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イルクーツク近郊の航空優勢に関しては、ほぼ互角の状態であった。
質的な面で言えば、グアム共和国(在日米軍)の支援を受けて開発されたアメリカの戦闘機群は金属翼、引き込み脚、密閉コクピットなどと云った同時代の先を行くコンセプトで作られた近代戦闘機であり、特にシベリアに派遣されていたアメリカ陸軍シベリア遠征隊の機体は新鋭機が集められていたのだ。
ソ連軍機に比べると極めて有力な戦闘機であった。
日本の先進的な技術力の恩恵を一切受ける事の出来ないソ連製の航空機は、質的な面でアメリカに劣っていた。
とは言え、如何なアメリカとは言え一足飛びに2000馬力級のエンジンを開発配備出来る筈も無い為、極端に性能が離れている訳では無く、ソ連機でも抵抗は可能であった。
そうであればソ連は数で圧せば良いとばかりにイルクーツク周辺に戦闘機だけでも500機から集結させ、対応していた。
正に質と量の戦いとなっていた。
アメリカは日本のAWACS機による支援を受けている為、効率的な迎撃には成功していたが、数的な不利による劣勢を強いられていた。
この為、アメリカは日本に対してF-5戦闘機のイルクーツク方面への投入を要請した。
日本はこの要請に、日本本土で練成を終えたばかりの航空自衛隊と台湾民国の2個飛行隊で第11航空団を編制して送り込んだ(※1)。
支援部隊は第10航空団から分派する形となった。
――イルクーツク航空戦(D-Day+38~52)
イルクーツクを巡る戦いは、航空戦による航空優勢の奪い合いでもあった。
日本の戦略爆撃によって航空機の対地攻撃の恐ろしさを十分に認識しあったアメリカとソ連の両軍は、先ずは航空優勢を握る事に注力していたからであった。
航空戦闘の主導権はソ連側にあった。
数的優位を盾にソ連側は多方面からの飽和突入の真似事をやっていた為、アメリカ側は撃墜による航空優勢の獲得よりもミッションキルによる自軍防衛に手一杯になっていたからだ。
この為、アメリカのイルクーツクへの進軍計画が停滞していた。
第3赤旗戦線本隊の到着まで粘りたい第1赤旗戦線第14師団側としては理想的な展開であった。
であるが故に、アメリカ側も対抗策を取った。
日本の航空隊への参陣要請である。
これによって航空戦闘の天秤はアメリカ側に傾く事となる。
国内向けの宣伝も兼ねて、F-5戦闘機を装備した日本航空隊が到着した際にはアメリカのマスコミによるインタビューなども行われた。
アメリカが装備する戦闘機よりも1回りは大きいF-5戦闘機は、風防回りなどの機体各部が航空力学に基づいた洗練された流麗なデザインである事もあってアメリカ人記者の目に、文字通り未来の戦闘機に見えた。
アメリカ人記者は本国向けの新聞記事で、シベリアの自由を支える為に来た
その評判は、実際にソ連軍航空隊と交戦すると共に跳ね上がる事になる。
出撃を始めるや第11航空団はソ連軍航空隊相手に常に勝利し、アメリカ軍基地にソ連軍機接近を知らせる空襲警報が鳴る事は無くなった。
アメリカ人記者たちはF-5戦闘機に
慌てたのはソ連側である。
200余機のソ連軍機を駆逐し、東部シベリアの空を瞬く間に掌握した戦闘機がイルクーツクの正面に来て猛威を振るいだしたのだ。
慌てるのも当然であった。
ソ連側は当分の間、積極的な戦闘を控えて消耗を抑える戦略に出る。
小規模な偵察のみを行い、その間に対応を考えようとした。
ところが、積極性に劣る所の無いアメリカが、イルクーツク周辺の航空的なイニシアティブを握ると共に積極的な行動を開始した。
既に判明しているソ連軍航空基地への攻撃を開始したのだ。
この為、レーダーなどを持たないソ連側はイルクーツクからアメリカ軍が集結しているウランウデまでの間に前衛対空警戒拠点を配置し、人の目による早期発見を図った。
アメリカ軍機の接近が判明すると同時に飛行できる機体を空中避難させるようになり、或は後方の基地へと下げる様になる。
だが航空機は守れても航空基地の機能は失われて行く。
航空機を運用する為の燃料や予備部品などの物資も失われて行く。
瞬く間にイルクーツク周辺のソ連軍航空隊はその機能を失って行った。
だが極東赤旗総戦線は諦めてはいなかった。
来るべきアメリカによる総攻撃に備える為、新しい航空基地を作り物資を集積していった。
日本/アメリカの目を逸らす為、航空機は配置せず、人員すら必要最小限度に抑える程であった。
その上で毎日襲撃を受ける既存航空基地には航空機の模型 ―― 模擬航空機を隠蔽しながら設置し、自軍がこの基地をまだ使う積りであると日本/アメリカに認識する様に誘導するほどであった。
技術では負けれども、創意工夫で抵抗しようとする意志があった。
そんなイルクーツクのソ連軍に1つの朗報が齎された。
チャイナ共産党の工作員が、ウランウデのアメリカ軍の補給線でもあるシベリア鉄道への破壊工作を成功させたのだ。
それも複数個所で。
このお蔭で、アメリカ軍による空爆はピタリと止まる事となった。
