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洋上に於いては問題の無かったアメリカであったが、事、陸上に於いては問題が山積する事となる。
ドイツからの新装備導入によってチャイナは満州事件の終息に関する交渉の場に出てこなくなっていた。
チャイナ国内の世論が、夷狄討つべしで統一されつつあるのが大きな問題となっていた。
現在のチャイナ政府は軍閥 ―― 事実上の軍事独裁政権であったが、それ故に世論に敏感であったのだ。
この状況下においてアメリカに譲歩する事は、チャイナにとって政治的な自殺に繋がりかねない危険な行為なのだ。
対するアメリカも、対チャイナ世論が硬直しつつあった。
チャイナ国内でアメリカ人が残忍に殺害されるなどの事件が多発している事が理由であった。
アメリカでのチャイナ系移民に対する排斥運動が始まっていた。
ここで思わぬ余波、被害を被ったのが日本のタイムスリップ以前にアメリカに移民していた
頭に血を上らせたアメリカ人から見て、等しく黄色人種と言う事で似て見えたのだ。
この人種問題は、日本とアメリカとの間で少なからぬ問題を抱える事となる(※1)。
この為、日本政府はよりアメリカ国内に於ける親日情報工作に力を入れる事となる。
ハリウッドの映画会社を買い取り、良き日本人とアメリカ人とが手を結んで悪と戦うなどの単純明快なものから、アメリカ向けの新規アニメの作成と放送、或は漫画の出版など。
その様は、協力していたグアム共和国(在日米軍)の人間が、文化侵略をしている様なものではないかとの手記を残す程の勢いであった(※2)。
だが、実際問題として1920年代後半から始まっていた日本の文化的進出はアメリカに着々と根付いていく事となる。
――アメリカ/フロンティア共和国
チャイナ国内の反アメリカ機運を誤る事無くアメリカは理解していた。
この為、機先を制する形でフロンティア共和国内へのチャイナ人の流入を正式に制限する事となる。
更には、一定期間定職に就いていないチャイナ人のフロンティア共和国からの追放も行う事となった。
この事がチャイナ人のプライドを傷つけ、フロンティア共和国内での暴動に繋がった。
とは言え、上海などのチャイナの地に比べて軍用武器は殆ど流通していないフロンティア共和国であったので、その脅威はそう大きなものでは無かった。
だが、アメリカはフロンティア共和国政府に対し、断固たる武力鎮圧を指示する。
それはフロンティア共和国からチャイナ人の一掃を図るが如き指示であった。
その理由、1つにはチャイナ人は労働力であっても、欧米からの移民に比べると教育水準が低い為、労働力としての優先度の低さが原因であった。
そしてもう1つは、追放の理由 ―― 定職に就けなかったチャイナ人たちが徒党を組み、強盗事件を繰り返し、更には売春や不法な薬物売買を行っていると言う現実があった。
アメリカは1920年代から営々と投資してきた
とは言え、全てのチャイナ人を一掃しようと言う訳では無かった。
善良なチャイナ人にはフロンティア共和国への帰化の機会を与え、フロンティア共和国への忠誠と法治の遵守が出来るならば在留を
この結果、苛烈な治安維持戦争がフロンティア共和国で勃発する事となる(※3)。
――チャイナ
アメリカ本土とフロンティア共和国内でのチャイナ人排斥運動に対し、チャイナ政府は非人道的行為であると国際社会へと訴える事となる。
とは言え、アメリカでの排斥運動はまだしも、フロンティア共和国で行われているのは暴徒の排除と同化要求であり、非人道的と言うには些か筋が悪かった。
国際連盟の場で問題を主張するも、チャイナの友邦であるドイツですら消極的な姿勢に終始していた(※4)。
この為、チャイナ国内では改めて北伐 ―― 満州の中華帰服を叫ぶ様になる。
その背後にはチャイナ共産党の姿もあった。
チャイナ共産党にとっては、チャイナがアメリカと対峙し勢力を弱める事こそが、自分たちが勢力を拡大する機会であると認識しており、機を見ては常にチャイナ国内の反アメリカ機運を煽っていた。
その事をチャイナ政府も認識してはいたのだが、取り締まりきれずにいた。
否、チャイナ共産党の弾圧自体は行っていた。
