タイムスリップ令和ジャパン   作:◆QgkJwfXtqk

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勝利は最も根気のある者にもたらされる

――ナポレオン    
 







067 フランス植民地帝国の壊乱-01

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 チャイナ国内に於いて征夷運動(アンチ・ジャパン-アングロ)として始まった日本とヨーロッパ-アメリカの排斥は、アメリカ-チャイナ1940 融和条約によって頓挫する事となる。

 チャイナ政府が、表立った列強(ジャパン-アングロ)に対する暴力を取り締まる様になったのだ。

 暴力を抑止すると言う意味に於いて至極真っ当なチャイナ政府の行動であったが、チャイナ共産党が煽った儒教的な中華思想によってチャイナ人達は、下等と言って良い蛮族(ジャパン-アングロ)風情の風下に立つが如き行動であると批判する事となる。

 都市部では政府に対する抗議運動が起こり、純朴な人間の多い田舎の農村では蜂起が多発した。

 とは言え、チャイナ政府はそれらを看過せず、全力で鎮圧に出た。

 チャイナ全土で6万人近い死傷者が出る事と成り、後には光隠弾圧と呼ばれる事となる。

 その苛烈さは、対アメリカ戦争へのチャイナ政府の恐怖心の裏返しであった。

 

 

――大アジア連帯主義

 チャイナ政府による弾圧から逃れる為、反帝国主義国家(ジャパン-アングロ)を掲げたチャイナ人思想家の一部は、フランス領インドシナへの義勇兵に紛れて国外脱出をする事となる。

 その際に思想家たちは己を、アジアを一体として西欧列強から解放する為の烈士であると主張する事になった。

 フランス領インドシナに居る理由は、アジアとチャイナの列強支配からの解放の糸口として、西欧強大国家群の一角フランスに抵抗するベトナム人を助ける為であるとしていた。

 ある意味で大アジア連帯(グレート・アジア)主義とは、国を追われた思想家たちが己の境遇を糊塗する為に主張した思想であった。

 とは言え、独立を願うベトナム人が大アジア連帯(グレート・アジア)主義に連帯感を感じる事は無かったが。

 歴史的に見てベトナムとチャイナは幾度も戦火を交えて来た関係である。

 ベトナムとチャイナの連帯などタチの悪いジョークであった。

 或は、新手のチャイナの拡張主義の露呈に見えていた。

 だが同時に、現実主義のベトナム独立運動の指導者たちは戦力として参加するのであればチャイナ人の思想に目を瞑るだけの器量を持っていた。

 又、チャイナから流れて来る武器も魅力的であった。

 例えそれが、チャイナが新鋭のドイツ製装備に切り替えると共に余剰となっていた旧式装備であっても、貴重な武器であった。

 ベトナム人は将来の協力と言う空手形を切り、チャイナ政府は空手形を信じるふりをして協力関係を深めた。

 

 

――ベトナム

 悪化し続けていたフランス領インドシナの治安は、新設したばかりのインドシナ連邦軍を投入し容赦の無い鎮圧作戦を実行した事でハノイなどの都市部は一応の安定を取り戻す事となる。

 それは弾圧と言う言葉も生ぬるい、血の粛清であった。

 フランス駐留軍もだが、インドシナ連邦軍もその構成員達はベトナムとは民族が異なる為、ベトナム人を弾圧する事に呵責を感じる事が無かった事が原因だった。

 その事がベトナム人に広く、フランスとインドシナ連邦への反発を植え付ける事になる。

 とは言えベトナム独立派は、チャイナとチャイナの背後に居るドイツの都合で蜂起した素人集団であった為、有意な形でフランス軍と闘えずに居た。

 地方で散発的に武力蜂起し、鎮圧されると言う事が繰り返されていた。

 大言壮語を吐くチャイナ人思想家など、実際の戦場ではものの役にも立ちはしなかった。

 この状況を変えたのはジャパン人達であった。

 彼らは旧帝国陸軍将校であり、陸上自衛隊の教育まで受けた元北日本(ジャパン)邦国軍人だ。

 チャイナ人思想家の唱えた大アジア連帯(グレート・アジア)主義に感化され、軍を脱走し、國を捨ててベトナムにはせ参じた者達であった。

 とは言え、欲もあった。

 陸上自衛隊での再訓練で現代的な法と規律の遵守と徹底して教育されていたのだが、

それでも戦前の(・・・)帝国軍人将校らしい欲望 ―― 八紘一宇(グレート・アジア)と言う大義への陶酔と国家樹立への功と言う名誉欲に炙られ血迷った者達であった(※1)。

