その少年の視線に気付いたのは、5月の昼下がりだった。
久しぶりの余暇。
校内の木にこしかけてジバニャンと話したり授業中のケータの退屈そうな様子を窺ったりしているうちに、オロチはふと自分を見つめる視線に気付いた。
顔を向けるとその先に見慣れぬ少年。
瞬時に視線を逸らし何事もなかったように授業を受けているが、確かにこちらのほうを見ていた、と感じた。
妖怪が見えている…?
ケータ以外にそうそう妖怪が見える人間などいるはずがない、と思うものの、なんとなく気になってオロチはその少年を目で追う。
メガネをかけた色白な少年。
陰気なわけではなくどちらかというと優しい顔つきの少年なのだが、なぜか影が薄く、長い前髪が顔半分を覆ってどことなくボンヤリ掴みどころのない顔つきをしている。
クラスの端のほうに席があって、休み時間になってもあまり動かず1人でひっそりしている。
友だちが自然に周りに集まってくるケータとは対照的に、むしろ喋りかけてくれるなとも取れる雰囲気で本なんて読んでいたりする。
あいつ、友だちがいないんだろうか…。
「オロチ、どうしたニャン。」
ジバニャンに声をかけられた。
ジバニャンにしきりに話しかけられていたのに、いつしか少年を目で追うことに夢中になり、ずいぶん身を乗り出していたらしい。
オロチは慌てて体勢を戻した。
「なんでもない。」
そしてまたチラリと少年のほうを見る。
少年はボンヤリと本を読んでいる。
先ほど視線を感じたのは思い違いだったのだろう…。
しかし、少年の持つ不思議な雰囲気が気になり始めたオロチは、どうしても少年を目で追ってしまう。
下校の時間になり、ケータがパタパタと木の下にかけてきた。
「オロチ、来てたんだね!窓から見えたよ!一緒に帰ろうよ!」
ジバニャンにも促され、オロチは木から飛び降り着地する。
そのままケータ達と校門まで歩き…
パッと振り返った。
下駄箱から続く入り口にあの少年がいて、こちらを見ていた。
慌てて目をそらす仕草が、はっきり見えた。
やはり、絶対に見えてる。
「ケータ、すまないが今日は用事ができた。」
オロチはフワリと飛び上がった。
えーっ?!という声が上がったが、どうしても、無性にあの少年が気になった。
少年は、子ども達の群れが一気に校門に向かい、その後また静寂が訪れるのを待つように、しばらく夕刻の校庭の隅にいた。
辺りを見回し喧騒が無くなると、ひっそりと歩き出す。
楽しげに喋りながら帰る者、はずむように家路を急ぐ者たちとは異なり、少年は何故だかなるべく目立たないように、息を殺してそろそろと歩いているように見えた。
人気の無い道に差し掛かったのを見計らって、オロチは少年の横に舞い降りた。
「おい、おまえ。」
少年の肩がピクンと震える。
気丈にもそのまま前を向いて少年は歩き続けるが、やはりその強張った表情を見ると人でないものの存在を感じているし声も聞こえているらしい。
「おまえ、妖怪が見えているな。」
尚も声をかけると、少年の肩はふるふると震えだした。
「…ごめん、ね。見てしまって。これからはもっと気をつけるから。」
か細い声が少年の喉からようやく絞り出され、オロチのほうを振り返らないまま歩調を速めていく。
怯えきっているようにも見えるその姿に、悪いことをした気分になりオロチも口をつぐむ。
確かに、見えるからといっていきなり声をかけられたら怯えもするか。
単に霊感の強い人間なのだろう。
とたんにオロチは、自分が何故この少年を気にして声までかける気持ちになったのか、わからなくなった。
少年の後ろをそのまましばらく浮遊したが、やはり帰ろうと思い直す。
「ねぇ…」
オロチが空に舞い上がろうとするのと、少年が意を決したように振り返ったのが同時だった。
「な、なんだ。」
「あ…もしかして今、帰ろうとしてた?」
よほど勇気を出して振り返ったのだろう。少年は青い顔をしていた。
「それなら、いいんだ…。じゃあね。」
無表情をまとって歩み去ろうとする少年を、オロチは慌てて追った。
「別に帰ろうとしたんじゃない。ただ…」
その後のセリフが思いつかず、困って口をつぐむと、少年はそっとこちらに顔を向ける。
「どうせキミ、相変わらず忙しいのだろうけど…ちょっと時間あるなら、うちに来ないかなって。」
「おまえの家に?」
妖怪が見えるばかりか、会ったばかりの妖怪を家に誘う人間の子どもなんて今まで会ったことがない。
それに私はSランク妖怪だ。
