タイムスリップ令和ジャパン   作:QgkJwfXtqk

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38.1936-12 シベリア独立戦争-11

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 2ヶ月を超えるシベリア独立戦争、日本/アメリカとソ連の正面衝突は恐ろしい現実を世界に教えた。

 日本とアメリカの経済力だ。

 戦費に息切れを起こしつつあるソ連に対し、日本もアメリカも莫大な戦費を費やしているにも関わらず戦時国債の発行などをする事もなく本国では余裕で平時体制のままであった。

 戦況の報道もほぼ無制限に行われており、各国の観戦武官も受け入れていた。

 戦場を見るよりも雄弁に、どちらが勝っているかを教えていた。

 この状況にニューヨークやロンドンの金融市場では、安定した金融資産を求める富裕層が日本国債を求める動きが出る事となる。

 当初日本は日本国債の海外売却には積極的では無かったが、ニューヨークやロンドンの金融市場の意向を受けた両国政府からの熱心な要請を受ける形で発行した日本国債の1割を提供する事となった。

 尚、ソ連も戦費調達の為に戦時国債を発行しようとしたが、大口の買い手が付かぬ有様であった。

 

 

――ノヴォシビルスク攻防戦(D-Day+69~83)

 夏の気配が去りつつある中、本格的なノヴォシビルスクを巡る戦いが始まった。

 ノヴォシビルスクはシベリアの首都と呼ばれる程の大都市であり、ソ連は市民を疎開させていなかった。

 大都市の人口と10個師団を超える兵士を抱えたノヴォシビルスクは、さながら大要塞であった。

 日本とアメリカはこの要塞に対し、敵味方市民を問わず大被害が予想される攻略戦 ―― 市街戦を仕掛ける行うのではなく、ソ連軍ごと都市部を完全に包囲し、補給を断つ事で降伏を強いる予定であった。

 戦費の余裕、補給の充実、戦力の優位がこの横綱相撲とも言うべき方針を日本/アメリカ連合軍に許していた。

 この日本/アメリカの行動を察知したソ連は、第2のハバロフスクを起してなるものかと応戦に出る事となる。

 特にソ連が警戒したのは日本軍であった。

 日本軍がオビ川を渡河し、後方で暴れられては溜まらぬとばかりにありったけの機甲部隊をぶつけた。

 主力は新鋭のKV-1戦車であり、ドイツとイタリアの義勇部隊 ―― 装甲旅団も参加していた。

 地の利を得ていると信じたソ連軍はオビ川の渡河を図っていた日本軍2個師団に、実に1000両近い戦車対戦車車両装甲車部隊で日本軍に殴り掛かったのだ。

 そして敗北した。

 クラスノヤルスク攻略後に再編成された日本軍は、8個師団と大規模化した部隊を纏める為にシベリア総軍を編制する。

 同時に、旧来の第1軍団と第2軍団をそれぞれ軍集団へと改編した。

 渡河命令が下ったのは、その第2軍集団隷下の第21軍団であった。

 所属しているのは第2機械化師団と集成第2師団(シベリア独立軍)だ。

 平成の御代より陸上自衛隊最精鋭師団として名を知られていた第2師団は、タイムスリップ後の拡大再編成で重機械化師団へと強化されていた。

 自走榴弾砲や連隊規模の対戦車部隊などを定数で抱えていた。

 だが一番は、10式戦車3個大隊で編成されている第2戦車連隊であろう。

 100両を超える10式戦車は10倍を超える相手を蹂躙し、壊滅せしめたのだ。

 見た時は死ぬ時(キャッチ・アンド・キル)

 第2機械化師団に連絡将校として派遣されていたアメリカ軍将校は、10式戦車を31式戦車の比では無い、戦車の様な戦車では無い何かであったと評していた(※1)。

 又、アメリカ軍も活躍していた。

 特に野砲部隊は、ソ連軍がノヴォシビルスクの外周に配置していた部隊を片っ端から焼き払っていた。

 制空権を奪って以降は、戦闘機にまで爆装して空襲を行っていた。

 この1連の戦いで5個師団規模の戦力と機甲車両を根こそぎに失ったソ連軍であったが、それでも戦意が折れる事は無かった。

 日本とアメリカに包囲され、補給は断たれ、物資の集積場所へは応射出来ない遠距離から野砲を叩きこまれ、都市外周に配置された重装備は遠距離から戦車砲で狙撃され、川は奪われ戦闘艇も漁船も輸送船も問わず焼き払われ、空は奪われ兵隊が見える所に居れば銃撃が行われる様な状態になってもまだ戦意を保っていた。

