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南チャイナの建国宣言に、チャイナ政府は慌てる事となる。
3個師団も投入すれば粉砕できそうな、木っ端な軍閥に毛の生えた程度の軍しか持たない南チャイナだが時期が悪かった。
チャイナ政府軍は主力をチャイナ共産党打倒の為に動かしており、首都である南京の直衛2個師団を除けば柔らかな下腹部とも言えるチャイナ南部沿岸域に残っている戦力は軽装の警備部隊程度なのだ。
それも、かき集めても1個師団にも満たない規模だ。
即座の鎮圧は困難な状況であった。
とは言え、無視する訳には行かない。
警部部隊は敗北し続け、既に幾つもの都市が南チャイナの支配下に入っている。
フランス領インドシナで戦い生き残って来た兵士たちは、ジャパン系日本人将校の教育もあって、一筋縄ではいかない軍へと育っていたのだから。
ドイツ式の教育と装備を持ったチャイナ政府軍主力ならまだしも、碌な訓練も装備も与えられていない治安維持を主たる役割とする様な部隊で抵抗出来る筈も無かった。
勢力拡張の勢いの激しさは、1月で南シナ海に面した沿岸域を掌握した事にも表れていた。
チャイナ政府としてはいっそ政治的外交的な面倒が起きても、南チャイナが
アジアの優位性を声高に主張する
少なくとも
この為、チャイナ政府は南チャイナに対して当座、己のみで対処せざるを得なくなった。
大急ぎで徴兵を行って軍を作り出す。
3ヶ月で10万の軍を作り出した。
訓練など受けず、装備も火器は旧式で軍服も碌に支給されていない、近代以前の軍隊であったが、それでも10万の兵である。
これに、チャイナ共産党討伐部隊から引き抜いた10万の精鋭部隊を加えて20万、巨大な南チャイナ討伐軍を編成した。
チャイナ政府は南チャイナを決して甘く見てはいなかった。
否、南チャイナへの恐怖と言うよりも、己の基盤の危うさへの自覚であった。
チャイナの地で広く人口に膾炙する様になった易姓革命への恐怖が、チャイナ政府への反発の
――南チャイナ討伐戦
速やかな南チャイナの討伐を望んだチャイナ政府は、討伐軍の指揮官に対して早期の実行を厳命した。
この為、討伐軍は訓練不十分の中で出征する事となる。
だが進軍は順調に行かなかった。
携行する食料その他の物資はチャイナ共産党討伐軍が優先されて少なく、では征路上の村々から徴発しようとすればチャイナ政府への反発から十分に得られなかった。
この為、一部指揮官は
否。
南チャイナ討伐軍では無く、チャイナ政府への支持が失われつつあったのだ。
20万の将兵は、通過する都市や村の人々の視線からその事を敏感に感じ取っていた。
苦難と共に南へと進軍する南チャイナ討伐軍に対し、南チャイナ軍は重装備こそ乏しかったが戦意は天を突かんばかりとなっていた。
住民の協力を得て、戦闘の準備を進める。
時間が進む毎に志願者が続出し、その総兵力は8万を優に上回っていた。
その様は現代的な軍隊とは言い難かったが、その目は偉大なチャイナ復興への思いに燃えていた。
とは言え南チャイナ軍の指揮官は、情熱とヤル気だけで装備と数に優れる南チャイナ討伐軍に勝てると思う程に呑気では無かった。
故に、策を弄した。
調略を、
狙うのは一般の人々からの敵意に晒され心が疲弊した徴兵部隊、そして功名心に逸った精鋭部隊指揮官だ。
元より、ある日突然に兵隊にさせられた人々の集まりである徴兵部隊の調略は簡単であった。
精鋭部隊の指揮官は、南チャイナ軍に下ればチャイナ政府軍の時代よりも優遇する事を約束した。
