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日本アメリカとの会談決裂後、ソ連赤軍の体制は反革命的シベリア分離主義者討伐から外敵からの国防へ変化した。
シベリアに展開していた全ての部隊を統括する極東赤旗総戦線に改編された。
この時点で総兵力は4個歩兵師団と1個戦車師団、人員にして60,000名余りであった。
スターリンは、増援として10個師団(歩兵師団6個 戦車師団4個)を送る事を決定した。
この他、ドイツとイタリアから義勇戦車旅団が1個ずつ入る予定であった。
都合15個師団、2個旅団の総兵力180,000余名の大兵力であった(※1)。
これ程の戦力を投じれば、シベリアの大地に精通し地の利を持つソ連赤軍が外敵を撃退出来るだろうと言うのがソ連赤軍参謀本部の考えであった。
増援に送る部隊は、粛清によってスターリンへの熱い忠誠を誓う部隊であり、万が一にもシベリア独立派への恭順などはあり得ない。
その上でスターリンに自信を与えていたのは、31式戦車に対抗する為に開発した45t級重戦車KV-1の存在であった。
45tと言う31式戦車にも劣らぬ重量級戦車は、5ヵ年計画によって長足の進歩を遂げたソ連の成果であった。
傾斜した重装甲は全ての砲弾に耐えうる力を持ち、主砲の48.4口径76㎜砲は既存の戦車の全てを撃破可能な長砲身大口径砲であった。
KV-1戦車にスターリンは大きな期待を寄せ、大増産を命じた程であった。
とは言え、開発力はあっても生産を行うにはソ連経済が余りにも貧弱であった為、シベリアへ投入出来たのは初期量産型の47両のみであった。
他はBT戦車が主力ではあったが、スターリンに不安は無かった。
日本とアメリカが用意していた戦力が、現時点で日本が3個師団、アメリカが2個師団である事を掴んでいたからだ。
彼我の兵力差は約3倍。
しかも、更に10個師団単位での動員をする予定であった。
地の利と数的優位があれば日本ソ連戦争の報復が出来るであろうと、ソ連の名誉の復権が成されるであろうと確信していたのだった。
――沿海州・第1空挺団(D-Day)
全ての発端となったアメリカ企業の施設に対し、日本は全力で支援を行う事とした。
足の長いF-3戦闘機の護衛を付けたMV-22垂直離着陸機を投入し、第1空挺団を現地に入れたのだ。
ソ連による強欲的な行動に断固たる対応を取るという宣言であった。
そして、友邦と正義の為に日本は血を流す覚悟があると言う宣伝でもあった。
この為に戦場慣れしたマスコミの帯同を、特例として許していた。
日本は情報の収集と分析、そして公開に注意する事で、対ソ連戦争もだが底なしに資源と人命を飲み込んでいく治安維持戦をする積りは無かった。
敵はソ連であり、ロシア人は友人である。
このスタンスで宣伝活動を繰り広げていく事となる。
――沿海州・日本/アメリカ(D-Day ~7)
最初の目標は、日本人及びアメリカ人の安全確保であった。
故に前衛部隊は装輪装甲車や自動車で固められた部隊であり、偵察衛星や長距離滞空型UAVの情報を元に、ソ連軍と出来るだけ会敵しないコースで一気に進軍した。
自衛隊は偵察衛星やUAVの情報をアメリカ軍にも、情報士官を派遣して随時提供していた。
この様な作戦行動であれば補給線などの問題も出るが、通路の確保は第2部隊に任せるものとされた。
時間だけが優先され、側面すら気にする事無く両軍は突進した。
日本は16式機動戦闘車を有する第17師団から抽出された第171連隊戦闘団が前衛を担っていた。
対してアメリカは完成したばかりの25t級の新鋭M2A中戦車があり、M2A中戦車で定数を満たしていた戦車連隊を前衛としていた(※2)。
