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手早く出港準備を整えたチャイナ未完の海防戦艦鄭和は、スウェーデンを出ると一路東を目指した。
比喩では無く物理的に。
バルト海、鄭和の艦長はこの海で乗組員の錬成を行う積りであった。
主機、そしてフネとしての最低限度の艤装が施されただけの鄭和。
それだけでも
別に乗組員の人品が悪い訳では無い。
只、10,000t級の大型艦を操り、外洋を自ら操ったフネで航海した経験が無いのだ。
長江で運用されてきた警備艇で経歴を積み上げて来ていた為、艦長は自らの能力 ―― 外洋航行を指揮する経験値の不足を自認していたのだ。
本来であれば、スウェーデン人の
だが、今回の航海が鄭和は未完成*1で、しかも充分な訓練も行わずに決行すると言う事態と相成った為、付き合いきれぬと
こうなってしまっては、艦長に選択の余地は無かった。
チャイナ本国から早期の帰国を要求されてはいたが、比較的海の穏やかなバルト海で錬成を行わざるを得なかった。
尚、この急遽決まった錬成によって、鄭和の航海を把握する為に北海へと派遣されていたアメリカの
アメリカは、鄭和が通商破壊戦に出る事を恐れていたのだ。
その鄭和が行方不明となった事で、アメリカは大西洋艦隊を総動員して捜索を行う事と成った。*2
――南モンゴル西方領域(D-Day+46~53)
素早く南モンゴル西方域へと進出した第501増強偵察旅団戦闘団。*3
側面や退路などを考慮せず、一気に南モンゴル独立派の拠点まで突き進む。
タンクローリーまで部隊に随伴させていた為、道中の燃料の心配などは無かった。
途中で幾度か
燃料にせよ各種整備物資にせよ、これ程に用意したのは東ユーラシア総軍司令部の第501増強偵察戦闘団に対する期待の表れであった。
その甲斐あって進出を開始して7日と経ぬ内に、南モンゴル独立派の拠点に到着した。
大量の自動車と、何より雄々しい
簡素ながらも歓迎の式典が行われる。
だが、第501増強偵察旅団戦闘団は休息もそこそこに、活動を本格化する。
精強な将兵でも疲労はあった。
だが、歓迎式典とそれに前後した南モンゴルの人々からの
一兵卒から指揮官まで、皆、戦意に溢れて動く事を選んでいた。
旅団司令部を南モンゴル独立派拠点に設けると、分隊規模の捜索戦闘隊を編成し出撃させた。
良好なセンサーを備えた第501捜索大体の装輪装甲車群を目として核として、その手足に
都合20個程の
広大な南モンゴル西方域に対して、
各装甲車のセンサーの質に、南モンゴル住人からの
対するチャイナの第2騎兵師団は、この対応に苦慮する事となる。
トラック等では無い、
第501増強偵察旅団戦闘団が活動を開始するや否や、南モンゴル独立派の拠点近くで活動していた部隊は溶けだした。
第2騎兵師団は通信機も持たない、各部隊の独立性の高い
極わずかな、生き残れた部隊が慌てて
師団長は慌てて残余の部隊をかき集める事を決断する。
北伐総軍司令部からの命令は
だが、戦意と祖国への忠誠心に不足の無かった師団長は、まだ抗戦を諦めていなかった。
念頭にあったのは、上層部から連絡を受けていた第1騎兵師団の動向であった。
チャイナ政府軍から精鋭の騎兵を選抜し集成された第1騎兵師団は、長駆モンゴル国を経由して南モンゴル領域の東方域を襲撃する予定であったのだから。
アメリカ軍の後方で撹乱し、その補給路を寸断される状況となれば、
又、援軍の存在も計算に入っていた。
チャイナ共産党の第1歩兵師団である。
装甲車など一切無い、文字通りの歩兵師団であるが、その総数は20,000余名と大規模である為、増強連隊規模の兵力しか無い第501増強偵察旅団戦闘団との交戦は可能であると判断していた。*4
とは言え、師団長は馬鹿正直にチャイナ共産党へと状況を話して共闘しようと言う気はさらさらに無かった。
数ヵ月前までは殺し合いをしていた相手であり、アメリカとの戦争が終わったら殺さねばならぬ相手なのだ。
戦友は勿論、仲間ですら無かった。
第1歩兵師団と第501増強偵察旅団戦闘団が共倒れしてくれる事こそが最上であった。
この目的の為に第2騎兵師団は、第501増強偵察旅団戦闘団を誘導する。
数キロ離れて、それも1分と満たぬ短さで姿を見せただけの相手にすら有効な攻撃が出来ると言う、
――南モンゴル東方戦線(D-Day+45~59)
黄河北会戦以降、東ユーラシア総軍第2軍団と北伐総軍北京鎮護軍の戦いは一進一退の態を成す様になっていた。
アメリカが第2軍団の火力不足を補うように航空対地攻撃に力を入れて戦線を押し上げようとすれば、チャイナはドイツ仕込みの機動戦を行って対抗した。