妖怪が見えるなら、私がそんじょそこらの妖怪とは一味違うオーラであることも感じるはずだが、怖じないところを見ると、よほど鈍感か変わったやつなのだろう。
それとも…。
オロチは、学校で少年がたえずひとりで過ごしていたことを思い出す。
よっぽど退屈なんだろうか…。
オロチが迷っていると、「おいでよ」と少年に手を引かれる。
真っ直ぐにどんどんと歩いていく少年のその積極さに驚き、当初感じた儚げなイメージとも違っていて、オロチは戸惑いながらも手を引かれていく。
少年の雰囲気同様にひっそりと建つその家に、最初から違和感を感じた。
ケータの家に感じる気とは全く異なる寒色の館。
陽が差し込まないガランとした家には、いつもなのかたまたまなのか少年が帰宅しても出迎える家族はおらず、無人の室内から少年はそっと手招きした。
そのまま迎え入れられた少年の部屋は殺風景が際立つほどでもなくごくフツウの造りではあったが、落ち着かずにオロチは辺りを見回す。
私は何をしているんだろうか…
妖怪が見えるからと言って、初めて会った人間の子どもの家に遊びに来るほどヒマではない。
何故、来てしまったんだろうか…。
自分の行動の理由が、オロチにはわからなかった。
「ねえ、これ…。」
少年はぎっしり詰まった本棚から、分厚い大型の本を取り出し、控えめにオロチに見せる。
薄暗い部屋の中で逆光に立っている色白の少年は窺い知れない妙な雰囲気があり、魔術の本でも出してきたのか、とオロチは身構える。
「サカナ ズカン…?」
タイトルを読んで拍子抜けした。
「なんだ、これは。」
「さかな図鑑。キミ、好きそうだと思って。」
「別に好きじゃない。」
身構えた自分が急にアホらしくなり、オロチはソッポを向く。
が、少年はうろたえるでもなく、オロチのその行動にフッと微かに笑った。
「…何がおかしい?」
「いや…、ほら、一緒に読もうよ。きっとキミ、気に入るよ。世界の魚の図鑑。」
少年はオロチの肩に触れる。
オロチはサッと身を引いた。
「気安く触るな。」
「え?あ…、ごめんね。」
少年の顔は寂しげに歪んだ。
少年はそのまま一歩二歩、後ろに下がっていき、窓辺に座り込み、気を取り直したように頁をめくる。
「サンゴ礁の海…大西洋…深海の生き物…。詳しい生態も載ってる。あ、マグロ。」
マグロ…
少年の呟きに、オロチは徐々にソロソロと近付き、最後は完全に少年の隣に座った。
「ギンガメアジ。イエローテイルスナッパー。ロイヤルプレコ。タイガーフィッシュ。」
世界中の色とりどりの魚が紙面いっぱいに広がっているのを、少年は楽しげにオロチに紹介しながら歌うように読み上げていく。
見たことのない魚ばかりが載っている。オロチもいつしか図鑑に熱中していた。
「ねぇ、どの魚がおいしそう?」
「そうだな…。これと、これと、これ。」
「あはは、この魚は地元の人にも人気の魚らしいよ。でもこっちのは毒があるからやめたほうがいいよ。」
「では、これにする。」
「シイラだね。温帯の海域にいる魚だよ。あ、こっちもキミの好きそうな魚だよ。この魚がいる海はね…」
学校での姿はまるで仮の姿かのように、少年の瞳に生気が満ち、生き生きと世界の海や国について解説する。
少年は博識だった。オロチは少年の語りにひきこまれ、世界中のいろいろな海を想像する。
「ねえ。僕は将来この魚のいる海に行ってみようと思うんだ。」
少年はひとつの魚を指差し、楽しげに言う。
「すごく綺麗な魚でしょ。あとね、このサメ。とても珍しいサメなんだ。実際にこの目で見てみたい。」
「僕は自由だから。オトナになって何にでもなれる。いろんな場所に行って、たくさん勉強したい。」
「ねえ。キミも僕と一緒に、世界中の海に行ってみない?」
相槌を打っていたオロチは、突然の少年の提案に驚いて顔を上げる。
「私が?」
何を言っているんだろう、こいつは…。
会ったばかりの、人間でもない私に。
やっぱり変なヤツ。
図鑑に熱中しているうちに、ずいぶんと時間が経っていた。
明かりもつけていない室内は薄闇に包まれている。
怪訝な表情のオロチを見て、少年はため息をついた。
「…冗談、だよ。」
暗い室内に沈黙が流れた。
「ただ、僕は…、自分が自由で、オトナになったら好きな勉強ができて、どこにでも行けて、 そしてそこにはきっとキミが一緒にいるって…思わずにいられないんだ。」
「会ったばかりの私に、何故そんなことを言う?」
オロチはうつむいている少年を覗き込む。
そしてなだめるような気持ちで言った。