だが、配備が開始されたばかりのM2A中戦車は機械的な成熟が出来ておらず、国境線を突破して半日で保有台数の7割が脱落してしまっていた。
高い工業力と技術力を誇るアメリカであったが、初めて生み出した25tもの戦車では経験が足りて居なかったのだ。
この為、最初のアメリカ企業の施設に到着したころには自動車部隊と化していた。
――シベリア・シベリア独立派(D-Day ~21)
ソ連軍は日本とアメリカの軍との交戦は避けつつ、先ず、シベリア独立派の掃討に注力していた。
特に、西方から物資を持ち込みやすいシベリア西部領域 ―― 西シベリア低地で蜂起したシベリア独立派は簡単に鎮圧されていった。
それは軍事力の差もさる事ながら、ソ連軍が豊富に持ち込んだ食料や生活物資の力が大きかった。
粛清から逃げ出したソ連将校は別であったが、一般の人々は生活苦からの自暴自棄的な蜂起であったので豊富な食料と生活物資、そして早期に帰順すれば罪に問わないと言う慰撫工作を受けては、簡単に矛を収めるのも当然であった。
瞬く間に西シベリア低地帯を掌握していく第2赤旗戦線。
但し、担当するのは分派された3個師団だけであった。
残る7個師団から成る第2赤旗戦線の本隊は、補給線でもあるシベリア鉄道沿いに東進を続けた。
とは言え、快適に前進できたのはインフラが優先的に復興されたオムスクまでであった。
そこから先の交通インフラは、シベリア鉄道こそ優先的に修復されたが、道路や橋などは日本ソ連戦争の被害が手つかずである場所も多かった。
80,000人近い大軍の移動は儘ならぬ状態にあった。
その事がシベリア独立派に再建する時間を与えた。
それまで緩い連帯でしか無かったシベリア独立派は、逃れて来た元赤軍少将を代表として組織化されて行く事となる。
ばらばらだった戦力を統合し、旅団を編制していく。
各旅団は2,000名を上限として編成され、それぞれがシベリア独立軍旅団としてナンバリングされていった。
同時に、沿海州の組織を経由して接触して来ていた元同胞、ロシア系日本人であるオホーツク共和国と会談を持つ事となる。
オホーツク共和国は、同じスラブ人として人道的な支援を申し出ていた。
その上で、シベリア独立派は何をするかを尋ねて来たのだった。
それまで餓死するよりは戦死をしようと言う、ある意味で極めて後ろ向きの集団であったシベリア独立派は己の存在意義に直面する事となった。
独立派と名乗ってはいても、真剣に独立を考えていた訳ではなかったのだから。
そこに、オホーツク共和国は囁く、本当に独立を考えているのであれば協力する用意がある、と。
――満州・ユダヤ人(D-Day-10~)
シベリアでの活動領域を広げつつあったユダヤの民にとって、シベリアの独立運動は絶好の商機であった。
ユダヤ系ロシア人を介する事でシベリア独立派に接触し、世界大戦時に大量生産されて余剰となって各国の倉庫に眠っていた武器を大量に買い付けて売りつけていた。
その中にはイギリスやフランスが保有していた戦車も含まれて居た。
31式戦車shockによって一気に陳腐化した世界大戦直後の戦車たちは、朽ち果てる寸前にヨーロッパから遠く離れたシベリアで活躍する場を与えられたのだった。
対価は鉱物資源であり、将来、独立した場合の鉱山の採掘権であった。
フロンティア共和国で経済力を付けたユダヤ人は、次なる儲け口として日本とアメリカが独占していたシベリアの資源開拓に関与する事を狙ったのだった。
――沿海州/ウラジオストク・奇妙なる戦争(D-Day ~21)
事実上の宣戦布告を交わし合った日本アメリカとソ連であったが、事、沿海州に於いては大規模な交戦は発生していなかった。
部隊同士が接触しても、銃撃を交わし合う事も無く警戒しつつ離れるのが常であった。
それは日本とアメリカの領域と、ソ連の領域が複雑に入り乱れている事が原因であった。