 或は関東処分に端を発する、日本政府による日本帝国陸軍将校に対する数々の冷遇(・・)に対する反発もあった。

 このジャパン人将校団が、ベトナム人とチャイナ人の烏合の衆に規律を叩きこみ軍隊へと変貌させる事となる。

 

 

――フランス

 ベトナム独立派が、暴徒集団から組織化された軍へと変貌する事によって、フランス領インドシナの治安は再び悪化する事となる。

 特に物資の補給元となる北部では活発化したゲリラ戦によって、フランス軍やインドシナ連邦軍がそれなりの規模で駐屯する都市部であってすら安全には過ごせなくなりつつあった。

 特に、練度の低いインドシナ連邦軍の被害は甚大であった。

 当然ながらも経済活動も停滞し、北部はフランスにとって金を生まない大地へと変貌を遂げた。

 これに慌てたフランス政府は、アフリカ駐留軍の移動を急ぐ事となる。

 又、航空部隊の増援に関しても重視された。

 水上艦部隊による洋上封鎖を強化する為であった。

 ベトナム独立派が活動する物資を得られぬ様に、と言う狙いがあった。

 このお蔭で、少なからぬ船舶を臨検し、武器弾薬の押収に成功していた。

 武器弾薬の密輸船がチャイナ籍船である事から、フランス政府はベトナム独立派の後方にチャイナ政府、或はチャイナの軍閥が存在すると判断した。

 チャイナ政府に対し、ベトナム独立派への支援がチャイナより行われている可能性がある為、取り締まりを依頼する事となる。

 フランスは釘を刺せば(・・・・・)、チャイナ政府は唯々諾々と従うだろうと判断していたのだ。

 アメリカに折れたチャイナに国家としての気概は無いと判断していたのだ。

 だがチャイナは、列強(G4)でも上位のアメリカや日本はまだしもフランスに下に見られる理由は無いと、内心(・・)で激怒した。

 当然ながらもチャイナ政府は、フランスに対して国内の取り締まりを約束するだけに留まった。

 それどころか、この屈辱が原因となってベトナム独立派に対して更なる便宜を図る様になった。

 チャイナ国内でのベトナム独立派-軍の錬成支援や、旧式となった戦車や戦闘機の提供まで行いだす始末であった。

 フランスは、己の行いで敵を増やした。

 

 

――フランス領アフリカ

 治安維持執行部隊であるフランス軍が勢いよく引き抜かれる事となった為、フランス領のアフリカ各地の治安は緩やかながらも悪化していく事となる。

 この為、フランスは警察組織のみならず各種国家機関まで動員して治安維持活動を行う事となり、本来の業務が疎かになる。

 それが、ドイツ人の活動を活性化させる事に繋がった。

 

 

 

 

 

(※1)

 日本政府がジャパン人将校団の存在を把握するのは、かなり後になってからであった。

 1つは北日本(ジャパン)邦国軍が、身内意識を発揮して離脱した将校たちの存在を隠蔽した事があった。

 だがそれ以上に、日本政府がフランス領インドシナへの興味を示していなかったと言うのが大きい。

 この為、ジャパン人将校達を把握したフランスが、日本に対して陰謀の可能性を連想するのも止む無き話であった。

 日本とフランスの関係を悪化させてしまう事態を引き起こす事となり、日本は関係改善に苦慮する事となる。

 

 

 

 

 

 




2019/11/28 題名修正
2019/11/29 文章修正

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