「おまえ、学校でもひとりでいたな。きっと寂しいのだろう。私ではなく、人間の友だちを探せ。」
少年は再びため息をついた。
しばらく黙っていたが、ノロノロと少年はオロチと目を合わせた。
「もう僕には大切な友だちがいる。」
「それなら…」
ホッとしたオロチに、少年は尚も言う。
「でもその人、忘れてしまったんだ。」
少年の顔が辛そうにゆがむ。
「忘れた?なにを?」
少年は再び視線をそらし、うつむいた。
「その人はいつも僕のそばにいてくれた。僕のことを守ってくれた。僕は…僕はその人のことが大好きだった。 きっとその人も、僕のことを好きでいてくれてた。でも…。」
「その人は僕のことを忘れてしまったんだ。そして僕の前からいなくなってしまった。」
「僕も忘れてしまえば丸くおさまるのだろうけど、僕は完全にはリセットされてない。」
室内にはふたりしかいないのに、少年はまるで他の誰かに聞かれるのを恐れているかのように、そっと小声で話す。
「この世界にはいろいろな世界が重なっていると、それまで僕は知らなかった。
僕の世界の終わりは突然やってきた。
それまで当たり前のようにあって、これからもずっと変わらないと信じていたものが、
全て、突然遠くに行ってしまった。
手を伸ばしても届かない。
僕の大切な、あの人も。」
「でも、いつもは遠く離れてみえても、重なっている世界を完全に引き離すことはできない。
少なくとも僕は覚えている。絶対に忘れてやるもんか、と思ってる。」
泣いているのかと思って覗いてみると、思いがけず強い光が少年の瞳に宿っていて、オロチは驚く。
「…何か大切なものを無くしたんだな。私にも経験がある。」
「知ってる。キミも辛かったね。レッドJを倒して少しは区切りになったのなら良いけど。」
「何故それを知っている!?」
少年の口からあの妖怪の名前が出たことに、オロチは目を見張る。
「だって、見ていたからね。キミがレッドJを追ってこの町に現われたその日から。キミは僕の視線に気付く余裕が無かったようだけど。」
「…おまえは何者なんだ。」
オロチの問いに、少年は首をかしげる。
「さあ…きっと今の僕は何者でもない。さして大きな力もない。 そして僕は普段はこんなふうに思いながら生きてる。 『失った運命には未練はない。でも、贅沢は言わないから、また会えたら。言葉を交わせたら。それだけで。』ってね。…ね、基本的に僕はもともと執着心も強くないし、強制的に世界から外されてしまっても無害な存在。」
少年はオロチを見つめた。
「だけどね、ある時から僕は、自分の心の奥底に、もっと大きなドロドロした気持ちが渦巻いているのに気付いた。それは実際にその人を見てしまうと、より強くなって止められなくなってしまう。」
いつしか少年の手は、オロチの手にヒタリと重ねられていた。
「僕だけがひとりになりたくない。寂しい。…苦しくて、悲しい。」
オロチは少年の身体から微かに立ち昇り始めたオーラを見た。
それは禍々しい色をしていた。
背中に寒気を感じ、しかしその場から動けないまま、オロチは少年を見つめる。
「僕に力がもっとあれば、僕がもっと頑張れば、あの人は今も僕のそばにいて見守ってくれていたはずなんだ。そしてそのまま生涯、僕の補佐をしてくれていたと思う。でももうダメ。僕はこぼれ落ちてしまって、あの頃にはもう戻れない。 あの頃の運命だって、僕が望んで得たものではなかったけど…、でもどうして、どうしてこんなふうになってしまったんだろう…。どうして僕だけ…。やっぱり、寂しい。苦しくて、悲しい。」
悲しげな表情の少年は、綺麗な声で話しているのに、彼を覆う禍々しさはどんどんと濃くなっている。
そのオーラは徐々にオロチをも取り巻き始めたが、オロチにはこの場でどうすべきなのかわからず、少年と手を重ねたまま固まっている。
「いっそ、こう思う。
あの人を道連れにして、どの世界にも属さない場所に永遠に溶けてしまいたいと。
僕がそう願えば、優しいあの人はきっと一緒に来てくれる。」
辺りが見えないほど濃くなったオーラは締め付けるようにオロチを取り巻き、息苦しさと目眩でオロチはようやく身の危険を感じる。
何かおかしい。ここにいると、まずい。
重ねられた手を見ると、どちらの手もが徐々に透き通ってきている。
この世界から永遠に消えてしまいたい、という少年の心が痛いほどに手から伝わりオロチに流れ込んで来る。