又、砲兵の存在も大きかった。
正規の師団編制を行っているチャイナ側には当然の如く
如何に航空支援があろうとも、装備の差は如何ともし難かった。*5
共に決定打に欠いていたが為、北京鎮護軍と第2軍は一進一退を繰り返す羽目になっていた。
更にアメリカにとって頭の痛い問題があった。
チャイナ北伐総軍第1騎兵軍、第1騎兵師団と第3騎兵師団だ。
2個師団併せても5,000名にも満たない騎兵であったが、アメリカが掌握する南モンゴル東方域に南北から適時侵入し、破壊と混乱を撒き散らしていた。
事実上の非対称戦争であった。
しかも、正規戦争と
護るべきものを抱えたアメリカにとって、撹乱を目的とするソレは、非常に効果的で悪辣な手段であった。
この為、第2軍を主力として、少なからぬ部隊が対応に追われる羽目になっており、南モンゴル東方戦線が停滞する一因となっていた。*6
唯一、アメリカにとって朗報であったのは、再編の為に後方に下げられていた第7自動化旅団を戦車大隊を持った機械化部隊へ改編した事と、第501機械化師団の戦線投入が可能になった事であった。
第7機械化旅団は、第2軍に戻され、戦略予備とされた。
第501機械化師団は、第4機甲師団に加勢し南モンゴル東方域北辺で暴れている第1騎兵師団への対応に投入される事となった。
――合戦準備-第501増強偵察旅団戦闘団(D-Day+52~59)
罠と気付かぬままに第2騎兵師団に誘導される第501増強偵察旅団戦闘団 ―― 等では当然、無かった。
航空機からの索敵によって、
にも関わらず前に出る理由は、この眼前の戦力を撃破せねば南モンゴルの人々に甚大な被害が出る事が目に見えていたからである。
とは言え第501増強偵察旅団戦闘団旅団長は、無策で当たる積りは無かった。
要請に対する東ユーラシア総軍の返答は快諾 ―― 爆撃機/攻撃機/制圧用攻撃機の用意と共に、増援を行う事を告げた。
フロンティア共和国内で準備を終えた第501機械化師団隷下の第501特科連隊から
第501機械化師団の移動支援に展開していたグアム共和国軍
舗装どころかろくに均してもいない大地へ、豪快に砂塵を巻き上げて着陸し車両を吐きだしていくC-2B輸送機の群れ。
弾薬、燃料、食料、様々なものが空輸されてくる。
特設の飛行場。その移動管制施設の屋根から
特に仕事が無かった為、朝から眺め続けていた。
ひっきりなしに離着陸を繰り返す、下手な爆撃機よりも巨大で、高速な輸送機の群れを。
その耳が、近くに居た
曰く、日本は大型輸送機を作らないから困る。C-17クラスの大型機があれば戦車でも自走砲でも持ち込めたんだがな、と。*9
連絡将校は天を仰いで小さく、
――チャイナ政府軍
チャイナ政府軍参謀団は焦っていた。
別に、南モンゴル西方域で起きている事態を把握していた訳では無い。*10
だが、小競り合いを優位に行えている河北方面 ―― 北京鎮護軍からの報告や、渤海で漁船に偽装した情報収集船が
アメリカの攻勢 ―― 東ユーラシア総軍の活動活発化は、そう遠くないとチャイナ政府軍参謀団は判断していた。
南モンゴルを完全に喪失する日も遠くない、そう考えられていた。
元より、南モンゴル領域に仕掛けた守勢攻撃的焦土戦術は、チャイナ本土へのアメリカ軍侵攻を少しでも遅らせる為の時間稼ぎでしか無かった。*11
故に、その事に
だが開戦して1ヵ月、想定以上の負担をアメリカに与えていた状況で、何もせぬままに南モンゴルを
欲、であった。
今現在のチャイナ北部での彼我兵力差は、チャイナ政府軍が数的には圧倒的に優位であった。
現時点で北伐総軍は第1騎兵軍を除いて4個軍、約24師団が展開を終えていた。
対するアメリカは約10個師団しか存在せず、しかもその内の4個師団は野砲などの重装備を持たない軽装備部隊なのだ。
その上でアメリカ軍は、その優位点である機械化部隊が、燃料不足で活動が低下しているのだ。*12
今なら痛打を与えられるかもしれない。
その甘美な勝利への
その背景の1つには、チャイナ航空隊の希望、チャイナ初のジェット戦闘機である
エンジンの寿命と信頼性に少なからぬ問題を抱えてはいたが、それでもアメリカの戦闘機であれば十分に戦える ―― 戦える筈だとチャイナは
FJ-2戦闘機はソ連の手でドイツから届いたエンジンを載せ、既に1個目の飛行隊が編制され、南京付近の飛行場で練磨が行われていた。
2個目の飛行隊も部隊完結を間近に控えていた。*13
蒋介石はチャイナ政府軍高官から提唱された反攻作戦について、作戦の失敗自体は危惧しなかったものの、作戦でチャイナ政府軍の中核を成す高練度/良装備部隊を失うことは恐れた。