1発の銃声で全てが変貌する様な、薄氷の上に立つ平穏であった。
だがそれがソ連海軍の拠点、ウラジオストクを維持させていた。
スターリンへの報告は、常に日本とアメリカの帝国主義者から祖国を護る為に奮戦しているとされていたが、その実態は目減りする燃料と食料に怯える日々であった。
港から出撃した駆逐艦や潜水艦は全てが消息不明となり、1隻たりと帰って来る事は無かったのだから。
ウラジオストクには1個師団が集結していた。
その事もウラジオストクの食料事情を悪化させる原因となっていた。
今はまだ温かい季節の為、暖房用の燃料の心配をする必要は無かったが、戦争が冬までに終わるとウラジオストクの人間は軍人も市民も、誰も思っては居なかった。
その事が人の心に影を落とし、閉塞感に繋がって行った。
ウラジオストクは、真綿で首を締められる様にゆっくりと戦う力を奪われていっていた。
第1赤旗戦線は、その配下の各部隊に日本アメリカとの徒な戦闘を禁じていた。
食料その他の物資が不足する状態で、ほぼ同規模の日本アメリカと交戦してしまっては一方的な敗北が確実だからである。
ソ連側からしてみれば奇妙な事に、帝国主義の徒である日本もアメリカもソ連領内に設けた非革命的人民収奪拠点を護るだけで積極的に打って出て来る気配は無かった。
この為、戦力の保全に努めていたのだった。
――日本・航空部隊(D-Day~)
シベリア独立戦争へ本格的な関与を行う事が決定して以降、日本は情報偵察衛星の他に高高度偵察機であるグローバルホークをシベリア方面に投入していた。
本格的な侵攻作戦の実施に備えて道路情報や集落情報、そして電波情報を収集していた。
又、非常時に備えて空にAP-3局地制圧用攻撃機(※3)を遊弋させていた。
タイムスリップから10年、日本の燃料事情は劇的に改善し、燃料を大量に消費する空中パトロールを随時可能にしていた。
(※1)
ソ連軍は、都合15個師団の極東赤旗総戦線のうち、開戦前よりシベリアに駐屯していた5個師団を第1赤旗戦線と命名。
増援の10個師団を第2赤旗戦線と命名した。
この他、ドイツとイタリアからの義勇旅団は、ソ連に到着次第、第2次増援の部隊と共に第3赤旗戦線を編制する予定とされた。
(※2)
グアム共和国軍(在日米軍)からの支援を受けて開発されたM2中戦車は先進的な概念 ―― 傾斜装甲や空間装甲を採用しており、他のG4諸国を含めて日本の工業的支援を受けていない戦車の中では随一と言って良い完成度を誇っていた。
だが、それまで10t台の戦車しか開発運用した経験しか持たなかったアメリカは、足回りや整備性に於いて充分な技術的蓄積が無かった為、稼働率は高いとは言えなかった。
特にシベリア独立戦争で使用されたM2A型の場合、稼働率は充分な整備部隊と予備部品を豊富に用意して尚、6割程度であった。
この為、シベリア独立戦争の最中でも、現場単位で随時改良が施されていた。
改良の経験、そして運用実績と戦訓を元にシベリアから修理で満州に送られた破損車両に小規模改良施したM2A2型が誕生する事となる。
尚、M2Aシリーズの主砲は当初は50口径90㎜砲を予定していたが、開発が難航した為、やや旧式ながらも安定した性能を持つM1897 75㎜砲が搭載されている。
(※3)
元は海上自衛隊が運用していたP-3C哨戒機。
P-1への更新によって退役したP-3Cで、機体寿命の残っていた機体を航空自衛隊に移管し改造した機体。
武装は20㎜ガトリング砲2門、35㎜機関砲1門、105㎜ライフル砲1門となっている。
所属は、航空総隊の第11航空団(攻撃コマンド)第111航空隊であるが、気象が安定している事などから西部方面航空隊第8航空団の基地に同居している。
2019.06.12 表題修正
2022.10.18 構成修正