「写真」に心を捕らわれた人の部活動勧誘

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今まで読み専でしたのでお手柔らかにお願いします。


「写真」

 近頃は携帯電話のカメラ機能の発達やデジタルカメラの進化によって、万人が容易に記録を残すことが可能になった。

少しばかり前、といっても10年ばかりというところではあるが、「写メ」、つまりは「写真」と「メール」を組み合わせた言葉が生まれた。その言葉、及びはその言葉を当てはめる状況や機能というものを機に携帯電話のカメラは大いに発達をしていった。

だがしかし、しかしながら「それ」を写真と認めるわけにはいかないと私個人は断言しよう。なぜならば「写真」というのはまさに文字通り真を写すものであるからだ。特に近頃におけるスマートフォンでは画像加工やフレームといった、言わせてもらえば「虚像」を上から塗りたくってしまうような、そこにかけらの真さえも残されていないただの画像に成り下がってしまってさえいる。それを真の写真とは到底認めたくはない。

 

 いきなり長く話してしまいすまない。申し遅れた。私は「写像部」部長、内見 鏡一という。短い間かもしれないがよろしく頼む。

 

 さて、先ほどスマートフォンで撮影された画像について散々に言ってしまったわけだが別に嫌いなわけではない。そこには確かにそれそのものとしての魅力、価値は認めている。ただ写真として認められないだけである。そもそもの話、写真と認められないというだけであるならばデジタルカメラに分類されるものは基本的に認めることができない。この辺りはもう我儘のようなものであるが。

 

 実のところ、私はこのような拘りを持っているにもかかわらず、自分で撮影したものを写真だと認めることができないし、今までの人生、今の拘りをもってして写真と称することができるものを見たことがあるのは一度きりである。

 その写真を見た時のことを話そう。話の流れや語り口の関係で自慢のように聞こえてしまうかもしれないが、そのつもりはないのであしからず。

 

 私は小学校の頃に祖父から銀塩カメラを貰ったことがきっかけで写真というものにはまり、近隣の大会で賞を貰えるまでには腕を磨き、小学校6年の時に出場した県大会で優秀賞がとれるくらいにはセンスがあったとその当時は思っていた。

 中学校に上がって本格的に写真部として活動し始め、多くの写真、いや、「写像」というべきか。多くの写像を写し、大会に出品し、それなりの成績を残していた。

 中学2年、春。その当時は単なる気紛れに近いものだったのだろうが、私は地域の写真コンテストに出品した。その頃は、否、今もであるが、私は純粋に写真を見ることがとても好きだった。故に当日はコンテスト会場にある写真をすべて見尽くすほどの勢いで片端から観賞しにいっていたのだ。小学生以下のこども部門、学生部門、若い層から順に並べてはあったがどれも等しく楽しんでみていた。

 一般部門に差し掛かった折である。一枚の写真を見つけた。その写真は人物写真とも言えず、かといってただ風景を写しているというにはあまりにも人を中心に置きすぎている。多少無理に人物写真として見ようとしても誰も視線がレンズに向いておらず、かといって意図してそういう、誰も見ていない状況を撮影してるとも思えず、唯生き生きと、唯自然のあるがままに写された一枚であった。

 タイトルは『無意識』。出品者曰く5歳になる息子にカメラを見せていたら偶然にも息子の指がシャッターを押してしまい撮れた写真とのことだった。

 

 

 その当時その写真を見た時の衝撃は今も忘れていない。そしてその瞬間、私は悟った。これが「写真」なのだと。私が今まで写してきたものは単なる表面のみ。つまりはただの「写像」であったと。

 

 残念ながら「写真」はコンクールにおいて佳作止まりであったが、当時の私にはとてつもない影響を与えたのである。

 

 私は考えた。なぜあの「写真」は私の中で「写真」足りえたのか。なぜ今までの写真を「写像」であると断じたのか。答えとなるものは驚くほどに簡単だった。文字通り、「写真」だからである。

 

 真を写す。

 

 一見簡単そうで、それを実行することは果てしなく難しい。こんなことを言っては、未だ18にもならぬ若輩が何を言っているんだと思われるのだろうが「写真」を語る上で必要なので言わせてもらう。人というのは真のみでは生きることができないのである。

 人間社会、学校でも近所づきあいでも人というのは一人で生きることができないために社会を形成する。表面として、普段考えていることとして当てはまるような人はそう多くはないと願うが、人は他者に害されたくがないために虚を纏う。それはどんな社会であろうとも少なからず、確実に人は虚を纏う。

 虚、つまり嘘なのだが、嘘というのはつまりは意図することであるといえる。意図しているということはそこには確実に人の思考、大なり小なり自分を有利にしようといった思考が入る。シャッターを切るという1秒にすら満たない行為にさえこの光景を保存したい。などという意図が含まれる。

 真を写す、というのだからそこにかけらでも虚が入った時点でそれは真ではない。老荘思想における老子の考えを借りるのであれば、無為自然。思うがままに生きていること。本能に従って生きていることのみが人が持てる真の一つだ。

 

 つまり私の言う「写真」とは意図して撮ることのできるものでなく、表面も、内面も、その場面を切り取ることさえそこに人の意思の介入しない偶発的なものである。それが真を写す。「写真」なのだ。

 

 故にこの部活は「写像部」なのである。人が意図している以上「写真」にはならないからな。少しでも「写真」に近い写像を撮ることが活動理念だ。どうだろう。他の部活も気になっている新入生には悪いことをしてしまったと思えるぐらいに長話をしてしまったが、多少でも興味を持っていただけただろうか。私のような変人と一緒に活動したいと思える人は、是非部室に来てほしい。

 

 最後にもう一度自己紹介を。

 

「写真コンクール全国大会、最優秀賞『写像』出品者。内見鏡一だ。かかわることは少ないかもしれないが覚えてくれると嬉しい。」

 

fin

 




あとがきは興味がなければとばしていただいて構いません。

今回のテーマはタイトルそのまま「写真」。若しくは「写真とは」となります。
そしてこの物語のベースとなる発想は「ある言葉に使われている漢字の意味をもっと正確に、細かく考えてみる」ということです。
今回の主人公である鏡一君は中学生のころにコンクールで見たある一枚の写真を見たことによって真の「写真」を追い求める写真狂いになってしまいます。
作中にもあるように「写真」を漢字の意味を細かく考えて分解すると”真を写す”となります。”写す”はわかりますが真とは何か、と聞かれて正確に答えることができる人はそうはいないと思います。筆者があえて答えるとすればそれは「虚」、つまりは嘘や作意が一切存在していないことと考えています。もちろんこの世の中がそこまできれいなものとも思っていませんし、真というものがその説明で正しいと本気で考えているわけでもありません。ですが、ほんの少しその答えに当てはまる「真」がいてほしいと思います。
ここまで写真という言葉をほんの少し深く掘り下げてみて(多少寄り道はしましたが)どう思ったでしょうか。普段何気なく使っている漢字。掘り下げてみるといろいろな疑問点、視点が見つかっていきます。小説投稿初めてという初心者の身で何かとおこがましいということは承知ですが、今日から少し普段使う言葉をちょっとだけ観察してみるのはいかがでしょうか。


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