――ソ連
日本が示した全面対峙の姿勢に慌てたのはソ連である。
ソ連の意識として、日本に小さな妥協を求めた筈が、拒絶どころか威嚇されたのだ。
スターリンが会議にて、日本を帝国主義的強欲の徒であると罵ったという記録が残されている。
とは言え、ソ連側に出来る事など少なかった。
機械化された師団を動員しての演習をシベリアで行う事としたが、動員できる師団は機械化といっても精々が自動車を装備した程度であり、それも師団全てを自動車に乗せるなど夢のまた夢といった有様なのだ。
日本側に対抗したと言うには余りにも寒い懐事情であった。
この為、ソ連は警察組織に対してシベリア全域での日本とアメリカの企業への嫌がらせを指示する。
同時に、日本とアメリカの企業から便宜を受けている地元住民や企業に対する締め付けも指示した。
せめてもの意趣返しであった。
だがこの事が、シベリア全域でのソ連に対する支持の著しい低下を生む事となる。
5ヵ年計画が始まって以来、増税や強制的な人員の供出 ―― 賦役じみた労働の強制などで痛めつけられていたシベリアの人民は、日本やアメリカの企業に協力し、その対価で生活してこれていたのだ。
その事を理解しているソ連共産党の人間も居たが、スターリンの指示には逆らえる筈も無かった。
シベリアに不和の種が蒔かれた。
東で面子に傷を入れられたソ連は、その代償を西で求めて行く事となる。
(※1)
日本ソ連戦争から上海事件と言う形で日本の領域の外側での自衛隊の実戦参加が続いていた。
この事から日本は、自衛隊が今後も本土防衛だけでは無く外征する可能性が高いと判断した。
陸上総隊の指揮下に外征専用の機械化旅団(第101海兵旅団)が新編される事となった。
この事が自衛隊の組織に混乱を与える事となる。
相次ぐ組織拡大と師団/旅団の増設は、既存部隊から人員を抽出して新設の部隊の基幹要員とした為、既存の部隊も人員不足が深刻化したのだ。
タイムスリップによって混乱した日本国の経済は、今だ自律状態に戻っておらず働き口が少ない為に自衛隊への志願者は多かった。
だが、その多すぎる志願者によって教育システムがパンクしてしまっていたのだ。
新兵の教官も、新兵の訓練場所にも困っていたのだ。
自衛隊の充足度は、額面では劇的に向上し、規模も拡大していたが、その内情は寒かった。
連邦軍の錬成に関して、形になりつつあったが、それでも重装備の充足は十分では無く、機械化旅団と言っても、せいぜいがトラックしか配備されていない様な部隊が大多数であった。
如何に日本の工業力と言えど、総兵力11個単位(5個師団6個旅団2個連隊)の装備を数年で揃えるのは困難であった。
工場への投資と規模拡張も行われていたが、現在の所定数の製造が終わったら黒字倒産をしてしまう様な事とならぬ様に慎重に行われている為、全ての装備が揃うまでは、まだ数年の月日を必要としていた。
(※2)
少なくとも日本は、ソ連による行為を恫喝であると認識していた。
(※3)
各企業が現地採用した外国籍の人員で編成したり、或は満州(フロンティア共和国)で人員を集めた為、多種多様な国籍の人間が居た。
2019.05.17 文章修正
2022.10.18 構成修正