強い危機感を感じながらも、しかしオロチには、目の前のこの少年を捨て置いて立ち去れないという不思議なセーブがかかっていた。
私はこのまま飲み込まれてしまうのか…
わかっていながら固まっているオロチを見て、少年は弱く笑う。
「ほら、ね。ついてきてくれるって、思ってたよ。」
完全に視界が覆われた、と思われた時だった。
少年の胸のあたりに、灯火色が閃いた。
その灯火色は急速に大きくなり、少年の身体全体を照らし、比例して禍々しい煙のようなオーラは小さくなっていく。
灯火色はオロチをも照らした。
それは懐かしい色だった。
その優しくも悲しげな色合いに、この少年の本来の魂の色だ、とオロチは感じる。
灯火色が、禍々しい煙をすっかり祓ってしまうと、そこには顔を青褪めさせた少年がいた。
「ごめんなさい…。本当に、ごめんね。」
少年は今にも泣き出しそうだった。
「見ているだけで良かったのに…こうやって間近で話せてしまったから、きっと欲が出た。
もう帰って。オロチ。僕とキミが会うのは今日が最後だ…。」
最後、のくだりで、耐え切れず少年の瞳から涙が零れ落ちる。
「さよなら…オロチ。どうか元気でいて。」
オロチは唐突な別れの言葉に驚いて、少年の手を取った。
心にはたくさんの疑問符が浮かんでいたが、それでも少年の強い悲しみがオロチにその行動を取らせた。
「一緒に外に出よう。外はもう夜だが、夜には夜で、昼には見えない色がある。」
少年の心が、狭い檻のような場所に閉じ込められているように感じたから。
実質的にふたりで、外に出たかった。
少年は止まらない涙でしゃくりあげていたが、やがてそっと涙を拭い、虚ろな瞳で小さく頷いた。
少年の家には未だ誰も帰らなかった。
暗い家から外に出るとヒヤリと冷気が吹き空には雲が立ち込めていて、それでも開放感がオロチの心を楽にする。
「私はおまえが気になるから、これからもたまに様子を見に来よう。」
涙の跡がついた頬を晒しながらぼんやりと歩く少年の背に、オロチは声をかける。
「それに、おまえの前からいなくなったヤツ、そいつを私も探してやる。」
その言葉に、少年は薄く笑った。辛そうな顔で。
「…ありがとう。」
「おまえの魂は綺麗で優しい色をしていた。苦しみも闇も、その魂があれば乗り切れるだろう。」
自分でも確たる理由がわからないまま、オロチは必死に少年を励まそうとしていた。
「うん。ありがとう。」
少年は路上に立ち止まってオロチを振り返り、今度は本当に笑顔を浮かべた。
突如その背後から大きな風が吹き、何かが少年の身体から舞い立つ。
キラキラと瞬くその細かい鉱石のようなものはゴウッとうなりをあげる風にあおられ一気に上空まで舞い上がった。
少年は目を見張り、小さく叫んでその煌めきを追いかける。
「待って!待って!」
「おい…危ないぞ!」
オロチは走る少年を飛行しながら追いかける。
「だってあれは…!行き先もないのに、可哀想だ!」
オロチは上空を見上げる。
煌めきはもう手の届かないはるか天空まで上り、雲の合間に垣間見える星空と一体となるように飛散していた。
「あれが何だか知らないが、自由になれて喜んでいるように見える。」
オロチの一言に、少年の身体は糸が切れたように走る意思を無くした。
それでもそれまでの反動で、ヨロヨロとつんのめるように前に進む少年に、オロチは尚声をかけた。
無意識だった。
「転ぶぞ、マオ!」
ユラリと大気が揺れた。
少年は完全に歩みを止めた。
そのまま呆然と空を見上げている。
「おい大丈夫か?」
オロチが舞い降りても、少年はしばらく夜空を眺めていた。
「ああ」
マオは吐息をついた。
「僕の世界に色が戻ってきた。」
マオは雲の晴れた星空を指差し、確かめるようにゆっくりとオロチを振り返った。
「一面の夜の色。未来に僕が行くだろう海の、底の色。そして大好きなキミの髪の色。浮かぶ星は希望の色。」
その顔には優しい、慈愛に満ちた笑みが浮かんでいた。
「もう一度、僕の名を呼んで。オロチ。」
「?」
戸惑った表情を浮かべるオロチを、マオは優しげに見つめる。
「僕は日影真生。これから何にでもなれる。僕は自由。」
マオの唇からはっきりと紡がれる言の葉は青く光りマオを守る精霊のように体を包んで行く。
ふいに、以前もこの色を見たことがあるという強い既視感がこみ上げた。
オロチはいつしか心の中で祈っていた。
マオの海が暗い夜の底でもその優しい色を失わないように。
いつかマオの海で、マオの望む誰かがきっとその隣にいるように。