チャイナ政府の十年来の敵であるチャイナ共産党討伐から外され、功を立てる機会を奪われたと認識していた為、優遇を約束した調略に応じる事となった。
見事な調略であった。
その成果が、両軍の対決時に出る。
戦闘が開始されると共に、何と南チャイナ討伐軍20万の軍勢から8万もの兵が離脱、南チャイナ軍に付いたのだ。
敵を前に4割もの兵が離反したのだ。
その大多数が質の悪い数合わせの徴兵部隊であったとは言え、南チャイナ討伐軍としては堪ったものでは無かった。
しかも、寝返りに前後して特攻部隊が司令部を強襲、討伐軍指揮官が戦死したのだ。
師団以下の各部隊の指揮系統が生き残っているとは言え、これでは規律を持った軍隊では無く武器を持っただけの集団へと成り下がるしか無かった。
南チャイナ討伐軍は潰走する事と成る。
――南チャイナ
存亡を懸けた大決戦で大々的な勝利を得た南チャイナ軍は、呼応した部隊や降伏した部隊を吸収し、更には志願兵を得て20万の大軍へと成長する。
不足する重装備は、チャイナ政府軍の遺棄装備で補充された。
とは言え未だ軍としての体裁を整えたとはとても言えない状態であった。
だが、南チャイナ軍にゆっくりとしている時間は無かった。
チャイナ政府軍の主力がチャイナ共産党討伐の為に出征している今こそが、チャイナ政府を討ち滅ぼす絶好のチャンスなのだから。
2ヶ月掛けて軍を再編成 ―― 3つの軍団司令部と17個師団体制へと再編成すると、戦略機動が可能な約5万の将兵、精鋭3個師団によるチャイナ政府のある南京市攻略作戦を開始した。
目標はチャイナ政府の打倒、ではない。
首都である南京市の攻略である。
これは、軍事的な要求では無く、政治的な目的の為であった。
大決戦での勝利によって、チャイナ南部域の大衆の熱狂的な支持を集める事に成功した南チャイナは、更にチャイナ政府の定める首都たる南京市を攻略する事で、チャイナ南部の雄としての立場を確立させる積りであった。
そこまで勢力を拡大すればチャイナ政府軍の主力を敵としても簡単に敗北する事は無くなり、であればチャイナ政府とチャイナ共産党の衝突の隙を窺い、チャイナの全てを治める事が可能になるだろう。
又、南チャイナにはチャイナ政府やチャイナ共産党と比べると、決定的に欠けているものがあり、その事がこの難しい攻勢を命じた側面があった。
欠けているもの、それは
チャイナ政府にはドイツが、チャイナ共産党にはソ連がそれぞれ居る(※1)。
だが南チャイナには居ないのだ。
チャイナの領土を侵食するアメリカ、ブリテン、フランスとの交渉は、南チャイナの
残るG4 ―― 日本は交渉の為の接触を試みても、一切が拒否されていた。
チャイナの民族自立と国際連盟が掲げる内政不干渉の原則を理由に挙げられては、何も言い返せる事は無かった。
更には、日本は国際連盟安全保障理事会にて内政不干渉の原則を基に、チャイナの内戦に於いて諸勢力へ加勢する事、或は支援に関わる交渉をする事を禁止する宣言を採択させる始末であった。
これによって南チャイナは国際連盟加盟国、世界経済の8割以上との交渉の道を断たれたのだ。
劇的な戦力拡大も、経済的支援も得られる見込みの無い南チャイナは、その存続の為には何としてもチャイナ政府の権威を失墜させる必要性があった。
南チャイナ軍は、チャイナの民に自らの正統性を示す為、南京攻略を大々的に宣言し、出征する事と成る。
――チャイナ政府
余りの状況の悪さに、激怒したチャイナ政府であったが、同時に激怒し過ぎて冷静になっていた。
チャイナ共産党討伐軍から戦力を引き抜いて、南チャイナ軍への対応に充てる ―― と言うのが簡単には出来なかった。