――沿海州・ハバロフスク攻防戦-1(D-Day+41~48)
完全に日本連邦統合軍第1軍団とシベリア独立軍集成第1師団に包囲されたハバロフスクは、それでもよく耐えていた。
ソ連側の防衛戦力も増しており、開戦から1月を越えた頃には3個師団を号する程になっていた。
1つは第11赤旗歩兵師団だ。
とは言え、その内実は寂しい。
ハバロフスクに残っていた第11赤旗歩兵師団の歩兵連隊を基幹として、包囲され降伏する事となったハバロフスク-ウラジオストク打通作戦部隊の残余 ―― ハバロフスクに撤退してきた敗残兵で編成されているのだ。
精々が半個旅団といった規模であった。
1つはハバロフスクの健全な壮年男子をかき集めたハバロフスク赤衛師団。
人員こそ10,000名を超えては居るが、訓練も殆ど受けていない民兵であった。
最後の1つは、ハバロフスク忠勇突撃師団。
勇ましい名前ではあるが、此方の内情は悲惨そのものであった。戦災孤児となった未成年の子どもや寡婦となった女性たちをかき集めてでっち上げた部隊であった。
武器すらも十分では無い。
やけくそ染みた極東赤旗総戦線の命令で編成された部隊であったが、恥と常識、そして良識を残していた第1赤旗戦線の参謀たちは誰もがこのハバロフスク忠勇突撃師団を実戦投入したいなどとは欠片も思っていなかった。
それでも尚、降伏しないのは第1赤旗戦線にとって一縷の望みがあったからだ。
第13赤旗師団だ。
ヤクーツク盆地方面に展開していた第13赤旗師団は、日本第201師団との交戦を重ね敗北を繰り返しては居たが、分散配置されていたが為に、師団本隊が完全に捕捉されずに生き延びていたのだ。
日本側も航空偵察などで必死になって捜索してはいたが、純然たる歩兵師団 ―― 機械化装備を殆ど持たず、小部隊に分かれて行動する第13赤旗師団を発見出来ずにいた。
この第13赤旗師団がハバロフスク包囲部隊と交戦した際に、第1赤旗戦線は第11赤旗歩兵師団とハバロフスク赤衛師団を伴って脱出する積りであったのだ。
ハバロフスク忠勇突撃師団に対しては、降伏するハバロフスクに残し老人や病人、一般市民の保護に当たらせる積りであったのだ。
だが、事は簡単に終わらなかった。
日本側が第13赤旗師団の捕捉撃滅の為、そして連戦している日本連邦統合軍第1軍団を休息させる為に、日本連邦統合軍第2軍団を編制し、ニコライエフスクナムーレに上陸させたのだ。
日本統合軍第2軍団は上陸時点で第2機械化師団、第603自動化師団、そして台湾からの第302機甲旅団で構成されていた(※3)。
そこに第201機械化師団が日本連邦統合軍第1軍団から移管し、又、シベリア独立軍集成第2師団も編入されていた。
これは、第13赤旗師団の捕捉撃滅後、素早くシベリア北部を鎮定する事を目的とするからであった。
日本連邦統合軍第2軍団は、ユーラシア大陸上陸後、素早くソ連第13赤旗師団の捕捉撃滅に動き出す。
(※1)
尚、第10航空団本隊は東部シベリアの航空優勢を固める事が出来た事、開戦劈頭から前線に立ち続けていた事も加味されて、朝鮮共和国へと後退させて休養と再訓練を行う事とされた。
第10航空団の穴埋めは、第8航空団朝鮮飛行隊が行うものとされた。
後に第8航空団は朝鮮半島へと移動し、第10航空団と共にユーラシア方面飛行隊へと拡大再編成される事となる。
(※2)
F-5戦闘機自体はシベリア東部空域での第10航空団所属機の方が派手に活躍してはいたのだが、如何せん自衛隊は文化的な衝突を恐れてアメリカ人記者を積極的に受け入れておらず、又、アメリカ人記者側もアメリカ以外の状況にはさしたる興味も示していなかった為、アメリカの一般人がF-5に触れたのはこれが初めてだったのだ。
更には日本側がAWACS機を頂点とする広域のネットワーク戦に関する情報を出さぬ為に、アメリカ人記者に関心を持たれない様に積極的にF-5戦闘機の宣伝を行った。
記者をコクピットに座らせるサービスすら行った。
電源の入っていないF-5戦闘機のコクピットはタッチパネルの集合体でしか無い為、電源車を付けて機上訓練モードを一部動かして見せる程の大サービスを行った。
これによってアメリカ人記者は益々、F-5戦闘機を未来戦闘機であると認識するようになった。
尚、これ以降に第11航空団はオーバーなネーミングの大好きなアメリカ人たちからサムライ・キャバリー航空団とも呼ばれる事となる。
(※3)
日本連邦統合軍第1軍団の朝鮮共和国部隊である第201機械化師団の活躍がこの派兵に繋がった。
日本連邦国の中で、元日本帝国の植民地であったという事で、台湾民国と朝鮮共和国は微妙なライバル意識があり、何かと張り合う事が多かったのだ。
最初は台湾民国側も最精鋭である第301機械化師団の派遣を検討していたのだが、日本防衛総省が止めたのだ。
チャイナへの抑えとして、台湾から大規模な部隊を抽出するのは良策では無いと説得した。
この為、第302機甲師団が選ばれたのであった。
2019.06.12 表題修正
2022.10.18 構成修正