だがチャイナ共産党が、その党派色を隠して煽っている反アメリカ運動に関しては、民衆の支持と言う意味で抑えきれなかったのだ。
この為、フロンティア共和国での排斥運動への対抗措置としてアメリカ人を排斥していく事となる。
定住とキリスト教の布教を図るアメリカ人の神父などは兎も角、旅行者やビジネスマンまで入国を拒否する様にしたのだ。
悪手であった。
チャイナの一般大衆は大きく喜んだが、アメリカは激怒する事となる。
フロンティア共和国では、旅行者やビジネスマンと言った一時的な在留者に対する排除行動は行っていなかった為、アメリカの怒りも当然であった。
それは人の往来を認めたチャイナとアメリカの修好条約違反でもあった。
アメリカはチャイナの姿勢を大きく非難する事となる。
だがチャイナは民意であると一蹴した。
そのチャイナの姿に、ブリテンやフランスと言った国家も、チャイナの姿勢に危惧を持った。
外交条約を国民感情に阿って反故にするその姿勢が、何時、自分達に降りかかるのかと心配したのだ。
この為、アメリカの対チャイナ政策と行動とを陰から支援していく事となる。
チャイナの孤立は深まる事となる。
――ドイツ
チャイナとアメリカの対立が深まる事は、ドイツへの武器輸出要請が出る事に繋がる。
だがドイツはもろ手を上げてこれを歓迎しきれない状況に陥りつつあった。
ドイツ国内での生産力の問題と、輸送力の問題である。
国内での戦車、火砲の製造分に関してはチャイナを優先する事が出来ない訳では無い。
だが輸送力に関しては致命的であった。
東征船団に属する船舶は現在、ドイツ租借地である青島で整備と補給、そして休息を行っているが、まだドイツに向けて出港出来ずにいた。
到着して1月余りも経過しているにも関わらずである。
これは、青島の艦船の整備力が著しく乏しい事が原因でもあったが、同時にドイツとチャイナの距離の遠さをも示していた。
チャイナは早期の購入分全量の引き渡しを要求していたが、現在抱えている受注済みの軍需物資の輸送ですら、東征船団規模を2回行わねばならぬのだ。
ドイツ側は受注済みの軍需物資の輸送に、年単位での時間的猶予を要求していた(※5)。
この状況下で、更なる追加は中々に困難であった。
事この時点に至ってドイツはチャイナに対してライセンス生産の幅を大きく認める事とした。
又、純然たる軍需物資では無い物に限っては、第3国の貨物船を傭船し対応する事とした。
(※1)
この為、ジャパン系アメリカ人でありチャイナ系ではない事を主張しようとして、ジャパン系はあるバッジを服やバックなどに好んで付ける様になった。
旭日旗と星条旗とをあしらったバッジだ。
それは後に、カルフォルニア州などで認められ
(※2)
とは言え日本とアメリカの良好な関係は、アメリカ国内に於ける非白人層 ―― 有色人種の地位向上に繋がる為、グアム共和国(在日米軍)では積極的に支援する方向に動いていた。
(※3)
治安維持戦争でフロンティア共和国の頼もしい先鋒となったのが
日本統合軍で兵士として鍛えられ、更には長年の鬱屈した対中感情からチャイナ人へ暴力を振るう事に躊躇が無いコリア系日本人は暴徒の弾圧組織として
血も涙も無い弾圧はチャイナ人の怨嗟と怨恨を生み出したが、暴徒を短期間で沈静化させる効果があった。
(※4)
ドイツも、その国内でユダヤ人やロマの民を排除している為、チャイナとの共同歩調を取るのが困難であった。
尚、1930年代後半になると、余程のドイツ人としての意識の高いユダヤ人を除いて、多くのユダヤ人がアメリカや東ユーラシアのパルデス国に移民し終えていた。
熟練の労働者や知的階層を大きく失ったドイツは、慢性的な労働力不足に悩み続ける事となる。
一応、
この為、第3身分 ――
(※5)
ドイツはチャイナに対して時間的猶予と共に、護衛部隊の運用費も要求していたが、これに関してはチャイナが契約外であると突っ撥ねる事となる。
契約では、ドイツが責任をもってチャイナまで届けるとされていたからだ。
とは言え護衛部隊無くば、チャイナが購入した軍需物資が確実に届く可能性が低下する為、チャイナも強硬な態度を取り続ける事は無かった。
幾度もの2カ国折衝の果てに、今後の追加購入分に関してドイツとチャイナとで護衛部隊の運用費を折半する事となる。
2019/11/16 文章修正