 それ程にスターリンは恐ろしかったのだ。

 そのスターリンへの報告は、極東赤旗総戦線は日本とアメリカの帝国主義者に必死になって抗戦していると言うものであった。

 そして、出来るだけ早期の支援部隊の投入、そしてノヴォシビルスクへの補給を望む内容であった。

 スターリンは極東赤旗総戦線に対し、派遣準備中の20個師団のみならず残る航空隊も1000機単位で増援として送る事を約束していた(※2)。

 だが、国際関係の変化が、それを押しとどめる事となる。

 日本とポーランドの接近である。

 

 

――外交・日本/ポーランド(D-Day+74)

 駐ポーランド日本大使館は、ポーランド政府と共同で記者会見を行い、両国の親善と友好を謳ったのだ。

 同時に、その友好の証として日本から土木建機の提供が予定されている事も公表された。

 この発表の場で慌てたのはソ連のマスコミである。

 すわ、ソ連に対する西側からの参戦かと慌てたのだ。

 これに対し日本の大使が、あくまでも平和的な関係である事を強調した。

 その上で、日本から親善団が派遣される予定である事を付け加えた。

 護衛艦むさしを旗艦とする護衛部隊と共に、ポーランドを訪問する予定であると。

 ソ連は恐怖した。

 戦略的存在である戦艦を軽々しく欧州へと派遣する日本の姿勢に、そしてレニングラードに強襲上陸戦をされてしまえばとの想定に。

 日本は平和的であると主張していたが、それをソ連は、スターリンは信じる事が出来る筈が無かった。

 

 

――航空宣伝戦・日本(D-Day+75)

 ソ連の、スターリンの継戦意欲をくじく為、日本はグアム共和国軍(在日米軍)の戦略爆撃機を動員した。

 目標はモスクワ。

 冷戦時代でも、ポスト冷戦期でも行われなかった、米軍機によるモスクワの蹂躙に、爆撃機パイロットたちは色めき立った。

 但し、落とすのは爆弾では無くチラシである。

 早期の停戦を呼びかける、平和を希求する内容のチラシだ。

 それを、ソ連航空隊が到達し得ない高々度から行うのだ。

 宣伝的な爆撃。

 当然、宣伝にはBGMが重要である為、無線 ―― 国際チャンネルでアベ・マリアを流しながら行うのだ。

 爆撃機パイロット達は歓声を上げた。

 只、戦略爆撃機の数は少ない為に日本海上自衛隊からP-1部隊もありったけ動員された。

 こうして都合約100機となった部隊は親善航空隊(モスクワ・エクスプレス)と命名された。

 作戦名はSC(サンタクロース)、誰もがその意味を違える事は無かった。

 

 

――終戦への経緯・ソ連(D-Day+78)

 モスクワの空を侵されて以降、ウラル山脈周辺の都市部にも日本軍機が侵入してはビラを散布する様になった。

 内容は一様に、平和を希求するものであった。

 だがスターリンはその意図を誤解する事無く受け取っていた。

 脅しである。

 必要があればソ連経済にとっての背骨とも言うべきウラル工業地帯を焼き払うと言う。

 スターリンは激怒した。

 だが、激怒したが対応する力は無かった。

 一縷の望みを掛けて、ノヴォシビルスクの部隊に決戦を命じようとしたが、実情を把握しているソ連軍上層部が止めた。

 それよりは、現時点でシベリアを損切りとして切り離し、ノヴォシビルスクの将兵を救出し、将来の捲土重来に備えるべきだと訴えたのだ。

 この訴えに、スターリンは激怒し、その晩はウォトカを痛飲し、翌日、ソ連軍上層部の要請を受け入れるのだった。

 3ヶ月に及んだ戦争は、ここに終結する事となる。

 

 

 

 

 

 

(※1)

 口の悪いイギリス軍観戦武官は、「Type-31は世界にショックを与えた。Type-10は敵に絶望を与えた」と評した。

 

 

(※2)

 この時点でソ連軍航空機の消耗は2000機を越えており、機体よりも1線級パイロットの消耗がソ連軍にとって手痛い事となっていた。

 AWACSの管制下で確認も出来ぬ遠距離からP-SAMを撃って来る日本軍機は兎も角、AWACSによる支援を受けているとはいえ従来の航空戦の延長にあるアメリカ軍機には、開戦当初はある程度は抵抗出来ていたソ連軍航空隊が、熟練パイロットの払底に伴いキルレシオが一挙に悪化しだしていたのだ。

 ソ連航空隊は規模こそまだまだ1級であったが、その戦力としての価値は急速に失われつつあった。

 それでも、日本/アメリカによる空爆が行われようとすれば、ノヴォシビルスクの士気を護る為にも出撃せざる得ぬのだ。

 ソ連航空隊は、傷の止血をせぬままに戦っている様なものであった。

 

 

 

 

 

 




2019.06.04 誤字脱字の修正実施
2019.06.04 表現の一部変更を実施
2019.06.12 表題のナンバリング修正

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