既に戦力の衝突が始まっており、安易な戦力の抽出と転用は戦局に手酷い影響を与える可能性があったからである。
軍参謀団の報告に、その夜、蒋介石は老酒を浴びる程飲んだ。
翌日、即座に転用できる可能な限りの戦力を計算し、防衛計画を立てる様に厳命した。
命令する方は簡単であるが、命令される方は堪ったものでは無い。
とは言え、命が懸かっている。
軍参謀団は必死になって対応に努めた。
各軍閥に声を掛け、戦後の恩賞を対価に2万の兵を動員する事に成功した。
戦力としては大隊や中隊、大きいものでも連隊規模に届かない小規模戦力の寄せ集めであったが、その練度は決して低いものでは無かった。
元より南京に駐留していた1個師団と併せれば、将兵の数だけで言えば同等の戦力を揃える事に成功した。
その上で軍参謀団は蒋介石の許可を取り、
ドイツ軍軍事顧問団である。
最新鋭のⅣ号戦車を中心とした増強装甲連隊規模の戦力は、今のチャイナ政府軍南京守備部隊にとって宝石よりも価値のある存在であった。
ドイツはチャイナ政府が約束した膨大な対価に、ドイツ軍事顧問団がチャイナ義勇軍として参戦する許可を出す事となった。
――南京攻防戦
ほぼ同数のチャイナ政府軍と南チャイナ軍の衝突は、長江を挟む形で始まった。
両軍共に、この時代のチャイナに於いては精鋭と言って良く、戦術は多彩であり、運動も的確で在り、白兵戦となっても共に簡単に崩れる事は無かった。
とは言え、戦車や装甲車の不足(※2)もあってチャイナ政府軍はじりじりと後退し、最終的には南京市に立て籠もる事となった。
だがそれはチャイナ政府軍参謀団とドイツ軍事顧問団とで練られた防衛計画であった。
南京市に誘い出された南チャイナ軍は、都市攻略戦を始めると共に動きが止まった。
それが狙いだったのだ。
最初から南京市に籠っていれば警戒されると判断し、南京市外周である程度の交戦をした上で籠城してみせたのだ。
その事に気付かなかった南チャイナ軍は、チャイナ政府軍による航空偵察によって、その戦力と指揮系統をつぶさに把握される事となる(※3)。
そして翌日、チャイナ政府軍はありったけの航空機を爆装し、事前に把握した目標への総攻撃を下命した。
戦闘機や爆撃機、果ては練習機にすら火炎瓶を詰め込んでの一大空爆戦である。
攻撃開始から半日も経ずして南チャイナ軍の指揮系統は寸断され、組織戦闘能力を喪失した。
そこへ、止めとして近隣の都市に隠蔽させていたドイツ人チャイナ義勇軍が突撃した。
狙うのは南チャイナ軍の司令部だ。
後に
南京市は見事な勝利と共に、チャイナ政府の手に残される事となる。
(※1)
チャイナ共産党とソ連の関係が表沙汰になっている訳では無かった。
だがソ連がドイツが仲介しようともチャイナ政府と距離を取り、そしてチャイナ共産党の軍には余り
目聡い者は、ソ連とチャイナ共産党の関係を見誤る事は無かった。
例え公式の外交関係が無かったとしても。
(※2)
チャイナ政府軍にとって極めて腹立たしい事に、南チャイナ軍の戦車も装甲車も自動車も、全てが元チャイナ政府軍のものであった。
南チャイナ軍に寝返った指揮官が、装備と部隊を丸ごと無傷で南チャイナ軍に持ち込んだのだ。
しかも、戦車の装甲に書かれていたチャイナ政府軍を示す国章にわざわざに×を入れ、その横に南チャイナの国章を入れると言う煽りを行っていた。
蒋介石も怒りの余りに昼間、軍参謀団の前で白酒を飲み、南チャイナへ暴言の限りを叫ぶと乾した杯を床に叩きつけるほどであった。
(※3)
とは言え、この時点での南チャイナ軍に戦闘機は疎か偵察機や連絡機の類も無い為、チャイナ政府軍側の航空行動を抑止する事など出来る筈も無かった。