だが最終的に、成功する事によるチャイナ人の戦意高揚と鼓舞が、この戦争の勝利に繋がると信じ、作戦を認可した。
チャイナ政府軍参謀団がドイツ軍事顧問団と共同で研究検討されていた南モンゴルでの守勢攻撃作戦、
鄭和は進水はしても竣工までは至っていない。
その上で、本来は造船所の手で試験運用を行った後に実施する各部の手直し工事などもやらない事とされていた。
余談ではあるが、大西洋中に展開するアメリカ海軍部隊に対して、鄭和の捜索命令は出されていたが、撃沈命令は出されていなかった。
アメリカとチャイナの戦争が、公式にはチャイナへの南モンゴルの独立戦争であり、アメリカは義侠心を持って参加した
ある意味でアメリカとチャイナは、まだ全面戦争の段階に達して居なかった。
第501増強偵察旅団(旅団司令部は第501偵察大隊司令部が兼任)
第501偵察大隊
第1021自動車化歩兵連隊
第5011集成自動車化歩兵連隊
(第102義勇師団の各連隊から中隊を引き抜き、501thRBCTの後方支援を目的に臨時編成)
全ての部隊が装輪乃至は自動車化されている。
又、南モンゴル独立派から200名程の騎兵が案内などの目的の為、編入された。
第1騎兵師団師団長が第501増強偵察旅団戦闘団の兵力を詳細に把握できていた理由は、アメリカ側が南モンゴル西方域の民心慰撫を狙って、その出陣の様を大々的にマスコミに取材させていたと言うのが大きかった。
この為、第501増強偵察旅団戦闘団に
日本製の装甲車こそ脅威であるが、それも大隊規模でしかない ―― その戦力分析が、交戦可能と言う判断に繋がっていた。
アメリカとてこの状況に甘んじる積りは無く、コリア系日本人による義勇師団の重装備化を計画しては居たのだが、如何せん各義勇師団は最前線で北京鎮護軍と対峙し続けている為、装備改編を目的に後方へと下げる事が出来ないでいた。
ドイツ軍事顧問団は、このチャイナの作戦を
将来の対フランス戦争に有効であろうと言う判断であった。
第5特科大隊は、第501特科大隊の中にあって緊急展開力に優れた19式装輪自走155㎜榴弾砲Ⅲ型を装備する部隊である為、空輸が可能であった。
弾薬給弾車まで派遣されている。
尚、19式装輪自走155㎜榴弾砲
独国製車体を使うⅠ型であるが、保守部品の枯渇などもあって砲システムを移植するⅠ+型への改修も行われている。
共通戦術車の開発製造を三菱重工が担当していない理由は、戦車/装軌装甲車/装輪装甲車の製造を一手に引き受けていた為、製造余力が乏しくなっていた事と、トヨタのロビー活動にあった。
タイムスリップによって引き起こされた日本経済の低調化、その中で安定した官需の独占は困ると言う主張が背景にあった。
この為、三菱重工の支援を受けつつ、日野自動車が開発と製造を担当した。
無論、第3輸送航空隊は
日本のアメリカ支援は、憲法に基づいた
日本がC-2輸送機より大型の機体を開発していないのは、1つは航空機開発能力の限界と言う部分があった。
戦闘機を筆頭とした状況の変化に伴って
米系将校からは、米空軍が保有していた
特に、この時代の戦争に掛かる
偵察衛星によって周辺諸国を隈なく監視しているのは、伊達では無い ―― その程度の自負は、
結果、長距離大型輸送機に関しては概念研究と、他の大型機とも共有できる技術の開発が行われるに留まっていた。
とは言え、全く開発する気が無い訳では無く、一応は大型機開発
具体的には、現在開発が進められているF-3主力戦闘機の後継、
日本はC-2B輸送機を投入するのと前後して、フロンティア派遣部隊に対してチャイナ側の航空機撃滅を指示した結果、チャイナ政府軍航空部隊は南モンゴル西方域で完全に活動能力を喪失していた。
度重なった被害に、チャイナ政府軍は同戦域での航空部隊の運用を停止する程であった。
南モンゴルの人々に対するチャイナの酷薄さは、南モンゴル独立派が独立を叫び叛旗を翻した時点で、守るべき民草ではなくなったと言うのが大きかった。
元より、蒋介石を筆頭とした
慈しむ相手ではなく、税を絞るべき相手でしかなかった。
税を払い、或は兵となって使われるべき人足。
にも関わらず、その務めから逃げたのだ。
その様な叛徒 ―― 化外の地のまつろわぬ民など、積極的に損害を与えるべき
前線でのアメリカ軍の動きからの推測であった。
現実には、アメリカの軍需物資の備蓄は十分に行われる様になっていたのだが、部隊の再編制も行っていた関係もあって、活動が低下していた。
その事がチャイナの誤解に繋がっていた。
これ程の製造ペースは、エンジン到着前に、機体側で作れる部分は先に大量に製造していたと言うのが大きかった。
2020/04/18 文章修正